お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

まつさん[芳春院]・後編 (京都・芳春院)

2006年02月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は加賀百万石の祖、前田利家が妻まつさんの眠る京都は大徳寺芳春院です。
その後編。

美人と有名な信長の妹、お市さまをセレブ出身のモデルだとすると、秀吉の正妻ねねさん
近所の親しみやすいお姉さん。
そうすると、文武に秀でた聡明で快活なまつさんは活発な委員長タイプですか。
何やらせてもよくできるのよ、またそれを自慢しないのね。…そんな感じ。
利家もいい奥さまもらったものです。
大河ドラマのタイトルに抜擢されるだけのことはあるんですよ、この方。

さて、豊臣政権下では徳川家康と並ぶ人望と実力を兼ね備えた前田利家。
譜代の家臣団を持たない秀吉にとって、親友である利家の存在は非常に大きいものでした。
(また、秀吉は故意に彼を家康と同等に扱っていたようです)
特に弟の小一郎秀長が死亡した後は、利家は心を許せる数少ない人物となっていたようです。
「夢で信長が出てきて、お前もこっちこい、とひきずられた」
なーんて、見た夢の話まで彼にしたりしてます。

秀吉の死後、台頭してくる家康に唯一歯止めをかけれたのも利家でした。
がしかし、その利家も病によって秀吉の死後一年でこの世を去ります。
加賀大納言前田利家 享年六十二歳。(※ちなみに当時の家康は五十九歳)

関ヶ原合戦の発端は上杉家に謀反の疑い、と家康が難癖をつけたところからですが、その前に
ターゲットとされていたのは前田家でした。
前田家に謀反の疑い。
”家康・加賀征伐”の風説が流布されました。
当時家を継いでいた利家の子前田利長は驚き、一時は戦備を整えたりもしますが、老臣に諫め
られ、とりあえず家康へ陳弁に向かいます。
そこで条件として出されたのが生母芳春院を江戸に向かわせることでした。
人質という訳ですね。そりゃ、利長も困惑します。

「私のことで家をつぶしてはなりません。捨てたとでも思いなさい」

まつさん、そう言って自ら望んで江戸に赴いたそうです。
江戸での人質生活はなんと十五年間も続きます。
しかも、そこでただ大人しくしてた訳ではありません。前田家存続のため、亡き夫に代わって文字
通り粉骨砕身するのです。
特に熱心だったのは、関ヶ原で西軍についた次男利政の復権のため、懸命に働き掛けをおこ
なっています。その際の手紙は数多く現存しております。
いい奥さまはいい母親でもあったんですね。
前回冒頭の台詞といい、今回の人質として下向する際の台詞といい、まさに戦国期を生き抜いた
女性といえるのではないでしょうか?


[住所] 芳春院 京都市北区紫野大徳寺町(※通常は非公開です)


人気blogランキングへ
週刊ブログランキング
↑参加しております。気に入ったら押して下さい。


温泉宿予約は「楽天トラベル(旅の窓口)」
【e-Hotel】出張からレジャーまで、安心・お手軽宿泊予約
↑今はネット検索・予約でラクチン!旅行へ行くなら。

最新の画像もっと見る