お寺さんぽ Ver.03

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半兵衛、秀吉のもとで活躍する「竹中半兵衛重治」3

2006年07月31日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は秀吉の出世を影から大いに助けたといわれる異色の戦国武将、軍師「竹中半兵衛重治」についてです。
成り上がりながらそれを鼻にかけず、実に気さくで愛嬌と抜群の行動力を持つ、後の太閤秀吉との出会いは、彼を歴史の表舞台に再び舞い戻らせることとなるのでした。


竹中半兵衛のすべて

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※ちっちゃいですが、↑竹中さまの肖像画です。柔和な雰囲気よ。


織田家に仕えることを承諾した半兵衛重治ですが、なんと、彼は秀吉の配下になることを条件としたのです。

…どうですか?
いきなり出した条件が陪臣(※家臣の家臣)にしてくれ、というものなのです。
この時点で、既に出世に興味がない、と言い放っているようなものなのですよ。

当時の秀吉はそれこそ家臣団の末席の最後尾くらいの身分でしたから、実利への無関心さが伺えるでしょう。
それと同時に、秀吉のことを高く評価していたと言えると思います。

当時の秀吉配下は(おそらく)弟の秀長や浅野など親族衆、蜂須賀小六や前野長康といった地方豪族のみでしたから、正式な軍学と教養を身につけたこの「竹中半兵衛重治」の存在は非常に大きいものだったと想像できます。

それこそ局地戦には強いものの、的確な戦略を立てれなかった劉備が孔明を得たようなもんなんです。結局、後々でそういった脚色したくなるような、いくつかの共通点があるんですね。この二人(四人)ってーのは。


さて、秀吉についた重治はその下で大いに活躍したようです。
ようです、と微妙な言い回しにしているのは、彼の功績がほぼ残っていないためなんです。…というより、故意に削除したであろうことが推察できます。
これまた彼の性格によるものが大きいんですが、詳しくは後の「黒田孝高」とのエピソードで伺い知ることができますので、そちらにて説明しましょう。

戦場に出た彼は牛(!)に乗り、悠々としていたと言われています。
各地の戦場へ送られる秀吉に従い、浅井・朝倉との対決から近畿・中国制圧戦などに参加していたようです。

あるとき、北陸への出陣を命ぜられた秀吉は軍議の際に家老「柴田勝家」と対立。立腹した秀吉は軍を反転させ、勝手に自領へと引き返してしまいます。

当然ながら烈火のごとく怒った主君「織田信長」は彼に謹慎を命ずるんですが、城へ戻った秀吉は連日連夜能楽師などを呼んでどんちゃん騒ぎをするんです。
謹慎中に馬鹿騒ぎをする主人を心配した秀吉配下の家臣団は直接諌言に向かいますが、
「いままで西に東にと忙しくて遊ぶ暇もなかった。ちょうどいい機会だからお前らも好きに羽根のばせ」
とかなんとか言って、まったく取り合わないんですね。

どうにも対応に窮した家臣団は重治を訪ねて諌めてもらうようにお願いするんですが、彼はにっこり笑ってこんな説明したといいます。
「怒られて神妙に引き籠もってしまうと、さては謀反でも企んでいるのではないか、などとおかしな風評が立つものです。その点、ああして大騒ぎしていれば、面白い、調子のいい奴だと思われるでしょう。…だから、あれでいいのです」
おそらく、発案は秀吉。周囲の状況も考え、大いに賛成したのが重治ではないでしょうか?

猜疑心が強いですが、同時に派手好きでもある信長の性格面。中国地方へ軍団長クラスの人間を派遣する機会がすぐにあるであろう点。さらには、北陸の合戦で手柄を立てたとしても、柴田のものになってしまうであろう実利的なところ。
それら全てひっくるめて、「よきお考えです」となったのでしょう。

このエピソードで見逃してはならない注目すべき点は、秀吉への諌言を最終的には重治に期待している所です。
秀吉軍団での重治は主人にキチンと意見ができる、まさに軍師というべき位置であったのです。

つづく

[関連記事]
⇒ 竹中半兵衛重治 (1)(2)


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日本青年諸君に告げる (東條英機・遺言)

2006年07月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
昨日…じゃない、今日なのか。
コメントとメールで、件の九段の番組をやるということを知ってしまったので、思わず見てしまいました「生テレビ」
いやね、布団で寝ながらだったんで、三時半くらいまでは記憶あるんですが、気付いたら寝てました。
(※ちょっとつまらなかった、というのもある)
うふふ…。
そのおかげで今日一日ぼけーっとしてました。こんな調子なんで、今回記事もどこかおかしいところあるかもしれませんが、実にいい文を発見しましたので、ぜひラストまでお読みいただければ。
あ、「竹中半兵衛重治」の記事は一休みです。ごめんなさい。


●靖国参拝、小泉首相「争点にしたい人はすればいい」  2006年7月27日[読売新聞]

 小泉首相は27日夕、谷垣財務相が自民党総裁選の政権構想で靖国神社参拝の自粛を打ち出したことについて、「争点にしたい人はすればいいし、したいと思う人はしたがるだろう。総裁候補者がどう考え、国民がどう考えるかだ」と述べた。
 首相官邸で記者団の質問に答えた。首相の靖国参拝に対する谷垣氏の批判については、「私が一つの問題で首脳会談をしないと言ったら多くの国民は私を批判するだろう。靖国参拝を批判する人は、中国と韓国が(首脳会談をしないことを)いいと思っている」と反論した。
---------------------------------- 。。。


小泉首相もはっきり言っていい・悪いがありますが、上での反論は実に簡潔でわかり易いですね。一つの、しかも他国に対する心や民族の価値観的な事に対して口を出してくること自体が狂っているのです。
また、現状日本は癌のごとく、国内にいながらもそれをわざわざ「争点」にしようとしている大阿呆がいる。
たとえば、上で名が書かれている「最も存在感ない候補さん」や、こんな人↓


●首相発言「靖国参拝は個人の問題」…小沢代表が批判  2006年7月25日[読売新聞]

 民主党の小沢代表は25日の記者会見で、小泉首相が靖国神社参拝について「個人の問題だ」などと発言したことについて、「全く本質を理解していない不見識な言葉だ」と批判した。
 また、昭和天皇がA級戦犯合祀(ごうし)に不快感を示したとするメモが見つかったことに関連し、「ただひたすら、日本の国民の幸せを考えていた昭和天皇のことを思い浮かべながら、昔流に言えば大御心を感じている」と述べた。
---------------------------------- 。。。


