お寺さんぽ Ver.03

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源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま

2006年06月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は四天王シリーズ(そんなんない)、妖怪退治で有名な平安期の英雄「源頼光と四天王」についてです。


…どうすか、この方々のこと知ってますか?
なーんて書きだしをすると、ひでるさんはさも詳しく詳しく知っていそうですが、ほぼ知識ありません。
毎度のことながら。
時が戦国なら多少は詳しい(つもり)んですけどねぇ。

さて、なにゆえこんな方々をむりくり題材にしたかというと、彼らを題材にしたゲームとか漫画とかが昔あった訳ですよ。詳しく書きませんが。
それにはー、と関心したひでる青年は、実際はどんなもんかいな?と、ちょっとだけこの方々調べたことがあるんです。
だから多少程度の知識があったりします。

これを読んでいる子を持つ親の皆様。(←またかい、という声も聞こえてきそうですが)
毎回この場を借りて涙ながらに訴えていますが、漫画・ゲームに罪はありません。それどころか、何かを掴む・知る切っ掛けになるかもしれないのです。(…それが良い悪いは別ですけど)子供にはどんどん買い与えましょう!
きっとこんな(↑↓)微妙な大人になるでしょうから。
うふふ…。


と、話戻しまして、源頼光主従の話。
…まあ、ごく簡潔にさらっと書きますんで、軽い気持ちで読んで下さい。
詳しく知りたくなった方は専門サイトへ行くように(笑)


時代はまだ鎌倉よりさらに前、平安時代…。
いわゆる天皇家からの枝分かれとして、源氏や平氏といった武士が出現し、なんとなく定着しかけた頃のこと。
後の「今昔物語」「御伽草子」などの読み物で頻繁に登場することとなる、英雄がおりました。
そのヒーローこそが、魑魅魍魎・妖怪退治の専門家「源頼光と四天王」です。
これが怪獣退治の専門家だとウルトラマンなんですけどね。

と、そんなお伽話はさておき、今回は実際の頼光さまについて。
源頼光(みなもとのよりみつ、あるいは「らいこう」)は清和源氏からの流れ、源満仲の嫡男として生まれます。
幼名は「文殊丸」
ひゃー、賢そうな名前ですね。
ちなみに、彼の弟は藤原道長に仕えて四天王の一角と称された源義信で、孫に八幡太郎で名高い義家と続く源家・武闘派となっていきます。
(※あとでやりますんで、こうご期待!)

さて、この頼光さまは清和源氏の嫡流(三代目)で摂津武士団を引き継ぎ、華々しく戦場へ……赴いたかどうか実際微妙なようです。
なにしろ、弟には武勇に優れる河内源氏の義信や大和源氏の頼親がおりました。
頼光は国司として地方へ赴任もしておりますが、基本的には名ばかりのものが多く、ほとんどはそのまま京都にいたようです。また、彼自身が出張らないといけないような戦もなく、もっぱら摂関藤原道長の腹心として、お家の繁栄に努めたというのが実像みたいですね。
中級貴族というイメージよ。
各所に贈り物をしたりして、官職を得ているなんて記述も残っております。

…と、そんな具合で比較的順当に出世街道を進み、最終的には昇殿を許されるまでに出世してます。
なかなかやりますね。
当時権勢をふるう道長の傍らにあり、「朝家の守護」なーんて呼ばれていました。

どうですか、英雄譚ばかり聞いてた人はなんだかがっかりしたでしょ?
しかし、考えようによっては、鎮守府将軍として遠方に赴く弟らのバックアップを自らの地位(あるいは源家)を上げることによっておこなっていたとも考えられます。(←ひでる案)
ほら、有能な総大将っていうのは、自身はひっそりと目立たずに配下の者たちを華々しく活躍させ、有事の際にひょっこり現われて解決していくみたいなのが理想なんですよ。
戦国時代の「島津義久」みたいな。
実際はどうであったか分かりませんが、そんな風に思いました。考えすぎかな。

そんな彼がなにゆえ源・ゴーストバスターズの頭目とされたのか??
次回「虚像の頼光さま」をご期待下さい。



[関連記事]
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?

[住所] 羅城門跡 南区唐橋羅城門町花園児童 公園内

   ※今回写真は鬼と対決した「羅城門跡」です。今はこんなんなっちゃった。

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※うふふ…「手天童子」です。
 「マジンガーZ」と「デビルマン」しか知らないアナタにおすすめ!

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みうらじゅん・いとうせいこうのTV見仏記5 (DVD・CM)

2006年06月29日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はお寺さんぽニストひでるさんのオススメDVD第五弾です。


みうらじゅん・いとうせいこうのTV見仏記 5

ジェネオン エンタテインメント

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過去に各シリーズを紹介してきておりますので、今回は五巻目ですね。
この第五巻では琵琶湖の東から北、そして南河内をぐるりとまわります。

シリーズとなり、演出から編集まで安定して次々見やすくなってきた見仏記。
お二人も作品内で言っておられますが、TVの力というものを毎度ながらまざまざと見せ付けられます。

仏像になんとなく興味あるけど、どこに行けばいいのかわからない。

…そんな感じでもやもやっとしている人の場合は、無理にいきなりお寺を回ろうとはせずに、こんな映像で楽しむのもいいんじゃないでしょうか?

ちょっとしたユーモアを交えながら、簡単に仏像の見かた、楽しみ方を教えてくれます。
(※誰かのをお手本に、後々自分自身のそれを模索するのがいいんじゃないでしょうか?)

当ブログでも何度か触れていますが、せっかく現地まで行っても出張してたりとか、修復とか、果ては特別拝観でふられたりすることも非常に多いので。
…それに観光寺でないと見れない、入れない所も多いですしね。
うふふ…。

さて、今回DVDのオススメは「見返り不動」「千手千足観音」です。
見返りシリーズの不動さまは置いといて、千手なうえに千足ですよ!?
どんなんか見たいでしょ??
画面ごしでしたが、開いた口がなかなか塞がらないようなトンデモな一品でした。
いやー仏像世界も実に広いですね。


登場寺/宗泉寺・常楽寺、神照寺、西野薬師堂、正妙寺、金剛寺・野中寺、道明寺


[関連記事]
⇒ TV見仏記  京都編
⇒ TV見仏記2 滋賀/奈良編
⇒ TV見仏記3 南山城・宇治・伏見編
⇒ TV見仏記4 西山/高槻編
⇒ 秘仏開帳~特別拝観の古寺・名刹をゆく~


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千二百羅漢像 (京都・愛宕念仏寺)

2006年06月28日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は嵯峨野めぐりの始発点、愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)、もはやそのメインと言っても過言でない、「千二百羅漢像」です。


なんちゃら羅漢、ってーのはあちこちにありますが、羅漢さまが千二百もあるのはここだけでないでしょうか?
よく知らんですけど。(←なら書くな)

