お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

おみくじを引く人間心理 (明智光秀・月輪寺)

2006年04月30日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
えっといきなりですが、皆さんは何か物事を決するとき、どうしていますか?
自らの考えのみに従いますか?他人の判断を聞きますか?それとも、また何か別のものに委ねますか?


丁寧に挨拶をしたその男は不意に見た御神籤(おみくじ)につられ、一つ所望した。
表情はさして変わらないが、顔色は透き通るように白く見えた。
ゆったりと御籤を眺めていた男はその結果が不満であったのか、再び籤に手を伸ばした。やはりまた結果が望まないものであったのか、さらに手を伸ばして本日三度目となる御神籤を引いた。
三枚のそれに何が書かれていたか、どんな内容であったのかは分からない。
御神籤をじっと見つめていた男はやがて軽く微笑むと、三枚の御神籤を手にしたままその場を去っていった。


ぎこちないので「なにコレ?」なんて疑念を持った人も多いことでしょう。そうです、上の文はひでるさんオリジナルです。
ひでるさん、歴史小説家になれるでしょうか?(←なれない)
余談ですが、たかだかその六行程度に一時間近くかかっておりました。もし文庫本出すなら一生かかってしまいそうですね(笑)

さて、冗談はそれくらいにして明智光秀です。
彼は本能寺襲撃の前日、おみくじを三度引いたそうです。ただ、実に有名なこの話ですが、「信長公記」に書かれてたエピソードであるので実際のところはどうか微妙だと思います。ただ、当ブログは真実かどうかの検証ブログではないので、「明智光秀は本能寺の変の前日三回おみくじを引いた」という、面白そうな方で気にせず行きますね。

一介の素浪人から大名に取り立てられ、惟任日向守(これとうひゅうがのかみ)という役職まで与えられた大出世の光秀くん。信長に大変恩義を感じている、と書かれた文献も残ってたりします。
そんな彼が恩人「織田信長」殺害の首謀者となってしまいました。
迷う光秀の最後の一押しをしたであろう三回の御神籤にはどんな意味があったのでしょう?

●おみくじと人間心理●

と、言う訳でひでるさん得意(うそ)の人間心理です。
おみくじには、「何が書かれているか読む時の楽しみ」と「的中した時(良い・悪いどちらにしろ)の楽しみ」があります。
偶然に巡り合わされたその御神籤に書かれている事柄が肯定なのか、はたまた否定なのか。
そして、何か物事が起こった際には「そう言えばおみくじで…」とか思い出しますよね。

上で「偶然」と単語を使いましたが、人はそれを大切にしています。目に見えない「偶然」を掴めるのか、逃してしまうのか。それはそのまま、自分の「運」がどのようなものであるのか、となります。
このランダムに良し悪しを引き当てる行いこそが、自らの「運」を知る判断材料となるのです。

また、書かれている肯定・否定の事項により、”現在思い悩んでいる迷い”に対しての指針を示してくれる、という側面もあります。
当然、最終判断は自分自身なんですが、おそらく自らの心ではどちらか既に決しているんですよ。でね、それに対しての肯定意見を一つでも多く聞きたいんです。裏付けが欲しいんです。
多数の友人に意見を求めるのと同じで、肯定されれば満足しますが、否定されるとその意見は切り捨ててしまうはずです。
同調してほしいんですよ、おみくじにも。たぶん。

ちなみに、占いというのは膨大な分析を基にした「統計学」ですが、その点「おみくじ」というものは完全に「運」そのものですから、今流行のパチンコと同様にその結果がどうであれ、都合が悪い時の責任を「運」に押し付けることもできます。パチンコは良い例ですね。もし勝てば天才だ、台を見る目が備わったなどと自らの才を自負しますが、負けた際には今日の運は悪かった、と運に責任転嫁することができるのですから。


さて、書かれていた内容に後押しされた明智光秀は本能寺襲撃には成功しますが、最も欲していた信長の首は炎と共に消えてしまいました。信長が「完全に死者となった」という証拠を失ってしまったのです。(本来なら六条河原にさらしたかったはず)
それもあり、親交の深かった筒井家は態度を不鮮明のままとし、姻戚関係もあり、最も頼りとしていた盟友細川家は剃髪して出家してしまうのです。
さらに、毛利への密使は秀吉の陣へ誤って入り、中国大返しという計算外の驚異的なスピードで進軍してきた秀吉勢の勢いに押され、山崎合戦で敗北となるのです。
実に運がないですね。
おみくじの内容はどんなんだったのでしょう?

ちなみに、秀吉は山崎合戦へ挑む際、「明日は日が悪く、戻ってこられない」と言われたのに対して、「それは逆に運がいい。明日の合戦に勝利すればこちらまで戻ってくる必要はないのだから。それは吉報じゃ」とかなんとか言ったそうです。
光秀が決行したのは大博打でしたが、この時の秀吉も間違いなく大博打なんです。
大勝負を目前にし、のるかそるかの選択肢に直面した際の両者はまっったく違った反応をしているところが楽しいですね。

…しっかし、秀吉って人は物凄いポジティブな方ですねぇ。


[住所] 月輪寺 京都市右京区嵯峨清滝 月輪町7

 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


※このシリーズは詳しくていいですよね。持ってないですが「明智光秀」本です。

俊英明智光秀―才気迸る霹靂の智将

学研

このアイテムの詳細を見る

鎌倉大仏 (鎌倉市・高徳院)

2006年04月29日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
えっと、今週の当ブログにて大好評(?)に開催してきました「阿弥陀祭り」は残念ながら今回で最終回です。
…あ、このブログ自体が終わっちゃう訳でないので、そこはお間違えのないように。
ぜひ、またいらして下さい。

さて、阿弥陀祭りの最後はやっぱり巨大建造物が楽しかろうということで、鎌倉大仏でお馴染み「阿弥陀如来坐像」です。
約七百年前に造立されました、鎌倉で唯一の国宝。
正式名称は「銅造阿弥陀如来坐像」
坐像ながら、なんと十一メートルの巨大さを誇るモビル…でなくて仏像です。
こちらは東大寺の大仏、富山県高岡の大仏とともに三大大仏といわれているそうですね。
(※ちなみに、大きさが分かるように人も写った写真としました。どうですか?)