福田さんは「それを争点とすべきではない」という理由で立候補しなかったというのに…。(←コレ鵜呑みに信じるのも危険ですけどね)
本当に、つくづくうっとおしい人ですね。
北朝鮮への経済制裁に反対(※圧力より対話、と発言)、敵地攻撃論を批判(※むちゃくちゃな暴論、と発言)、国連決議を批判(※最初の勢いはどこへやら、と発言)、ついでに靖国に反対。
…って、あんたいじわるじいさんか?
なにが大御心なんだか…中国から帰らなければ良かったのに。

とまぁ、色々言われている、戦犯とされる一人「東條英機」さん。
先日ネット百科事典「Wikipedia」で彼の項目を調べていたら(←なんでまたそんなん検索しているのやら…)、遺言とされる文面が非常に素晴らしいものであると知りました。
これは多くの人に読まれるべき名文であると思いますので、ぜひこちらでも紹介させて頂きます。
同時に、こちらには先に上げた問題についての回答も含まれていると思います。
(※以下Wikipediaより引用)


《 英米諸国人に告げる 》

今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。
しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばに過ぎるものがあるのではないだろうか。
我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。
いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。

《 日本同胞国民諸君 》

今はただ、承詔必謹するだけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。
ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国にあるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。
人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。
諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。

《 日本青年諸君各位 》

我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。
諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。
これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい
真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
---------------------------------- 。。。


たはー…。
軍人でもないのに泣きそうになりました。
あんまりにも良かったので、思わず本を買ってきてしまいました。 「大東亜戦争の真実 東條英機宣誓供述書」っていうもの。
この本、元々は昭和二十三年の発行で、報道管制の一環として発禁第一号に指定されたものだそうです。そんだけ当時の日本には危険な内容だったってことなのでしょう(笑)
読み終えた頃には、また何か違って見えるかもしれないですし、ぜんぜん変わらないかもしれません。
とりあえずちらほら読んでいきます。


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半兵衛、木下藤吉郎と出会う「竹中半兵衛重治」2

2006年07月29日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は秀吉の出世を影から大いに助けたといわれる異色の戦国武将、軍師「竹中半兵衛重治」についてです。


戦国系シミュレーションゲームをやっている皆様にはおそらくお馴染みでしょう。ちなみに、戦国アクション「戦国バサラ」の二作目にはプレイヤーキャラとして登場するようで。
↓それね。
うひゃー!こわいこわい。


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※これです。なんというか…このゲームでは歴史は学べませんねぇ。


美濃の豪族竹中氏の嫡男、半兵衛重治は柔和な物腰の穏やかな人柄で、およそ戦国武将という雰囲気ではありませんでした。彼は主君龍興の振る舞いに腹を立て、ついには奇策をもって居城たる稲葉山城(岐阜城)を奪い去ってしまうのでした…。

クーデターによって重治がにわか城主であったころ、喉から手が出るほどここを欲していた「織田信長」は好条件を持って明け渡しを迫っています。
これにはきっぱりと拒否するんですが、そんな対応は「大した奴」と逆に信長の関心と感心を買ったようです。

織田軍の万が一の来襲に備えたというのもあるでしょう、数日の後に重治は龍興へ丁重に城を明け渡し、全てを捨ててなんと隠居生活に入ってしまいます。
当時の重治はだいたい二十歳くらい。
若すぎる隠者ですが、こんなところも彼の人柄をよく表していると思います。
(※近江・浅井氏に仕えてから隠居したともいわれる)


さて、美濃攻略を望む織田軍は、当時無名だった「木下藤吉郎」が柴田・佐久間といった重臣らが果たせなかった墨俣の地に付城(※城攻めのための城)を築くことに成功、戦いを有利にすすめておりました。

後の太閤秀吉(※写真)、木下藤吉郎と重治が出会ったのは、この前後であると伝えられています。
隠居していた重治の元へ秀吉(※ややこしいから以後はこれで統一)が訪ねるさまを、三国志「劉備・孔明」の「三顧の礼」になぞらえていたりするんですね。
一度世を捨てた重治ですし、信長の粗暴な評判も色々聞いていたでしょう。
故事そのまま、そう簡単には首を縦に振らなかったと思います。

これは推測ですが、秀吉はそれこそ三回以上は平気で重治を訪ねたのだと思われます。
重治に実績があるとはいえ、いまの彼は単なる隠者であり、秀吉は成り上がりとはいえ勢力を拡大させつつある織田家家臣の一人なのです。
単純な身分としては秀吉の方が上ですし、わざわざスカウトに訪問してくるってのは稀なことでしょう。
また、秀吉もそんな彼のもとへ通い続けることができるからこそ、地位や身分にこだわらない振る舞いができるからこそ、「人たらしの名人」なのです。

説得に折れ、織田家に加わることを承諾した重治はここで一つの条件をだしたようです。
木下さまの配下として、であればいいでしょう
幸運を呼ぶ男、秀吉はまさにこの時、棚ボタを得ようとしていたのでした。



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半兵衛、稲葉山城を奪取する「竹中半兵衛重治」1

2006年07月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は秀吉の出世を影から大いに助けたといわれる異色の戦国武将、軍師「竹中半兵衛重治(たけなか・はんべえ・しげはる)」についてです。


竹中半兵衛―秀吉の天下奪りを熱望した名補佐役

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※この筋では有名人な半兵衛さま。本はたくさん出ています。色々探してみてください。


この竹中さまは容貌や性格など、戦国時代中で最も軍師らしい雰囲気な方です。
竹中さま自身や、当時・それ以後の方々も同じことを考えていたようで、伝わる話は中国・三国志時代の天才軍師「諸葛亮孔明」の故事を拝借しているものもあるようです。残る信憑性の高い資料も少ないため、彼に関するイメージやエピソードは実際のところ疑わしいものが多いようです。

その不確かな情報が広がった原因には、竹中さまの”過度に神経質な点”にもあるようです。後で説明しますが、手柄を喜ばず、故意に目立つのを嫌っていたような点があるため、天下にかかわる秀吉配下として歴史の表舞台にいながら、ほとんど資料が残っていないのです。
実でも名でもなく、ただ己の能力に挑戦し続けた竹中半兵衛重治。
では、簡単にその生涯を追ってみましょう。


