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祐豊、ぎりぎりの選択 (山名祐豊・豊国)7

2009年08月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。

清和源氏からの名門家山名氏。
一時期の勢力はすっかり衰え、反乱した国人衆らは「山名誠豊」を擁立しました。
そんな誠豊の後継者として戦国時代頃に宗家・但馬守護を継いだ「山名祐豊(やまな・すけとよ)」はなかなかの切れ者で、尼子氏に通じた裏切り者「山名誠通(やまな・のぶみち)」を奇襲によって討伐。
その後、鳥取城にてひそかに勢力を拡大し、庶子家・因幡山名氏を追い落とした「武田高信」に対しては尼子氏残党と結んで対抗して追い出し、どうにか甥「山名豊国」を鳥取城へ入れるのでした。


時代はやや戻って天文十一年(1542)
但馬国には、平安時代に発見・開鉱されていた生野銀山(兵庫県朝来市)がありました。
宗家を継いだ「山名祐豊」は石見銀山での技術を導入し、こちらの本格採掘を始めて財源を確保。
(※本格的な採掘に乗り出したのは祐豊が初めてだそうです)
経営拠点として生野城を築き、国力を蓄えたんですが…その魅力ある銀山は石見のそれと同様に”各大名の争奪戦”となっていくのです。

永禄十二年(1569)
こうして「織田信長(※写真)」の侵攻を受けることとなった祐豊は、ついに上洛して織田家に降伏。
戦国の二大勢力に挟まれてしまった山名氏は生き残りをかけ、今後は織田・毛利の間を渡り歩くこととなるのです。

なおこの際には、独立の傾向を強めていた但馬国人衆も混乱しています。
致豊の代から守護代を命じられ、一時は逆らったこともある「垣屋続成」・「垣屋続成」親子。
領国経営に尽力しており、祐豊の代には但馬国人「田結庄是義(たいのしょう・これよし)」と政策を巡って、たびたび対立しておりました。
(※両者は領土問題を抱えています)
城崎郡に勢力を持っていた鶴城城主・是義は織田派であり、毛利派であった垣屋親子と激しく対立。
翌年元亀元年(1570)になると、是義は先んじて彼らを攻撃。
奇襲を受けた「垣屋続成」は田結庄勢によって追い詰められ、岩井村養寿院で自害されられてしまうのです。

天正元年(1573)
一方、尼子氏残党らの活躍もあって因幡国に返り咲いた「山名豊国」でしたが、…毛利氏の武将「吉川元春」の攻撃を受けてあっさりと降伏。
ここで毛利氏に下ったのでした。
天正三年(1575)には、そんな甥・豊国に合わせたのか、はたまた毛利方の影響が強まったのか…。
ここで宗家の「山名祐豊」も、突如織田家を離れて毛利方へと寝返ってしまうのです

なお、この頃の織田家は最大の脅威であった「武田晴信」の病死によって、織田包囲網の窮地を脱しております。
将軍「足利義昭」を追放し、越前・朝倉氏、その盟友である近江・浅井氏を滅ぼし、さらに長島一向一揆を鎮圧するなど、天下統一に向けてまた一、二歩と進んだような状況でした。

しかし、中国地方の各大名は播磨・小寺氏(※「黒田孝高」が織田氏を押したことで有名)での軍議でもあったように、近所である毛利氏の影響力が圧倒的に強いのでした。
そのため、この際の山名氏についても、同様の考えであったのかもしれません。
…また、万が一毛利氏から攻められたと仮定した場合、当時の織田家には援軍を送るほどの余裕はなかったでしょうから。

そんな訳で、先んじて毛利氏に降伏していた「山名豊国」の仲介によって、毛利氏と宗家・但馬山名氏は和解して臣従するのでした。

⇒ つづく
 次回は「豊国、ちゃっかり生き残る」(8/8)

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※中国地方ではやっぱり毛利ですねー。
 最近は戦国グッズが増えてきて、いい感じです。