ここ「高徳院」本当は「大異山高徳院清浄泉寺(だいいざんこうとくいんせいじょうせんじ」という、浄土宗のお寺です。
舌かみそうですね。
開山など細かなことは意外にも不明でして、また大仏にしても”なぜこんなの造ろうとしたのか”というのは当時の資料などが乏しく、はっきり分かっていないそうです。

とりあえず、鎌倉幕府第三代執権「北条泰時(※)」の晩年に沙門浄光(しゃもんじょうこう)という方が諸国を歩き、方々より寄付を募って造ったそうです。これには泰時が協力したという話もあるようですが…こちらは詳細不明。

当初は木造三階建て、でなくて木造の仏像でして、暦仁元年(1238)に着工して、五年後の寛元元年(1243)に完成。
それは鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」にも記述があります。
しかし、この木造阿弥陀さまはわずか四年後の宝治元年(1247) に台風で崩壊。
また元年ですよ。…なんだか元年が好きなんですかね。

でね、今度はぶっ壊れないようにと建長四年(1252)には「青銅の大仏」製作に着工しました。
大仏魂ですよ。(※ちなみに、木造のときよりもまた大きく造ったそうです)
これも数年で完成に至りました。
完成当初は全身金箔な神々しいお姿で、大仏殿という専用のお部屋もちゃんとあったんですが、室町時代の津波でどうにか阿弥陀様は無事でしたが建物は崩壊してしまいます。
とりあえず、青銅にしたのは正解だったようですね。
しかし、これが元で大仏様のお部屋はなくなり、以後より雨ざらしとなってしまうのでした。

ちなみに、そんな訳で外にむき出しのままですが、皆さまお忘れなきように。
この方は「国宝」です。
しかも、補修もあまり大掛かりにされておらず、お姿はほぼ鎌倉期のままであるという、大変貴重なものなんです。
すごいでしょ?
もし、見に行ってなんらかの不注意で破壊したりしたら……大変なことになりますよ… (※本当は怖い家庭の医学調)
うふふふ…。


(※)北条泰時(ほうじょうやすとき)
二代執権北条義時(北条政子の弟)の嫡男で三代執権。
武家の法令「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定した人。


[住所] 高徳院 鎌倉市長谷4-2-28

[関連記事] 
      知恩院(浄土宗の総本山)
      阿弥陀如来
      仏像講座「如来編」


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。

※ありましたねー、鎌倉大仏本ですよ。

鎌倉大仏の中世史

新人物往来社

このアイテムの詳細を見る

六波羅蜜寺 (京都)

2006年04月28日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
えっと、今週の当ブログは「阿弥陀祭り」開催中です。
次の記事も乞うご期待! (なにそれ)

本日は先に紹介しました「空也上人」ゆかりのお寺にして源平両氏の中心的史跡、京都は東山区の「六波羅蜜寺」です。
これでより詳しく知れるでしょう、ということで。

時は平安時代。
天暦五年(951)京都に病が流行しました。
常に市民の中にあって仏教を広め、市の聖(いちのひじり)と呼ばれていた空也上人はその惨状にたいへん心を痛めました。そして、自ら「十一面観音」や「四天王」を刻むと台車に安置し、それを引きながら病人のためにお茶(※)を念仏を唱えながら配り歩いたそうです。
はー…。
前も書きましたが、いちいちスゴイ人ですねぇ。
そりゃ、人気ある訳ですよ。

現存する上人の起願文によると、応和三年(963)あちこちから呼んだ名僧六百名と共に諸堂の大供養会を営みますが、それがこのお寺の起こりだそうです。
本尊は空也上人の刻んだ国宝「十一面観音立像」

空也上人の没後はその高弟「中信上人」によって規模を拡大。
特に平安後期にはこの付近に「六波羅殿」と呼ばれた「平清盛」ら権勢を誇る平家一門の屋敷が営まれました。
六波羅蜜寺の名称になったのもこの頃のようです。

そんなこんなで荘厳華麗な天台寺院として大いに栄えますが、後の平家没落と共に兵火を受け、わずかに本堂を残して諸堂は焼失。
その後も源平や北条・足利氏などの争いでたびたび戦火にみまわれますが、その度に再興・修復を繰り返しました。
豊臣・徳川両家にも守られた六波羅蜜寺ですが、明治頃になると荒廃。
昭和四十四年頃にようやく解体修理され、現在に至ったということです。

今では規模はすっかり縮小されていますが、修復により色鮮やかとなった本堂(※こちらは南北朝時代の重文)と国宝・重文など重要文化財がひしめく宝物館でいつも賑わうお寺です。配っておられるパンフレットは以前紹介した「知恩院」に負けない、綺麗な、映画のようなパンフレットですよ。
(正直、分かりやすさは知恩院のが上ですけどねー)

空也上人は無論のこと、リアルな「平清盛坐像」もありますので、歴史好きな方も是非お立ち寄り下さい。
ちなみに、鎌倉時代の京都守護の役職「六波羅探題」の役所が置かれたのもこの付近(六原小学校)だそうですよ。


(※)現在も「皇服茶」として伝わっていて、正月から三日間振舞っているそうです。
   青竹からのお茶で、梅干と昆布いり。
   ちなみに、今回写真は六波羅蜜寺の秘仏紹介の案内板です。
   他にあんまりいい写真がなかったんですよねー。


[住所] 六波羅蜜寺 京都市東山区五条通大和大路上ル東

[関連記事] 
      知恩院(浄土宗の総本山)
      阿弥陀如来
      仏像講座「如来編」


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。



※紹介しました「六波羅蜜寺」も登場する、マニア御用達の一品。

秘仏開帳 特別拝観の古寺・名刹をゆく

ビデオメーカー

このアイテムの詳細を見る

他力本願 (浄土宗・阿弥陀如来)

2006年04月27日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
えっと、今週の当ブログは「阿弥陀祭り」開催中です。
次の記事も乞うご期待!
そんな訳で本日は「他力本願(たりきほんがん)」についてです。


正直これまでイマイチよく分かってなかったんですが、色々ブログ記事書くうちになんとなく掴めたような気がするのでこの話題をば。
……あ、もしかしてこれって”悟った”みたいな感じですかね?
菩提樹の下にでも行きましょうか?     (←仏教ギャグ)