竹中氏は美濃(現在の岐阜)の豪族で、守護大名の土岐氏、そして斎藤氏に仕えておりました。
当ブログでもやりましたが、斎藤親子の内乱で道三方についた父はそこで討死。
嫡男である半兵衛重治が後を継ぎました。
ちなみに、この重治の妻は「美濃三人衆」と呼ばれる実力者の一人「安藤守就」でして、そう考えると意外に将来を嘱望されていた人物なのかもしれません。

重治は武芸よりも軍学に傾倒したらしく、戦場にあって華々しく活躍する武者タイプではなく、色白でほっそりした、おとなしい感じであったようです。
必ずクラスに一人はいた、休み時間に本読んでいるような人ですよ。
イメージとしては。

さて、当時の斎藤家は道三との親子合戦(長良川)に勝利して後を継いでいた「義龍」が急死し、その嫡男の若い「龍興」の代となっていました。

その斎藤龍興は柔和な物腰の重治を侮り、色々くだらない嫌がらせをやったと伝わっています。度重なる侮辱に腹を立てた重治は策を立て、信長が散々攻めあぐねていた稲葉山城を奇策をもって急襲、わずか数名のみでこれを奪うことに成功しています。
城外へ龍興が逃亡すると、自らの手勢と叔父安藤守就の兵で要所をきっちり固め、完全に支配下としました。
なお、城内では財宝その他に一切手をつけぬよう厳命していたようです。

…この話、どうやら単独クーデターで城を奪ったのは真実のようですが、その動機については不明です。
一説には、龍興を囲む奸臣を誅殺するためというのもありますが。
まあ、なんか気に入らないところがあったんでしょう(笑)

ちなみに、難攻不落で知られる稲葉山城を乗っ取った策とは、人質として城内にいた弟を病気とし、見舞いという名目で屈強な手勢を城内へ入れ、要所を制圧するとともに外からの別隊で囲み落とすというものです。
簡単に書きますとそんなんですかね。
あちこちの兵には予め酒を振る舞うなど、用意周到に事を運んだようです。

こうして竹中重治はにわかながら、天険稲葉山城の主となってしまうのでした。


[関連記事]
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4) 


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東福寺 (京都)

2006年07月27日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は東山区、臨済宗の「東福寺」です。




今回はこんだけ高いんだよーというのを見ていただくため、そんなんが分かるような写真としてみました。
どこにも寺っぽさがない、単なる風景写真となっていますが、ちょっと楽しめるんではないかと思いましてー。

さて、この「東福寺」
平安時代頃は、この地に藤原氏の建てた氏寺、法性寺(ほっしょうじ)があったそーな。
嘉禎二年(1236) 今は鎌倉時代。
時の摂政「九条道家」はそこに、巨大な釈迦如来像と共に大寺院を建立することを思いつきました。
奈良における最大寺院の「東大寺」、同じく奈良にて勢力の強い「興福寺」になぞらえようと、「東」と「福」の一字ずつを頂き、京都にて最高かつ最強の寺院を造ろうとしたのが、ここ「東福寺」なのです。

…どうですか、この発想。
まるでマクミトンの「アトールⅤ」みたいですよ。  (※エルガイム)
ちょっと頭弱そうですよね。…あ、うそうそ。

この建立した張本人、「九条道家」って人は鎌倉幕府の四代将軍「藤原頼経(※)」の父で、天皇家にも幕府にも顔が利いたという大変な実力者なのです。
鎌倉幕府の四代将軍の名前なんて聞かないでしょ?

そりゃー予算も贅沢につかえたんでしょう。迷惑な話ですよ。
でね、すごいのは↓ここからです。ぜひ、年号を見ながらお楽しみ下さいませ。

嘉禎二年(1236)
工事を開始。
   ・
   ・
寛元元年(1243)
開始からもう七年後。出来上がったのは一部の堂塔のみで、いまだ完成しておりません(笑)
この頃に建立途中ながら、国内に名声が及ぶという名僧「聖一国師こと「円爾弁円(えんにべんえん)」を開山に招いております。

建長七年(1255)
開始からなんと十九年もの歳月を経て、ついに「東福寺」は完成に至りました。
なお、寺のメインとなるべき高さ約十五メートルという大仏なんですが…。

元応元年(1319)
完成から六十年あまりが過ぎた頃、なんと火災発生!
なんと、これによって五丈という巨大な本尊「釈迦如来像」は焼失してしまうのです!!
この頃はちょうど後醍醐天皇(第九十六代)が即位しております。時代も波乱含みでした。

建武元年(1334)
再び火災発生。多くの堂塔を焼失。
ちなみに、この一年前の元弘三年(1333)には鎌倉幕府と新田義貞が戦う「分倍河原合戦」がありました。時代が変わろうとしている頃なんですよ。

延元元年(1336)
三度目となる大火災発生。多くの堂塔を焼失。
ちょうどこの年には、九州は福岡付近にて足利尊氏と菊池武敏が「多々良浜」にて激突。ここで菊池勢を破った尊氏勢力を完全に回復し、攻め上って摂津国での「湊川合戦」にて楠正成を破っているのです。

さて、合戦話はおいといて、幾度もの天災に見舞われた東福寺。しかし、延元の火災のあった四ヵ月後には早くも復旧。
九条道家が想像したであろう、大伽藍の並ぶ壮大な禅宗寺院となっていました。
ちなみに、建武の火災前には京都五山(第四位) にも列せられています。

その後、本尊である約十五メートルの釈迦如来像は室町時代頃になってようやく再興。左右に従える観音菩薩、弥勒菩薩も共に約八メートルという巨大さで、「新大仏寺」という別名にて、時の権力者足利・豊臣・徳川の庇護を受け、珍しく兵火にもあわずに過ごすのです。

しかし、これがまた明治十四年(1881)の大火災によって、大仏ほか仏殿などことごとくを焼失してしまうのでした。
ああ、なんてこったい!
しかし、元々巨大な寺院で、歴史が古い文化財を多数所有する寺院です。
色々ありますんで、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか?



(※)藤原頼経(ふじわらよりつね)
鎌倉幕府の四代将軍です。ほんとです(笑)
だーれも知らない、知られちゃいけーない~♪ (←知られちゃいけないことはないですが)
…という訳で、①合戦下手な「源頼朝」②頼朝の嫡男で暗殺された「源頼家」③頼朝の三男で頼家の子に襲われて死んだ「源実朝」、の次ですよ。
九条道家の三男で、北条家の傀儡将軍・第一号です。


[住所] 東福寺 京都市東山区本町15丁目778

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※もしかしたら、奈良大仏・鎌倉大仏・京都大仏…なんてなったのかもしれませんね。
 ああ…もったいないなぁ。

大仏再興

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陛下のメモを検証してはどうですか?

