お寺さんぽ Ver.03

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晴明神社 (京都)

2009年07月30日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、京都は上京区の超人気スポット「晴明神社」です。

こないだ旅行へ行った際、久々にこちらを訪ねましたが…いやー、相変わらず人が多い。
また、何気に新しいオブジェが増えているんですよ。
さすがに儲けてる神社は違いますねー(笑)

そんな「晴明神社」は「安倍晴明(あべの・せいめい)」を祀っている神社です。
しゃらんとした細身の美男子で、魑魅魍魎を相手にする陰陽師というイメージがやたら強い彼ですが、実際は当然ながら悪鬼などと戦うなーんてことはなく、占いと計算が得意な学者風であったようです。
出世も遅く、歴史に登場する天徳四年(960)は四十歳くらいだったとか。
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(※こちらがオススメ:「暴れん坊少納言3巻/かかし朝浩」)
要するに「源頼光」と似た後付けで英雄とされた人なんですね。

ピカピカでなーんの風情も感じられない「晴明神社」ですが歴史は古く、寛弘四年(1007)に「一条天皇」が創建。
「もしかしてカレは稲荷神の生まれ変わりじゃないの?」
…と言ったかどうか。
晴明が亡くなったのは寛弘二年(1005)なので、死後に即神格化されたようです。
一条戻橋近くにあった屋敷跡に建てられ、その当時は広大な社領があったのでした。
しかし、多くの神社仏閣と同様にその後は衰退。
「応仁の乱」を始めとした戦乱の被害や「豊臣秀吉」の都市整備によって縮小し、一時は荒れ放題でありました。
幕末後からじわじわと整備され、堀川通に面したのも昭和二十五年(1950)のこと。
…だから二段構えみたいになっているんでしょうかね。


境内には小さい一条戻橋と式神石像。
式神はなんだかお婆さんちっく(笑)


そして晴明井、厄除桃。


おお、いました「安倍晴明」公像。
若くはないようですが、なんだか微妙に分かり辛い容姿でした。うまい。


…などがあります。
まぁ、はっきり言って時代の息吹を感じられるようなものではありませんが、色々あって楽しいですね。
(※このまま五百年くらい過ぎれば、雰囲気が出てくるかもしれません)
境内のショップも若い方向けの洗練された綺麗なものでしたよー。


こんなん買ってきました。
かわいいでしょ。


[住所]
 晴明神社 京都市上京区堀川通一条上ル806

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※こんなイメージですよねー。
 しかし、グリム童話で安倍晴明ってのはなんなんだろう。

多くの功績を残した源氏軍の重鎮 (土肥実平)後編

2009年07月26日 | 歴史
本日も平安末期から鎌倉時代に活躍した武士「土肥実平(どひ[い]・さねひら)」さまです。
湯河原駅に像がある、湯河原の英雄・実平さま。
実は挙兵以前から常に「源頼朝」を支え続けた、忠義の将であったのです。

「石橋山合戦」にて大敗北した頼朝でしたが、実平の機転あって危機を脱出。
真鶴から安房(千葉県)へ渡海した一行は鎌倉へ入る頃には一大勢力となっており、平氏の軍勢を「富士川合戦」にて破ったのでした。
さらに、足場を固めるべく進出した常陸・佐竹氏討伐でも実平は攻略に貢献していたのです。


元暦元年(1184)
頼朝に先んじて入京していた従兄弟「木曾義仲」討伐の西上軍にも参加した入京。
続いて平氏追討の軍勢にも参加し、「源義経」と共に戦っております。

西国へと出発した頼朝勢。
播磨・三草山にて平家勢を破った合戦こそが「三草山合戦」です。
大手からの「源範頼」は総勢五万騎、搦め手の「源義経」は我らが「土肥実平」も含めて一~二万騎ほどでした。 
平家の軍勢は福原に陣を張っておりました。
しかし…
二月四日は「平清盛」の法要を執り行うということで休戦。
二月五日、六日も陰陽道では日が悪かったため、こちらも休戦となったのです。
このあたりはいかにも平安後期の武士らしいですね。

