お寺さんぽ Ver.03

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鹿野山神野寺 (千葉)

2010年11月28日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は千葉県君津市は「鹿野山神野寺(かのうざん・じんやじ)」です。


ちょっと遠めでしたが、行ってきました。
付近には「マザー牧場」があり、多くの観光客で賑わっていましたが…今回の「神野寺」はそれよりさらに奥。
最寄の佐貫町駅から、バスで三十一分という山寺なのです。
寺領はなかなかに広く、宝物館もある古刹なので、ぜひ立ち寄ってみて下さい。

なんと開山は推古天皇・六年(598)のこと。
(※日本の元号は「大化」で645年なので、それよりもさらに古いのです)
千年以上の昔から存在する寺院なのでした。

こちらを開いたとされるのが、あの有名な「聖徳太子」です。
…ほんとかなぁ。
山号である鹿野山は、お寺を建立する際に鹿が集まってきたため。
自然環境溢れる山だったんですね。
なお、釈迦が悟りを開いた(※初転法輪[しょてんほうりん])の地サルナートは「鹿野苑(ろくやおん)」とも言い、やはり鹿が多くいるそうです。
ともかく、そちらにちなんで「鹿野山」と名づけられたのでした。

天安元年(857)には天台座主「慈覚大師」こと「円仁(えんにん)」が再興。
鎌倉時代まで、天台の道場として栄えました。
さらに永正年間(1504)では、付近の真里谷城主「真里谷信勝((まりやつ・のぶかつ)」の協力を得た真言宗の僧「弘範」が荒廃していたこちらを再興。
その後安房・久留里城から勢力を拡大させた「里見義堯」も「神野寺」に帰依し、こちらの再興を支援しました。

関東を支配することとなった「徳川家康」も同寺を支援。
軍勢などが乱暴すること、放火すること
…などを厳禁としたほか、格式十万石という大名格を寄進。
さらに、佐貫城主「内藤家長」には伽藍や僧坊の造営を命じるのでした。



現在の本堂は、宝永五年(1708)時の再建。
建造物のたいていは江戸時代のもの。

本尊は「薬師如来」、「軍荼利明王」の二尊。
こちらは秘仏で、十二年に一度の御開帳です。
奥の院には「飯縄大権現」が安置されており、天狗の大下駄などもあります。
ちなみに、残念ながらこちらも秘仏。
本堂内裏側には「聖徳太子像」、そして本尊「軍荼利明王」の化身とされる白蛇などが見られます。
宝物殿には、運慶作という仁王の面、鎌倉時代の「十二神将像」、なぜだか「中国武士俑」もありました。
色々と見どころがあり、寺好きは楽しめると思います。


[住所]
 鹿野山神野寺 千葉県君津市鹿野山324-1

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※里見氏…と言えば、やっぱりコレですね。
 犬神家ではありません。



イカス!戦国傘 織田信長バージョン (関連商品・J’sプランニング)

2010年11月21日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、ついに買ってみました「戦国傘」の「織田信長」バージョンについてです。

発見から、ずっと気になっていたこちらの商品。
歴史好きな方は思わず目を奪われますよね。
ちょうど使っていた傘がダメになったので、この機会に買ってみることとしたのです。

販売している「J’sプランニング」さんは、「戦国傘」と共に「幕末傘」というラインアップもありました。

その「幕末傘」
種類のうち「新撰組」は定番なのでよく分かります。
時代を象徴するような「坂本龍馬」というのも当然でしょう。

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ただ、もう一つが「黒船」って…書かれている文言は龍馬なので、船でなく龍馬の全身とかで良かったのでは?
(※坂本龍馬のデザインは顔のアップになってる)
まぁ、いいや。

「戦国傘」は「前田慶次」、「直江兼続」、「織田信長」、「真田幸村」という四名です。
うーん、兼続はずいぶん出世しましたねー
秀吉でも家康でもないのよ。
いかにもありそうだった「伊達政宗」がないというのも、ちょっと意外。

そのうち「前田慶次」は…別に好きではないのでやめ。
デザインもさすがに傾奇者らしく派手でした。
ちょっと町中では差し辛いよ。

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「直江兼続」も良かったんですが、なんだかミーハーな感覚なのでやめ。
ただ、デザイン的にはこちらが最もいい感じだと思います。

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「真田幸村」にも世間ほどの関心はないのでやめ。
ひでるさんはお父さん(昌幸)のが好き。