2006年07月26日 | ネタ
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色々おかしなことになりつつあるようなので、この記事を書かせて頂きます。
とりあえずこちらをどうぞ↓

●古賀氏「重いものとして受け止めたい」 2006年7月25日 [TBS]

「陛下の思いが率直に、ああした形で残されていたんではないかと思いますと、ますます日本遺族会の会長としても責任の重いことではないかと」(日本遺族会会長、古賀誠自民党元幹事長)
 古賀氏は「その心・この思いを私たち遺族は最も大切にしたい。最も重いものとして受け止めたい」と述べて、国民も皇族もわだかまりなく参拝できるような靖国神社にするため、A級戦犯の分祀を検討すべきという考えを改めて示しました。
 さらに古賀氏は、「分祀ありきではないが、国民的な合意を得る努力をしたい」と述べて、靖国問題の解決に強い意欲を示しました。
---------------------------------- 。。。

ひでるさんはテレビよりも、ネットの記事をよく見ています。
今回の”陛下のお言葉とされるメモ”についても、ネット上では出た当初から真偽について書かれている記事が数多く見受けられました。
だって、単なるメモじゃないですか。
それに、誰の言葉を書き記したものかすらわかんないんですから。
永田メール問題と同じくらいの感覚だったんですよ。
うそだろ(笑)…ってな感じに。

…それが、マスコミや一部の政治家↑は、さも陛下がそう話されたかのように言っています、報道しています。
(※上の記事も偶然”捏造で有名”なTBSだったりして)
おかしいでしょ?
しかも、このタイミングでアンケート調査なんてやってる。
あれだけマスコミが「そういうご意思だった」的な報道していれば、結果「行かないほうがいい」となるのは当然のことでしょう。
そんなに首相に参拝させたくないんでしょうかね?メモが見つかった時期からして、なんだか胡散臭く思うんですが。

※ちなみに、今回のメモについて良くまとまった記事がありましたので、こちら↓ご覧下さい。
 昭和天皇メモはやはり偽造だった? より引用させて頂きました。

【重大な疑問】
1 「日記や手帳に克明に書き残していた。」のになぜかこの部分は手帳に貼り付けてある
2 日記のページは黄色く変色しているのに、メモ自体の保存状態が極めて良好(紙が真っ白)。
3 ブルーインクで書かれた文字が、経年劣化で退色したりかすれたりせず、綺麗なままである点。
4 天皇陛下が自分の(個人的な)意思で参拝したり、取り止めることはできない。
  それをできると思うのは、外国人か日本の官僚機構を知らない人達。
5 勅使は陛下の私費で現在も靖国神社に派遣されている。
6 天皇陛下はABC級戦犯も追悼の対象である全国戦没者追悼式に毎年参列して御言葉も述べている。
7 白鳥を白取と誤字。
8 理論構成、概念、時系列が中国共産党にあまりに都合が良すぎるステレオタイプそのもののような文章。
  「平和に強い考え」?何それ?中共の影響力の強い旧社会党や社民党がいかにも使いそうな言葉。
  「平和に強い考え」=「平和への熱い思い」と同義でしょ。
9 「松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々と。」「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが」
  合祀された78年ならまだしも、10年後の崩御の前年の88年に語ったとすると日本語としてあまりに不自然。
10 「それが私の(本)心だ。」文末でわざわざもう一度総括(笑)する不自然極まる文章。
11 当時の侍従長でA級戦犯の合祀に大反対だった、徳川義寛氏の発言と考えれば、内容はすべて辻褄が合う。
  http://www.tv-asahi.co.jp/n-station/cmnt/shimizu/2001/0816num90.html
  http://sakuratan.ddo.jp/imgboard/img-box/img20060720181150.jpg
  昭和天皇の侍從長を勤めた徳川義寛氏は、この極東軍事裁判A級戰犯合祀について、
 「筑波さんのように、慎重な扱いをしておくべきだったと思いますね」
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  と、松平永芳宮司の措置を批判的に語つてゐる
  「昭和天皇と50年・徳川前侍従長の証言」(朝日新聞1995年8月19日)
12 1988年4月28日に富田宮内庁長官の拝謁の記録なし?徳川侍従長とは打ち合わせの記録アリ?(※未確認情報)
13 「藤尾(文相)」とあるが、藤尾正行の文相在任期間は、1986年7月22日~9月8日。
   http://www.vipper.org/vip295965.jpg
---------------------------------- 。。。

どうですか?
とりあえず真偽について検証してみるべきではないでしょうか?
今の段階でさも本当かのように報道するマスコミは相当狂っていると思うんですが。

日本は『死者を許す国』である。
日本ではどんな悪人でも死んでしまえば、すべて「仏」。生前の悪行を暴き立てても何にもならないと考える。遠いあの世に旅立った人の事をあれこれ考え、今を詮索しても仕方がない。死者は許し、今のこの世を一緒に生きている人々と仲良くすべきと考えている。
『遠くの親戚より近くの他人』なのである。
(※長野商工会議所 商工会だより より引用)


みな、日本のこんなイイ所を忘れてはいないでしょうか?
しかも戦犯と言ったって、あんな訳わからん不当な裁判で決まったものですよ?
A級戦犯なんていないんですから。(←本当の戦犯はルーズベルトです)
もう、そっとしてあげましょうよ。




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親日アジア街道を行く―日本近代史の真実

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執金剛神・仁王像 (醍醐寺)

2006年07月25日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は仏像中では「お地蔵さん」の次くらいにポピュラーな……あー、ここまで書きましたが、お地蔵さんの次にポピュラーなのは「観音様」ですかね。
まーいーや。
有名で人気も高い「仁王」さま、単独名では「執金剛神(しゅうこんごうしん)」についてです。

見たことありますよね?まさか、ない人いないですよね?
ほらほら、重文だろうが国宝だろうが、必ず雨ざらしで門に立たされている気の毒な方々ですよ。

このブログ開始当初で記事にしましたが、伊勢原で見た仁王さまは鼻に蜂の巣があったりと、どこかかゆくなるような方もいらっしゃいました。

梵名は「ヴァジュラダラ」
これで「伐折羅陀羅(ばさらだら)」と音写されます。意味としては、ヴァジュラ(金剛杵)を持つ者。
そのため、執金剛、あるいは持金剛と漢訳されています。