混乱を極める因幡国 (山名祐豊・豊国)6

2009年08月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。

清和源氏からの名門家山名氏。
「山名宗全(持豊)」の活躍で一時期の勢いを取り戻しましたが、「応仁の乱」に長期関わったことから急速に衰退。
宗全の孫「山名政豊」、その子「山名致豊」と混乱は止まらず、ついに国人衆は「山名誠豊」を擁立するに至るのでした。
時は戦国時代。
誠豊の後継者として宗家・但馬守護を継いだ「山名祐豊(やまな・すけとよ)」はなかなかの切れ者で、尼子氏(※写真:尼子晴久)に通じた因幡山名氏「山名誠通(やまな・のぶみち)」を奇襲によって見事討伐したのです。

因幡を確保した祐豊。
こちらには代官として、弟「山名豊定」を派遣したのです。
(※時期には諸説あり)
兄の命によって因幡入りした豊定は鳥取城、岩井城に本拠を構えて勢力維持に努めます。
しかし、誠通(久通)の遺児「山名豊成(やまな・とよしげ)」を擁立した尼子氏の侵攻、さらに自立傾向が強まってなかなか従わなくなった国人衆など、支配は大いに困難を極めたのです

永禄三年(1560)
そんな父・豊定の死去によって後を継いだのは、嫡男「山名豊数」でした。
ここで登場してくるのが、若狭武田氏の庶流と言われている「武田高信」です。
もともとは因幡守護であった「山名誠通(久通)」に従い、鳥取城にあった高信は独立の傾向を高めて城を大改修。
山名氏に対抗するだけの勢力をじっくりと蓄えていくのです。

永禄六年(1563)
この当時になると、以前から脅威であった尼子氏は毛利氏に押されつつありました。
そうした情勢から、新興勢力であった安芸・毛利氏と結んだ高信は、その後ろ楯を得てついに挙兵。
誠通(久通)の遺児豊成を毒殺し、さらにその弟豊次も討ち取って因幡山名氏を滅亡させたほか、年内のうちに布施天神山城を陥落させ、豊数・豊国兄弟をあっさりと追い落としたのでした
この報を受けた宗家「山名祐豊」は、一転して毛利氏と対立する尼子氏と結んでいます。

しかし…永禄九年(1566)になると、尼子氏は形勢を逆転できずに滅亡。
隣国・因幡へと逃れた尼子氏の残党は、その後但馬山名氏の支援を受けて活動することとなりました。

こうして因幡国内は、安芸毛利氏の後ろ盾がある「武田高信」、但馬山名氏より支援を受ける尼子氏残党という構図になっていくのです。

勢力をもった高信ですが、国人らの掌握には豊定らと同様に苦慮し、また但馬国芦屋城「塩冶高清」、そして有名な「山中鹿之助幸盛」率いる尼子氏残党らとの合戦にも敗れ、大いに衰退。
兄豊数と共に城を追われていた「山名豊定」の次男「山名豊国」は宗家の祐豊、そして高信を敗退させた尼子氏残党と結び、ようやく鳥取城を回復するのです。

⇒ つづく
 次回は「祐豊、ぎりぎりの選択」(7/8)

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※昔は教科書にも登場した「鹿之助さま」
 確かに個人的には滅法強いようでしたが、集団戦はそれほどでもないようです。

祐豊、悲願の因幡但馬を統一 (山名祐豊・豊国)5

2009年08月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえず“山名氏とはなんぞや??”を4回ほどお送りしていましたが、このあたりからがようやく本題です。

清和源氏から続き、南北朝から室町時代に活躍した山名氏。
「嘉吉の乱」に活躍した「山名宗全(持豊)」でしたが、「応仁の乱」に長期関わったことから一族は急速に衰退していくのです。
宗全の孫「山名政豊」は赤松氏討伐に失敗し、後継者問題でも家中を混乱させたことで、その後継者「山名致豊」に国人衆は反乱。
「山名誠豊」を擁立し、致豊を放逐してしまうのでした。