平家軍の中将「平資盛」らは、七千騎ほどの軍で三草山の西へ布陣しておりました。
これに対し、搦め手の義経はその東へ着陣。
両者の間はわずか十二メートルほどという、かなりの近距離でした。

実平らと評定を開いた義経は、ここで夜襲を決定。
しかし、決戦としたのは”当時の感覚では休戦と定められていた”、五日夜半だったのです。
そんな日に、突如襲撃した義経勢。
休戦としていた平家勢は完全に不意を突かれて当然ながら大混乱に陥り、なんと五百もの武士が討ち取られるという大敗となってしまうのでした。

ちなみにその後の七日に行われた合戦こそが、あの有名な「一の谷合戦」なんですね。
ここで義経は一万騎を二手に分け、自らは一ノ谷の裏手の断崖絶壁の上に立って逆落とし。
七千余騎を引きつれた実平も塩屋口にて活躍しております。

その直後、実平は戦功によって備前、備中、備後という三国の守護(惣追捕使)へ任命されました。
なお、同じ際に「梶原景時(かじわら・かげとき)」は播磨、美作という二国であったため、その信頼度合が伺えます。
山陽道を守る実平は、主力である「源範頼」の進軍を支援したのです。

文治元年(1185)
長門「壇ノ浦合戦」でも源氏軍の重鎮として活躍。
「梶原景時」と共に頼朝代官として、範頼・義経というそれぞれの遠征軍に加わっております

文治五年(1189)には奥州征伐に参加。
幕府創成期頃に、軍監、追捕使、宿老として多くの功績を残しました。
初期から変わらぬ忠誠心を持って頼朝を支え続けた武士として、その信頼はすこぶる厚かったのでした。

こうして戦場での活躍が目立つ実平ですが、領民の評判も上々だったようです。
建久二年(1191)では鎌倉にて奉行をするなど名前が見えますが、実はその後の生没については不確かなのでした。
湯河原にある「城願寺」は実平の創建と伝えられ、境内には一族の墓があります。

なお、彼の嫡男「小早川遠平(こばやかわ・とおひら)」は戦功によって安芸の沼田荘の地頭職を与えられ、そちらに移って子孫は繁栄。
そう、彼が戦国時代に毛利氏と共に活躍した「小早川家」の祖先だったのですよ


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※映像ではこちらがオススメです。
 義経は絵になりますよねー。

常陸・佐竹氏討伐に出陣する実平さま (土肥実平)中編

2009年07月23日 | 歴史
本日も平安末期から鎌倉時代に活躍した武士「土肥実平(どひ[い]・さねひら)」さまです。

湯河原駅前に像がある、湯河原の英雄・実平さま。
実は挙兵以前から常に「源頼朝」を支え続けた、忠義の将であったのです。


治承四年(1180)
平氏追討のため挙兵した頼朝は「石橋山合戦」にて大敗北。
形成不利を見てとった実平は、自らの領国であった土肥郷・椙山(すぎやま)は「しとどの窟」へと頼朝を招いてそちらに身を隠すのです。
なお、彼の夫人も民に変装して、身を隠す頼朝を夫と共に支えています。
武士の妻ですねー。

ここで山中を捜索していた平家方・「大庭景親(おおば・かげちか)」の軍勢ですが、参加していた武士「梶原景時(かじわら・かげとき)」が見逃したこともあって、どうにか窮地を脱しました。
この頃は頼朝ほか各地にて反平氏の動きがありましたが、平家政権というのは武士たちから飽きられ、支持されていなかったんですね。

さて、実平が真鶴に用意させていた船で共に安房(千葉県)へ渡海した頼朝一行。
当然、こちらにも実平は弟「土屋宗遠」らと共に従っております。
安房国に着いた頼朝らは房総に勢力のある千葉氏、上総氏らの参陣を得て、ようやく息を吹き返したのです。

当時の武士にとって源氏の貴種である頼朝はまさに特別な存在であったようで、進軍するうちに次々と参陣する者が増えておりました。
父・兄の本拠地であった鎌倉へ入った際には、なんと数万という大軍になっておりました
さらにその後も傘下へ入る武士たちは続出し、たちまち関東圏を支配するような身分になっていったのです。
これ、山中にて隠れた頃からわずか数カ月の出来事ですよ
凄いでしょ?