このヴァジュラ(金剛杵)ってのは「金剛夜叉明王」の回でも説明しましたが、手槍みたいな短い武器のことです。
古代インドではポピュラーだったようですね。

あちこちの書物では、「執金剛神は釈迦の周囲につねに侍して、金剛杵を取る」と書かれており、本来は単独神で釈迦の警護をしていたような方なんですね。
ほら、ラヴァみたいなボディーガードですよ。 (※吸血姫美夕)

それから、仏とかの聖域を守る意味もあって阿・吽の一対で表現されることも出始め、「二王」の別名。それが転じて「仁王」の名を持つようになったようです。

また、その姿が服(※裳[も]と言います)を腰にまとうだけで、身構えた筋骨隆々な姿であったため「金剛力士」とも呼ばれるようになるのです。
ちなみに、例外として、中国・日本には甲冑を着けた神将形もあるそうですが。
見たいですねー。

そんなこんなで、便宜上、単独神の場合は「執金剛神」、阿・吽一対のものは「仁王」というのでした。
どれも憤怒形であることが特徴です。なんだか知らんけど、怒ってるという。
見分け方は…いいですよね。写真みたいなんですよ。

奈良は「東大寺・法華堂」には奈良時代作の国宝「執金剛神像」が見られます。
こちらは甲冑をつけた四天王のような雰囲気で、長年にわたって秘仏であったそうですよ。
ただ、「執金剛神」はさして皆に気に入られなかったのか、広くは浸透しなかったようです。作例もごくわずかであるようですね。レア仏ですわ。

その一方で、仁王像ともなると法隆寺に残る最古のものを筆頭に、各時代を通じてあちこちで様々な仁王像が作られることとなるのでした。
こちらは全国各寺院にてたいてい普通に見られ、作例も様々なのでその違いを楽しむのもいいのではないでしょうか?
ちなみに、口をあけたのが阿形、口をとじたものが吽形です。


[関連記事]
⇒ こまいぬ[狛犬]
⇒ 地蔵菩薩・半跏坐像 清涼寺(京都)
⇒ 地蔵菩薩半跏像 (京都・石像寺)

[住所] 醍醐寺 京都市伏見区醍醐東大路町22

  ※写真は醍醐寺の仁王像です。ちょっと可愛らしいでしょ。


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※仁王の本で、ちょっとかわったものをピックアップ。

仁王像大修理

朝日新聞社

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棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」

2006年07月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は通称「新羅三郎」こと「源義光」です。
こっそりやっていた源氏祭りはこの方で一応終わりです。


一統の論理―武士団にみる棟梁たちの規範学

未知谷

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※やっぱり写真ないのでイメージ本。棟梁になれるか?!


「源義光」は河内源氏の二代目であります、源頼義の三男として生まれます。
この人は近江の新羅明神にて元服したところから、「新羅三郎義光」と称されるようになりました。
こっちの響きのが有名ですね。

さて、後三年の役にて苦戦する兄義家。
それを助けるため、都での官位を捨てて、はるばる奥州まで救援に向かったのがこの義光です。
心暖まるエピソードですね。なんだかはつらつとした武者姿が想像されるようです。

後三年の役の後、関東に腰を落ち着けた義光は常陸の平氏を妻としたことで、この勢力を吸収、自らの地盤を築きました。
それに遅れて甥の「源義国」が東国へ進出してきますと、領土を巡る争いへ発展。
義光はこれを撃退して、地盤を確固たるものとしました。

兄義家の没後はなんと河内源氏の棟梁を狙い、後継者として目される甥の源義忠、兄義綱(※源頼義の次男)を滅するよう画策するのです。

いや、悪い奴ですねー。
後三年~の頃となんだか人が変わっちゃった感じです。
何が彼をそうさせたのか、この人の後半生は自らの利益を最優先として活動するようになるのです…。

天仁二年(1109)
後に「源義忠暗殺事件」と称されるこの一件によって、義忠は暗殺されてしまいます。
その際に現場に残されていた彼を斬った刀が「源義明」のものであったため、嫌疑は父義綱にも及びました。
(※刀を奪ったのも、それを使って暗殺したのも、実は義光の手の者らしい)

まんまと計略を成功させた義光は「源為義」の名目で義綱一派を誅殺。さらに一連の関係者を殺害し、事を闇に葬りました。
まさに完全犯罪です。

しかし、なぜだかそれは露見(…まぁ、穴だらけっぽいし)することとなり、立場を失った義光は棟梁の座を得られぬまま、自らの地盤である常陸へ逃亡することとなるのです。

結局、源氏は為義が継ぐこととなりますが、この内紛によって源氏勢力は急激に衰えてしまいます。
また、当時院政を敷く「白河上皇」は、源氏を味方としていた摂関家に対抗するため、伊勢平氏を重用するようになっていました。

それらの要因によって、源氏は没落、信任を得た平氏は逆に勢力を伸ばしていくこととなるのです。

このように、義光は源氏を衰えさせた直接的原因をつくっております。
しかし、常陸を中心とした地方で自らの勢力を拡大させたことで、結果的にはその後の源家を助けることとなるのでした。
(※それは鎌倉期になるまでおあづけ)


[関連記事]  【 源氏祭り 】開催中!
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 <前編>


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大仙院 (京都)

2006年07月23日 | お寺
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本日は京都は北区、大徳寺内にあります「大仙院」です。

通常非公開が多くてがっかりすることの多い大徳寺内寺院。
そんな中で、ここ「大仙院」は通年公開されております数少ないお寺です。
いつでもどうぞ。

永正六年(1509)時は室町時代のこと。
近江の大名「六角政頼」の子、古岳宗亘禅師(こがくそうこう・ぜんし)によって「大仙院」は創立されました。
古岳宗亘禅師によって開かれたなかでも特に由緒ある名刹で、ここは大徳寺北派の本庵でもあります。

それから、時代は進んで豊臣秀吉の政権下。
天正十九年(1591)
一時は秀吉の弟「秀長」と同列な股肱の臣として活躍した茶人「千利休」ですが、その勘気に触れて切腹となりました。

当時の大仙院住職「古径和尚」はその首を山内へ持ち帰り、手厚く葬ったそうです。その利休ほか、多くの茶人と密接な関係であっただけでなく、宮本武蔵との関係で知られる「沢庵和尚」もここの住職だったのです。
どうですか、けっこうスゴイお寺じゃないのって感じるでしょ?