独自の動きを見せ始める有力家臣たち。
さらに、因幡守護の一族「山名誠通(やまな・のぶみち)」はじわじわと影響していた尼子氏に通じ、宗家(但馬)に擁立されていた「山名誠豊(やまな・さねとよ)」に反乱。
また、もともと守護であった出雲国は尼子氏、安芸・石見は大内氏、備前には浦上氏といった諸勢力によって、旧領はすっかり侵食されていたのです。

そんなこんなで戦国時代に活躍するのは、誠豊の養子として宗家・但馬守護を継いだ「山名祐豊(やまな・すけとよ)」、そして因幡守護を継いだその弟「山名豊定」、そして子「山名豊国(※写真)」なのです。
順を追ってみてみましょう。


大永八年(1528)
放逐された「山名致豊」の次男であった「山名祐豊」は擁立されていた「山名誠豊」の養子となっていました。
その祐豊は義父誠豊の死によって、おおよそ十七歳で宗家の家督を継ぎ、但馬・此隅山城(このすみやまじょう)の城主となりました。

一方の庶子家・因幡山名氏ですが、次男「山名豊頼」が兄「山名豊重」を殺害して守護の座を奪うなど混乱。
また出雲に勢力のあった尼子氏の侵攻が強く、伯耆が完全その支配下となったほか、影響力は因幡にまで普及しておりました。
そんな頃、宗家「山名誠豊」を頼って因幡山名氏を相続していた「山名誠通(やまな・のぶみち)」ですが、祐豊が後継者となった天文年間(1532~1555)には独立を目指すようになり、これと対立。

同族ながら、因幡・但馬の間には緊張した空気が漂うこととなったのです

伯耆八橋城にあった戦国大名「尼子晴久」の影響は強く、因幡へ侵攻した尼子勢は大崎、鹿野という両城を陥落させていたほか、天文十年(1541)、天文二十年(1551)には朝廷への運動が実を結び、因幡守護として「尼子晴久」が任命されてしまうのでした。
誠通が尼子氏になびくのも、仕方ないことかもしれません。
天文十三年(1544)頃には完全に尼子氏に下り、その偏諱(へんき)を受けて「山名久通」と名乗っております。
これは完全に尼子氏に臣従した証と言えるでしょう。

後に合戦の舞台となる鳥取城を改修して備えていたと言われる誠通(久通)でしたが…
天正十七年(1548)
突如因幡へ出兵した「山名祐豊」は、奇襲によって居城である布施天神山城を一気に陥落させるのです
この際に誠通(久通)は討死。
悲願であった因幡・但馬の統一を果たした宗家(但馬)の祐豊は、因幡山名氏の家督に干渉して支配を始めることとなったのです。

⇒ つづく
 次回は「混乱を極める因幡国」(6/8)

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かみあり/染屋カイコ (漫画)

2009年08月20日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…本来であれば山名氏の続きなんですが、ちょっとブレイク。
いろいろと神様が登場する珍しい漫画を発見したので、いつもとはやや異なる雰囲気(笑)にて、そちらを軽くご紹介してみようかと思いました。

そんな訳で。
本との出会いは一期一会、漫画もまたしかり。
本日紹介は「染屋カイコ(そめや・かいこ)」センセの「かみあり 1巻」です。

★まんがデーター [11/15]
・絵   :■■■□□
・話   :■■■□□
・独創性:■■■■■
・属性 : 神様・コメディー
・おまけ: あとがき漫画「染屋カイコのそうだ出雲に行こう」
      作品紹介、カバー裏に裏話漫画。
・その他: 6話+おまけ収録、現在は1巻まで発売中。


島根県の学校へ転校してきた「千林幸子」は空を漂う魚群に驚いていました。
クラスメイトの「岡家絵美」曰く…
「天下もろもろの神、出雲国にゆきて異国に神なきが故にかみなし月というをあやまれり(奥儀抄)」
…ということで、時期が10月(神在月)であったことから、街中には日本から異国の神様までが集合していたのです。
簡単ですがだいたいそんな感じ。