たいていの場合は各書物による、”釈迦には五百名の比丘衆が行動を共にしていた”…という記述によって、五百羅漢としているようです。
(※あるいは釈迦入滅後の集合において、五百名の弟子が来たことに由来するなど、諸説あり)
適当に五百くらいかなーって決めた訳ではないんですね。

ちなみにインドには五百羅漢はなく、造られたのは中国に至ってからのようです。日本では禅宗系で多く、鎌倉時代以降が多いそうですよ。

さて、愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)には鎌倉期に造られた仁王を左右に安置した仁王門(※門自体は江戸時代)があったんですが、これが昭和二十五年(1950)の台風で破損。
三十年ほど過ぎた昭和五十六年(1981)になってようやく修復されるんですね。
その際に誰が言ったか、

境内を羅漢の石像で充満させたい

……それから十年。
その願いは見事成就し、いつしか五百をゆうに超える、”千二百体もの羅漢がひしめく”凄まじいお寺となったのでした。
めでたし、めでたし。
うふふふ…。

ちなみに、この羅漢様は一般の参拝者の方々が自らの手で彫ったものだそうです。
そのため非常に表情豊かで、同じようなもののない、楽しくもやや異様な石仏群となっています。
もう、そりゃお寺のあちこち、いたる所におられますよ。スゲェです。
ずらーっとならんだサミットのような風情は、まぁ昼間ならいいですが、夜はちょっと不気味ちっくかもしれません。
泣きそう。

ちなみに、ひでるさんは蟻とかアブラムシとか、集団がごそごそ蠢くようなものが苦手です。
ぞわわわわっーとするでしょ。
石仏なんで動きはしません(←あたりめーだよ)が、そんなん思い出しました。



[住所] 愛宕念仏寺 京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5

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※全然関係ないですが、「たまる」繋がりで。
 ちょっと楽しそうなものみつけましたんでご紹介。いいなぁ。

マイパーソナルATM 将軍家御金蔵

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愛宕念仏寺 (京都)

2006年06月27日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都右京区の愛宕念仏寺(おたぎねんぶつじ)です。


このお寺は石像の「千二百羅漢像」で有名なので、聞いたことがあるのではないでしょうか?
これについては実に楽しいので、別ネタにします。明日ね。
期待していた方、ごめんなさい。(いないか)


さて、この「愛宕念仏寺」の歴史は非常に古く、天平宝字(てんぴょうほうじ)八年(764)~宝亀元年(770)あたり。
時代としては奈良末期から平安初期という頃に「稱徳(しょうとく)天皇」により開山しました。

ちなみに稱徳天皇というのは史上六人目の女性天皇です。聖武天皇の娘さんです。
早々に皇位につくことを決定されていたために結婚はできず、また当然ながら子供もおりませんでした。ち
なみに、いまでこそやや落ち着きましたが、女性天皇・女系天皇の違いというのはこんなんなんですね。女性天皇ってのは、歴史上やむない場合に何名か即位しているんですが、父方の血筋だけはしっかり守っているんですね。
だからこの方も結婚していません。
別に女性差別ではないんですよ。そこを間違えないように。

さて、余談が長くなってしまいましたが、当初は山城国愛宕郡に「愛宕寺」として建立されました。
平安期頃は真言宗「教王護国寺」こと東寺に属していましたが、洪水による鴨川の氾濫でざぶんと流されてしまうのです。

…ああ、お寺がすっかりなくなってしまいました。
それからほったらかしにされること、少なく見積もっても約百年ほど。

天台宗の僧、千観(せんかん)は、なぜだかその復興を命じられるのです。
命じたのって誰?
なんで百年もたった今更そんな過去のこと蒸し返すんでしょう?

千観の年齢から想像するところ、十一年間続くこととなる天暦元年(947)にちょうど彼三十五歳なので、その年代の天皇様がいかにも命じそうですよね。
調べてみると、村上天皇でした。
命じた理由は…まっったくわかりませーん。

ともかく、誰かしらのパックアップを受けた千観は「愛宕寺」を七堂伽藍の大寺院として復興させました。
しかも、単に復興させただけではないんですよ。
当時の千観さんは天台宗でしたから、どさくさにまぎれに、ちゃっかり比叡山延暦寺の末寺、「等覚山愛宕院」としてしまうのです。
さすがに抜け目ないですね(笑)

この千観さん、実は中納言「橘頼顕」の子でした。言うなれば当時のセレブです。
信仰の厚かった千観さんご両親は、子を授かるようにと毎日清水寺までお参りをしていました。そんなある日、観音さまから蓮華の華をいただく夢を見ると、観音様のおかげか見事懐妊。
喜んだ両親は子に「千手観音」から名を拝借して「千観」と名づけたそうです。
へー…夢に出てきた観音様は千手さんだったんでしょうかね?
ちなみに、愛宕念仏寺の本尊も千観自ら彫った「千手観音」なのでした。


成長して十二歳となっていた千観さんは早々に比叡山で修行をし、御所へ出入りできるという内供(ないぐ)職にまでのぼりつめております。
また、この方は常に念仏を唱え続けて絶えることがなかったので、「念仏上人」とも言われています。
巨人軍の桑田投手のような感じですかね。

ちなみに、愛宕念仏寺に残る重文「千観内供像」も若干口を開いた、念仏を唱えているようなお姿になっています。…ものすごく微妙な表情(笑)をしているので、ぜひ見てみて下さい。(※パンフにものってます)


と、前置きがずいぶん長くなりましたが、そんな千観さんの関係から「愛宕念仏寺」と称するようになったのでしたー。



[住所] 愛宕念仏寺 京都市右京区嵯峨鳥居本深谷町2-5


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※仏像に会うなら、こんなんが一番オススメです。

イラストガイド 京都・奈良のお寺で仏像に会いましょう

メイツ出版

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武家の名門「清和源氏」とは? (歴史さんぽ)

2006年06月26日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
今回はいたるところでよく聞くであろう(そうか?)この単語。
「清和源氏(せいわげんじ)」についてです。
戦国史を読む方ならば、おそらく一度は耳にしたことがあるでしょう。
あー…たぶん源氏家系となんか関係あるんでしょ、というとこは想像できますが、一体なんなんでしょう?

