お寺さんぽ Ver.03

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地黄八幡の名将 「北条綱成」 後編

2008年04月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代では”北条ファンクラブ”なひでるさん。
今回もひき続いて、北条家武将でも随一と言って過言でないだろう、武勇に秀でた名将「北条綱成(ほうじょう・つなしげ)」さまなのです。

今川家から北条家へ鞍替えした「北条綱成」さま。
二代目「北条氏綱」にその才を認められ、気に入られた綱成はその娘婿となりました。
源氏の氏神であった「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」を深く信仰していた綱成さまは旗指物にもその名を刻み、「地黄八幡(じきはちまん)」として周囲に恐れられていたのです。


天文十年(1541)
北条家武将となってから、およそ五年程度が過ぎたころ…。
当主「北条氏綱」の死去後もその信頼は揺るぐことなく、三代目「北条氏康」とよく連携しておりました。
ここは想像ですが、同い年であったこともあるのでしょう。
二人の関係は良好なものであったようです。

さて、北条家最大の危機として知られる、天文十五年(1546)の「川越城夜戦」では、武蔵国・川越城の城主となっておりました。
関東管領、山内「上杉憲政」や扇谷「上杉朝定」、さらには古河公方「足利晴氏」までもが加わった連合軍は圧倒的な兵数によって十重二十重に城を囲み、一時は城兵共々華々しい討死を覚悟していたという綱成。

しかし、当主「北条氏康」は”絶対に綱成を死なせてはならん”とそれを思い止まらせるため、わざわざ彼の弟「竹千世」を城中へ潜入させたと言われております。

わが軍勢が到着するまで城兵が外へ打って出ないよう、くれぐれも自重するように…

圧倒的に劣勢であった氏康ですが、その智略を遺憾なく発揮し、幾重にも巡らされた策はことごとく成功。
また綱成も本軍の到着まで辛抱強く城を守りきり、なんと約半年という長期戦を耐え続けたのです。
氏康率いる本軍の夜襲に合わせて城外へ打って出た綱成勢は、大将の一人である「上杉朝定」を討ち取るという大逆転勝利を呼ぶのでした。

合戦後、氏康は綱成を招き寄せるとその活躍を絶賛し、「東国無双の働きなり」という言葉をかけたといいます。
なお、綱成は武蔵国の所領を北条家へ身を寄せてきた旧「上杉憲政」の武士らに与えてその心を掴んでおり、圧倒的に不利であった「川越夜戦」の際には綱成と共に奮戦していたようです。
単に武辺一辺倒の武者ではなかったんですね。

永禄七年(1564)の「第二次国府台合戦」では夜陰に乗じて忍びの者を放ち、里見勢の状況を逐一探らせております。
さすがに歴戦の武将だけあって、情報の重要さについても理解していたのでしょう。
これがためか、地の利を活かして戦況を優位に運んでいた里見勢を背後からの奇襲によって、逆転勝利へ導いております。

元亀元年(1570)には駿河・深沢城主として武田勢の主力と激突。
後にはやむなく撤退しておりますが、一度はよく守って相手を退かせるほどの活躍を見せています。

このように、北条軍の主力として常に戦場にあった綱成。
氏康の死後には出家して、「上総入道道感」と称したのでした。

なお、嫡男「北条氏繁」も父と似て武勇に優れ、武田勢侵攻の際も相模・玉縄城をよく守って活躍しておりました。
元亀二年(1571)に家督を相続。
(※はじめは氏康の一字を拝領として「康成」との名乗りでしたが、相続後には「氏繁」と改めております)
永禄十年(1567)では武蔵国「太田氏資」討伐・岩槻領を支配、天正六年(1578)には対佐竹氏として下総・飯沼城に入り前線の指揮をとっておりましたが、父に先んじて同地で死去。
さらに氏繁の嫡男、孫にあたる「北条氏舜(ほうじょう・うじとし)」は相模・玉縄城から武蔵・岩槻城主として活躍しますが、後に氏勝へ家督を譲っております。氏繁の二男「北条氏勝」は秀吉の小田原攻めでは伊豆・山中城を守備。落城後は「徳川家康」に従い、下総で一万石を得て北条を存続させるのでした…。