治承四年(1180)
”鳥の羽音に驚いて逃亡”したという有名なびっくり合戦「富士川合戦」に勝利した頼朝勢。
ここで上総氏らの進言を受け、足場を固める意味もあって東の常陸へと侵攻することとなったのです。

関東に残る、平氏方の最大勢力であったのが常陸国でした。
こちらを領していた佐竹氏は平氏との縁深く、頼朝へは曖昧な態度で参陣していなかったのです。
「吾妻鏡」によると、「権威境外にも及び、郎従国中に満つ」…と、常陸にてかなりの勢力だったのでした。

こうして、常陸・佐竹氏討伐を決定した頼朝勢。
実平は当然こちらにも従軍しております。

常陸・国府(石岡市)へと到着すると、一族の「佐竹義政(忠義)」はただちに参陣を約束。
しかし、嫡男「佐竹秀義」は当時平家に属していた父「佐竹隆義」が上洛中であったため、態度を保留して「金砂城(かなさじょう)」へと籠りました。
これに対し佐竹氏の縁者であった「上総広常」は、義政を誘い出してこれを大矢橋にて殺害。
ひでえ。
ともかく、この一件によって動揺した佐竹勢に対し、金砂城へと攻撃を開始しました。
しかし、要害の地にあった城攻めは難航。
ここで我らが入京は、
”叔父「佐竹義季(※隆義の弟)」に恩賞を与える”ことで内部分裂を誘うよう進言した、と言われております。
義季は寝返り、浮足立った佐竹勢は、その案内を受けた頼朝勢の総攻撃を支え切れずにわずか一日にて落城。
攻略に大きく貢献するのでした。
秀義は奥州へ逃亡。
ちなみに余談ですが、後に義季は謀殺されてます。

⇒ つづく。
 次回は「多くの功績を残した源氏軍の重鎮」
 
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※そんなこんなで、「源頼朝」さま。
 そう、この絵は別人とか言う話なんですね。びっくりですよ。

頼朝の危機を救った忠義の武士 (土肥実平)前編

2009年07月19日 | 歴史
本日は平安末期から鎌倉時代に活躍した武士「土肥実平(どひ[い]・さねひら)」さまです。
…えー、知ってます?
ひでるさんは名前程度しか知りませんでした。
なにゆえこの方なのか、というと…湯河原駅にて像を写真で撮ったから(笑)
まぁ、鎌倉時代(源平合戦)学習中ということもあり、取り上げてみることとしたのです。


相模国足下郡土肥郷を領していた「土肥実平」は桓武平氏「村岡良文」の子孫。
ここで武士団を形成する「中村宗平」の子です。
もともとの名乗りは「土肥次郎」ということで次男。
父「中村宗平」、および弟「土屋宗遠」と共に源氏方の有力御家人として活躍することとなるのです。

永暦元年(1160)
平家との争いに敗れた源氏勢。
父「源義朝」は謀殺され、嫡男「源義平」は捕えられて斬首処刑。
そして合戦に参加していた、当時十四歳の三男「源頼朝」も道に迷っているところを捕縛され、六波羅の「平清盛」によって助命され、伊豆へと流刑にされてしまったのでした…。

配流となった罪人「源頼朝」
援助を受けてようやく生活できるという有様であったようですが、さすがは源氏の貴種。
この時に監視であった北条氏の娘「北条政子」と結婚しているほか、その前には「伊東祐親」の娘「八重姫」に手をつけているなど、その行動は比較的自由であったようなのです。

そんな彼の屋敷に出入りしていた武士の一人が、今回の主人公「土肥実平」であったのです。
…要するに、挙兵前からの知り合いだったんですね。

治承四年(1180)
以仁王の令旨を受けた頼朝はついに平氏追討のため挙兵。
実平はそれにも当然従い、「石橋山合戦」に参加しております。

初戦にて平家方の「山木兼隆」を襲撃してこれを討ち取った頼朝勢。
ここで大いに気勢を上げたものの、増水によって頼みの三浦勢の進軍が遅れていた隙を突かれてしまったのです。