えっと「他力本願」は本来は阿弥陀様を信仰する浄土宗の宗教用語です。
おそらくこの言葉を聞くと、「ああ、人任せしたりとか、無責任なことだよね?」なんて言うでしょう。たぶん。
まぁ、途中まで掃除したから、後片付けは残った人に任せてバックレちゃおう、みたいな、学生ちっくな感じに思われがちですが…。

これは間違いです。

公共の電波や人の目にふれるところで下手に使うと、各団体から猛烈な抗議を受ける可能性がありますので、言葉が色々影響する可能性がある方(そんな人来てないと思う)はくれぐれも気をつけて下さい。
うふふふ…宗教団体を敵に回すとおっかないですよー。(←無論冗談です。本気にしないように)


まず阿弥陀如来。
阿弥陀様は「四十八願」という四十八ほど衆生救済の願いを立てています。その中の十八番目が「念仏を行う衆生を救って、必ず極楽へ往生させる」というものでした。
浄土宗はこれを「本願」として、重要視しているのです。

「他力」とは、普通そのまま他人の力を言いますが、この場合では「阿弥陀さまの本願の働き」という意味でして、自力も必要ですがせっかくだから他力(無論、阿弥陀様ですね)も借りて皆で仲良く極楽往生しよう、という考えなのです。
「皆で頑張って極楽行こうぜ!」という感じ。これが浄土宗。

ちなみに「浄土真宗」になると、煩悩いっぱいの人間はどんだけ努力してもダメで、唯一阿弥陀様にすがることでのみ極楽往生できますよー、という考えなのです。これを「絶対他力」と言うそうです。
「皆で阿弥陀様を”信仰”して極楽行こうぜ!」という感じ。これが浄土真宗。
ちょっと違うでしょ?

★まとめ★
「他力本願」とは…
死後の安楽を約束し、極楽往生をかなえる阿弥陀如来さま。そのお力にすがれるよう、頑張りましょうね、みたいな意味が本来のものでした。
…うん、だいたいこんなんですよ。
間違っていたらコメントに指摘して下さいませ。再修業しますんで。


[関連記事] 
      知恩院(浄土宗の総本山)
      阿弥陀如来
      仏像講座「如来編」


[住所] 知恩院 京都市東山区林下町
 (※本日写真は京都「知恩院」二十五菩薩の庭です)



 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


仏像が気になりだしたら… 自宅で選べる美術品 掛軸、絵画、美術工芸品のトップアート
ちょっと旅へ出たいと思ったら… 旅の総合サイト『BON VOYAGE!』

空也上人立像 (京都・六波羅蜜寺)

2006年04月26日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
えっと、今週の当ブログはこれから「阿弥陀祭り」みたいになっていきます。
次の記事も乞うご期待! (…なんじゃそりゃ)
そして本日は数多い上人像の中でもひときわ異彩を放つ、踊るお坊さん「空也上人」その像です。


京都の近場だとゆかりのお寺「六波羅蜜寺」あるいは、ちょっと遠い(ちょっとどころではない)ですが「月輪寺」には、あの空也上人の像があります。
ぜひ行ってみて下さい。
特にオススメなのは「月輪寺」ですね。
うふふふ……行くなら飲み物持参した方がいいですよぉ。
(※ちなみに写真は六波羅蜜寺の空也さまです。当日光が強かったのであんなんなってる)


空也上人は平安時代の方です。
若い頃より修行がてら諸国を回り、当時はだいたい身分の高い者のみのものであった仏教を広く庶民にまで伝え歩きました。この方の偉いところは、民衆の生活を助けるために様々な社会奉仕事業を行い、また幅広く阿弥陀様の教えを広めたことでしょう。
「南無阿弥陀仏」ってやつですよ。

ちなみに「南無」は簡単に言うと「帰依します」という意味。「阿弥陀」ってのは無限の寿命・光。「仏」は悟りを開いた者。
すなわち、阿弥陀様に帰依しますよー、って常に言っている訳ですね。
(※これは「六字の名号」とも言われますが、それ(←)自体が六字であらわした阿弥陀仏の名前、という意味)

なぜ常にこんなこと言っているのか?というと、阿弥陀様が「その名号を唱える者を浄土に往生(※)せしめることを本願に誓っている」ためです。
これ↑を簡単に書くと、「名前言ってる人をステキな世界へご招待!」ってな感じですね。
まるで選挙のような神さまですよ。

さて、常に庶民と共にいた空也上人は、自らの修行から、道や橋など民衆のための社会事業をも。さらには、病で死んだ人のため仏像やお寺などを建立するなど、その活動は多岐に渡り、多忙な日々をおくりました。
空也上人は庶民だけでなく貴族とも親交があったんですが、その援助で左うちわ…なんてことせず、七十歳で亡くなるまでずっと庶民の中で色々活動していたようです。
はぁ、スゴイですね~!

さて、この像が作られたのは鎌倉時代でして、六波羅蜜寺の像は”かの有名な「運慶」の子で「康勝」”の作。
(月輪寺のも鎌倉時代。作者は不明)
像は空也上人が唱えた「南無阿弥陀仏」の一字一字がそのまま阿弥陀如来になった、という伝説を表現しています。
正直、口から阿弥陀仏が行進している独特の像は違和感たっぷりで、知らない方にはやや不気味に写るかもしれませんが…この像にはそんな意味があったんですね。
お姿はトレードマークの鹿角のついた杖と金鼓、粗末な衣類。その四肢は痩せ、やや腰は曲がり、苦しそうなお顔という、空也上人の波乱の生涯を表現しているようなお姿です。
(なんとこの人「醍醐天皇」の落胤であるという説があります。…当時から)
直接見ると背中がゾクゾクする、リアルな像になってます。
オススメですよ!


(※)往生(おうじょう)
本来の意味は”仏になり悟りを開くため、仏の国に生まれる”ことです。
ただ極楽浄土へ行くだけでなく、最終的に仏になることなんですね。


[住所] 六波羅蜜寺 京都市東山区五条通大和大路上ル東
[住所] 月輪寺 京都市右京区嵯峨清滝 月輪町7

[関連記事] 
      知恩院(浄土宗の総本山)
      阿弥陀如来
      仏像講座「如来編」


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ

◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。



※空也上人の日常をばっちりスクープした(笑)
 衝撃のファンブックですよ!