【 戦国メーター★北条綱成 】
 家柄: ■■□□□ もともとは付近の国人程度だったのでは?
 実力: ■■■■□ 戦闘では無類の強さを発揮しておりました。
 地理: ■■■□□ 大名ではないですが。京まではやや遠いかなぁ。



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⇒ 戦国メロドラマ劇場「岩村城攻防戦」[    
⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[    


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※そんな訳でこちらの本。
 うーん、もうちょっと評価されてもいいと思うのだけれど。

地黄八幡の名将 「北条綱成」 前編

2008年04月24日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
戦国時代では”北条ファンクラブ”なひでるさん。
今回プッシュするのは、北条家武将でも随一と言っても過言でないだろう、武勇に秀でた名将「北条綱成(ほうじょう・つなしげ)」さまです。

苗字が同じでも、即血族という訳でないのが武士らのややこしいところ。
このブログで何度か名前を出しているPCゲーム「信長の野望 戦国群雄伝」の発売は昭和六十三年(1988)のことでしたか。
もう随分昔のことなんですねー。
その頃、まだ歴史に疎かったひでるさんは、北条家など”同じ姓の武将だけを集合”させる遊びをしていました。
いわゆる一族郎党プレイですね(笑)
その際に主力となっていたのが、今回主役の「北条綱成」さまだったんですが…主家と直接に血の繋がりがなかったことを後に知って、大変驚いた記憶があります。
そう、この方はもともと北条さんでなく、福島さんだったのです。

永正十二年(1515)
北条家では三代目となる「北条氏康」が誕生した、ちょうど同じ頃。
後の「北条綱成」は、今川家家臣にして遠江・高天神城主「福島正成(くしま・まさなり)」の嫡男として誕生しました。
(※秀吉配下の彼と似た名前ですが、まったくの無関係ね。いちおう)
幼名は「勝千代」
大領主・今川家と共にすくすくと育つ…と簡単にはいかないのが戦国時代。

父正成は「今川氏親」の命によって甲斐へ侵攻したものの、「武田信虎」の迎撃を受け、あえなく討死。
…あるいは、氏輝の死後に勃発した家督争い「花倉の乱」にて、「今川義元」側ではなく「玄広恵探(げんこうえたん)」を支持したことで主家と不和(※皆様ご存じな通り、家督争いには義元側が勝利した)になり、甲斐へ逃走した際に「武田信虎」に攻撃されて討死。
という二説が伝えられております。
このうち、前説が真実であれば、わざわざ主家を鞍替えする必要もないような気がします。たぶん。
もし、後説が正しいのなら、時期としては天文五年(1536)頃のはずなので…。
そうすると、綱成は二十一歳。
とっくに初陣をすませ、働き盛りの立派な武将に成長していたと思われます。
北条家へ入った彼がすぐに気に入られているようなので、こちらのが正しい気もしますが…どうなんでしょう。

ともかく、父の討死後に北条家へと身を寄せた綱成。
ここで武士としての器量を二代目当主「北条氏綱(※写真)」に認められ、同じ「綱」の一字を拝領する栄誉を賜ると共に、娘を与えられて北条一族へと迎えられるのでした
おそらくは、幾度かの合戦にてその武勇を発揮したのかもしれません。
まったくの新参者であった彼を過度に遇しているところからも、氏綱の大変な気に入りようが伺えます。

天文六年(1537)から各地へ転戦したという綱成は、定期的に「八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)」へ戦勝を祈願しておりました。
戦場では陣頭指揮をとる勇猛果敢なタイプで、
勝った!!
と叫びながら敵陣へ突撃していたのだとか。
なお、五色に編成された北条軍では黄備を担当。
その有名な旗指物は”黄色い布地の四隅に八幡と書かれたもの”で、「地黄八幡(じきはちまん)」と称されておりました
武名は関東一帯にまで鳴り響き、黄色の旗を見た敵勢はそれだけで震えあがり、味方は出馬を知って大い勇み立ったとされております。