…と言うことで「清和源氏」についてざらりと。


さて、武門の棟梁とされる源家の系図をずっとたどって行くと、「清和天皇」という方にぶつかります。
そんな訳で「清和源氏」というんですね。
ちゃんちゃん。
…と、これだと二行で終わってしまうので補足やらなにやらを。

第五十六代天皇には「清和天皇」という方がおりました。
今の天皇家も世継問題で苦労しておられますが、奈良期でも同様の問題を抱えてウンザリしていた当時の皇家では、「それならいっぱい生んでしまえ!」という実にまんまな解決方法を採用しました。

そんな訳で、多くの子をもった清和天皇。
当然ながら後継者となれなかった皇子らが多数おり、第六皇子貞純親王(さだずみしんのう)もその一人でした。

その貞純親王の子に「源経基(みなもとのつねもと)」という人がおりまして、この人の代にて源姓を賜り、家臣となるのでした。
清和源氏の初代です。
「六孫王」なんて名乗ってブイブイ言わせていたこの経基さま。
調停に赴いた「平将門」を謀反と勘違いして密告し、牢へ入れられたり、瀬戸内海で暴れていた「藤原純友」討伐を命じられた時も、遅れてさしたる手柄を立てることなく終わったりと、武士になりきれぬまま生涯を終わったようです。
余談ですが、臣籍に下りることについて大変嫌がったそうですよ。
やじゃ!いやじゃ!!家来なんていやじゃあああああぁぁぁぁぁ……」(※イメージ文章)

そんな経基も最終的には北の脅威に立ち向かう最高職「鎮守府将軍(ちんじゅふしょうぐん)」に任ぜられています。
名乗りといい、役職といい、名前だけはいっちょまえですね(笑)

さて、そんな経基の子が「源満仲(多田満仲)」です。
多田満仲、これで通常は「ただのみつなか」なんですが、別に「ただのまんじゅう」とも言うそうです。
無料饅頭ですよ。デパ地下で試食されてしまいそうですよ。

冗談はおいといて、この方が清和源氏の二代目です。
彼の代から武士団を形成するようになったようで、武士としてはイマイチ頼りない父の手足となって動いていたようです。二度国司(※)となった関係から、摂津国に土着。その勢力基盤を築きました。
やはり最終的には鎮守府将軍となっています。

平安時代の英雄、摂津源氏「源頼光」、武勇人と恐れられた大和源氏「源頼親」、東国へ進出した河内源氏「源頼信」など、後々に多大な影響を与える源家三名の父で、殺生に明け暮れたためか晩年は出家して僧となったようです。


(※)国司(こくし)
   各地(国)の行政官として、中央から派遣される者の役職名。
   祭祀・行政・司法・軍事のすべてを司る、国での最高権力者です。
   ちなみに満仲の「摂津」は昔の大阪です。

   ※それっぽい写真がまったくなかったので、写真は広隆寺「金剛力士像」
[住所] 広隆寺 右京区太秦蜂ヶ岡町32 
   

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※こんな本はどうでしょう?
 …なんかえらい金額なんですけど…………。

いくさ物語と源氏将軍

三弥井書店

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修験道の開祖 「役小角」 (3)流刑されちゃった小角くん

2006年06月25日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も修験道の開祖として有名な「役小角(えんのおづぬ)」です。
嘘も真実もごちゃまぜにして、とにかく怪しい人なんですが、間違いのないことは当時は絶大な人気を誇っており、後の山岳修行者(山伏ですよ)らに多大な影響を与えたことでしょう。
そんな役小角の最終回です。


孔雀明王法を用いて次々に奇跡を起こす山岳仙人の小角。
助けられた、あるいは噂を聞きつけた彼を慕う人々が続々と集まり、いつしか一大宗教団体へと発展しつつありました。

小角はそんな慕う人たちと暮らすべく、道を開き土木工事をし、金銀などの資源を採掘するなどして生活をしていました。
やがて、その中には朝廷に追われた罪人なども混じるようになり、次第に勢力を増す彼らは朝廷にとって無視できぬ存在となっていくのです。

残る話によると、弟子の一人「韓国連広足(からくにのむじろひろたり)」という、没落しかけた物部氏(※いわゆる排仏派だったので没落してたのです)出身の優れた若者がおり、いつになっても呪法を授けてくれない小角を逆恨みし、ひそかに朝廷へと訴え出たそうです。

役小角は呪術によって人を惑わし、さらに朝廷に対しては謀反の志さえ持っています…

 …それが真実かどうかはまた置いといて、
 1) 役小角は様々な奉仕活動を通じて民衆の支持を集めていた。
 2) 葛木山に住む役小角を中心として、宗教勢力のように発展していた。
 3) 勢力を維持・発展させるため、役小角は山中にて社会を形成しようとしていた。
 4) 小角の協力者には罪人が混じっていた。 
 5) 妬んだ誰かが小角の行状を不利になるよう訴えた。
 6) 朝廷は勢力を増す小角に恐怖感を覚えていた。

…と、そんな感じだったのではないでしょうか。 
訴えを聞き入れた朝廷は軍を向けますが、どうやら地理に精通した役小角勢に一度は撃退されたようです。
まぁ、山城を攻めるようなもんですからね。そこそこの軍隊では敵わないでしょう。
いいように翻弄され、ますます捨てて置けなくなった朝廷側は小角の母親を人質に取り、ついには彼を捕らえることに成功するのです。 

文武三年(699)
”呪術によって人を妖惑する”という理由で、役小角は伊豆の地へ流刑となりました。当時六十五歳。

初めて年号↑をつけれました。
これは「続日本紀」という全四十巻もある奈良時代の基本史料にちゃんと記述があります。
続日本紀というのは、事件の要点のみ書かれた歴史書でして、若干の政治的配慮などもあるようですがかなり信憑性の高い史書だそうです。
とりあえず「役小角」というややこしい人は実際にいたんですね。

その後赦されて戻った小角は三から五年後に死去しています。

流刑地の伊豆大島では、暴風雨で荒れる海を呪法によって鎮めたとか、夜に富士山ほか関東・東北の各地を飛行して訪ねて修行道場を開いたとか、岩石を空中乱舞させたとか、鬼神を使役したとか、様々な伝説を生んでいます。

日本古来の霊峰に密教をミックスしたような「修験道」はそうした小角の伝説と共に、全国へ広まっていくのです。
まぁ単純に考えて、これは残った弟子たちが各地に行ってその教えを広めた結果なのてしょう。

あ、ちなみに「蔵王権現」という仏様はこの役小角オリジナルな仏様でして、釈迦・千手・弥勒の各如来、菩薩の徳を全て兼ね備えたという、パーフェクト仏なんですね。
大和吉野金峯山本堂には八メートルを越す巨像があるとか…。



[住所] 醍醐寺 京都市伏見区醍醐東大路町22

   ※写真は「醍醐寺」の行者さん。お酒がなんともイイ感じです。


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※タイトルが気に入ったのでこちら↓を紹介。
 「はじめての」…って(笑)
 あ、ちなみに本の表紙が噂の仏像「蔵王権現」さまです。あのぶったたくぞーというポーズが特徴。

はじめての修験道

春秋社

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修験道の開祖 「役小角」 (2)神通力と小角くん

2006年06月24日 | 仏像
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本日も修験道の開祖として有名な「役小角(えんのおづぬ)」です。
両脇に鬼を従え、やせ細ったわりに目だけ爛々としている小角の姿はどことなく悪の親玉のようにも見えますが、実際はどんな人だったんでしょう?
という訳で第二回。


正式な名前を「賀茂役君小角(かものえだちのきみおづぬ)」という小角は神事を司るシャーマンの家柄に生まれ、成長してから儒教、神道、仏教などを学習しました。
周囲にも大いに期待されていてた聡明な小角ですが、次第に学問の限界を感じるようになっていました。
十七歳になった小角は悩みに悩んだ末、ついに山へと入ります。
山岳修行です。