主人公「幸子」・「絵美」ら人が様々な神様たちと交流する、ファンタジー・コメディーという漫画です。
当然ですが、それなりに知識(かなり広範囲)があった方が楽しめます。
ただ、神様について宗教ちっくな、あるいは大仰な描き方はされておらず、冷静で現実的な視線でした。
こんな感覚のが日本人向きだと思います。
ある程度の漫画っぽい解釈が組み合わされているため、楽しく読み進めることができるでしょう。


※左:ヒヌカンさま 沖縄県での火の神。かまどを守護するため料理にも登場します。
※右:弁財天 仏教・神道どちらでも登場する芸能神。言わずと知れた七福神の一人。

さて、このブログでは過去に何度か書いていますが。
例えば歴史について学ぶ際に、単に難しい活字だらけの本を与え、ひたすら記憶を繰り返させるような勉強がそもそも間違いだと思います。
そんなん楽しい訳がありませんし、年号・事柄暗記したことで何の役にも立ちません。
”どういうコトが誰によって行われ、それによってどうなったのか?”を知るのが重要でしょう。
そこで、漫画、映画、ゲームなどという手段が考えられるのです。

日本史は多少自信のあるひでるさんですが、世界史についての知識は皆無です。
本を読もうと頑張ったこともありますが…あまり頭に入ってきません。
ただ、「ビサンツ帝国」に「アレクシオス」という王様がいた、というのは知っているんですね。
明確に記憶しているんですね。

それはなぜか?

…察しの良い方、その通り。
ゲームに登場していたからです。
(⇒光栄:「蒼き狼と白き牝鹿ジンギスカン」)
ちょっと調べると、ゲームに登場していた彼は「アレクシオス三世」で二代皇帝。
どうやら、あまり優秀な王様でなかったというのが分かります。
「ビサンツ帝国」というのも、「東ローマ帝国」の別称みたいでした。

そんな感じに、ゲームでの印象(人物絵ですね)がすぐ頭に浮かぶため、調べた際にも他の単語より遥かに頭へ入ってきやすいのです。
まぁ、ゲームやって「楽しかったー」でパチリと終わってしまっては何にもなりませんが。
(※それでも、後に授業などで見かけた際には普通より興味わくでしょう)

だから戦国史に興味を持ったら「大河ドラマ」とか「信長の野望(光栄)」をプレイするのが早道だし、平安期なら「暴れん坊少納言/かかし朝浩」という漫画。
鎌倉初期なら「源平合戦(光栄)」、幕末なら「お~い!竜馬/小山ゆう」、三国志なら「横山光輝」センセ、ナポレオンなら「ランペルール(光栄)」、フランス革命なら「ベルサイユのばら/池田理代子」…って、もういいですか。

ともかく、この様々に娯楽ある現代では、色々と学びやすい、その切っ掛けとなりやすい手段が存在しているのでした。
だいぶ長くなりましたが、そこで今回の漫画「かみあり」です。
前述しているように、めんどくさい感じなく世界の神様らを軽いタッチで描いているのが良い。
何も知らないより、後々になって絶対にとっつき易くなる筈です。
まぁ、歴史と違ってあまり勉学では必要ない知識かもしれませんが…。


※右:天使ガブリエル キリスト教では四大天使の一人。絵画などでも白百合を持っているようです。
※左:アガレス大公爵 悪魔の一人。ソロモン七十二柱の魔神なんだって。

欲を言えば、単行本には漫画から切り離した形での解説ページがほしかったところ。
いちおう説明もされているんですが、お話の中にある場合は虚実混ざっているため、鵜呑みにし辛いのですよ。
ほら、バカボンで「西から昇ったお日様が東に沈む~♪」という歌がありましたけど、実際はその反対ですよね。
…うー、この例えいまいち相応しくないですが、そんな感じ。
漫画としての演出・現実が区別つきにくいものはあると思うんです。
こちらの「かみあり」はかなり分かり易く描かれていましたけど。

神様単独の紹介は無論のこと、たまにその周辺事情まで裏話ちっくに描かれているのが最大のオススメポイント。
他ではなかなか見られないタイプで、微妙な隙間を突いたような漫画でした。
神様について興味を持った方、これから勉強したいと思っている方は、息抜きにでも読んでみるのがいいのではないでしょうか。





