お寺さんぽ Ver.03

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激突・豊臣VS徳川 (結城秀康)2

2007年12月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は天下人二人を父にもつという、歴史界のサラブレット。
しかし、出生がため不幸な人生を歩んでしまうこととなる徳川幕府・最大の腫れ物「結城秀康」です。

「徳川家康」の次男として生まれた「結城秀康」さま。
しかし、母の身分が低かったこともあり、父家康とは疎遠で、あまり幸せではないまま幼少期を過ごすのでした。
その背中で、時代は激烈な変化をしていくのです。

天下人への道を驀進していた”第六天魔王”こと「織田信長」は本能寺にて横死。
にわか天下人となった「明智光秀」ですが、「山崎合戦」にて「羽柴秀吉」に敗れて脱落。続く「清洲会議」にて実権を握った秀吉はライバル「柴田勝家」を「賤ヶ岳合戦」にて蹴落としたのでした。
こうして、わずか数年のうちに「羽柴秀吉」は周囲の想像を遥かに越えた大物となっていたのです。


天正十二年(1584)
相続の仕置に不満をもった信長の次男「織田信雄」は実力者「徳川家康」を誘い、上り調子な秀吉に対決を挑むのでした。
当時、秀康はそろそろ元服を控えた十歳。

局地戦の「長久手合戦」では勝利したものの、その後は軽挙妄動を慎んだ秀吉により次第に孤立させられ、徳川勢は終始圧倒し続けられてしまうのです。
九州・島津勢の怒涛の攻勢もあり、早期に戦を終結させたい秀吉は敵方の同盟者で戦を仕掛けた張本人「織田信雄」をうまくたらし込み、彼と単独講和を結ぶという、離れ業をやってのけるのでした。
こうして、家康の知らぬところで戦は終結するのです。
はっきり言って無視された格好です。

これは「織田信雄」の非常識ぶりもそうなんですが、彼の要請を受けて立ち上がった「徳川家康」にとって、そりゃー物凄い恥辱なのです。
え、マジですか?!
みたいな感じでしょう。
後に徳川の御用学者らによって”なかなか上洛しないことで自分の価値を高めた”とか持ち上げられている彼ですが、実際は”恥ずかしくて出てこれなかった”という意見に賛成なひでるです。

さらに、秀吉はそんな家康に対して実の妹を嫁に送っただけでなく、続けて見舞いと称して母親をも送るという、これまた離れ業をやるのです。
ここまでされると、引きこもっている方の分が悪くなってしまいます。
こうして、秀吉は徳川家をすっかり取り込むと共に、大変な懐の深さを天下に知らしめるのでした。
はっきり言ってこんな奇想天外な戦略は彼にしかできません。
戦略という点では負け続けたんですね、家康は。
…と、話が逸れてしまいました。

そんなこんなで、上洛した家康が臣従の証として差し出したのが、次男の秀康くんだったのです
男児、しかも嫡男信康死後の次男ですから、詳しい出生の秘密を知らぬ秀吉は大層喜び、彼を厚遇するのでした。
家康も予想外に役だったと、ほくそ笑んだことでしょう。
ここで実父「家康」、義父「秀吉」からそれぞれ一字を貰い、「羽柴秀康」と名乗るのでした。

⇒ つづく。
  次回は「好転する運命」
 
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※伊達に農民から天下人へ成り上がってないんです。
 徳川の天下とか晩年の失策でややかすんでしまいましたが、この人はもっとスゴイ人だと思います。


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