当時(奈良・平安頃)の山なんてそりゃー天然・自然そのものですから、そこでの生活は大変な危険を伴うのです。この山岳修行ってのがいつから、誰によって広められたかは定かでないんですが、小角の時代にはもう何名かの修行者が山へ入っていたようです。
昔は山に神様がいると信じられていましたよね。それに世俗から離れて、心静かに瞑想するには、山という場所がうってつけだったんでしょう。おそらく。

山に入って自然と共に生活をする小角。
あるとき、厳しい修行を続ける小角の姿を偶然にも元興寺の高僧が発見しました。
自らの後継者を求めていたその高僧は、厳しい山岳修行に励む彼を認め、「孔雀明王経法」の秘法を伝授しました。
それから葛木山に篭ること三十年、遂に「孔雀明王経法」を習得し、小角は不思議な術を悟ったのです。
さぁ、ちょっと胡散臭く(笑)なってきました。

小角は習得した神通力を惜しみなく発揮、日照りの夏には雨を降らしたり、逆に止めたりと多くの人々を救いました。そんな彼を慕う人々が自然と周辺に集まり、また葛木山からその一帯で修行する僧たちも伝え聞いた小角に関心し、師と敬うようになるのです。

おそらく、なんらかの奉仕活動・社会活動を通じて「大したお方じゃー」と評価されたものが、次第に尾ひれをつけて広まったというのが真相ではないでしょうか?
彼は若い時分にしっかりと学問を習得していたというのがひとつ。さらに、山へ入ることで自然について実体験しておりますんで、豊富な知識と経験がなにかと人の役に立っていたのでしょう。

…ほら、天候を言い当てるとか(※天気を予測する事柄が色々ありますよね?)、様々な深い知識を持った人というのはそれだけで特別な存在に見えるでしょう。見ようによっては、それすら「呪術」に感じられたのではないでしょうか?

こうして、小角はいつしか本人も知らぬうちに、山岳宗教団体を形成していたのでした。
次回につづきます。



[住所] 秋篠寺 奈良市秋篠町757

   ※写真は「秋篠寺」の行者さんです。石仏でちょっと珍しげ。


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※おおっと、こんな本↓を見つけました。
 こんな見事なラインナップです。スゲェ!!
 司馬 遼太郎、藤巻 一保、坪内 逍遙、永井 豪、六道 慧、黒岩 重吾、志村 有弘、夢枕 獏

七人の役小角

桜桃書房

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修験道の開祖 「役小角」 (1)才気煥発・小角くん

2006年06月23日 | 仏像
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本日は修験道の開祖として有名な「役小角(えんのおづぬ)」です。
小角くんと言えば木像、石像、アフリカ象などなど(※最後はうそ)京都・奈良のあちこちで見かけることができ、その人気の高さが伺えます。
でもね、この人が何者なのか、あんまり知られてないんですよ。
実際はどんな人だったんでしょうね?


通称の役行者(えんのぎょうじゃ)という名の方が有名でしょうか。
この人、飛鳥・奈良時代の実在人物には違いないんですが、なんと生没年からやっていたことまでのほとんどが不確かで、信頼できる資料もさほどありません。
後に書かれた書物にもなると、顎が外れてしまいそうなツッコミ所満載な話となってしまうのです。
あれですよ、聖徳太子とおんなじ。
彼にしたって複数人数の言っていることを理解したなんて有名話も嘘ですから。(※実は実在しなかった?との説もある)


さて、大和の葛城地方にはそこに大きく根を張った一族「賀茂氏」がおりました。賀茂氏は葛木山の神事を司る家柄で、さらに小角の家は予言や神託を預かる役(えだち)を担っていたのです。
呪術師とかの類ですね。シャーマンですよ。
ちなみに、正式な名前は「賀茂役君小角(かものえだちのきみおづぬ)」というそうです。…舌かみそう。

若き頃より、才気煥発な小角は三歳にして字を覚え、五歳頃にはなんと泥をこねて仏像を作っていたそうです。
マニアックなガキんちょですね。将来が心配です。(←と、いうか単なるお人形遊びでは?)
さらに、当時から誰に教わるでもなく梵字を書き、周囲を驚かせていたそうです。

これらが本当かどうかは置いといて、実際に今でも”天才ちびっ子”とか言ってやたら記憶のいい子とかがいるではないですか。彼らと大差ないと思うんですよね。
子供ってーのは結構したたかなもんで、周囲の大人のいい反応をしっかりと見ていて、それを純粋に記憶して、繰り返すんだけなんですよ。
どんな意味合いがあるとかなんとか一切知らぬままに。
…まぁ、小角もそんなもんだったんでしょう。
これをして”特別に優れていた”と考えるのは間違っていると思います。

八歳に成長した小角は奈良に入って儒教などを学びます。おそらく、当時大流行していた仏教についても見聞きする機会があったでしょう。
「一を聞いて十を知る」
なーんて状態だった小角は様々な学問を学び、また自宅では不動明王の真言を唱えるという、多忙な毎日だったそうです。
元々の優れた神道の素地に学問と仏教が加わったんですね。

そんな小角くん、多くの先人たちがそうであったように、頭ではある悩みが沸き起こっていたのでした。
さて、悩みとはいったいなんなんでしょう?
とりあえずはまた次回に。



[住所] 誠心院 京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487

   ※写真は「誠心院」の行者さん。

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※天才!と言えばひでるさん的には上杉謙信です。…戦のですけど。
 んでこちら↓
 タイトルだけ見るとバカバカしく見えますが、実際少々疑わしい点もあるんですよ。 

上杉謙信は女だった

作品社

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続・ひやしあめ (柴又・題経寺周辺)

2006年06月22日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
今回「題経寺」とかサブタイトルに書いてありますが、実はお寺の話題でなくその周辺の一発ネタです。


過去にこのブログで書いて話題沸騰(大嘘)だった「ひやしあめ
その時に、
 ・
 ・
調べたところによると、「生姜湯」という粉末買ってきて、お湯で溶かして冷せばできるそうです。
面倒な方は京都の各所にありますので、夏に行ったらぜひお試しあれ。
 ・
 ・
…なーんて書きましたが、わざわざ京都まで行かなくても「ひやしあめ」ありましたよ!
↓記事はちょっと下です。

ちなみに、こないだ行きました日光(↓それ)にもありました。
この感じですと、案外どこでも飲めるシロモノのようですね。



 ▲華厳の滝・名物だって。 …ちなみにこの日は気温五度(本当)さむさむ。


ちなみに前回紹介した時は冬でしたが、もうムシ暑くなってきました。
…そろそろためしてみるのもいいんではないでしょうか?
うふふ…。

さて、このひやしあめですが、「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又…」の柴又帝釈天への道であっさり見つけました。
なんというか今流行りのレトロショップみたいなところがあるんですが、そこでラムネなど一緒に売ってます。
とりあえず東京近郊にお住まいの方は、わざわざ京都まで行く必要も、自分でつくる必要もありませんでした。

ちょっと貴重(そうでもない)なんで、瓶を持って帰ってきました! (※写真参照)
ひでるさん宅の電子レンジの上にほかの瓶(←ほかの瓶!?)と共に飾られております。
こうして、今後もまず間違いなく値は上がることのない、まるで役にたたないオブジェが一つ増えました。
だって、なんだか捨てがたいんだもの。
(↑そうか?)