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※漫画から、詳しく知りたくなったらこちら。
 入門書として読みやすいようです。

国人衆、誠豊を擁立する (山名祐豊・豊国)4

2009年08月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえずは山名氏の歩みである“山名氏とはなんぞや??”の4回目をお送りしております。

清和源氏から続く山名氏。
室町幕府初期頃には「山名一族は六分の一殿」と言われたほどの権勢だったものの、三代将軍「足利義満」に三ヶ国とさせられてしまうのです。
「嘉吉の乱」に活躍して勢力を回復させた「山名宗全(持豊)※写真」でしたが、「応仁の乱」に長期関わったことで山名一族は急速に衰退。
各国の支配は不安定になってしまうのです。


さて、後を継いだ「山名政豊」は六角氏討伐に従って戦功をあげたほか、京の政変でも活躍。
しかし、「応仁の乱」にて播磨を回復していた赤松勢に挑んだ合戦では初戦こそ勝利したものの、文明十七年(1485)の蔭木城合戦、そして文明十八年(1486)の英賀合戦にて敗北。
特に但馬の有力国人であった垣屋氏は、この合戦にて一族に多大な被害のあったことから政豊と不和となり、山名家中に混乱を招くのでした。

政豊は晩年に「山名致豊」を溺愛して嫡男「山名俊豊」と争うなど、自ら混乱の火種を巻く失策を重ねてしまったのです
こうした事が、後に「山名四天王」と呼ばれる大田垣氏、八木氏、垣屋氏、田結庄氏ら有力国人衆の独立・反乱を招く原因となるのでした。

永正元年(1505)
ついに但馬国気多群の国人「垣屋続成」が此隅山城を攻めるという事態にまで発展。
さらに永正九年(1512)には、その「垣屋続成」・「垣屋続成」親子が但馬の有力国人らと謀って後継者であった「山名致豊」に反乱。
「山名誠豊」を擁立した国人衆らは、なんと致豊を放逐してしまうのです

そう、当時の守護大名というのは普通に想像する(※戦国大名ね)ような主従関係ではありません。
有名なところでは甲斐・武田氏の例があります。
力によって国人衆を支配した「武田信虎」は家臣団らに擁立された嫡男「武田晴信」によって追放されます。
自らを脅かす、または頼りにならない領主は認められないのです。
擁立された「山名誠豊」にしても、とりあえずトップに据えただけのこと。
誠豊が即支配力を発揮することはなかったのです。

そんな訳で有力家臣であった、垣屋氏、太田垣氏、八木氏らは、守護・山名氏の衰退によって独立傾向を強め、国内に割拠していくのです。
轟城を中心に支城を形成した垣屋氏は気多群に加えて竹野郡にも勢力をもったほか、太田垣氏は竹田城を、八木氏は八木城をそれぞれ中心として独自の勢力を広めています。
しかし、結局他国のように山名氏に代わって国を統一するほどの勢力は現れず、後に織田氏によって占領されることとなるのです。

⇒ つづく
 次回は「祐豊、悲願の因幡但馬を統一」(5/8)

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※試しに山名氏でプレイ(※DS2ね)しましたが…なかなか上級編な感じでしたね。
 周辺大名は強いし、丹後攻めても利益ないし…。
 こちらは最新版です。やる暇ないかなぁ。

”赤入道”こと宗全・登場 (山名祐豊・豊国)3

2009年08月13日 | 歴史
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とりあえずは山名氏の歩みである“山名氏とはなんぞや??”の3回目をお送りしております。

清和源氏から続く山名氏。
室町幕府初期頃には、「山名一族は六分の一殿」と言われるほどの巨大勢力でした。
しかし、権力強化を目指した三代将軍「足利義満」によって、わずか三ヶ国とされてしまうのです。
所領は減少したものの、幕府からは「侍所」の職を得た山名氏。
赤松、京極、一色氏と並んで三管領家に次ぐ四職家の筆頭として、中央政治に参加することとなったのでした。