頼朝は平氏方「大庭景親(おおば・かげちか)」の軍勢三千騎と石橋山にて激突。
ちなみに、この際の頼朝勢はたった三百程度でした。
さらに後方にはやはり平氏方であった「伊東祐親」の軍勢も進出しており、完全に挟み撃ちという状態だったのです。

善戦した頼朝勢ですが大軍によって蹂躙され、ほどなく敗走。
形成不利を見てとった実平は、ここで兵の分散を進言したと言われています。
「それぞれ別れてこの窮地を脱し、再挙を期す」
頼朝と行動を共にした実平は自らの領国であった土肥郷・椙山(すぎやま)は「しとどの窟」へと招き、数日間身を隠してその危機を救うのです。

⇒ つづく。
 次回は「常陸・佐竹氏討伐に出陣する実平さま」

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 トキメキです。けっこうあちこちにあって、驚きました。

修禅寺 (静岡県・伊豆市)

2009年07月16日 | お寺
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本日は静岡県伊豆市は温泉地として有名な「修禅寺(しゅぜんじ)」について、です。

この修善寺町には、なんと縄文時代からの遺跡が発見されています。
しっかりと歴史に登場するのは、平安時代のこと。
大同二年(807)
かの「弘法大師・空海」とその弟子によって開かれました。
当時は密教形式の堂宇が建ち並び、伊豆ではトップクラスという大寺院であったようです。
それ以後四百七十年ほどは、真言宗に属していました。

なお、その頃は桂谷という地名そのまま「桂谷山寺」という寺名。
しかし、いつの間にか改名したらしく、鎌倉時代頃には現在の「修禅寺」と呼ばれています。
ちなみに、寺領であった地名もそのまま「修禅寺」とされたのでした。

建久四年(1193)
猜疑心の強い「源頼朝」から睨まれた弟「源範頼(みなもとの・のりより)」は、ここ「修禅寺」に幽閉されて誅殺。
さらに、権力闘争に巻き込まれた二代将軍「源頼家(みなもとの・よりいえ)」も元久元年(1204)に「修禅寺」へ幽閉され、暗殺されるのでした…。
源氏にとっては微妙な歴史の残るお寺なんですね。
続いて建治元年(1275)
中国から来日していた禅僧「蘭渓(らんけい)」ですが、大陸からのスパイであると容疑をかけられ、この地へ逃亡。
もともと臨済宗を広めにやってきた彼が長く滞在していたためか、以降二百二十年は臨済宗となりました。
ちなみに、庶民人気の高い(※)五代執権「北条時頼」もこちらの「蘭渓」によって深く臨済宗に帰依しており、一時期は宋の皇帝から勅願が下るほど中国でも有名になっていたのです。
(※時代劇”水戸黄門”のように諸国漫遊をしたとされる)

南北朝時代の康安元年(1361)
伊豆国守護・関東管領であった「畠山国清」の謀反に巻き込まれて被害を受け、さらに応永九年(1409)の大火災によって、伽藍のほとんどを焼失してしまうのでした。
それ以降は荒れ果てた「修禅寺」ですが、時は流れて戦国時代。
伊豆を攻め取って韮山城に入った「北条早雲」は、荒れ果てたお寺を見て莫大な寺領を寄進。
名刹再興したのでした。
現在の本堂は明治に再建されたものだって。
ちなみに、最終的には曹洞宗になってます。


※温泉「大師の湯」 湯気出てたんですけど…わかるかなー??

寺宝として「修善寺物語/岡本綺堂」の原作となった古面ほか、貞観年間(平安時代・初期)頃の作と言われる「大黒天」などもあるこちら。
…なにげに、こちらの手水は温泉「大師の湯」である点が最も驚きました
あったかいのよ。


[住所]
 修禅寺 伊豆市修善寺964 (※寺名と地名で漢字違うの)

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テレビドラマ水戸黄門 我らが副将軍! 世直し40年 (白夜ムック Vol. 331)
C.A.L
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※そんな訳で水戸黄門です。
「北条時頼」の世直し諸国漫遊ってのも面白いと思うんですが…どう?

