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炸裂!釣り野伏! 「耳川合戦」3

2006年09月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も九州覇者決定戦とも言うべき島津・大友の激戦「耳川合戦」をお送りいたします。
ちなみに、今回初めての試みとして、エクセルで「合戦図」を作ってみました。
宜しければ、そちらもご覧下さいませ。


さて、川を渡って攻撃を仕掛けてきた大友勢を川岸にて防ごうとした島津勢ですが、先鋒「北郷久盛」隊が崩されます。
これで勢いを得た大友勢は一気に突撃を開始しました。
島津勢大ピンチ!!……と思いきや、これが得意戦法「釣り野伏」の罠だったのです!!
さて、「釣り野伏」とはどんなもんでしょう?


★ おまけコラム 島津得意の「釣り野伏(つりのぶせ)」戦法 ★

 十四代「島津忠良(日新斎)」から続く島津の得意戦法で、寡兵をもって大軍にあたる際によく用いられました。
 その注目の戦法は以下の通り。
 野戦の名手であった島津ならでは、というぎりぎりの戦法です。もともと少ない兵をさらに分割することは、一歩間違えると致命的になるでしょう。

1)  まず、おとり部隊を使って、敗走したように敵を引き付けます。
2) 好機と判断した敵軍が一斉に突撃してきた頃合を見計らって、伏兵部隊より側面を攻撃。
3) 混乱した敵軍に、左右・中央の三つに分けていた主力部隊から攻撃・包囲殲滅するというもの。


……と、いう訳で、続きです。
縦に伸びた大友勢の側面を突如島津の伏兵部隊が襲いかかりました。
この思わぬ奇襲によって、大友勢の各隊は混乱してしまいます。
ここで、沈黙していた島津の本隊・両翼部隊が一斉に反撃を開始し、さらに高城を守備していた「山田有信」も背後から突撃をするのです。

もともと総大将不在で指揮系統が乱れていた大友勢は乱れ、混乱・逃走する兵は散々に討ち取られ、また冬を控えて冷える高城川(耳川)には多数の水死者も続出したのでした。

この戦にて「田北鎮周」「佐伯惟教(さえきこれのり)」、「角隈石宗(かどくませきそう)」、「蒲池鑑盛(かまちあきもり)」などの優秀な人材と、四千以上の兵が戦死するという致命的な大敗北になるのです。

後方にあった宗麟は敗北を知ると、命からがら豊後へと引き上げていくのでした。
大キリシタン王国(笑)は夢と消えてしまうのです。
…というか、敗北の切っ掛けを作ったのは、明らかに宗麟の異常なまでのキリスト教傾倒にあったのでしょう。
(※このあたりの細かい話は別途「大友宗麟」ブログにて説明致します)

こうして、大友家はより衰退し、島津は九州統一に弾みをつけることとなるのです。
中央にて「織田信長」の跡を継いだ「豊臣秀吉」が九州へと進出するのは、もうすこし後のお話。



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※島津で最も有名なのは”鬼島津”こと義弘さまでしょう。
あ、あれは島津の旗印!!
と、○に十を重ねた旗印は恐怖の象徴だったようです。


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