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…と、言う訳で、書かれている「敦盛」がステキな「織田信長」にしました。
あまり派手すぎず、かと言って地味でもなく、最も戦国ちっくですよねー。
もともと「戦国傘」と言って想像するのは「織田信長」デザインでしたし。


①到着
 どうやって届くかなーって思ってましたが、そうか。
 普通に長いダンボールでした。
 中に梱包材があり、しっかり固定されてます。


②全体
 全体はこんな感じ。
 傘袋がついており、持ち運びの際には背負うことができます。
 持ち手のが重いので、写真のように右に傾いていくのです。


③持ち手・先っぽのアップ
 材質は木になってます。
 特に持ち手部分はしっかり手にグリップされ、思わず縦に振り下ろしたくなる感じ
 ただ、太い持ち手部分に対して金属の中軸部分は細め。
 あまりぶんぶん振り回すと、つなぎ目部分からぐにゃってなりそう。


④外側
 黒にワンポイントな家紋が格好良いです。
 信長の代名詞という「敦盛」がまたいい味を出しています。
(ちなみに、↑の写真は内側から見た感じです)


⑤長さ
 これがかなり小さいのです。
 (サイズ: 本体 約820mm、傘部分 約550mm)
 ためしにコンビニなどで売ってる千円傘を並べましたが、そちらよりも小さいです。
 ちょっと出掛ける、車などに置いておく、程度な感じでは。
 
だいたいそんな感じ。
ぶっちゃけ、傘というのはハテナマークの部分であちこち引っかけられるのが実用的
その点、紐はあったものの、刀形状は様々場面で不便かと。
また、傘袋も手を添えないと持ち手部分が下がってきてしまうので、こちらも微妙。
特に濡れた傘を収納した場合、後ろの人に迷惑かけるかもしれません。
サイズも小さく、メイン傘としては不適当。
まぁ、半オモチャみたいなものなので、傘としてバリバリ使おうと考える人には不向きな商品です。
二本目、三本目のネタ程度に持つ感じでしょう。



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羅怙羅 (仏像・仏弟子)

2010年11月14日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「黄檗山萬福寺(京都・宇治)」の回でも唯一大きく取り上げました「羅怙羅尊者(らごら・そんじゃ)」です。


様々に表現される仏像たち。
見ていくと、アフロ状態のもの(五劫思惟)、割れてるもの(西往寺「宝誌和尚立像」)、裸像(新薬師寺「おたま地蔵」)など、たまに驚くようなものが見られます。
こちらの「羅怙羅尊者」も、やはり様々に表現される方なんですが…その1つがやたら独特で、そういったラインアップに匹敵するものでした。

初見はどこぞのお寺にあったポスターです。
ぱっかーとお腹を開いたその姿に、思わず目を見張ったことを覚えています。
もう、その場で即座にお寺名を携帯に登録してましたからねー。

そんな訳で、本日は「釈迦」の高弟である十大弟子・十六羅漢の一人という「羅怙羅尊者」について。
まず、お名前の漢字のうち、「ご」の部分は色々とあるみたい。
いちおう、「黄檗山萬福寺(京都・宇治)」での表記に従っています。



「釈迦」が出家前に妃「耶輸陀羅(やしょーだらー)」との間にもうけたのが、この「羅怙羅さま」です。
ヤルことやってんじゃない。
もう、やだなぁ(笑)

…しかし、彼の名前「羅怙羅」・梵名「ラーフラ」は、インド神話に登場する悪魔「ラーフ」から付けられたとされています。
日食・月食を起こす悪魔なんだそうな。
奥さまの懐妊を知った当時十六歳の「釈迦」は、誕生を喜ぶどころか”障害である”と称したそうです。
現代では社会問題になりそうな、トンデモな旦那ですね。
人生について深く考えていた彼にとって、子の存在は出家の障害だと感じたのでしょう。
あるいは、それが出家の切っ掛けである、とも言われてます。
(※後に二十九歳で出家)

成長した息子「羅怙羅さま」も父を慕い、後を追って出家することとなりました。
これには祖父の「浄飯王(じょうぼんのう)」も大いに悲しんだとされています。
まぁ、釈迦族の後継ぎが次々にいなくなるのだから、それも当然でしょう。
果たしてどこで育て方を間違ったのか…みたいな。



釈迦の実子ということで、彼は当然ながら人々から注目される存在でした。
「羅怙羅さま」もそれを認識し、人一倍の努力をしております。
(もっとも、小さいころは逆だったらしい)
決して驕ることなく、規律をよく守り、”戒行第一”と言われました。
人々の模範になったそうです。