木彫の技法について (お父さんのための仏像講座) 

2009年07月12日 | 仏像
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本日はかなーり久しぶりに仏像講座です。
前回やったのが…08年5月でした!
前にも書きましたがめんどくさいとはいえ、ずいぶんこのネタほったらかしたものです。

そんなこんなで、
「お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)
…そういえば、元ネタ番組は終わっちゃったんだっけか?
まぁ、いいか。

仏像と言えば、やっぱり木像でしょう。
たぶん。
インドでは石像多く、中国では石像・銅像であるようですが、日本で最も多く現存しているのがこの木像なのでした。

仏教が伝来した初期頃から銅像と共に制作され、奈良時代には一時的に少なくなるものの、平安時代以降は”仏像彫刻の主流”となっていくのでした。
なんと、国宝・重文指定された仏像のうち、87%ほどが木像仏なんだって
では、なんとなく見てみましょう。

【 一木造 】
一木造(いちぼくづくり)です。
一本の木から丸彫りされた彫刻で、”一木彫成”と言います。
完全に一本だけと感じるかもしれませんが、実は頭部から胴体までが一木であれば一木造とされるようです。
素材などによって腕や膝を共木で接合する場合も多いのでした。
材料からの制約が逆に重量感を生み、迫力ある作品が多いのです。
奈良時代の後期から盛んになっています。

【 寄木造 】
寄木造(よせぎづくり)です。
一木造と違い、主要パーツを複数の材料から彫刻する技法。
藤原時代「定朝」によって完成されたと言われており、これは日本独特の彫刻法なのでした。
(※平等院の阿弥陀仏は「定朝」作です)
平安時代中期頃から発展。
あらかじめ複数の材料を集め、内刳(※うちぐり)して接合するのです。
こちらによって巨像製作が簡単になったほか、分業製作が可能になるんですが、熟練した技術を要するため京都・奈良で多く、地方では一木造が多かったようです。

※「内刳(うちぐり)」
 木彫の内側をくりぬいて空洞にすること。
 重量の軽減、乾燥の促進、表面の千割れ防止などのほか、体内に物を納めれるようになるのです。

【 鉈彫 】
鉈彫(なたぼり)です。
①木取り(※木から用材を得るため、位置などを決めること)
  ↓
②荒彫り(※細部まで手を加えず、ざーっと彫ること)
  ↓
③小造り(※細部を彫ること)
  ↓
④仕上げ
…という仏像の制作過程において、「荒彫り」時点で終えた技法。
彩色も施しません。
ノミの刻み目をはっきりと残し、素朴な美しさがあるのでした。
東国を中心に行われ、未完成とする説もあります。
⇒こちらは、以前「ちょっと特殊な仏像 「鉈彫仏」」にて紹介してます。

【 壇像 】
壇像(だんぞう)です。
厳密には彫り方でないですが…まぁ、いちおう。
白檀(びゃくだん)のような、きめ細かく・芳香ある材料(一木)から像を彫りだした小仏像のことです。
堅木であるため細かく彫刻されているのが特徴で、彩色を施しません。


…以上です。
とりあえず仏像の種類から彫り方まで知っていれば、どの仏像もそこそこの解説することができます。
たぶん。
お寺でモテモテですよ!
「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)