でね、今回は落ち着いて飲めたので、その感想をば。
目指せ、グルメレポーター!

意外にさらっとした飲み心地です。
あめ、の甘さが喉を通り過ぎると、生姜の風味が口にふんわり残ります。
柴又へ行った当日はだいぶ日がでていましたので、冷たくておいしいかったです。
ただ、「ひやし」の冠がついているとおり、ぬるいと冷めたマックポテトのようにまずいのではないか、とも思いましたよー。

【おすすめ★メーター】
■■■□□ 3Point ※キライな人は絶対嫌だと思う。

めでたし、めでたしってことで今日はおしまい。



[関連記事]
⇒ そうめん 仁和寺(京都)
⇒ ひやしあめ (神護寺・売店)
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※微妙に「ひやしあめ」は掲載されてないっぽいですが…。
 アマゾンでコメントされた方には「見るだけで癒されました!」とか書いてました。
 そんなにいいんでしょうか?

ヒーリングドリンク―心と体においしくヒーリング効果の高い飲み物

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人生を変えた一言 (歴史さんぽ)

2006年06月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「言葉には気をつけようね!」を歴史から学ぶべく、有名なエピソードを用意してみました。
有名なエピソードなんで知っている人も多いかとは思いますが、そんな人はさっと流していただいて。
知らなかった人は「ほへー」という具合に歴史の事実をお確かめ下さいませ。


「御運が開かれる時がきました、上手になさいませ」


…当ブログでも何度か触れました本能寺の変。

→関連・その1 歴史を動かした手紙
→関連・その2 本能寺跡地

信長を討った明智光秀が周辺の大名を味方に取り込むべく出した密使の一人。
それは中国地方の雄、毛利氏への手紙でした。
しかし、夜陰に迷った密使は陣を誤まり、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の陣へ届けてしまうのです。

真っ先にこの報告を聞いたのは、当時秀吉の軍師(※)・参謀的な存在であった「黒田官兵衛孝高」でした。
悲報に接した官兵衛は事の真相を確認すると伝令を斬り捨て、秀吉のもとに訪れて子細の報告をしました。


圧倒的な迫力で常に上位にいた主君「織田信長」
若いころより身近に接してきた秀吉にとってはショッキングな事件でしたが、同時に解放感があった筈です。
なにしろ、信長は年をとってから前にも増して仕えづらい主君となっており、家臣は常に戦々恐々としておりました。
当然、それは付き合いの長い秀吉にしても同じことで、勘気をこうむった際には果たしてどんな運命が待ち受けているかわかりません。なにしろ、積み上げた過去の実績も忠誠心もまるで関係なく放逐されてしまうのですから…。また、逆に反抗でもしようものなら、当人は無論のこと、一族全てに陰惨な末路が待っています。
それを何度も目の当たりにしているのです。

そのため、あるいは悲しみよりも安堵感の方が強かったかもしれません。


さて、信長横死の報告を受けた秀吉はしばし呆然としていたそうです。
そこにすすす、と進み出た孝高がにっこり笑って一言。
御運が開かれる時がきました、上手になさいませ
冒頭の台詞です。
これを言ってしまうんです。


黒田家の祖、黒田孝高は若いころより才気煥発で、本人もそれを大いに自負していたようです。あまりに頭の回転が早すぎるから、自信を持っているから、ふとしたタイミングでこうした失敗をしているんですね。

あの場面は実際の心情がどうであれ、主君の死を悼むべき状況です。
敵討ちをした者が後に権力を握る。それは当然なことなんですが、人から指摘されるべきことではありません。

ちょっとした安堵と、今後の不安。ふと芽生えた野心。

それを不意に、自らの考えがまだそこへ行き着く前に言われてしまうのは、まるで心を覗かれてしまったような恐怖を覚える筈です。


秀吉は孝高の指摘に落ち着きを取り戻し、笑みを返したそうですが、同時に彼に対して警戒心を持つようになります。
天下統一の後に孝高へ与えられた恩賞はごくわずかなものでした。

毛利元就の三男で知恵者と評判が高い「小早川隆景」は彼にこんなことを言っています。
「あなたは頭の回転が早すぎるから、余計なことを言ってしまったり、失敗したりするのだ」

ひでるさんもふと余計なこと言っては後悔するんですが、皆様も気をつけましょう。
…あ、歴史に学ぶべきは私ですね。



(※)軍師[ぐんし]
 政治や軍事などに通じた専門家であり、相談役。

 ちなみに今回の写真は豊臣秀吉の木像です。


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※「剛」の元春、「智」の隆景
 毛利家両川の一人、小早川隆景さまです。いいよねー、この方。
 ちなみに、黒田孝高と小早川隆景は有名な「金吾中納言・秀秋」の一件で知恵対決することとなるのでした。

小早川隆景のすべて

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法金剛院 (京都)

2006年06月20日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はJR嵯峨野線の花園駅前と大変行きやすい、おすすめなお寺「法金剛院」です。
付近には妙心寺や太秦映画村もあるので、よかったら訪ねてみて下さい。


さて、京都にいた時のひでるさんは嵐山方面へ行く際、自転車でここの前を何度も通り過ぎています。
まぁ、実際入ったのは一度だけなんですが、そんな訳で親しみぶかいお寺なんです。
規模はそこそこながら重文の仏像がごそりとおられ、仏像好きな方もきっと満足できる素敵なお寺です。
是非どうぞ。

そんな「法金剛院」、ここは「京都十三仏第十番霊場」にして「関西花の寺第十三番霊場」だそうです。

前者はともかく、後者はいかにも観光地っぽいですよね。二つ折りパンフレットでもわざわざ1ページを使っているという力の入れようでした。
↓こんなんです。

■花見ごろ (※パンフより)
・蓮     7月初め~8月上旬 
・枝垂桜  4月上旬~中旬
・花菖蒲  6月上旬~中旬
・菩提樹  6月上旬~中旬
・あじさい  6月中旬~7月上旬
・紅葉   11月中旬~下旬

お好きな方はぜひ参考にして下さい。ひでるさんはこちらに関してはどーでもいいんですが。
ちなみに、寺ではおなじみの「蓮」はこちらメインでして、別名が「蓮の寺」とも呼ばれ、庭には世界中の蓮の花が集まっているそうです。
ほへー。
そういえば鉢がいっぱいあったような記憶があります。…あまり覚えてないですが。