阿弥陀聖 空也―念仏を始めた平安僧

講談社

このアイテムの詳細を見る

名人と呼ばれた武将「堀秀政」 (神奈川・一夜城址)

2006年04月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は名人の冠がよく似合う戦国武将「堀秀政」です。
いいですか、将棋が得意な人でも、過去に連射で有名になった方ではないですよー。
(…って、もう誰も覚えてないか?この↑ネタ)

この「堀秀政」は残念ながら若くして亡くなったためちょっとマイナーなんですが、信長・秀吉という天下人に愛されたこの方の名前をぜひご確認下さい。


えっと、織田信長の小姓と言えば「森蘭丸」が有名ですが、彼の前に仕えていたのがこの「堀秀政」です。
どうすか、この時点ですごいでしょう?

なにしろ信長の小姓と言えば下手すると本気で殺されかねない、戦々恐々とした職場ですから。
(※実際何名か手討ちにされた様子です。宣教師「ルイス・フロイス」によると、信長がちょっと手を動かしただけで人が目まぐるしく動いたとか…)
あれですよ、志村けんの「バカ殿」で怒った時に刀持って暴れるネタがありますが、そのリアルバージョンですよ。きっと。

この人、そんな職場でだいたい十年くらいやっていたようです。
ベテラン選手です。
…まあ、辞めたくてもそれ口に出すことすら許されないでしょうけどね(笑)

さて、その秀政さま、越前や伊賀の合戦などで功を立て、ついに近江長浜の城主となりました。
勃発した「本能寺の変」後は秀吉に従い、山崎合戦や賤ヶ岳合戦、長久手合戦などで活躍しました。
その中でも「長久手合戦」では実力を存分に発揮します。

天下人へと着実に進む豊臣秀吉に信長の次男、「織田信雄」が抵抗。彼に協力する形で「徳川家康」が参戦。
ついに両者の決戦となりました。

対峙した両軍はなかなか動かず・動けず、ただ時が過ぎていきました。
数に勝る秀吉軍は信長の乳兄弟「池田恒興」と、その武勇から鬼武蔵と呼ばれた「森長可」の提案した”別隊で徳川の背後、本拠・三河を一気に攻める作戦”を取り入れます。
(※ちなみに、この森長可は森蘭丸の兄です。お父さんの森可成を含め、壮絶な討死家系。ああ…)

この作戦には養子「羽柴秀次」も乗り気で、自ら大将にと申し出ました。
戦の妙を心得ている秀吉は当初から乗り気ではなかったんですが、結局それを退け続けることができず、やむなく承知してしまったんですね。

秀吉は別隊に上記三名のほか、戦上手の「堀秀政」を作戦に参加させました。
何か思うところがあったのでしょう。

その懸念は的中します。
別隊の動きは家康に察知され、小牧の陣からこっそり抜け出した徳川勢は追撃にかかります。
(※ちなみにこの別働隊は奇襲の割に数が多く、また途中の城を落城させたりと行動がやたら目立っていたので、あっさりみつかったらしいんですね)

まず、総大将の羽柴秀次隊が休息中に攻撃を受け、瞬く間に壊滅。この時秀次自身はぎりぎり助かっちゃいますが、多くの忠臣が彼の身代わりとなって討死するのです。

そして、その報を受けた秀政は冷静に兵をまとめ、左右に展開。初戦の勝利で勢いに乗った徳川勢と激突すると、なんと戦上手な秀政はこの不利な状況で逆に撃退するんですね!
うわ、かっちょえー!
おまけに、前方に家康の旗印を確認すると、かなわぬと悟ってすぐさま退却しました。
引き際も実に鮮やかですよ。

その後、後方にいた池田・森の両将は撤退中に徳川勢の追撃を受け、激戦の中でどちらも討死してしまいます。
これは単なる局地戦でしたが、秀吉勢の完敗です。

「どんな敗戦でも生き残る」
この合戦は唯一徳川勢を撃退した秀政のまさに面目躍如と言ったところですが、彼は戦以外にもなんでもそつなくこなすところから、ついたあだ名が「名人久太郎」
そりゃあ伊達に信長の小姓を十年間もやってませんよ!(笑)

豊臣の旗のもと、越前十八万石を与えられた秀政は四国攻めや九州征伐にも従軍。
そして、小田原合戦の陣中で病を得て病没。
享年三十七。

秀吉はこの名人に関東を与えようとしていたようですが、結局それはかないませんでした。
ああ、その後も生きていたらなぁ…。



[住所] 石垣山一夜城 神奈川県小田原市早川字梅ヶ窪地内
  (※その通り道に参戦した武将の看板があります。必見!)


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


※きみも「名人」になれる(かもしれない)戦国ゲーム。
 信長シリーズしかやっていない皆様、…これ意外に面白いですよ。

太閤立志伝 4 DVD-ROM版

コーエー

このアイテムの詳細を見る

弥勒如来 (泉涌寺)

2006年04月24日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は以前「楊貴妃観音」を紹介しました泉涌寺は「弥勒如来」です。

おん、まいたれいや、そわかー。
当ブログ来訪の方へ明るい未来が訪れるよう、弥勒如来の真言を唱えてみました。
合掌。

…ちなみに、ひでるさんは無神論者なのでなんも効果ありません、悪しからず。
うふふふ…。
それに未来もいいですが、どっちかと言えば今現在を救ってほしいですよ。ええ。

と、そんな冗談はさておき、弥勒如来です。
こちらは他の有名如来と違って作例があまり多くなく、また見分け方もよく分からないという、ひでるさん苦手な仏像になります。
ちょっと仏像とかお寺を知っている人は「みろく…」で聞いた場合、「ああ広隆寺のやつでしょ」と思うかもしれません。
実際、ひでるさんも詳しく知るまではそう思っていたんですよ。

広隆寺のやつ、というと超美形仏の「弥勒菩薩半迦思惟像」になるでしょうが、もう一度よくタイトルとか確認してみて下さい。
…ね、あちらは「弥勒如来」でなく、「弥勒菩薩」なんです。いいですか、まがい物ではありませんよー。