[関連記事] 【仏像講座、ほか】 
⇒ 座り方編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 印相編 (お父さんのための仏像講座)前編 後編
⇒ 仏像の種類 (お父さんのための仏像講座) [前編] [後編]
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 五大明王 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)
⇒ 仏の三十二相(お父さんのための仏像講座) 前編1-16 後編17-32
⇒ 石仏っていいね (石仏・入門編)
⇒ 石仏の種類について (石仏・基本編)
⇒ 長安寺・五百羅漢像 (石仏・応用編1)
⇒ 箱根石仏群① (石仏・応用編2)
⇒ 箱根石仏群② (石仏・応用編3)
⇒ 徳明地蔵尊 (石仏・応用編4)
⇒ 五智如来石像
⇒ お釈迦様・釈迦如来 (
⇒ 大日如来
⇒ 阿弥陀如来 鎌倉大仏 (胎内参拝) 
  五劫思惟阿弥陀如来 みかえり阿弥陀如来 うなずき阿弥陀
  中尊寺金色堂
⇒ 薬師如来 蛸薬師 飛鳥・薬師三尊像
⇒ 弥勒如来
⇒ 毘盧遮那如来
⇒ 不動明王 (由来 容貌 信仰
⇒ 不動明王坐像 (東京・金剛寺)
⇒ 降三世明王
⇒ 大威徳明王
⇒ 金剛夜叉明王
⇒ 軍荼利明王
⇒ 太元帥明王 (前編 後編
⇒ 孔雀明王
⇒ 愛染明王
⇒ 烏枢沙摩明王


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 ちと書店で探してみようかと。

三好一族の末路 (三好家の人々)9

2009年07月09日 | 歴史
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戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい ※写真)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」…の、最終回をお送りいたします。

永禄十一年(1568)
上洛した「織田信長」に対抗した三人衆らは阿波へ逃れ、「松永久秀」はいち早く降伏。
三人衆らは元亀元年(1570)の「野田・福島合戦」にどうにか勝利したものの、将軍「足利義昭」の描いた”信長包囲網”は大盟主である「武田晴信」の死によって崩壊してしまうのです。
討死した「岩成友通」ほか、「三好長逸」、「三好政康」も歴史から姿を消し、後継者「三好義継」も敗死。
残った一族の「安宅信康」、「三好康長(笑岩)」、そして元重臣「松永久秀」も信長に降伏するのでした…。


一方、彼らより先に織田家へ接近していた「篠原長房」は、阿波にてますます存在感を見せていました。
しかし、補佐していた「三好長治(みよし・ながはる)」は遊芸・酒色にふけるほか残虐であるという”典型的の暗愚な将”で、たびたび行状について諫言していた「篠原長房」と不和になっていったようです。
そこに、一門衆であった「篠原自遁」の讒言が決定打となり、先んじて長治が挙兵。
この動きに彼の弟「十河存保」、そして雑賀衆らも同調したため、長房の居城である阿波・上桜城は大軍に包囲され、ここで敗死してしまうのです。
崩壊の第一歩ですね。

天正五年(1577)
倒れた武田に続き、今度は「上杉謙信」が上洛を開始。
対織田家の初戦となる「手取川合戦」では織田家を存分に蹴散らし、変わらぬ強さを見せつけたのでした。

ここで「松永久秀」は再び織田家より離反。
以前やっているので詳細は省きますが、またまた謙信の突然死によって余裕のできた織田勢は、嫡男「織田信忠」の率いる大軍にて信貴山城を囲み、久秀はここで爆死。

また、長房を討った「三好長治」は弟存保の言葉にも耳を貸さずに強権を振りかざして、多くの離反を招いたほか、天正三年(1575)には阿波全土へ法華宗を強要して、より多くの恨みを買ってしまうのでした。
はちゃめちゃです。
こうして、打倒三好氏のために挙兵した阿波守護「細川真之」は、土佐「長宗我部元親」の支援を受けて長治勢と荒田野にて戦い、これを討ち取るのでした。
享年二十五。

こうして、讃岐にあったその弟「十河存保」は、四国制覇を目指す「長宗我部元親」の矢面に立つこととなったのです。
ここで「織田信長」と結び、阿波は勝瑞城へ入った存保はそれに抵抗。
信長より阿波を与えられていた「三好康長(笑岩)」は織田勢の先鋒となり、血縁である彼を支援すべく阿波へ渡海。
戦況は阿波守護「細川真之」を攻め滅ぼすなど、次第に十河・三好勢に有利だったんですが…。