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※こちらですね。
 テンキー操作に慣れたひでるさんはマウス操作したくないんですが…。
 この点、なんとかならないもんかなぁ。

如意輪観音 (菩薩・仏像)

2008年04月20日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでるさんが好きな仏像の一つ、「如意輪観音(にょいりん・かんのん)」さまについてお送りします。
慈悲たっぷりな優しいお顔の如来、憤怒の形相で睨みつける明王など…。
さまざまに仏像はありますが、どれもが神秘的かつ厳格な雰囲気を漂わせておりますよね。ね?

そんな中、なんだかひとりヤル気なさげで、気だるい態度な方がいるというのはご存じでしょうか?
んだよ、かったりーなー
みたいな(笑)
必ずこういう人はクラスに一人はいますよね。
輪に加われない、あるいは自ら加わろうとしない人って。
なんと、仏像界にもそういった方がいるのです。
…と、ぱっと見はそんな感じの、ぷち自己中仏像こそが「如意輪観音」さまなのでした。

六観音の一人に数えられる「如意輪観音」さま。
(※六観音:1聖観音、2千手観音、3馬頭観音、4十一面観音、5如意輪観音、6准提観音)
密教が伝わった平安時代頃に、ほかの変化観音と共に広まっていったようです。

とりあえず、変な誤解  を解くために、名称の由来から。
お名前の”如意輪”ですが、これは「如意宝珠法輪(にょいほうじゅ・ほうりん)」を略したものです。
若者言葉みたいなもんですよ。
時代を先取りなのですぅ、というより、基本として人間は長いモノは略したくなる性質なのかなぁ…。
「火曜サスペンス劇場」が「火サス」、「ドラゴンクエスト」は「ドラクエ」、「こちら葛飾区亀有公園前派出所」なら「こち亀」、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」と言えば「イギリス」…って、例によって最後のは省略でないですね(笑)

意のまま、望むままに珍しい宝物を次々に出すというスペシャルアイテム如意宝珠。そして、煩悩を破壊する法輪という訳で、そもそもは二種類の言葉を組み合わせたものなのです。
かたや創造、かたや破壊という、ものスゴい両極端な組み合わせでしょ。
その如意宝珠はすなわち”福徳”、法輪は”知徳”ということで、そのまま”双方の威力を備えた神格である”というのが「如意輪観音」さまなのです。
梵名は「チンターマニチャクラ」
このうち、チンタは願望、マニは宝珠。そして、あるいはどこかで聞いたかもしれないチャクラは円を意味。
これらをまとめると、「如意宝珠法輪」ってなことになる訳なのでした。

世間(金銀財宝)、出世間(福徳智慧)という誰もがリアルに欲しい二つを満足させ、人々を苦から救う神様なんだそーな。
ぜひ、ご威光にすがりたいですね。天道の神様ともされ、星祭りでは本尊になるんだって。
その真言は「おん、ばらだ、はんどめい、うん」です。
これで財宝、良縁、安産、などが得られるそうですよ。

さて、お待ちかねの見分け方。
冒頭にも書いたように、あちこち特徴があるためけっこう分かりやすい方なのです。
頭上の宝冠、そして全て座像、しかもきちんと座ってない方がソレなの。
一見、半迦座に似ておりますが、右ひざを立て、その右足裏をあぐら状態の左足裏に合わせる「輪王座(りんのうざ)」という座り方をしているのが最大の特徴。
また、お名前・神格にあったように、右正面から見て左の手(右手の二番目)は胸のあたりに宝珠を持ち、右の手(左手の三番目)には肩上で法輪を持っております。
平安以降はほぼ一面六臂の姿で作られましたが、二、四、六、十、十二臂など様々。
右手を頬にあてる思惟のポーズが基本的で、奈良時代・平安時代には二臂像が多かったことから、弥勒菩薩と混同されたことがあったようです。