本堂は入母屋造(いりもやづくり)・銅板葺(どうばんぶき)で、日本最古の方丈建築だそうです。
…なんのこっちゃよくわかりませんが、とりあえず物凄いものらしくてこれが国宝。ほかには書院も重要文化財指定されているという、ある意味で危険なお寺です。
下手にぶっ壊せば、信じられないような事態になるでしょう(笑)

庭園はなんと応仁の乱直後の作でして、作者は古岳宗亘禅師。
室町時代の枯山水を代表する石庭と言われるほどのもので、史跡特別名勝にまで指定されています。(※写真参照)
極めて傑作である、とはパンフの文言でしたが、ひでるさんはそんなもんかなーという印象。
庭の良さなんて分かりませんよ、正直なとこ。
いいとは思いますがね~。



[住所] 大仙院 京都市北区紫野大徳寺 塔頭


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※ひでるさんは胡散臭いこの人↓が嫌いです。

図説 千利休―その人と芸術

河出書房新社

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鳳凰像 (平等院)

2006年07月22日 | 仏像
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本日は仏像…ではないんですが、鳳凰についてです。
似たようなもんでしょ。


鳳凰ってよく聞く(…そうでもないか?)けど、あまり知らないですよね?
そんな訳でちょっと調べてみましたんでどうぞ。

鳳凰(ほうおう)ってーのは中国の伝説上の鳥です。
鳥の聖獣ですから、当然実在しません(笑)
日本では十円玉の「平等院」で有名ですよね。
この平等院の阿弥陀堂は、屋根の形が”鳳凰が翼を広げたよう”に見え、またその両端にも鳳凰が飾られているところから、「鳳凰堂」とも呼ばれているんですね。

この鳳凰、どんなんかってーと、首は蛇、尾は魚、背は亀などという、合体怪獣的な感じだそうです。
ウルトラマンAの最後の敵「ジャンボキング」みたいなもんです。
五色に包まれるという豪華絢爛な雰囲気で、声は五音を発するそうです。

名君の治世に登場するといわれてますから、おそらくひでるさんが目にすることはこの先もなさそうです。
…って伝説上の生物だってば。

名前のそれぞれ「鳳」はオス、「凰」はメスを指しているんですね。雌雄同体ですが、こんなところが神さまっぽいですよね?

この方、よくゲームとかで他の聖獣らとお揃いで四名で登場するのを見かけると思います。
ビールでお馴染みの「麒麟」、お寺の池にはかならずいる「亀(霊亀)」、手洗い口で水をだしてる「龍(応龍)」と揃うと「四霊」と呼ばれます。
ちなみに、不死鳥こと「フェニックス」とは別物です。
間違えないように。



[住所] 平等院 京都府宇治市宇治蓮華116

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※…と、いう訳で火の鳥ですよ。
 読むと気が滅入るので、くれぐれも気をつけて下さい(笑)
 火の鳥って聞くと「焼き鳥」を思い出すひでるさんです。タレより塩のが好みですね。

火の鳥 鳳凰編

角川書店

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激突厳島! 「厳島の戦い」 <後編>

2006年07月21日 | 歴史
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本日は日本三大奇襲戦の一つ、「厳島合戦」について。

歴史に残る中国の覇者、智謀の将「毛利元就」
当主、大内義隆を葬り、広大な大内領を握った「陶晴賢」
勢力としてはその足元にも及ばない元就でしたが、傘下に付くことなく公然と反陶軍の旗色を鮮明にしておりました。
圧倒的不利な状況下、必勝の策を練った元就は「厳島」を戦場として選んだのです。


NHK大河ドラマ 毛利元就 完全版 DVD-BOX 第壱集

NHKエンタープライズ

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※いい人そうな元就さまですよね。実際も…↓つづきは下で。


厳島の「宮尾城」を目指して進む陶軍の船団は約五百艘。
兵数としては二万ともいわれる大軍でした。それに引き換え、元就が動員できた兵力は約五千程度だったそうです。

僅かでも助力が欲しい毛利家では、海上での戦によく慣れた瀬戸内海に勢力を持つ「村上武吉」以下の村上水軍ほか、伊予の水軍にも援軍を求めていました。
実は、この村上武吉のもとには毛利だけでなく、陶方よりの使者もきていたそうです。
(※彼はこの界隈での有名人。祖先は清和源氏とも言われる名門)

宮尾城への攻撃が始まり、迫る作戦時刻のぎりぎりになった頃、毛利家の集結する側に村上水軍が現れ、士気は大いに上がったそうです。
一日だけお味方いただきたい
そう平身低頭して助力を請う毛利に対し、陶からの使者は高慢不遜であったようです。
最終的には有利・不利よりも人を重視したんですね。

兵を率いた元就は暴風雨のなか、厳島の包ヶ浦に上陸しました。
すると、乗ってきた船を全て引き返させているのです。自ら退路を断ったんですね。
それと同時に、三男「小早川隆景」ら率いる水軍勢は堂々と陶軍の中に援軍と偽って潜り込むことに成功しました。
…これには、油断している陶軍の様子が見て取れます。

勝利を目前にした陶軍と、乾坤一擲の作戦で思うように事を運んだ毛利軍。
どちらが勝つか、この時点で勝負は決まっていたのでしょう。

突如、背後の山から起こった鬨の声に仰天した陶軍。同時に、城内から、さらには陣中から兵が襲いかかり、陶軍はたちまち大混乱となりました

大軍であったがゆえに陶軍は身動きがとれず、態勢を立て直すこともできずどこからかの攻撃で次々に撃ち取られていきました。
また、逃げようにも船のことごとくは毛利方によってあらかじめ沈められていたため、それもできずに討取られた将兵の屍が砂浜を埋め尽くすという有り様でした。

この乱戦の中、あきらめた陶晴賢は自害。
「何を惜しみ何をか恨む元よりも この有様の定まれる身に」
享年三十五。

一部抵抗した将兵も結局は力尽きて玉砕し、合戦は毛利の大勝で終了しました。
この勝利によってその旧領を併合した毛利元就は一躍大大名の仲間入りを果たすこととなるのです。



※いい人そうな毛利元就について。
 あのね、どっかの本にあった話。
 権謀術数に長けた元就は、実際(普段)は物凄くイイ人だったのではないか?
 ほら、イソップ童話の「オオカミ少年」みたいに、常日頃からウソついてる人ってのは信頼されないではないですか。
 それと同じで、いかにも何か企んでいそうな人の言う話なんて信用されません。
 ”いかにもウソつかなそうな人”が決定的な場面でポロっとウソつくからこそ効果的なんですよ。
 だから謀略戦に長けていたとされる元就はさぞいい人だったのではないか、という話でした。でした。