ここからは仏像のお話。
十大弟子の像は単独というのがほぼなく、釈迦像の眷属としてつくられるのが一般的です。
また、それぞれ特に決まった形もありません。
ただし、前述したようにお腹開いた方がいれば、「羅怙羅尊者」で間違いないでしょう。たぶん。
修業によって得た真実の悟りの姿を見るように、と自らの腹を引き裂いてみせた姿だそうです。


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 石仏・五百羅漢像 千二百羅漢像 びんずるさま (仏像・仏弟子)


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※カワイイ絵柄ですね。
 こうしたので見るのが、最も頭に入るだろうなぁ。

弟・信長への反逆と臣従 (織田信広・後編)

2010年11月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もかの有名な「織田信長」のお兄ちゃん、「織田信広(おだ・のぶひろ)」です。

安祥城(あんじょう・じょう)を攻略し、西三河を支配した「織田信秀」
奪還を目指す「今川義元」の軍勢を第一次「小豆坂合戦」で撃退したものの、第二次「小豆坂合戦」では善戦したものの兵力差によって敗北。
安祥城を守備していた今回の主役「織田信広」も、「太源雪斎」の軍略によって捕縛されてしまうのでした。


捕虜となってしまった信広。
雪斎は織田方へ書状を送り、そちらに確保されていた「松平竹千代(松平元康・徳川家康)」の返還を求めたのでした。
「松平広忠(竹千代の父)」の急死で動揺する三河勢の支配を狙ったのでしょう。
こうして、尾張・笠寺にて人質の交換が行われることとなるのです。

天文二十年(1551)
安祥城を攻略されて西三河を失い、美濃での戦も敗退(※その後「濃姫」を迎えて和睦)、国内でも反乱者が出るなど混乱する情勢の中、父「織田信秀」は流行病によって末森城で死去。
享年四十二。
こうして、織田家は当時十六歳の「織田信長」が継ぐこととなるのです。

皆がよく知る通り、当時の信長は”尾張の大うつけ”として有名でした。
父・信秀の葬儀でも抹香を投げつけるなど粗暴な振舞いであり、国内は大混乱となるのです。
信長にとっては主筋にあたる守護代「織田信友」、松葉・深田の織田氏ほか、弟「信行(信勝)」など親族までもが、彼を侮って反逆しております。

弘治二年(1556)
「織田信広」は、「斎藤道三」を討って美濃を手に入れていた「斎藤義龍」と手を組み、緒将と同じく信長に抵抗。(※なお「長良川合戦」は弘治二年四月のこと)
信秀の有力武将であった信広にとって、この弟はやはり大うつけに映っていたようです。
信長が留守にした清州城を強奪しようと謀ったものの、露見して未遂で終わったみたい。

その後、旗色を鮮明にした信広でしたが、小競り合いはことごとく信長に敵わず降伏。
この反逆は許されています
そう、信長は”ホトトギス”から残酷なイメージ強いですが、いちおう殺すばかりではないんですよ。

これ以後は信長に従い、主要な各合戦にも参加。
特に上洛後には幕府・公家との折衝にて活躍していました。
時には、その名代にもなっています。
天正元年(1573)の十五代将軍「足利義昭」との確執では会合を実現するなど、和平に奔走していました。

一方、上洛後に信長との関係を悪化させた石山本願寺は、元亀元年(1570)に全国の本願寺門徒へ激を飛ばし、信長に対して挙兵を呼び掛けました。
いわゆる石山合戦です。
うち、伊勢長島では十一月に一向一揆が起こり、織田方の長嶋城を攻略。
続いて尾張・小木江城を囲み、城将「織田信興」を自害させています。
体勢を立て直した信長は苦戦しつつも北伊勢を攻略し、勢力を動員して天正二年(1574)には長島一向一揆を鎮圧。
和議を結び、開城に成功するんですが…信長の怒りはおさまっていなかったのです。

城を出た門徒に対し、織田勢は不意打ちを仕掛けたようです。
(※いちおう、一揆側に違反があったらしい)
これに激怒した長島一向一揆は本陣へ突撃をかけ、その際の混乱によって信広は討死してしまうのでした。
信長が男女二万人を焼き殺すという大虐殺をおこなうのは、この後のこと。

なお、信広に男子はおらず、娘は信長から絶大な信頼を集める家老「丹羽長秀」に嫁ぎ、嫡男「丹羽長重」を産んでいます。


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※信長の国内統一戦はドキドキで結構おもしろいと思います。
 どこまで史実なのかよく分かりませんが。