天正十年(1582) [中富川合戦]
その後に勃発した本能寺の変によって、存保は敵中にて孤立してしまうのです。
(※「三好康長」は、変後に堺へ戻っていました)
上杉家同様、変によって滅亡の危機を脱した「長宗我部元親」は、逆に阿波へと侵攻。
高い士気と兵力に勝る長宗我部は中富川の渡河を強行しました。
勢いそのまま十河勢を破って、さらに一ヶ月後には勝瑞城をも陥落させたのです

この「中富川合戦」にて敗北した存保は、大阪へと逃亡。
後に秀吉に従って活躍し、三万石を安堵されましたが…前にも書いた「戸次川合戦」にて討死。
享年三十三。

織田勢の先鋒であった「三好康長(笑岩)」は本能寺の混乱を生き残って秀吉に仕え、後に「三好信吉(みよし・のぶよし)」こと「羽柴秀次」を養子とさせられ、ひっそりと歴史から姿を消しております。

なお、織田水軍に組み込まれた「安宅信康」は三十歳で病没。
その後を継いだ弟「安宅清康」は毛利氏に内応したことから織田勢の攻撃を受けて降伏し、彼の一族も歴史の表舞台から姿を消すのでした。

名将「三好長慶」の活躍から、戦国の世に一時代を築いた三好家。
しかし、相次ぐ兄弟の死から晩年に衰退したそのまま、残った子、そして一族らも悲願を達することはありませんでした…。


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 ぺらぺらめくっているだけでも面白いですよ。

信長包囲網と三好勢 (三好家の人々)8

2009年07月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄十一年(1568)
「織田信長」の上洛は三好家にとっては「松永久秀」以上の脅威でした。
早々に降伏した久秀とは別に、六角氏と結んで上洛軍に対抗した三人衆は織田勢に成す術もなく撤退。
永禄十二年(1569)の「六条合戦」に敗北したものの、翌年の元亀元年(1570)の「野田・福島合戦」では本願寺一派の挙兵もあって辛くも勝利。
その存在感を見せたのです…が。


天正元年(1573) 
さて、「足利義昭」が方々へ飛ばした手紙は功を奏し、ついに周辺大名が共闘するという”信長包囲網”を完成させました。
各地で反織田の兵が挙がり、包囲網の大盟主である「武田晴信(※写真)」率いる武田勢がついに上洛を開始したのです。

その包囲網に当然のごとく参加していた三好三人衆。
将軍「足利義昭」も二条城で挙兵(※実はこれ二度目のこと)し、彼らのうち「岩成友通」はそれに呼応しました…が。
信長の盟友「徳川家康」を一蹴した晴信ほか武田勢が、なぜか甲斐へと撤退してしまうのです。
そう、当主である晴信が病死したのです。

この報を受けた信長は、迅速な行動によって京へ攻め上り、成す術もないまま義昭はあっさりと降伏。
淀城にあった「岩成友通」は、信長の命を受けた「細川藤孝」に攻められてここで討死してしまうのです。
藤孝配下である「下津権内」に組み敷かれ、堀の水中にて討ち取られた、と伝わっています。

また、三人衆の「三好長逸」、「三好政康」という両名についてもこれ以降は記録などに名がなく、こっそり歴史の表舞台から姿を消したのでした。
討死した、病死した、など諸説ありますが、正確なところは不明です。


三人衆、石山本願寺と共に織田勢に敵対していた「安宅信康」も、この頃織田家に臣従したようです。
以後より織田家の水軍に組み込まれ、後には毛利水軍とも戦っております。

ほか、一時は許されて摂津・高屋城主となっていた「三好康長(笑岩)」は本願寺と結んで抵抗したものの、籠城一年の後に堺商人「松井友閑」の仲介で信長に再び降伏。
こちらは本領を安堵されております。

さて、これまで三人衆らと別行動を取ってきた「松永久秀」も義昭の要請に応じてついに織田家より離反。
後の武田病死の報にによって多聞山城を信長へ差し出し、降伏するのです。
三好勢のうち、先の康長とこちらの久秀は信長にとってお気に入りだったのか、許されているのでした。
なお、彼に同調していた「三好義継」ですが、摂津にて奮戦したものの、織田方「佐久間信盛」の軍勢に若江城を攻められて降伏。
享年二十二。
こうして一族は次第に数を減らしたほか、ちりじりになってしまうのでした。