代表的なものでは、大阪は「観心寺・金堂」にある「如意輪観音」は平安期の国宝。
こちらは日本最古ながら保存状態もよく、非常に綺麗な仏像です。…残念ながら秘仏なのだけれど。
奈良県の「岡寺」は最大・最古(※時期不確かな様子)と言われる「如意輪観音」があるほかにも、作例としては非常に多いのです。
ちょっと注意深く見れば、石仏ほかあちこちで見かけるでしょう。


[関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
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「ひぐらし…」の「毒めぐ」、少女にみだらな行為で逮捕 (産経新聞)

2008年04月17日 | ネタ
こんばんわ。
週の真ん中ではしんどいですが、生モノなのでちょっとだけ。

さてはて、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)
本日は『 「ひぐらし…」の「毒めぐ」、少女にみだらな行為で逮捕 (産経新聞) 』です。

いろいろ書きたいことがあります。
とりあえず、↓コチラをどうぞ。

ひぐらしのなく頃に祭(通常版)

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■「ひぐらし…」の「毒めぐ」、少女にみだらな行為で逮捕
 [産経新聞] 2008年4月14日

女子中学生にみだらな行為をしたとして、神奈川県警横須賀署は14日、県青少年保護育成条例違反の疑いで、横浜市鶴見区駒岡の派遣社員、石井ショウ翔(めぐる)容疑者(25)を逮捕した。

 関係者によると、石井容疑者は猟奇的殺人事件を題材にした人気ゲーム「ひぐらしのなく頃に」のファンがつくる小説集で、「毒めぐ」というペンネームでイラストを描いたことがあるなど一部のゲームファンなどの間で人気があった。
 調べでは、石井容疑者は昨年11~12月、4回にわたり、同市内のホテルで当時中学3年だった東京都西東京市の高校1年の女子生徒(15)にみだらな行為をした疑い。
 石井容疑者は昨年9月、自身のブログに投稿してきた女子生徒を誘い出したという。女子生徒に現金約15万円を要求し受け取っていたともみられ、同署は余罪を追及する。
---------------------------------- 。。。


■「毒めぐ」イラストレーター、みだらな行為した疑いで逮捕
 [読売新聞] 2008年4月14日

 神奈川県警横須賀署は14日、横浜市鶴見区駒岡、コンピュータープログラマー石井ショウ翔(めぐる)容疑者(25)を県青少年保護育成条例違反容疑で逮捕した。
 捜査関係者によると、石井容疑者は昨年11~12月の計4回、同市港北区のホテルに、当時中学3年生だった東京都の私立高1年の女子生徒(15)を呼び出し、みだらな行為をした疑い。

 石井容疑者は、猟奇的殺人事件を扱った人気ゲームのファンが作った小説集に、「毒めぐ」のペンネームでイラストレーターとして参加。「ゴスロリ」と呼ばれるファッションでも知られ、一部の同人誌やゲームファンの間で絶大な人気があった。
 石井容疑者は昨年9月、自身のブログに投稿してきたファンの女子生徒に対し、「おれのことが好きなら金を持ってこい」と要求。ホテルに呼び出し、約15万円を受け取っていた。
---------------------------------- 。。。


いちおう、記事を二つ掲載してみました。
産経の記事では「ひぐらしのなく頃に」のタイトルがしっかり入れられております。
また読売の記事は、タイトルありませんでしたが、より内容が具体的になっておりました。

TVアニメーション「ひぐらしのなく頃に」イメージアルバム かけらむすび
TVサントラ,霜月はるか,風葉,片霧烈火,茶太,癒月
フロンティアワークス

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さて、このブログでは何度か書いておりますが、ひでるさんは「ひぐらしノイローゼ」くらい、このゲームがお気に入りです。
こちらのお話(ゲーム)はインパクトあって目立つ殺人事件の部分(出題編)ばかりがピックアップされます。
そこが非常に嫌でした。
まぁ、実際に私もどんなものか触れるまでは、そういう認識でした。
電話の呼び出し音とか、おっかなくなるとか聞いてましたから。