法金剛院の起源は古く、平安時代のこと。
当時の貴族にして従二位右大臣「清原夏野(きよはらなつの)」という方がこちらに山荘を建てておりました。彼の死後には「双丘寺(ならびがおかでら)」というお寺になります。
誰かのアイデアなんでしょうか、そのあたりの頃から、珍花奇花を植えるちょっとした景勝地となっていたようです。なにしろ、それ見たさに天皇ら皇族がわらわらと訪ねてきた、ということなので、よほど凄かったんでしょう。

大治五年(1130)
時代は平安時代の末期です。
天皇家に支持され、天安二年(858)の頃には大伽藍と共に「天安寺」と呼ばれて勢力をもっておりましたが、二百年という間に何があったのか、すっかり荒廃。
大治五年になり、鳥羽天皇の中宮(※)「待賢門院(たいけんもんいん)」によってめでたく再建となりました。

この待賢門院さん。
崇徳天皇、後白河天皇の母なんですが、大そうな美貌で知られていたそうです。
七歳で実父を失い、白河院(白河天皇)に養われるんですが……この二人怪しい、というか”そのものの関係”であったらしく、子の「崇徳天皇」はどうやらその二人の子であるようです。
うっはー!
昼ドラマだか漫画だかの世界ですよ!世界不思議発見って感じです!!

その後当事者の一人「白河院」が崩御すると、後ろ盾を失った待賢門院は没落。この「法金剛院」にて晩年を静かに過ごしたそうです。

当時の歌人である西行(さいぎょう)は彼女のファンでして、身分違いながらもいくつか歌を残しています。
会ってみたいですねー、待賢門院さま。

さて、話を戻しまして、彼女に再建された際に名を「法金剛院」と改めました。
中央に池を掘り、東西南の各所に御堂や寝殿を建立、「青女の滝」を造った庭は極楽浄土を模したという、物凄い庭園だったようです。
この青女の滝は今も特別名勝としてそのまま残っておりますんで、見てみて下さい。
(※余談ですが、ひでるさん行った時は滝ながれていませんでした。るるる…なんでじゃー[写真参照])

しかし、復興もつかの間、震災や応仁の乱(←でたー)など、度重なる人災・災害で規模はすっかり縮小、荒廃。
元和三年(1617)になってようやく再建されますが、この時には壮観だった当時の面影はすっかり失われていたようです。

鎌倉時代の重文「十一面観世音菩薩」は珍しく坐像で四臂という大変珍しいもので、大きさもあるので迫力満点でした。(※通常は立像で二臂)
なににせよ、こういった仏像が無事に残ったのは不幸中の幸いですね。



(※)中宮(ちゅうぐう)
 天皇の奥様。皇后、皇太后などの総称。


[住所] 法金剛院 京都市右京区花園扇野町49

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※仏像で迫力あるって言えば「千手」かこの「十一面」ですよね!
 やっぱり大きい仏像はどきどきしますよ。

十一面観音紀行

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浄土宗:7億円が使途不明  (お寺さんぽニュース)

2006年06月19日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は月曜恒例…というか、最近ネタがうまいこと一週間でたまるので定期的になっているこの企画を。

気になる情報をピックアップ!ネタがたまりしだいお届けするのんびり企画。
こんにちは「お寺さんぽニュース」の時間です。


一応、お寺とか仏像とか宗教・歴史の話題だけ取り扱おうというこの「お寺さんぽニュース」
前回に引き続き、お寺での不祥事が発覚してしまいました。
とりあえずこちらからどうぞ↓


●浄土宗:宗務庁で7億円が使途不明 職員が先物取引に?  [毎日新聞] 2006年6月16日

 国内有数の伝統仏教教団、浄土宗(総本山・知恩院、京都市東山区)の宗務庁で、約7億円が使途不明になっていることが分かった。同庁財務局の男性職員が約9年間もの長期にわたって商品先物取引につぎ込んだとみられ、教団は8日、京都府警に被害を届けた。職員は教団に対して、使い込みを認めているという。教団幹部は「事実関係が判明次第、一刻も早く詳細を発表したい」としている。

 関係者によると、この職員は96年に財務局に配属された。翌年から教団の金を使って無断で商品先物取引を始め、その後頻繁に繰り返すようになって、昨年7月時点で使い込んだ金額が約7億円に膨らんだという。
 最近になって、6月末の決算に向けて教団の財政状況などを調べているうちに、多額の使途不明金の存在が判明した。この職員が所属する財務局は教団の会計などを担当。虚偽の決算書が作成され続けていたことになり、虚偽作成にこの職員が関与していた可能性があるという。
 職員が使い込みを認めたため、教団は今月初めから出勤停止にした。現在は自宅待機中で、教団は今後、厳しく処分することにしている。

 教団の一般会計は年間約18億円で、総予算は年間約85億円。7億円もの使途不明金が明らかになったケースは過去になかったという。
 浄土宗は、法然(1133~1212年)が開祖。末寺は約7000あり、檀信徒は600万人といわれる。ある幹部は「隠す意図は全くないが、檀信徒に何とおわびすればよいか。あまりのことに、(教団として)どう責任を取っていいのか、分からない」と話している。
 【鶴谷真】
---------------------------------- 。。。

まぁ、とりあえず信者の方々、協力して頂いている方々へお詫びしといて下さい。期待を裏切ったんですから。
わかんないとか言わずに。
しかし、やっぱり天下の浄土宗、金額なんと「七億円」ですよ!
会計の方がこうして少しづつ抜いていくというのはニュースでちらほら見かけますが、企業だけでなくお寺でも同じですね。
財務とか経理ってーのはやっぱり技術職なんで、ばっちりやれる方が(※ばっちりやっているように見える)いるとなかなか他がタッチできないんですね。頻繁に人変えていたら手間かかって仕方ないですし。
「教団の一般会計は年間約18億円で、総予算は年間約85億円」
…だって。
うわ、これ多いのか少ないのか微妙。
法然さまもがっかりですよ。




●京都・大仙院のお茶「三福茶」

お寺さんぽニュースはこれを消化するためにやっているという、恒例の一発ネタです。
まあいいか。
あのね、今後記事で出す予定の「大仙院」ネタがあるんですが、掲載する写真を探していた時にこんな写真見つけました↓



「三福茶」っていうのは桜の塩漬けと結び昆布と お米などが入っているという、めでたい席に出てくる贅沢なお茶だそうです。
あの秀吉もコレを飲んで、いいことがあったそうです。
へー。
残念ながら、ひでるさんはこの看板見て笑っただけでした。
しかし、一杯につき効果は三回までなんですかね?
覚悟してください
…ってシメもなかなか恐ろしげで爆笑モノでした。
ホラー映画じゃないんだから(笑)



●映画:「ダ・ヴィンチ・コード」、エジプトが上映禁止 [毎日新聞] 2006年6月16日

 エジプトのホスニ文化相は15日までに、世界各地で公開中の米映画「ダ・ヴィンチ・コード」の国内での上映を禁止し、小説も店頭から回収する方針を明らかにした。
 人民議会でキリスト教の一派コプト教徒の議員が禁止を要求。イスラム教徒を含む多数の議員が同調し、文化相も「(ダ・ヴィンチ・コードは)キリストを侮辱しており、イスラム教への侮辱でもある」と述べた
 AP通信によると、中東ではキリスト教徒の多いレバノンが2年前に小説を発禁としたが、ペルシャ湾岸諸国では映画が上映されている。
 (カイロ共同)
---------------------------------- 。。。