弥勒さまは、天空にあるというラピュタ…でなく、兜率天(とそつてん)で菩薩として現在は修業中なお方です。
それが弥勒菩薩、広隆寺におられる、なんか悩んでるような、にやけてるような方。
弥勒如来、っていうのは彼のその後を想像して作成された、出世後のお姿をあらわしたものなんです。
両者の違いはそんなんでした。

ちなみに、釈迦の涅槃(亡くなった後の意味)から五十六億七千万年後に仏法が滅びたとき、如来となってこの世に姿を見せ、釈迦の救済にもれた人を救うそうです。
うわ、ひでるさんは間に合いそうにないですね。
がっかりですよぅ。

この方が「未来仏」とも呼ばれるのは、そんな理由からです。
梵名(ぼんめい)はマイトレーヤー。これで慈尊(じそん)と訳し、「慈から生じたもの」となるそうです。

とまあ、ひとしきりの説明が終わったところで、びっくり情報をひとつ。
この弥勒さまは実在の人物だったんです!
うわ、すげえ!マジですか?!

……あれ、皆ついてきてます?
驚いた…よね。どう?
坂東英二が実は元野球選手だった、くらいの衝撃だと思うんですが。(←その程度かい!)

弥勒さまは釈迦が未来仏について説法をしていた時、自ら志願した名家のおぼっちゃんなのでした。
そう、釈迦自身も本来は王子様ですからね。
やっぱり裕福なだけ、真理だの生きる目的だの、ややこしいこと考える暇があるのでしょう。

…というより、志願して如来になっちゃうもんなんですか?
まるで学級委員長みたいですね。

さて、さんざんおちょくった(純粋に好きな方、すみません)後は見分け方です。
えっと、立像は釈迦、阿弥陀と同じです。印は、あの天皇様が手を振るような形のやつです。
(施無畏印・与願印といいます)
で、ややこしいのは、阿弥陀さまと同じように指で丸をつくっておられる方もいるところなんですよ。
あ、そうですね、右手が手を振る形(施無畏印)で、左手を膝上に置き、指先を下向きにする形。
これだったら、完全に弥勒如来で間違いありません。たぶん。
(※小さいですが写真参照。これを触地印(そくちいん)と言います)

ちなみに、両脇には法苑林(ほうおんりん)、大妙相(だいみょうそう)の二菩薩がいるそうです。
…って、誰でしょう?見たことも聞いたことも無いですが。

そんなんですから、お寺側が「弥勒」と言っていたら「そうなんだー」という感じで素直に受け入れましょう(笑)
釈迦、阿弥陀と共に三尊まとめてある場合は、どれかが弥勒さまです。たぶん。

ちなみにインドでは弥勒菩薩のみで、弥勒如来の作例はないそうです。
へー。現実主義なんですかねぇ。


□弥勒如来がおわすお寺□
奈良 當麻寺(たいまでら) 国宝・飛鳥時代 [住所] 奈良県北葛城郡當麻町當麻1263
神奈川 称名寺 重文 [住所] 横浜市金沢区金沢町142  
京都 泉涌寺 ※写真 [住所] 京都市東山区泉涌寺山内町27

※関連記事
⇒ 如来 (お父さんのための仏像講座)


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ

◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


※コレでじっくり弥勒如来を鑑賞しましょー。

日本100の仏像

JTB

このアイテムの詳細を見る

霊雲院 (京都)

2006年04月23日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都東山、東福寺の霊雲院です。

どっちかと言うとマイナー路線……でいいんですよね?(←失礼な)
そんな訳で今日はココを選択してみました。
日曜ですし。

さて、「霊雲院」は明徳元年(1390)岐陽方秀によって開かれました。
えー…室町時代の初期ですね。
当初は「不二庵」という名前だったそうです。名前の雰囲気からすると、こぢんまりとした感じだったのでしょうか?

それから時代は進んで江戸時代。
七代目住職「湘雪」は肥後熊本の生まれで、熊本藩の細川家と親交がありました。
藩主細川忠利(※1)の子、光尚はその影響を受け、湘雪和尚にあつく帰依していったそうです。
やがて湘雪が住職となった際、光尚はお祝いに”五百石”を贈ろうとしましたが、それに対してこんなことを言いました。


「出家の後、禄の貴きは参禅の邪鬼なり。
                庭上の貴石を賜らば寺宝とすべし」

               (※霊雲院パンフレットより)


えっとたぶんね、「出家したから高い給与はいらん。庭に飾る石くれたらそれでいい」みたいなことでしょう。
スゴイっス!
アンタはエライ! (※小松政夫)
かっこいいですね~!
このブログはじめてから寺院など色々調べたりしておりますが、たいていは天皇家や将軍家などの庇護で広大な土地を拝領し、ブイブイ言わせていた例が多かったんですよ。

実際には何人もの坊主・修行僧を維持しつつ、寺として発展していくには多少そうした現実的なものが必要だというのも分かります。
子供ではないですし。

だから…その↑一言は凄い、重い。
なにせ五百石ですからねぇ…百石でもいいんでほしいですよ。
それが単なる石ですからね?!
そこいらの川原にでも行けば似たような石が……[自粛]

結局、細川家は須弥台と石船に「遺愛石」と銘をつけた石を贈りました。
それが今回写真の遺愛石と九山八海の庭(※2)という訳です。

ここは他に「観月亭」という豊臣秀吉の北野大茶会で実際に使用した珍しい二階建ての茶室があったりします。
また、なんと日露戦争の際には「ロシア人捕虜収容所」にもなったそうですよ。
人生色々、お寺も色々ですねぇ。


(※1)細川忠利
 関ヶ原合戦に出ていた細川忠興の子。あの有名な細川藤孝の孫ですね。

(※2)九山八海
 ちなみに「九山八海」とは古代インドでの世界観で、意味はそのまんま。
 その中心にある山が須弥山(しゅみせん)で、九山八海は日本庭園の石組の一つだそうです。

[住所] 霊雲院 京都市東山区本町15-801


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。

仏像が気になりだしたら… 自宅で選べる美術品 掛軸、絵画、美術工芸品のトップアート
ちょっと旅へ出たいと思ったら… 旅の総合サイト『BON VOYAGE!』

「両・分・朱」の貨幣制度 (歴史さんぽ)