ここで登場するのが、”赤入道”と呼ばれる「山名宗全(持豊)※写真」でした。
幕府討伐軍の主力として、「嘉吉の乱」に活躍。
但馬より南下した宗全率いる山名勢は赤松方の城を次々に陥落させ、総大将「赤松満祐」を討ち取るなどの大功をたてたのです。
この功によって、山名氏は失っていた勢力を大いに回復させたのでした
因幡、但馬、伯耆という旧来からの土地に加え、
伊賀、播磨、美作、備後、備前、石見、(安芸?)…など、新たに守護職を得ております。
こうして幕府の実力者となっていた宗全は、八代将軍「足利義政」を確保して幕府にて権力を握ったのです。

応仁元年(1467)
しかし、管領家であったライバル細川氏がそれに対抗。
山名・細川という幕府の実力者、そして将軍家の確執、斯波・畠山などの権力闘争が幾重にも重なった「応仁の乱」に発展するのです。
この大乱に「山名宗全」は西軍の主将として各国から一族を集めて参加するのでした。
まぁ、ここは以前もやっているのですっ飛ばしますね。

ともかく、ただ消耗するだけで利のない不毛な戦に十一年もの間かかわったことで、山名一族はまた急速に衰退。
宗全と共に「嘉吉の乱」から活躍していた有力者「山名教之」も文明五年(1473)に死去。
山名氏を代表する両者の死は、一族の結束を大いに揺るがすこととなったのでした。
(※教之の子「山名豊之」もほとんど京で過ごしたため、伯耆国は急速に不安定な情勢となったようです)

各国の守護という名目は残っていたものの、宗全の孫「山名政豊」が継いだ際には各地の反乱などがため、支配は不安定なものでした。
特に下剋上の風潮というのは中国地方に強く、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏、備前の浦上氏、そして宇喜多氏…など、勢力を拡大させていくのは新興勢力ばかりなのです。

⇒ つづく
 次回は「国人衆、誠豊を擁立する」(4/8)

[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
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※下剋上です。
 そう、戦国の中国地方は強敵揃いなんですよねー。
 ゲームとかでも、皆さま苦戦しているでしょう。

”六分の一殿”であった山名一族 (山名祐豊・豊国)2

2009年08月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえずは山名氏の歩みである“山名氏とはなんぞや??”をお送りしております。


清和源氏を祖とする山名家。
南北朝時代に活躍した新田氏の同族で、「新田義範(にった・よしのり)」が山名氏を称したのが始まりなのでした。

さて、時代は進んで南北朝時代という延元二年(1337)
ここで伯耆国に「山名時氏(やまな・ときうじ)」が登場しました。
南朝方を追って功を立てた時氏は伯耆守護となり、混乱の時代に乗じて山陰地方に勢力を拡大。
各勢力を渡った末に、”請われて室町幕府へと帰順した”のです。
そうなんです、「ぜひウチの勢力に…」と幕府に言われるほど、当時の山名家には実力があったのです。
スゴかったんですよ!!

山陰地方に勢力を拡大させていた山名一族。
室町時代初期(※室町幕府は延元元年(1336)ね)である、明徳二年(1391)頃になると、
嫡男「山名師義(※時氏・嫡男)」は丹後・伯耆。
次男「山名義理」は紀伊。
三男「山名氏冬」は因幡。
四男「山名氏清」は丹波・山城・和泉。
五男「山名時義」は美作・但馬・備後。
孫「山名満幸(※時氏・孫)」は播磨。
(※多少前後ありますが、だいたいそんなん)
…と、いうように、
”山名一族にて十一ヶ国の守護職を得る”という、幕府最大の守護大名となっていたのです。

「山名一族は六分の一殿」
(※当時の日本が六十六ヶ国であったことに由来する)

そんな事を言われるほどの大勢力となるのでした。
しかし、それほどの権勢は当時将軍権力の強化を図っていた「足利義満」の恰好のターゲットとなり、細川氏、斯波氏、土岐氏に続いての目標に選ばれてしまったのです。
嫡男「山名師義」の死を切っ掛けとした内紛は義満に利用され、一族で争う「明徳の乱」が勃発するのでした。