上映禁止になっている国や地域などがあるようですね。
実際見たひでるさんとしては、んなぎゃーぎゃー騒ぐようなもんでもないでしょ、という考えでした。
ちょっと前までは。
でもね、この↑イスラム教徒も怒っているよーという記事見て、先のムハンマドさま風刺画事件を思い出したんです。
ひでるさん無信教ですから、キリストに子供がいたとしてもさしたる衝撃はありません。(同じ人間ですしね)
でも、それを信仰している人にとっては笑って済ませられる話ではないんです。この映画についても、大問題に発展した風刺画も同じこと。
はー人間っていうのは本当に難しいもんですね。
それにしてもイスラムの人はちょっと怒り過ぎだと思います。少しは相手を認める勇気も持って下さい。



[お寺さんぽニュース・過去記事]
⇒ 奈良にコンビニ寺院出現
⇒ 奈良で人気「大仏プリン」
⇒ 寺の裏山から古銭11万5000枚
⇒ 愛国心 通知表評価項目に
⇒ 短パンは反イスラム 過激勢力が警告


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※お茶つながりでこんな↓本を。いやー、日本茶って本当にいいもんですね。

日本茶の贅沢 知られざる味と効能

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美濃の蝮 「斎藤道三」 (4)道三、大名になる

2006年06月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も戦国三梟雄の一人、斎藤道三です。
第四回です。
やっぱり長くなってしまいましたが、これで最終回ですよん。


前回のあらすじ。
商人から武士へ転職した、人生ロールプレイングゲームの「斎藤道三」は、うまいことやって主君「土岐頼芸」を追い出し、ついには美濃国を治める大名となっておりました。
たはー、人生ってロールプレイングゲームなんですね。
そんなん。
おしまい。


斎藤道三―信長が畏れた戦国の梟雄

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道三は家督と稲葉山城を嫡男の義龍に譲り、自身は隠居して鷺山城へ移りました。
これは義龍が頼芸の子であるという風評を逆手にとった手段でした。
道三に仕えるのは耐え難いが、土岐家の血を引く義龍ならば問題ない、ということなのでしょう。
これには後になってから義龍を廃嫡し、子の孫四郎か喜平治に譲るつもりだったという話もあります。
ただ、噂はあるものの、義龍が実際に誰の子であったのかは当人以外誰も知らないのでした。

また、家督は譲ったものの道三は依然として国政からは手を引いてはおりませんでした。単に名目のことだけだったんですね。

国主となった道三は追放された土岐盛頼、土岐頼芸の要請を受けた越前朝倉、尾張織田との抗争に突入します。
特に尾張「織田信秀」とはいいライバル同士という感じで、土岐頼芸を保護した信秀は度々美濃へ出兵しています。
合戦では老練な道三に散々翻弄され、ほぼ敗北しているんですが、それでも若い信秀はめげることなく、不屈の闘志で凝りもせずに次々と攻撃を仕掛けてくるのです。そのしつこさには、さぞ道三も舌を巻いたことでしょう。

やがて両家は利害の一致もあり、可愛い娘「帰蝶」と織田家嫡男であります信長の婚姻を成立させ、和睦するのです。

この斎藤道三。
政治面では信長の政策として知られる「楽市楽座」をやった(らしい)人物として知られています。

市とか座というものは、いわゆる独占や不入などの特権を持った商工業団体なんですが、これを排除して自由な市場をつくろうね、という政策です。
これを信長が思いついたというより、道三が思いついたというほうが自然なんですよ。油商という座・市にばっちり支配されていた職業を経験していた道三だからこそ考え付くと思うんですね。ほら、秀吉の刀狩りと同じで。
たぶん、信長は発展していた美濃の城下町を見聞きして、それを取り入れて大々的に行っただけだと思うんです。

弘治元年(1555)
病気と称した義龍は弟の孫四郎・喜平治を呼び寄せ、これを謀殺。
我こそは土岐の血を引く者なり、いまこそ父の無念を晴らさん!
そう宣伝し、父道三に対して謀反を起こしました。

この時、道三は約六十歳。
彼の人生にてごく稀な、他人に欺かれるという屈辱を自らの息子によって味わうこととなるのです。

義龍の元には一万七千あまりの兵が集結したのに対し、道三の元に馳せ参じたのはわずか三千程度でした。
追い出した筈の「桔梗の旗」が目前に再び立ち並ぶ光景を道三はどんな思いで眺めていたんでしょう。
ここに、親子が対決するという「長良川合戦」が始まります。

道三方はよく防戦しますが、圧倒的な兵力差に押し切られ、無残に討ち取られてしまうのです。
舅道三のために援軍を率いていた娘婿の織田信長は途中で悲報に接し、やむなく引き返しています。

織田信長を高く評価していた道三はわざと駆けつける前に討たれた、なんて説もあったりします。
もし、それが本当だったなら…悲しいことですけどなんだかいいですね。


[関連記事]
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 松永久秀 (1) (2) (3) (4)
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度(歴史さんぽ)



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美濃の蝮 「斎藤道三」 (3)道三、武士になる

2006年06月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も戦国三梟雄の一人、斎藤道三です。第三回です。
やっぱり長くなってしまいましたが、さっそく行ってみましょう。


前回のあらすじ。
僧から商人へ転職した、”人生ロールプレイングゲーム”な「斎藤道三」は、うまいこと美濃国主の弟「土岐頼芸」に気に入られ、城の出入りができるようになりました。
ははー…まさに人生はロールプレイング、ドラクエですよ。
そんなん。


斎藤道三―兵は詭道なり (3)

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※ようやく道三っぽい絵柄になりました。いいイラストですね。


さて、取り立てられた道三は巧みに立ち回り、頼芸の信任を得ることに成功します。
頼芸はどちらかというと文化人的な色が強く、現存する「土岐の鷹」など、素晴らしい絵を描いていることで有名なんですね。
豊富な知識と教養、さらには面白おかしく聞かせる巧みな話術をもった道三ですから、遊び好きな若い主君の御機嫌を取るのは容易いことだったのでしょう。

すっかりお気に入りとなっていた道三は死去した重臣「西村正元」に後継ぎがいなかったため、その名跡を継ぎます。

大永五年(1525)
名を「西村勘九郎正利」と改めた道三は、正式に知行をもらい武士となりました。
この人、名を改める度に偉くなっていくという、おそろしく特殊なスキルを持った人なんですね。出世魚みたいに。
ちなみにその後、美貌で知られる頼芸の側室「深芳野」を貰い受けています。
この人が後に嫡男となる「義龍」を生むのですが、時期が合わないこともあって頼芸の子ではないか?という疑念が生まれることとなります。
(※ちなみにこれは当時からそう言われていました。道三としてはその噂を逆利用する心があったのか、さして反論などはしておりません)