2006年04月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はひでるさん自身の勉強を兼ねて、ややこしい江戸時代の貨幣制度について書いてみたいと思います。
時代劇好きな人は是非お読み頂ければ。嫌いな人は…まぁ、よかったら見て下さい。今回は特にややこしいので。


江戸時代は世界でも稀有な例らしい「三貨制度」という、三種類の貨幣が別々系統に独立して機能しているという、厄介な制度でした。
経済史的にも、こんなんが二百年以上(江戸時代ね)続いていたのは、大変珍しいことだそうですよ。
そうですわね、分かりづらいもの。…これ。

”三種類の貨幣が別々系統に独立して機能”…と、舌噛みそうなのは、金貨が上位にあって、その下位として銀貨や銭が補助的役割をしていたのではない、ということです。
ちなみに、その三貨の互換性がないのは不都合(そりゃそうだ)なので、幕府は相場を金一両を銭四貫、銀なら六十匁相当としましたが、実際は金属価値の変動を受けて、これらもちょこちょこ変わったそうです。

※こんな感じ
貫(かん) : 四貫で一両
匁(もんめ): 六十匁で一両


●金貨●
金貨の単位は「両」です。時代劇で越後屋とかがお菓子の下に束でいれとくやつです。
「越後屋、そちも悪のう…」
「お代官様ほどでは…」
こんなんですね。
その「両」の下の単位としては「分」と「朱」などがあります。時代劇だと庶民生活…とかのシーンでは…ないか。板チョコみたいな小さい金色のやつがそうです。
ちなみに、一両は四分、一分は四朱となってます。

※こんな感じ
一両  : 小判ですね。これが最も想像しやすいのではないかと思います。
一分金 : 四枚で一両(ちなみに二分金というのもありました。これだと二枚で一両)
一朱金 : 十六枚で一両(ちなみに二朱金もありました。これだと八枚で一両)


●銀貨●
銀貨の単位は「匁」です。主に西日本で取引されていたようで、秤量貨幣として定着しておりました。(要するに重さがどんなもんかってー話)
だからデカイ銀貨と、豆粒のような銀貨が存在していたんですが、おつりとか出す際には秤にかけて切り取るという、面倒なことをやっていたそうですよ。
で、それは不便だってーので、こちらも金貨と同様に「分」と「朱」などをつくったようです。

※こんな感じ
五匁銀 : 十二枚で一両相当(要はこれで六十匁ですよね。秤から脱却するために製作)
一分銀 : 四枚で一両(板チョコみたいな小さい銀色のやつです)
一朱銀 : 十六枚で一両


●銭貨●
銭貨の単位は「文」です。こちらも想像しやすいと思います。真ん中に穴のあいた「寛永通宝」ですよ。
ほら、銭形のとっつぁん…でなくて「銭形平次」が投げるやつです。確かに最も安いものではありますが、もったいないですね。お金を粗末にするとバチ当たりますよぉ。後で拾っときましょう。
時代劇では、庶民生活のシーンなどでけっこう見かけると思います。
蕎麦食べるときとか。(※ちなみに今回写真は箱根のうどんですが)

※こんな感じ
四貫文 : 一両(要するに一貫で一分に相当する。下の紐のくくりが四本です)
一貫文 : 千文(銭一枚が一文、千枚で一貫文。千枚の銭を紐でひとくくりにしていたようです)


…おしまい。
なるたけ分かりいいように書いたつもりなんですが、どんなもんでしょう?
イラストとかあったら、なお想像つきやすかったんですが。

とりあえず何でも四進法なんですね、あの時代はなぜだか。
ちなみに、長屋の家賃はだいたい一ヶ月で四百文だそうです。

そこらのアパートの家賃がだいたい一ヶ月六万とすると、一文あたり百五十円。
(あるいは、昔の長屋程度なので、一ヶ月四、五万程度か、それ以下かもしれない)
それを一両にすると…六十万??合ってるよね?

一両(一人の取り分ね)で殺しを引き受ける仕事人ってのは…安い?高い?



※参考:新必殺仕置人[子の巻] 特典ブックレット 岡崎宣彦より。


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


※阪神ファンも大満足な必殺シリーズの最高傑作です。ぜひDVDでどうぞ!

新 必殺仕置人 (子之巻)

キングレコード

このアイテムの詳細を見る

ハヌマーン (ラーマーヤナ)

2006年04月21日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「もしかしたら私と同年代の人がこの名前を聞くと眉をひそめる(かもしれない)」古代インドの白猿神ハヌマーンです。

…まずこの時点で「はっ!」となった方。どうかぜひ、「Google」等の検索エンジンでその名前を探してみて下さい。
おもろ懐かしい映像がたくさんひっかかりますので。
(ちなみに、どんなんか知りたくなった方も検索下さい。軽く異世界へ行くことができますんで。いや、コレ本当)


えっとね、ひでるさんがまだ小学校低学年くらいの頃。
夏休みか何かで昼間から家にいたとき、新聞に「ウルトラ兄弟うんちゃら」という番組(映画)を発見した訳ですよ。
当時のひでるさんは「ウルトラキ●ガイ」で、そりゃーもう、何するでもウルトラマンだったんです。
しかし、本放送はもう過去の出来事でして、ウルトラマンについては大百科などの本からの知識しかなく、シリーズのたいていは早朝とかにこっそりやってた再放送で見るしかなかったんですね。
やっぱり動いている映像のがいいじゃないですか。だから敏感に反応したんです。

……はぁ。

えっとね、実はこの映画「ウルトラマン」と冠があるものの、円谷プロとタイ映画会社の合作で、出てくる登場人物からロケ地まで、全てタイづくし。
カニづくし、なら大歓迎(笑)なんですが、映像でのタイ(バンコク)は子供心に異世界ちっくで、おそらく目をちかちかさせながら見ていたんだろうと思います。
で、当然ながらメインはあちらの人に馴染み深い「ハヌマーン」で、ほぼ全編にわたって「白い豚鼻の常に踊っている方」が出てきます。(注:←それがハヌマーン)