[関連記事]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]


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宮尾城の意味 「厳島の戦い」 <中編>

2006年07月20日 | 歴史
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本日は日本三大奇襲戦の一つ、元就の凄さがよくわかる「厳島合戦」について。


歴史に残る中国地方の覇者「毛利元就」
兄の死によって偶然当主となった元就に待っていたのは、同族と争う苦難の道でした。それを乗り越え、安芸国を統一した元就は周囲の大勢力、東の尼子・西の大内に挟まれる、厳しい生き残りの戦略を強いられます。
と、そんな元就のもとに届いたのは、傘下となっていた当主「大内義隆」死去の報だったのです。
中国地方はにわかに不穏な空気が流れていました。


毛利元就

PHP研究所

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※元就はおじいさんなイメージが強いのは私だけでしょうか…。


謀反に成功し、大内家の実権を握った「陶晴賢」
毛利元就はこの頃は大内の傘下でありましたから、当初はいんぎんにその下でおとなしくしておりましたが、後に離反。
主人を害した逆賊”陶晴賢”を討つ
そう、旗色を鮮明にするのです。

天文二十三年(1554)
侵入した陶の軍勢を本国にて迎え撃った元就はこれを撃退。(※折敷畑合戦)
陶本軍はその頃は石見の攻略中でして、これには加わっておりません。
そのため、初戦に勝利したとは言っても、陶軍のほんの一部を全力で撃退できただけのことでした。
危機はまだ続いています。
その後も陶軍との小競り合いがありましたが、いずれも大規模な戦にはなっておりませんでした。
気になる存在ではあったでしょうが、陶晴賢としては他の足固めを優先したのでしょう。
戦上手で出ごわい存在の元就ではありますが、安芸一国をようやく従えた程度の毛利家は、彼にしてみれば取るに足らない存在だったのです。

そんな頃、元就は厳島の宮尾に「宮尾城」を築きました。
皆様ご存じでしょうが、こちらには平清盛が”平家の氏神”として崇拝した、厳島神社があります。
ぽつりと浮かぶ厳島は水路での要所で、この城は生命線を守る存在として重要な意味をもっていました。
しかし、これにはもう一つの意味があったのです。

「宮尾に城を築いたがあれは失敗であった。あれを押さえられたら我が勢はひとたまりもない」

重臣が居並ぶ酒宴の際、元就はふとそんなことを言って嘆きました。
なるほど、確かに宮尾城は安芸のすぐ真下にあるため、付城(攻略の際に築く城)としての機能も期待でき、また重要な水路を押さえることもできます。
確かにここを奪ったならば、喉元に刃を突き付けるようなものなので、戦況をより有利に進められるに違いありません。

…元就の漏らしたその弱音は、やがて陶晴賢の元へ伝えられます。

さらに、毛利方の重臣からは寝返りを約束した書状が届き、偶然手にいれた書状には配下の者が毛利方へ内応する旨がしたためてあったのです。

陶晴賢は若いながらも文武に通じた名将で、また陶家も代々大内家で重きをなしてきた家柄した。
謀略戦は合戦の常であるため、おそらく即決はしなかったでしょうが、幾重にも重ねられた情報に確信を持つと、内応したとされる家臣を切り捨て、軍を動かしてしまうのです。
…これらが、巧妙に仕組まれた元就の謀でした。

元就は陶方に内通している者がいると知りながらもこれを放置し、しかもわざと相手へ届くよう、事あるごとに偽情報を提供しつづけていたのです。

謀の多きは勝ち、少なきは敗れる
とは元就の言葉ですが、相手の裏の裏をかく巧妙な手口に、さすがの名将陶晴賢もまんまと引っ掛かってしまうのでした。
⇒つづく


[関連記事]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]


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陶晴賢の謀反 「厳島の戦い」 <前編>

2006年07月19日 | 歴史
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本日は日本三大奇襲戦の一つ、みんなの憧れ「厳島合戦」について。


迫る敵の大軍にどう立ち向かうか?
…その回答は日本三大奇襲戦にありました。

敵軍の戦意を大幅に消失させ、烏合の衆としたのが「河越城夜戦」こないで紹介したやつ。敵の本陣、指揮する総大将のみに狙いを定めたのが「桶狭間合戦」最も著名で、織田信長の名前を一躍有名にした合戦。
そして、相手を閉所へ誘い込み、身動き取れないようにして討ち取ったのが、今回の「厳島合戦」となります。


世界文化遺産の島 宮島を楽しむ

中国新聞社

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※中国地方はいったことないひでるさんです。
 …と、いう訳で写真ないのでイメージ本ですよ。いいなぁ、宮島。


三矢の教え(嘘ですけどね)で知られる中国の覇者「毛利元就」は子供らに一致団結をさかんに説いている(これは本当)だけあって、その当初は一族と争ってきた経験をもっています。

兄とその子の早世によって偶然家督を相続することとなった元就。これに不満をもった一族家臣らを撃退し、どうにか国を安定させました。さらに、付近の有力豪族の吉川家、強力な水軍をもつ小早川家には自らの息子を送り込み、これら勢力の取り込みに成功しています。
当時は余裕もなかったのでしょうが、この一族争いや他家取り込みの際にはかなり強引な手段をもって挑んでいます。
…簡単に書くと、「逆らう者には容赦しない」ですね。信長に負けないような、一族皆殺し的なこともしております。
戦国時代の恐ろしさが肌身に染みている人なんです。

そんなこんなでようやく安芸国を安定させた元就ですが、彼を取り巻く環境はまだ実に厳しいものでした。
東には切れ者「尼子経久」の代に勢力を大いにのばした尼子家が、西には勘合貿易で富を築いた名門大内家がおりました。
元就はその巨大な両勢力の間で、つかず離れずの厳しい戦略を強いられ、最終的には大内家へ属しています。
報復攻撃を仕掛けてきた尼子勢には本拠吉田郡山城を囲まれますが、わずかな兵でよくこれに耐え、元就はその武名を轟かせております。

さて、元就が頼みとした大内家の当主は十六代「義隆」でした。
貿易による富で栄える彼の本拠、周防は小京都と呼ばれるほどの賑わいをみせており、先の「応仁の大乱」で戦地となった京を離れた文化人たちはここにも身を寄せていました。
…これは越前の朝倉家と非常によく似たケースなんですね。
この「応仁の乱」で先代が保護し、連れてきた文化人たちは、結局その後間接的に家を崩壊させる火種となるのです。

