のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀は彦根市佐和山町の「佐和山城址」です。
えー、実際に行ってきました「佐和山城址」
三成さま好きなひでるさんとしては行っておきたい場所だったんですよ。ここは。
その現地レポートはまた別に、今回はとりあえず基本知識編をお送り致します。
天正十三年(1585)
「石田三成」は従五位下治部少輔に叙任。
近江水口四万石で大名にとりたてられました。
なお、彼の軍師として活躍する「島左近」が四万石のうちの大半である一万五千石で召し抱えられたのはこの時であるようです。
(※実は違う、って説もあるらしい)
天正十八年(1590)
ここで小田原城合戦より帰還した「石田三成」は近江佐和山十九万四千石に加増されるのでした。
(※余談ですが、ここで「島左近」に加増しようとしますが、彼に固辞されています)
佐和山のあるこの付近は東山道・北国街道、さらに琵琶湖を控えた交通・戦略の要所でした。
豊臣政権では秀吉が最も信頼した股肱の臣「石田三成」が置かれ、後の徳川政権下では四天王の一人と言われた「井伊直政」が「彦根城」を築き、この地を治めています。(※井伊家は後に大老を輩出するほどの家柄となります)
「三成に過ぎたるものの二つあり、島の左近と佐和山の城」
よく知られている落首にはそんなんがありますよね。
これは”要所であった「佐和山城」と、天下に名高い「島左近」は三成ごときにはもったいない”という意味で、彼を低く見たものでした。
しかし、後にさらに加増しようとした「豊臣秀吉」は”代わりとなる適任者がいない”ので保留とした、という話があるのです。
合戦での華々しい戦果が少ない三成の才覚を正確に捉えている者は当時から少なかったのでしょう。
最大の理解者が秀吉だったのは幸運でもあり、後の運命を見ると不運でふったのかもしれませんね。
さて、関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わると、「佐和山城」は寝返った「小早川秀秋」、「朽木元綱」、「脇坂安治」ら西軍寝返り組の攻撃を受けることとなりました。
留守を預かる守備隊は父「石田正継」です。
彼は石田一族だけで城を死守することと決め(三成の指示だったという説もあり)、その他の家臣をことごとく帰郷させようとしますが、それでもなんと三千人あまりが城と運命を共にするべく残ったと伝えられています。
もちろんひでるさんも残りますよ。たぶん。
東軍の攻撃によって佐和山城は落城。
ことごとく灰燼に帰すこととなるのでした。
なお「彦根城」がその西南に築かれるのは慶長八年(1603)のことです。
徹底的に破壊された佐和山城ですが、現在はどんなんになっているのでしょうか?
次回、レポート編をお待ち下さい。
[関連記事]
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) <前 後>
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
※ああ、佐和山城復元されないかなー。
無理ですか、ああそうですか。
本日は滋賀は彦根市佐和山町の「佐和山城址」です。
えー、実際に行ってきました「佐和山城址」
三成さま好きなひでるさんとしては行っておきたい場所だったんですよ。ここは。
その現地レポートはまた別に、今回はとりあえず基本知識編をお送り致します。
天正十三年(1585)
「石田三成」は従五位下治部少輔に叙任。
近江水口四万石で大名にとりたてられました。
なお、彼の軍師として活躍する「島左近」が四万石のうちの大半である一万五千石で召し抱えられたのはこの時であるようです。
(※実は違う、って説もあるらしい)
天正十八年(1590)
ここで小田原城合戦より帰還した「石田三成」は近江佐和山十九万四千石に加増されるのでした。
(※余談ですが、ここで「島左近」に加増しようとしますが、彼に固辞されています)
佐和山のあるこの付近は東山道・北国街道、さらに琵琶湖を控えた交通・戦略の要所でした。
豊臣政権では秀吉が最も信頼した股肱の臣「石田三成」が置かれ、後の徳川政権下では四天王の一人と言われた「井伊直政」が「彦根城」を築き、この地を治めています。(※井伊家は後に大老を輩出するほどの家柄となります)
「三成に過ぎたるものの二つあり、島の左近と佐和山の城」
よく知られている落首にはそんなんがありますよね。
これは”要所であった「佐和山城」と、天下に名高い「島左近」は三成ごときにはもったいない”という意味で、彼を低く見たものでした。
しかし、後にさらに加増しようとした「豊臣秀吉」は”代わりとなる適任者がいない”ので保留とした、という話があるのです。
合戦での華々しい戦果が少ない三成の才覚を正確に捉えている者は当時から少なかったのでしょう。
最大の理解者が秀吉だったのは幸運でもあり、後の運命を見ると不運でふったのかもしれませんね。
さて、関ヶ原合戦が東軍の勝利に終わると、「佐和山城」は寝返った「小早川秀秋」、「朽木元綱」、「脇坂安治」ら西軍寝返り組の攻撃を受けることとなりました。
留守を預かる守備隊は父「石田正継」です。
彼は石田一族だけで城を死守することと決め(三成の指示だったという説もあり)、その他の家臣をことごとく帰郷させようとしますが、それでもなんと三千人あまりが城と運命を共にするべく残ったと伝えられています。
もちろんひでるさんも残りますよ。たぶん。
東軍の攻撃によって佐和山城は落城。
ことごとく灰燼に帰すこととなるのでした。
なお「彦根城」がその西南に築かれるのは慶長八年(1603)のことです。
徹底的に破壊された佐和山城ですが、現在はどんなんになっているのでしょうか?
次回、レポート編をお待ち下さい。
[関連記事]
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) <前 後>
⇒ 秀次切腹と石田三成 [1 2 3]
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
よみがえる日本の城 (22) (2005/09) 学研 この商品の詳細を見る |
※ああ、佐和山城復元されないかなー。
無理ですか、ああそうですか。