おまけにストーリーも仏像の首盗んだ悪人とか、雨降らせるために太陽神と交渉するとか、やけに宗教じみたイヤーな展開。
肝心のウルトラ兄弟は当初の顔見せ(ちょっとだけ。Aとかタロウの一話であった、のりうつらせるシーンです)からはラストになるまで一切顔見せないという、ある意味詐欺ぎりぎりなものでした。
テレビだからまだいいものの、映画館だったらひでるさん泣いてますよ、たぶん。

さて、そんな彼がリニューアルして再登場?みたいな記事をネットで偶然見つけてしまい、思わず今回これにしてしまいました。うふふふ…。
その後色々検索したところ、仮面ライダーでも登場していた記事を発見。ああ、ライダーファンにも犠牲者がいたんですね。合掌。
(ちなみに、コッチも地球三周くらいできそうなトンデモ話)


と、前置きがだーいぶ長くなりましたが、そんな踊る豚鼻の「ハヌマーン」実際はどんな方だったのか。ここからは真面目に書きたいと思います。

ハヌマーンは古代インドの大長編叙事詩「ラーマーヤナ」にて、登場する猿軍の将軍で英雄。風の神「ヴァーユ」の息子で、猿王「スグリーヴァ」の使いです。
ちなみに「ハヌマーン」という名前は「骸骨を持つもの」という意味だそうです。…うわー骸骨持ってて英雄ですかい?

さて、叙事詩「ラーマーヤナ」はそのまま英雄「ラーマ王子」のお話でして、ハヌマーンは作品中で物凄い俊敏なだけでなく、空を飛び、果ては姿や大きさまでをも自在に変化させるなど、なんでもありな大活躍。そんな特殊能力を駆使して、王子の危機を何度も救うという、儲け役で登場しています。

ほら、あれですよ。水戸黄門に出てくる風車の弥七みたいなん。中谷一郎さんですね。
そのためか、上で映画を作っていたタイだけでなく、ハヌマーンは東南アジアでも大変人気がある、ご当地ヒーローな方なんです。
特にタイでは「白猿ハヌマーン」は子供達の絶大な支持を集める英雄なんですねー。先の映画は両国ヒーロー・夢の競演ってことなんですよ。
ちなみに、この「ハヌマーン」はドラゴ…でなく西遊記の孫悟空のモデルになったとかなんとか。


※写真はどこぞのお寺にありました猿石像です。だってハヌマーンの絵なんて持ってないもん。
 あ、ちなみに円谷プロとそのタイ映画会社は権利関係で裁判してるそうです。
(そんな関係で、上の映画は放送できないようです。当然、DVDにもなっていません)
 やですねー人間って。


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ

◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


温泉宿予約は「楽天トラベル(旅の窓口)」
【e-Hotel】出張からレジャーまで、安心・お手軽宿泊予約
↑今はネット検索・予約でラクチン!旅行へ行くなら。

奈良にコンビニ寺院出現 (お寺さんぽニュース)

2006年04月20日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はちょっと休憩。なんだか最近妙に長い文が続いていたので、小ネタと時事ネタを簡単に書きたいと思います。
そんな訳で…こんにちは「お寺さんぽニュース」の時間です。


そう、書いておいていきなりですが、ひでるさんが時事ネタを取り上げるとロクなことにならない。(例:
それはここを読んでもらっている方(友人)に指摘されたことですが、意見をまとめると「感情が突っ走ってる」のだそうです。しかも、面白いことにこれを言ってたのが一人、二人ではないんですよ。
おそらく、皆そう思っているんでしょうねぇ…なんて。

でも書いちゃいます。
実際、本当に書きたい時事ネタは別にあるんですが、大して知識もない世界ですし、それこそ「感情が突き進み」そうなので置いといて。
タイトル通りお寺関係のネタで穏便にすませます。偶然、連続してお寺の時事ネタをみつけた、ということもあるので。

あ、ごめんなさい、一つだけ。
化石のような政治家とか、いい加減出てくんなーという元首相が「分祀」うんぬん言っていたようですが、

■広辞苑(岩波書店)
 分けて祀ること。本社と同じ祭神を別の新しい神社に祀ること。
■神道辞典(弘文堂)
 本社の祭神の分霊を他所に勧請し、新たに祠を建てそれを鎮祭したもの。分社、新宮、今宮とも称される。分祠や分社などには、ある祭神を祀る本社から遠く離れた地域の信者に、容易に参拝できるようにその本社の分霊を勧請した場合や、明治期に新開拓地への移住民が本国の産土神の分霊を勧請鎮祭した場合などがある。

…なんだって。
要するにコンピュータ風に書けば分祀っていうのは「移動」でなくて「コピー」ってことのようでした。
あれ、これだと参拝できるところがさらに増えてしまうのではないですか?それでいいんですか?
…と、文が乱れないうちにこの話題はおしまいっ。


●法隆寺の東大門に落書き、文化財保護法違反容疑で捜査  [読売新聞]2006年4月19日
 19日午前11時45分ごろ、奈良県斑鳩町の法隆寺で、東大門(国宝)のヒノキ製の柱に「みんな大スき」と彫られた落書きがあるのを土塀を測量していた県教委文化財保存事務所職員が見つけた。県警西和署は、悪質ないたずらとみて文化財保護法違反などの疑いで調べている。
 調べでは、落書きは縦約50センチ、幅約8センチ。高さ約1メートルの位置で、石のような硬いもので刻まれたらしい。寺によると、午前7時の開門時には異常はなかったという。法隆寺では今年2月、西室(同)の木製格子が切り取られ、室内にあった文殊菩薩(ぼさつ)像(同)の模像が盗まれる事件が起きている。
---------------------------------- 。。。

言語道断です。
あのね、学校の机とは違うんですが…イチイチ言わないと理解できないんでしょうか?ライブで古館さんが「拝観は二十歳を過ぎてから」とか言っておられましたが、年齢制限だけでは…どうでしょ、甘いと思いますね。
”年齢だけ大人な子供”も一切近寄らせないようにしなければ。
盗難も同じです。
せっかく時間作って見に行って期間限定の特別拝観なら諦めつきますが、盗難で不在ってのはハラワタ煮えくり返りますよっ!
…どうか天罰を与えてやって下さい。なむなむ。