後を継いだ「大内義隆」はそういった文化人の影響を強く受けており、ともすれば武将らしい覇気に欠ける質がありました。
(※公家文化に強い関心をもっていたと伝えられます)
それでも、当主となった義隆は西へ東へと忙しく転戦を繰り返していました。

天文十一年(1542)
ライバル、尼子氏との決戦に望んだ義隆ですが、ここで思わぬ大敗を喫してしまいます。すると、この敗戦を切っ掛けに弱気になったのか、政務・軍事から遠ざかるようになってしまうのです。
現実逃避する当主に危機感を募らせる家臣団。
諌言も聞き入られないようになると両者の溝は深まり、やむなしと見た重臣「陶晴賢」は反乱を起こしてこれを討ち取ってしまうのでした。

天文二十年(1551)
大内義隆死亡。
にわかに不穏な空気が流れてきました…。



[関連記事]
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「河越城夜戦」 [  ]


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浄土院 (京都)

2006年07月18日 | お寺
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本日は京都は知恩院派の「浄土院」です。


京都銀閣寺でがっかりしたあなた、ぜひ付近のこのお寺にお立ち寄り下さい。
(↑もちろんジョークですよん)
こちらはちょっとの時間で、かつ無料でそこそこ楽しめますので。

通称は「大文字寺」です。
毎年八月十六日の大文字の送り火の際には、お経が唱えられたり松明点火したりと、行事施行の中心となるところからそういう通称となったようです。

そんな大文字寺こと「浄土院」
ここには元々「浄土寺」と呼ばれた、かなりの勢力を持った天台宗系の寺院がありました。

文明十四年(1482)
戦火などによる度重なる焼失と、また当時は無責任の代名詞、八代将軍足利義政が「銀閣寺」の造営に着手していたこともあったので、浄土寺はいい機会とばかりに相国寺の西へと移されてしまいました。
しかし、当時は応仁の乱後の大変な時期だというのに本当に迷惑な奴ですね、義政くん。

で、ちょうど銀閣寺の敷地から外れた当地にはお堂が残っていたんですが、ここを泰誉浄久(たいよじょうきゅう)という僧が浄土宗のお寺として復興させ、「浄土院」と名付けたのでした。
ちなみに、現在の建物は最近のものであるようです。残念。

さて、ここにはなんだかお姫さまの像があるんですよ。
名前を「高階栄子(たかしなのえいし)」…あれ、エイコさんではないんですね。

通称「丹後局」というこの方はたいそうな美貌の持ち主で、平業房(たいらのなりふさ)の妻でありました。が、夫が「平清盛」のクーデターで処刑されると、後白河法皇に見初められてその側室となり、内親王などを生みました。

実子十六名を育てる一方で、法皇の寵愛と信頼を得た栄子は政治にも介入。いつしか、鎌倉幕府との折衝なども担当するようになっておりました。
(※その権勢はもの凄く、一時期は楊貴妃に例えられていたようです)

法皇の死後に尼となった栄子が住んだのが、このあたりの過去に浄土寺があった付近だそうなんです。
ちなみに、栄子はその後も政治に関わり続け、女性政治家の先駆者と言われております。
はー…ここまで知ると、当初の「美貌の持ち主」って言葉がなんだかファンタジーに聞こえちゃいますよね(笑)
キッツイ感じだったんでしょうか?



[住所] 浄土院(大文字寺) 左京区銀閣寺町30

[関連記事]
⇒ 応仁の乱[
⇒ 銀閣寺


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※うわ!単行本発見しましたヨ!!
 …正直、あまり売れなさそう(※題材がマイナーという意味よ)ですが、上下巻でてます。
 栄子ちゃわんはやっぱり怖い感じで描かれてますね(笑) 

〓輝妃―後宮の女帝高階栄子の生涯 (上)

徳間書店

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軍荼利明王 (仏像・明王)

2006年07月17日 | 仏像
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本日は明王、軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)ですよ。
五大明王のうち不動は色々書けそうなのでおいといて、先に他の四名をやってしまおうと考えておったんですね。
で、こないだ記事を見返していたら、何故かこの方だけすっかり忘れていたことに気づきました。
すみません。
そんな訳で本日は五大明王の一角、「軍荼利明王」についてお送り致します。


牛に騎乗する大威徳、シヴァとウマーを踏み付ける降三世、金剛杯をもつ金剛夜叉、そして蛇を巻く軍荼利さま、となります。
この五名はそれぞれ特徴がはっきりしていて見分け易いですね。

五人横並びでいらっしゃる場合は左から二番目、方位は南方に配されています。
ちなみに、五大明王としての軍荼利さま以外に、平安時代頃には”単独”での信仰もあったらしく、滋賀県金勝寺、埼玉県常楽院には単身像があるそうですよ!
ちなみに、八名で祭られるとき(八大明王)は大咲明王(だいきみょうおう)と名前が変わるそうです。

梵名は「クンダリー」
これを漢字にしたものが、そのまま「軍荼利」になっています。
この「クンダ」は水器、瓶とかの容器、「リー」は止めるという意味だそうです。水を止める方ですよ。水門管理者みたいなイメージか?

実際、瓶には単なる水でなく不老不死を授かる(かもしれない)霊薬の甘露が入っており、甘露軍荼利とも呼ばれるそうです。
カンロだって(笑)
お菓子みたい。

また、お笑い芸人の罰ゲームみたいに、四肢にぐるぐる蛇を巻き付けている件なんですが、これは「クンダリー」の別の意味に「とぐろを巻く者」というのがあるためです。

※とぐろ巻く = 蛇  (←単純な発想ね。ひでるさんだと、タイムボカンですが)

ということで、蛇を巻いていらっしゃるんですね。
これは蛇のエネルギーを象徴とするヒンドゥー教のシャクティ信仰とも関係があると言われているそうです。
あれですよ、漫画「孔雀王」とか「クラダルマ」の世界ですよ。

そんな訳で、見分けるには手首・足首を見てみましょう。
ほかには、一面三目八臂でして、左右の手を交差して「だめー」とやっている方がそうです。
この印は大瞋印(だいしんいん)といい、左右の人差し指、中指、薬指を伸ばして、曲げた小指の頭を親指で押さえるようにしています。
くわしくは写真みてみて。

ちなみに真言は、
「おん、あみりてぃ、うん、はった」
です。
これを唱えれば、外敵から軍荼利さまが守ってくれるそうです。(結界みたいなもん)
とりあえずビジネスマンな方々は上司に呼び出された際に唱えてみたらいかがでしょうか?



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