明徳三年(1392)
「明徳の乱」を一族で争った後には、
「山名時熙」に但馬。
「山名氏家」に因幡。
「山名氏幸」に伯耆。
…と、義満の思惑そのまま、わずか三ヶ国までに衰退させられてしまうのです。

このように規模は縮小させられたものの幕府から「侍所」の職を得たようで、赤松、京極、一色氏と並んで三管領家に次ぐ四職家の筆頭として、中央政治に参加することとなったのでした。

⇒ つづく
 次回は「”赤入道”こと宗全・登場」(3/8)


[関連記事] 【室町時代セット】
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⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
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※山陰ですね。
 まだ行ったことないので、ぜひ時間を取りたいんですが…。

 

没落の名門家・山名氏 (山名祐豊・豊国)1

2009年08月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、但馬国(兵庫県北部あたり)の名門家である山名氏です。
清和源氏を祖とする山名氏を語るには…通常ならば最も活躍した室町時代なんでしょうけれど、今回は「鳥取城合戦」をやりたいがため、無理矢理戦国時代の山名氏にスポットを当ててみました。
弱肉強食の乱世をどう生き抜いたのか、ぜひじっくりとご覧くださいませ。


京を舞台とした戦乱「応仁の乱(※写真)」では、一方の大将であった大大名である山名氏。
しかし、戦後は内乱に悩まされて大いに勢力を失い、一時は数ヶ国もあった支配地域もわずか本拠である但馬国と因幡国を維持するのがやっとである状況になってしまうのです。
西からは尼子氏、毛利氏、そして東からは織田氏が迫る中、山名氏の決断は!?
…と、言う訳で、まずは軽く“山名氏ってなんぞや??”をお送りいたします。

 【 おまけ:山名氏 略系図 】

清和天皇
 ↓
<略>
 ↓
義重(新田氏祖)
 ↓
義範(山名氏祖)
 ↓
<略>
 ↓
時氏
 ↓
時義-義理-------氏冬-氏清-師義
 ↓                ↓        ↓
時熙-氏幸          氏家    満幸-義幸-氏之
 ↓                ↓              ↓
持豊(宗全)          煕貴             煕之
 ↓                ↓              ↓
教豊-是豊-勝豊     勝豊(煕貴・養子)     教之
 ↓                ↓
政豊-豊保          豊時----豊重---豊頼    
 ↓                         ↓      ↓
致豊-俊豊------誠豊       豊治    誠通(久通)
 ↓               ↓                ↓
豊定--豊弘---祐豊(誠豊・養子)       豊成-豊次
 ↓               ↓
豊数-豊国       棟豊-堯熙
      ↓              ↓
     豊政-豊義        堯政


…さっすが名門家ですねー、人が多い(笑)
これでもだいぶ省略したんですけれどねぇ。
ともかく、この後に色々と名前が登場するため、よく分からなくなった際にはこちらを参照ください。

さてはて、清和源氏を祖としている名門の山名家。
八幡太郎で名高い「源義家」のひ孫である、「新田義範(にった・よしのり)」が上野国多胡郡山名郷(※群馬県高崎市)に住み、「山名三郎」と称したのが発祥と言われています。
義範は御家人として大いに活躍したようですが、その後の山名氏は歴史から姿を消し、一時不確かとなるのでした…。

⇒ つづく
 次回は「”六分の一殿”であった山名一族」(2/8)

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※じわじわ読んでます。
 広いのはいいですが、ちと浅すぎるかなぁ…初心者向けでしょう。

虚空蔵菩薩 (仏像・菩薩)

2009年08月02日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
今回は「虚空蔵菩薩(こくうぞう・ぼさつ)」さまなのです。
はい、”誰も知らない仏像シリーズ”ですね。
実は…たぶんそこそこ目にしている筈なんですが、あまり知られていない方だと思います。
なんというか、記憶してどうのって感じでもないんですよねー。
…失礼ながら。