しかし、実際のところ、こちらのテーマとしては全然違うものです。
これに限ったことでないですが、物語というのは全体まで見ないとわかりません。

「ひぐらしのなく頃に」は自らの過ちを猛省し、仲間や周囲の人と協力して、力強く・物事を決して諦めず、困難へ立ち向かうお話なのです。
(※詳しくはゲームとか漫画などの紹介を参照してください)
残虐なものを喜ぶものではありません。
春の実写映画や、アニメでも第三弾が予定されているなど盛り上がっている中だというのに、泥を塗られてしまったようで残念です。

この方の絵は、たぶん…見たことないと思います。ファンの私でも。
彼が参加されていたのは、あくまでも”ファンが作った小説集”に過ぎず、実際のゲームなどでのイラストを描いていた訳ではありません。
…それでも、産経新聞のように書かれてしまうのです。

・猟奇的殺人事件を題材にした。
・人気ゲーム「ひぐらしのなく頃に」
・イラストを描いた。
・みだらな行為。

世間一般の人には、たぶんこうしたキーワードだけが頭に残るでしょう。
悲しいことですね。
一時期「自己責任」という言葉が飛び交ったことがありましたが、それを思い出しました。

…また、こうしたことを書くと怒る方がいるかもしれませんが……
だいたい、前の沖縄の件とか先頃の出会い系サイトの女の子もそうですが、危機感がないかなぁ。
今回の件もブログ内だけのやりとりで済ませていれば、絶対に事件には発展しなかった筈ですから。
どれがどーの、というくらいの分別があってもいいと思うのだけれども…。



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田谷の洞窟・体験記 定泉寺 (神奈川県横浜市)

2008年04月13日 | お寺
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本日は、魅惑の洞窟体験「リアル・ドラゴンクエスト」が楽しめる、神奈川県横浜市は”田谷の洞窟”で有名な「定泉寺」です。

ロールプレイングゲーム(※いわゆるRPG)をよくやられる方にはお馴染みな単語「洞窟」
ただ、実際にそちらへ入ったことがある方というのは、なかなかいないでしょう。…たぶん。おそらく。

やっぱり、物事というのは画面を眺めているだけでなく、実際に体験してみることこそが重要だと思うのです。
ぜひ、お寺好きな世の中のお父様には、ゲームをしているお子様の手を引いて、訪れてほしい場所ですね。

たづね入る 心深くば みほとけに
               あいなむ ここは 観法の洞

田谷の洞窟、正式には「田谷山瑜伽洞(たややまゆがどう)」と言います。
こちらは鎌倉時代の初期頃に開創(かいそう:初めてその寺を開くこと)された、鶴ヶ丘廿五坊(※二十五坊)の修禅道場なのです。

江戸時代までの間にちょくちょく拡張されたらしく、現在では上下三段、総延長1kmという、長さ壮大な規模となりました。
地質は粘板岩の巨大な一枚岩。
往時最先端な土木技術が使われたという合理的な構造で、あちこちの大地震でも崩れることなく、現在に至っているそうです。

本尊は「弘法大師」で、四国、西国、秩父、板東という各札所、両界曼荼羅諸尊、十八羅漢、五大明王などなど、洞窟内には数百体という仏さまらがおられます。
今も無言の説法を続けている」とはパンフの文句でした。

…と、当たり障りないことは誰も望んでいないと思いますので、体験記をば。



訪れたのは異常に暑かった真夏ではないですが、当日は快晴でじんわりとした暑さでした。

しかし、洞窟入り口付近に立つと、まるでデパート前のようにひんやりとした空気が…。
(※あれほど強烈ではないですが)
そう、洞窟内は実に心地よい涼しさで、どこからかのすぅーという涼しい風もありました。
あまり薄着であると、ちょっと寒く感じるかもしれません。

入り口にてローソクを灯し、それを片手に奥へ進みます。
ちょっと探検ちっくですね。
ドラキーとか、出てきそうですよ。(←でねぇよ)