⇒ つづく。
  次回は「三好一族の末路」(9/9)

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※この包囲網あたりは、桶狭間と並んで非常に面白い部分です。
 当然「運」もあるんですが、テキパキ決断力の早さもあるでしょうねぇ。


野田・福島合戦の勝利 (三好家の人々)7

2009年07月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代に”三好政権”を築き上げた、畿内の覇者「三好長慶(みよし・ちょうけい)」
しかし、その晩年から広がった暗雲は、三好家の前途に暗い影を落とすのでした…。
そんな訳で今回も「長慶の死後にいったい何が起こったか?」をお送りいたします。

永禄十年(1567)
しだいに対立を深めた三人衆と「松永久秀」は、畿内にて激突。
”東大寺焼き打ち”という奇策によって危機を脱した久秀ですが、永禄十一年(1568)に上洛した「織田信長」にあっさり降伏するのです。
一方、六角氏と結んで上洛軍に対抗した三人衆ですが、素早く軍事行動をおこした織田勢には成す術もなく撤退。
信長不在を狙った永禄十二年(1569)の「六条合戦」でも織田勢に敗北し、急速にその勢力を失っていくのでした…。


元亀元年(1570) [野田・福島合戦]
朝倉領へと侵攻した信長は、皆様よく知るように浅井勢の寝返りによって、総崩となりました。
(※この際に「松永久秀」は寝返らず、同行して終始彼を守り続けています)

この機を逃さずに、再起をかけた三好三人衆。
阿波「篠原長房」からの援軍も得て、摂津へと侵攻した三好勢は野田・福島に城を築いて織田勢に抵抗を見せました。
その兵力は、一族ほか美濃から追われていた「斎藤龍興」、雑賀衆などで膨れ上がり、1万5千ほどの大軍となります。
また、三人衆が城を築いた野田・福島の地は摂津と山城を結び、西には尼崎港があるという要所だったのです。

さて、この急報を受けた「織田信長」は、すぐさま岐阜を出陣。
数日のうちに、天王寺付近へと本陣を置き、四万という大軍勢によって両城を囲みました。
ここで織田勢は攻囲をじわじわと強化すると共に調略を仕掛けており、別所氏ほか各勢力の寝返り、切り崩しを成功させています。

こうした織田の作戦は的中し、まさに陥落間近…というその時!

これまで中立であった石山の「顕如(本願寺光佐 ※写真)」は、檄文によって門徒衆を召集。
全面対決を決した本願寺一派が、なんと夜に織田勢の背後を襲撃したのです!!

これによって攻守入れ替わった織田勢はたちまち浮足立ち、また東方面でも朝倉・浅井勢が挙兵したことを受け、すぐさま総撤退するのでした。

余談ですが、この際には仇敵である浅井氏と結んだ「六角義賢」も、近江にて反織田の兵を挙げています。
後に野洲川に布陣した六角勢は、織田方「柴田勝家」、「佐久間信盛」などの軍勢によって”主要国人のほとんどを失う”という壊滅的な敗北をするのでした。
よわよわです。

ともかく、こうして三好三人衆らは粘り勝ちをし、一時的にせよ織田勢の排除に成功しました。
信長はやむなく反対勢力らと次々に和議を結び、とりあえず三人衆らを阿波へと撤退させたのです。
しかし、ほどなくして信長と不和になった将軍「足利義昭」が信長に背くと、すぐさまこちらに同調。
信長包囲網の一角として、さらなる抵抗を続けることとなるのです。
もう過去の敵とかなんとかは関係ありません(笑)

なお、阿波の名将「篠原長房」ですが、彼は元亀二年(1571)頃に信長へ降伏し、三好家の存続を図っております。
この判断は、切れ者である彼の才を感じさせますね。

⇒ つづく。
  次回は「信長包囲網と三好勢」(8/9)

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信長が宿敵 本願寺顕如
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