さて、
”虚空のような広大無辺である、ことごとく無量の法宝をもって、広く衆生に利益を与える”
…という、「虚空蔵菩薩」さま。
うーん、そのままでは毎度のことながら分かり辛いですね。
簡単に書いてみると、
”やたらめったらに広い(無限?)知恵と慈悲によって、皆の願いを叶える”
という方なのです。
梵名「アーカーシャガルバ」には、インドにて虚空の母胎、そしてを意味しているそうです。
本体は宇宙?というくらいに巨大な宝庫のイメージなのでした。
(※その宝庫から皆になんらか差し上げる、という感じ)
凄いですね。
広大な福徳・知恵と慈悲で知られている方なのです。

日本では福智を授かるための信仰が盛んで、天平時代(729~749)という古くから信仰されていました。
特に「求聞持法(ぐもんじほう)」という行法の本尊として有名なの。

さて、こちらの「求聞持法」とは何なのか?
簡単には記憶力の増強術みたいなもの。
集中力が養われ、”見聞きしたこと”は無論のこと、”教法を忘れない力が授かる”という僧には大変ありがたい秘法なのでした。
「求聞」とは、見聞きしたことを忘れない知恵を意味しているそうなのです。
その条件は「虚空蔵菩薩」の真言「おん、ばさら、あらたんのうおん」を百日、あるいは五十日の間に百万回唱える~という難行を全うすること。
(※なお、詳細には色々と決まりがあるようですので注意)
百日で考えると、一日一万回の計算です。
…微妙にできそうですが、こりゃ飽きるだろうなぁ(笑)

なお、この行法は「大安寺」の僧「道慈(どうじ)」によって、奈良時代頃に唐より伝来したものでした。
若き日の「空海」も体得しており、彼の著作にて「求聞持法を得て目前に明星が出現した~」というようなことを書いているのでした。
(※その明星が「虚空蔵菩薩」の化身ではないか?ということね)
さらに平安時代末期の説話集「今昔物語」にも、次のようなエピソードが書かれています。

比叡山に学問のなかった僧がおりました。
その元に「虚空蔵菩薩」が女身に変じて学問を勧めたところ、後には山内第一の学僧になったのでした。
まぁ、だいたいそんなん。
ひでるさんには女の子の応援に発奮した…と読み取れるんですが、それはそれ。
ともかくもこのようにして宣伝され、貴族などの間で広まっていったのでした

なお、学問というと…皆さんは「文殊の知恵」でおなじみ「文殊菩薩」さまを想像するでしょう。
確かに似ている2人なんですが微妙に意味が異なっており、
”知恵の量、経験の深さからくる思考力”、考える力が増えるうんぬんというのが「文殊菩薩」
一方の「虚空蔵菩薩」は、知識の量に加えて”技能や芸術に関する才能が対象”になっているそうです。
…要するに、専門知識が広がるってーことですかね。
そんな訳で、特に職人・芸人から信仰されていったのでした。

さて待望の見分け方ですが、
満月中の蓮華上に半跏座。
左手に「如意宝珠」をのせた白蓮華、右手には五指を下げた「与願印」
頭に宝冠…というのが「求聞持法」での「虚空蔵菩薩」
これが「胎蔵曼荼羅」になると、右手が宝剣に変化しておりました。
(※虚空蔵院の主尊。釈迦院では後方ら配置)
ともかく、仏格化の元であるという「如意宝珠」がポイントになってくるようなんですが、持物はだいたい一定していないようです。
なかなか難しいですね。

奈良時代に建立されたという、京都・法輪寺は「虚空蔵菩薩」が本尊。
平安時代から「十三まいり」など霊場として有名です。
ほか、伊勢・金剛証寺、福島・円蔵寺と共に”三虚空蔵”とされているのでした。

なお、五名揃っている場合は知恵を五方に配したという「五大虚空蔵菩薩」となります。
「金剛界五仏」の変化した姿を現しているとのことでした。
こちらは京都・神護寺の多宝塔にある、平安時代の国宝が有名なのです。




[関連記事] 【観音・菩薩などいろいろ】
⇒ 仏像の種類 (お父さんのための仏像講座) [前編] [後編]
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⇒ 如意輪観音
⇒ 馬頭観音
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