実際は洞窟内はところどころに明かりがあるので、ローソクが消えても問題ないです。
しかし、道のいたるところにある訳でなく、またさほど明るい訳でもないので、そちらだけでは彫られた石仏もはっきりとは見えません。
やっぱり気分的にも、頑張って消さずに進む方が楽しい(笑)と思います。

…前述したように、洞窟内は風があり、歩く早さで火が消えたりするという、スリリングな感覚でした。
うまーく火を守らないと、あっさり消えちゃいますよ。

道が上下したり、凸凹していたり、水が流れていたり、と安定した足場ばかりではないので、ちょっと注意が必要。
特に女性の方は靴に気をつけて。ハイヒールだと転ぶぞ。

ゆっくり進めば三十分くらいかなー…、一人で行くとやや不安になるだろう程度の長さです。
結構入り組んでいるので、うっかりすると無限ループのようにぐるぐるしちゃいますので注意。
(※看板ありますけどね)


[住所]
定泉寺(田谷の洞窟) 神奈川県横浜市栄区田谷町1501
※アクセス:大船駅・観音側より戸塚バスセンター行き、洞窟前下車。
       徒歩でも問題ないですが、坂でそれなりに距離があるので覚悟が必要よ。

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⇒ 石仏の種類について (石仏・基本編)
⇒ 長安寺・五百羅漢像 (石仏・応用編1)
⇒ 箱根石仏群① (石仏・応用編2)
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⇒ 双体道祖神 (京都:道祖神社)


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ドラゴンクエストIV 導かれし者たち

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※そんなこんなで、洞窟と言ったらやっぱりRPGですよね。
 珍しく、お子様ねも楽しめるお寺だと思います。

姫若子の出陣「長浜合戦」~4:成長していた姫若子

2008年04月10日 | 歴史
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本日はこれまで当ブログでは一度もまともに触れなかった、戦国時代での四国のお話のラストです。
戦国ファンにはお馴染み、四国の覇者「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の初陣「長浜合戦」なのでした。


永禄三年(1560)
本山氏の属城・長浜城を急襲した父「長宗我部国親」はその奪取に成功。
長浜城陥落の急報を受けた「本山茂辰」はすぐさま二千五百ほどの兵を率い、奪還を目指して夜間ながらも進軍をしてきたのです…。

進軍する本山勢が二千五百ほどの兵力であったのに対して、当時の長宗我部氏が動員できたのはわずか千程度でした。
そんな両軍が夜半のうちから長浜城周辺の戸ノ本で激突するという、いわゆる夜戦であったようなのです。

戦の前、勇猛で知られる家臣「秦泉寺豊後(じんぜんじ・ぶんご)」より、
槍は敵の眉間あたりを狙って突くように
大将は先頭で戦ってはいけず、また逃げ出してもいけない
というように、直前で手ほどきを受けたという有様だった元親。
…まったくの初心者ですね。
一説には、連れてきた父・国親すら、”戦力外に考えていた”と伝えられています。ひでえ。

さて、戦は兵力で劣る長宗我部勢の踏ん張りにより、一進一退という有様でした。
付近には無数の死者が散乱するという、激戦・乱戦になっていたようです。

しかし、ここで五十騎ほどの精鋭を率いた元親は、果敢にも敵部隊に対して真一文字に突き進んでいったのです。
その戦いぶりは、これまでの柔和な様が嘘であるかのような、激しいものだったとされています。

人は命よりも名を惜しむものぞ、一歩もここを退くな!