さて、道三が目につけたのは現在当主の「土岐盛頼」です。
なにしろ、彼が健在であるうちは、主君土岐頼芸は血縁であるだけで、単なる配下の一人に過ぎないのです。

「どうやら盛頼さまは当主としての器量に欠けるので、家のためにも国のためにも聡明な殿が当主となるべきだったんです。これは皆のために仕方ないこと、決して反乱ではありません。そう、殿は黙認さえしてくれればそれでいい…」

そんなことを言ったか、言わなかったか。
事実はどうであれ、そんな悪魔の囁きは諦めていた美濃国主の座が転がり込んでくるかもしれない、実に魅力的な提案だったのです。

これにはもともと多少の不満があった頼芸(※兄弟不仲だったらしい)、さらには彼に仕える重臣たちの賛同も得て、道三は突如盛頼を急襲。
これを追い落とすことに成功しました。道三はとりあえずの博打に勝ちました。

この働きによって、頼芸は念願の当主となりました。
加増を受け、その地位をぐんと伸ばした道三に対して、当然ながら不信感と警戒心を抱くものが現われます。
その筆頭は召し抱えてくれた恩人、長井一族の長弘でした。こうなってしまうと、過去の恩人も単なる邪魔者に過ぎません。

享禄三年(1530)
反対派勢力が大きくなる前に先手を打つこととした道三は刺客を放ち、長井長弘の暗殺に成功します。
さらに自らその名跡をちゃっかり継ぎ、「長井新九郎規秀」と名を改めました。

これだけのいい思いをして、そのままという訳にはいきません。
一連の行動に対してついに不満を爆発させた長井一族は道三に報復攻撃を仕掛けます。驚いた道三は主君頼芸の居城、大桑城へ逃げ込みました。

さあ、ここが運命の分かれ目です。

ここで頼芸は逃げてきた道三を受け入れず、追い出すことができたのです。
明らかに危険な存在となった彼を始末してくれる連中は城外にわんさかいたのですから。
しかし、頼芸はこの有能な家臣を放逐することをしませんでした。
結局、頼芸に匿われた道三は常在寺の住職「日運」らの仲介で和解に至ります。
これによって、人生でも最大といえる危機を凌ぎました。

天文七年(1538)
子の無かった守護代斎藤氏の名跡を継ぎ、その名を「斎藤山城守秀竜」と名を改めます。
この頃に、居城を天嶮の要害「稲葉山城」(※今の岐阜城)としています。ちなみに、守護代斎藤氏は応仁の乱付近で大いに権勢を振るった家柄でした。
そして、守護代の地位を手に入れた道三も同様に、すっかり国政から遠ざかって酒色にふけっていた頼芸をよそに権勢を振るっていました。
もう道三を邪魔する者は誰もおりません。
唯一、主君である土岐頼芸を除いては……。

天文十一年(1542)
天文十に入道して名を「道三」と改めていた彼は、遂に大桑城の土岐頼芸を急襲してこれを追放すると、完全に美濃を手中におさめるのでした。

ふらりと美濃国に来てから、わずか二十年目のことでした。
ああ、やっちゃった。
こうして、道三はなんと僧侶・商人・武士を経て、美濃一国を支配する大名となったのです。


[関連記事]
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 松永久秀 (1) (2) (3) (4)
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 「両・分・朱」の貨幣制度(歴史さんぽ)



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美濃の蝮 「斎藤道三」 (2)道三、商人になる

2006年06月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も戦国三梟雄の一人、斎藤道三です。第二回です。
えっと、さっそく行ってみましょう。


前回のあらすじ。
武士の生まれだった「斎藤道三」は寺に入れられて僧となりますが、脂性の娘…じゃなくて油商の娘を射止め、商人「山崎屋庄五郎」となるのでした。
そんなん。
おしまい。


兵は詭道なり 斎藤道三〈2〉

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士農工商の身分制度が確立していない当時は、道三のように職をがらりと変えることに何の問題もありませんでした。官兵衛で知られる黒田孝高のおじいさんも元々は商人でして、金貸しを経て武士となっています。
さて、油商となった道三は店を構えた山城国(京都)を中心に周辺の国々へ行商に出掛けていたようです。当然、美濃へも何度か足を運んだのでしょう。


当時の美濃は土岐氏が守護大名として支配していました。
摂津源氏の流れを汲む名門土岐氏は足利将軍家を助けて信任を得た家柄で、管領家、四職家に次ぐ家柄とされていました。一族は美濃国内の各地へ土着しており、有事の際には続々と集合して一大勢力となるのです。
その一致団結した様は「桔梗一揆(※)」と称され、大いに恐れられていました。
美濃に道三が訪れた当時は当主が「土岐盛頼」、後に彼が仕官することとなる「土岐頼芸」は彼の弟でした。

珍妙な芸を見せる油売りがいる

そんな評判が美濃にて立ちました。
余談ですが、”油売る”という、現在でも使用されている言葉。流す油が落ちるのにとろーっと時間がかかるため、油商たちは間の場つなぎとして面白おかしい口上を聞かせるのが常でありました。そんな状況を例えているんですね。
以上、余談おしまい。

道三はここで「永楽通宝」の一文銭の穴から、それを一切汚すことなく油を入れるという芸を披露して見せていました。寺社で身につけた弁舌も大いに役に立ったことでしょう。
彼の売る油はたちまち評判となり、やがて噂を聞きつけた土岐氏の家臣「長井利隆」が尋ねてきました。
その長井の推挙で入城した道三は当主盛頼の弟、「土岐頼芸」に気に入られてお抱えとなるのです。

…これらが計算づくであったかどうか定かではないですが、ともかく彼は頼芸へ面会というチャンスを逃しませんでした。
主人の退屈しのぎに、と城内へ導かれた道三はここで芸だけでなく、話術や学識・行儀作法や諸国情勢などを巧みに披露し、頼芸へ取り入ることに成功したのでしょう。このあたりは、毛利家に取り入った外交僧「安国寺恵瓊」と似ているケースだと思います。

ちなみに、道三と共に妙覚寺で修行した常在寺の住職「日運」はその長井利隆の実弟でして、実際のところは油売りの芸うんぬんよりも、そちらの縁を頼って仕官したのが実際ではないかと思われます。金を積んだらしいという現実的な話もあったりしますしね。
芸の話が事実であれば本当に楽しいんですが…。

さぁ、商人となった道三はそんなこんなで遂に城への出入りができるようになりました!
ついに蝮の本領発揮となります。請うご期待!



(※)桔梗一揆
 えっと、土岐家の家紋が桔梗なんですね。
 一族郎党が主家のため、桔梗の旗のもと一致団結して迫る様は物凄い迫力で、追い詰められた民衆の反乱(一揆ね)を連想させたことから「桔梗一揆」と呼ばれたのでしょう。この激烈な主家に対する忠誠心が最後の最後で道三に牙を剥くこととなるのです。
   

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