お寺さんぽ Ver.03

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誰にしようか、信長の子供たち 「清洲会議」2

2006年11月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は意外と知られていない、「本能寺の変」そして「山崎合戦」後の織田家について。

えー前回は前置きで終わってしまいました。
…はい、そうです。
単純にキリが良かったんですね。
やったら長くなると読みづらいでしょーし。
どこまで書いたのかは前回の記事で確認して下さい。まぁ、さして進んでないですけれど。
と、言う訳で本編をどうぞ↓


本能寺にて倒れた「織田信長」
信長は子を多くもっておりました。

嫡男「織田信忠」を筆頭に、次男「北畠信雄」、三男「神戸信孝」、四男「羽柴秀勝」……など、八男もいたのです。
(※ちなみに四男の秀勝は「羽柴秀吉(後の太閤)」の養子となっていました)

これら息子たちの中で、信長が最も頼りにしていたのは長男の「信忠」でした。
彼は武田攻めや松永攻めなど、各地の合戦において総大将を不足なく務めており、待遇についても他の子供らとは別格であったようです。
もし、彼が健在であったなら、誰の異論もなくその後を継いでいたはずなのです。

しかし、「本能寺の変」の際。
妙覚寺にあった「信忠」は変を聞いて救援に向かいますが、その途中で父・信長の自害を知りました。
明智勢来襲に備えて「二条城」に入ります。
そこで皇太子・親王らを逃がした後、こちらで明智の大軍を迎撃。
圧倒的な兵力差によって十重二十重に囲まれ、父信長に続いて自刃していたのです。

次男「信雄」はこの後に「徳川家康」と組んで「小牧・長久手合戦」を起こした当事者として知られています。
しかし、この人は信長の悪い面を色濃く受け継ぎ、当時から評判は芳しくありませんでした。
さらに、他家(伊勢・北畠家)の養子に出ていました。
(※残る確かな資料から見える行動からも、程度の低さが伺えます)

三男「信孝」は「本能寺の変」の直前まで、家老「丹羽長秀」と共に四国攻めの総大将として準備中でした。
続く「山崎合戦」でも秀吉勢に合流して敵討ちに参加するなど、それなりに頑張っていた姿がみられます。
さらに、三男として登録されていましたが、実際は「信雄」より早い生まれだったようなのです。
(※母の身分が低かったため、届けが遅れたようなのです)
彼の頑張りはそんな事情が背景にあったためかもしれません。
ちなみに、彼は神戸家の養子でした。

 ・
 ・
こうして、清洲城(※写真)へ集合した重臣らによって開かれた「清洲会議」
筆頭家老であった「柴田勝家」は総合的に判断し、三男「信孝」を後継者として擁立することを考えていました。
「信雄」とはさして年齢も違わないですし、なにより「山崎合戦」に参加して敵討ちをしている実績を認めたのです。
さらに根本的な話、素質が多少でもありそうだったのでした。

しかし、その意見に『待った』をかけたのが、「羽柴秀吉」その人だったのです。

⇒つづく
 次回は「会議参加メンバー~織田家の人々~」


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織田信忠 「本能寺の変」に散った信長の嫡男

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※おお!信忠くん小説になっているじゃーあーりませんか!!
 あんまりないですよね。
 ちょっと読んでみたいかも。


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