そう鼓舞された兵は勢いを増し、また”嫡男を討たせまい”と本軍より繰り出された兵によって本山勢は大きく崩れ、結果として勝利のきっかけとなる華々しい戦果を上げるのでした。
この若君の意外な活躍に、家臣団は驚くと同時に、頼もしく感じたと想像されます。

…なお、これらは父・国親のパフォーマンスで、華々しく息子をデビューさせるための作戦だった、という説もあるようです。
それが真実ならば興味深い話なんですが、わざわざ初陣を遅らせたり、その素質が微妙であるかようにするのはどうかなぁ…。
だいたい、子供がそうそう演技できるものでないと思うし。
さらに、武田家、織田家の例にもあるように、当時の家臣団は下手をすると大名を追い払う、討ち倒すことさえしておりました。
江戸時代のような忠誠という概念はまださほどありません。
そんな状況でしたから、わざわざ家中を混乱させるようなことをしたとは思えないのです。
ついでに、当時の長宗我部氏はまだ弱小領主でしたから、そんな余裕はなかっただろうと推測します。

初陣がやたら遅かったことを踏まえると、やはりしっかり成長するまで温存しておいた、というのが本当のところではないでしょうか。
また当人としては、自らの批評を覆すべく「今に見てろよ」と密かに闘志を燃やしていたと思うのです。
それが果敢な初陣に繋がったのではないかなぁ。

合戦は嫡男元親の活躍もあって長宗我部氏の勝利となりました。
がしかし、程なくして病を得た父国親はそのまま死去してしまうのです。
後継は元親が継ぐこととなりました。
しかし、姫若子と呼ばれていた大将が大器の片鱗を見せたためか、さほどの混乱はおきなかったと伝えられています。

”土佐はいうに及ばず、四国の主ともなるべき大将の器である”


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「霊視は荒唐無稽」江原啓之さん出演番組、制作の誤り認める (毎日新聞)

2008年04月06日 | ネタ
ども、こんばんわ。
ブログでは、四国の覇者「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」くんの初陣途中ですが…ごめんなさい、ちょっとだけ。

さてはて、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)
本日は『 「霊視は荒唐無稽」江原啓之さん出演番組、制作の誤り認める (毎日新聞)』です。

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やっぱりインパクトある記事なので取り上げる方も多いとは思いますが、こちらでも。
あちこちで話題になっていた事柄に一応の決着がついたようです。
とりあえず、↓コチラをどうぞ。


■「霊視は荒唐無稽」 江原啓之さん出演番組、制作の誤り認める<フジテレビ>
 [毎日新聞] 2008年4月3日

 フジテレビは2日、昨年7月に放送した「FNS27時間テレビ」の中でスピリチュアルカウンセラー(霊能師)の江原啓之(ひろゆき)さんが女性の同意を得ずにカウンセリングしたことについて、「一番の問題点は非科学的、荒唐無稽(こうとうむけい)な霊視を番組の中核に置いたこと」と、番組制作の誤りを認める報告書をホームページで公表した。

 番組のコーナー「ハッピー筋斗雲」では、江原さんが「女性の亡くなった父の声」とする言葉を基に女性を批判。
 フジは報告書で、「霊視を全体として肯定的に扱っているとの批判は免れがたい。バラエティー番組だから許されるレベルの問題ではない」とした。

 「放送倫理・番組向上機構」(BPO)の放送倫理検証委員会が今年1月、「『おもしろさ』『わかりやすさ』をよりどころとし、出演者の生活への影響を考えていない」とする意見書をまとめている。
 【丸山進】
---------------------------------- 。。。


どうですか、こちらの記事は?
ひでるさんははっきり言って、スピリチュアルだの、オーラだのは信じてません。
おそらく、江原さん出演の番組を見ている大多数の方も、同じ感覚だと思うんですが…。たぶん。どう?
やっぱり適度な演出があった方がテレビ的ですもんね-。
ほら、多少意味合いは異なりますが、デーモン閣下と同じようなものでしょ。(←かなり違うか)

それを、まだ影響力が多分に残っている真っ当なニュースの文面にて、”荒唐無稽”という切り捨てはあまりに酷い。

レギュラー出演しているテレビ朝日「オーラの泉」も深夜枠の頃は時間が合ったので視聴していましたが、ゴールデン枠への移動後はほとんど見れなくなってしまいました。
この時間帯の移動について、ひでるさんは「どうかなー」と考えてました。

事件のそれは局が違いますが、こういうのはなんというか”それはそれ”、という大人な対応というか…”阿吽の呼吸”を心得た人以外に見せるべきではないと思ったのですよ。
(※ちなみに、時間帯の移動については美輪さんも大反対したとかなんとか聞きましたが、こういうのを予見してたのかなぁ…)

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江原さんの名乗りは確か「カウンセラー」でしたよね。
まぁ、「霊能力者」っぽい言動も多いですが、別にことさらそちらを強調してはいないのだし。
そのあたりは個人が信じる・信じない程度のもので、一番に訴えようとしているのはそんなんじゃーないでしょ?

おそらくは、最近の日本人に欠けている、忘れかけている、ごくまっとうな事を再認識して、より良い人生を送るためのアドバイスを発信しているのだと思っています。

前述したように、ひでるさんは信じていた訳でなく、そんなんも分かっちゃいた事なんですが…ああして書かれるのは楽しんでいた身に後味よいものではありませんね。
だからと言って、見なくなる訳でないですが。

近年の日本では、”何から何まで根掘り葉掘りとほじくり返すマスコミの存在がため、ヒーローが生まれにくい世の中である”とか、どちらかで聞きましたが、その通りだと思うのですよ。


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姫若子の出陣「長浜合戦」~3:ついに初陣、姫若子

2008年04月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はこれまで当ブログでは一度もまともに触れなかった、戦国時代での四国のお話なのです。
戦国ファンにはお馴染み、四国の覇者「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の初陣「長浜合戦」なのでした。


土佐で勢力をもつ一条氏のもとで成長した元親の父「長宗我部国親」はお家再興を目指して勢力を拡大。
そんな国親は待望の嫡男を得るんですが、嫡男元親は「姫若子(ひめわかご)」というあだ名をつけられてしまうような、武将らしからぬ子であったのです…。

しかし、幸運にも男児には恵まれた国親父さん。
彼は中国毛利氏と同様に”自らの息子たちを各家の養子に出して家督を相続させ、その勢力を巧みに取り込む”というようなことをしています。

軍事・外交という両面で才を発揮することとなる三男「親泰」を香宗我部氏へ送り込むことに成功。
また、後に卓越した軍事才能で活躍する次男「親貞」は吉良氏(※これは国親没後のことなので、元親の命である筈)を相続して、勢力の拡大にそれぞれ貢献することとなるのです。

そうした優秀な弟たちがおりましたが、肝心の嫡男・元親は前述したようにどこか頼りなく、家臣からも侮られていたと伝えられております。
武将としての片鱗も見られず、十八になってからようやく兵法書に興味を持つという有様だったのでした。
(※もっとも、それ以来は手放さずに熟読していたようですが)

一方、なかなかの切れ者であった父・国親は地道に勢力を蓄えておりました。
宿敵・土佐郡朝倉城の本山氏には一条家の指示もあって嫡男「本山茂辰(安政)」へ娘を嫁がせておりました。
…が、その一門衆として表面上は従う一方で、領土をじわじわと拡大させる動きそのまま長岡・香美などを制圧していくのです。
そして、武勇に優れた「本山茂宗」が没すると遂に反旗を翻し、「本山茂辰」と対立することとなったのでした。

さて、永禄三年(1560)
本山氏の属城・長浜城を国親が急襲して、城主「大窪美作守」は命からがら撤退。
その奪取に成功しました。
長浜城陥落の報を受けた「本山茂辰」はすぐさま二千五百ほどの兵を率い、奪還を目指して夜間ながらも進軍をしてきたのです。

この軍勢を迎撃するために激突したのが、元親の初陣「長浜合戦」なのでした。
…長らくお待たせしました、ようやくここからが本編なのです(笑)
(ひでるさんも何を書いていたのか、途中で見失っておりました。わはは)

通常なら、初陣は十代なかば程度に済ませるのが普通。
それを、二十一歳という、当時からすれば異常なほどの遅さで初陣することとなるのでした。
なお、こちらの戦では二歳違いの弟「親貞」も初陣だったようなのです。(←要するに、それだけ遅いってこと)

⇒つづく
 次回は「成長していた姫若子」(4/4)

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