●奈良・十輪院:お寺のコンビニ 法要相談、20分でチーン!商店街で「お気軽に」 [毎日新聞]2006年4月17日
 お寺もコンビニ感覚の時代--。奈良市の古寺「十輪院」が、約800メートル離れた近鉄奈良駅近くの東向商店街に「仏教相談センター」(同市東向南町)を開設した。橋本純信住職(57)は「宗派にとらわれず、いつでも僧侶と話せる窓口は初めて」とPR。写経や写仏、めい想など1人で“修行”できる畳1畳ほどのスペースもあり、観光客の人気も集めそうだ。
 十輪院は真言宗で、元正天皇(715~724年)の勅願寺とされ、鎌倉時代の本堂(国宝)や石仏龕(がん)(重要文化財)があり、檀家(だんか)は約500人。相談センターは、占いショップや商店などが入居するビル2階の一室(約43平方メートル)を借りた。室内は線香の香りが漂い、古びた阿弥陀(あみだ)如来座像を安置し、寺院の雰囲気を出している。
---------------------------------- 。。。

がんばってますね!こりゃあいいんじゃないでしょうか?
お寺そのものをコンビニ感覚にされたら堪らないですが。その点これは場所も別ですし、宗派にこだわらない相談センターはいざという時に欲しいですよね。
ここで面白いのは、雰囲気的に「石投げれば坊主にあたる」ような奈良での話ってところ。そりゃあもう、無数にお寺があるイメージなんですが…。
もしかして敷居が高いのでしょうか?そうしたら問題ですね。まさか観光客対応で忙しいから…とかではないでしょうねぇ。


●最後にひでるさんが撮ってきた一発ネタを。タイトルは「イソップ童話」


うわ!びっくりしたー!!

場所忘れてしまいましたが、これ京都のどこかでした。
…あのぅ、並び方間違っているでは?



 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


※「最澄と天台の国宝」展の後はこんな仏像グラビアで楽しんで下さい。

日本100の仏像

JTB

このアイテムの詳細を見る

興福寺 (奈良)

2006年04月19日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、重文・国宝のひしめく奈良の超・有名寺院「興福寺」です。
ここは古都奈良の文化財で世界登録されているそうで。
さっすが興福寺!


藤原鎌足(ふじわらのかまたり)…って藤原氏の祖は覚えてますか?
あるいは、中臣鎌足(なかとみのかまたり)って、こっちの名前のが分かりやすいですか?
あの中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と共に「大化の改新」で活躍した人ですよー。
おそらく歴史とかで勉強したのではないか、と思いますがどうでしょう?

その鎌足ん(注:かまたりん)が関係する興福寺。
元々は鎌足んの私邸に建てられたお寺「山階寺」を起源としております。
和銅三年(710)都が奈良平城京へ移されると、鎌足んの息子不比等(ふひと)くんはそれを現在の場所へ移動し、興福寺と名付けたそうです。
(はしょりましたが、実際は一度厩坂に移って「厩坂寺」となっています。その次が上のとおり「興福寺」ですね)

「なんと(710)ステキな平城京」って覚えたでしょ?そのへんの時代の事ですね。

さて、その藤原氏や天皇家の庇護を受けた興福寺は次々に堂塔が建てられ、七堂伽藍の大寺院となりました。
これは見事にお寺の繁栄パターンですよ。
そんなこんなで奈良・平安時代は藤原氏の氏寺として栄え、なんと!鹿でお馴染みの「春日神社」をも支配するなど、勢力を拡大しました。
この時代ではほぼ、大和国の国主のような感じであったそうです。
…なんだか政治ちっくでいやらしい感じですねぇ。

鎌倉・室町時代にも幕府はここに守護を置かず、そのまま興福寺がその任に当たっていたそうです。(置かず、というより置かせなかったんでしょう)
知行にすると、なんと二万一千石だそうで!
…イヤーな感じでしょう?

そんな流れで戦国時代になっても大和国は寺社勢力が強く、非常に支配が難しいとされていました。
(ちなみに、この当時にはだいぶ興福寺の勢力は衰えていたようですが…)
そのため、ここの支配者は神社系の「筒井順慶」とか、教養人として知られる「松永久秀」などでした。

豊臣政権下では、秀吉の弟で温厚誠実な人柄で知られる「羽柴秀長」の支配となりました。
秀長は寺社などの要求を根気良く聞き、平和に治めることに成功しております。
…おっと、寺の説明から離れちゃいましたね。

源平合戦時の兵火や江戸時代の火災、また明治の神仏分離令などで一時はここ廃寺同然にまでなりますが、明治三十年頃からようやく修復が開始され、現在に至っているようです。
(なんと復興以前は奈良公園の一部となっていたんだって。鹿まみれですよ)

とまぁ、長い歴史に色々あった興福寺。
その国宝館は一般公開されており、物凄い重文・国宝の仏像がひしめく現代のパラダイスのようなところです。(※写真参照。あんなのがずらーっと並んでいるんですね)
メチャすごいですよ!おっきくて、かっちょえーですよ!!
……あれ、皆さんついて来てますか?

誰でも一度は見かけたことがあるであろう「国宝・阿修羅像」もココにあります。
生きているうちに是非直接見て欲しい、美しい像です。
きっと貴方も仏像の虜になるでしょう!


[住所] 興福寺 奈良市登大路町48

 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


※どうすか、”魅惑の仏像”ですよ!

魅惑の仏像 阿修羅―奈良・興福寺

毎日新聞社

このアイテムの詳細を見る

暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」(4)

2006年04月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「戦国三梟雄」の一角、松永久秀さまの四回目です。
四回目なんで…ついに最後です。へろへろです。
ここまでお付き合い(してくれてるかな?)有難う御座いました。

とりあえず前回までのあらすじぃ。
畿内の覇者となった松永久秀。
将軍義昭を擁した織田信長が上洛してくるとあっさり降伏。その配下となりました。
久秀は織田家中でも大活躍。
しかし、傀儡であった将軍義昭がなにやら影でこそこそとゴキブリのように動きはじめたのです…。


姉川合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田軍。
ですが、将軍義昭の要請で大義名分を得た周辺諸大名は”調子づいた織田を潰すいい機会”とばかりに、次々と反織田陣営に加わりました。これが信長包囲網です。
その名簿はこんな(↓)感じです。
越後上杉、甲斐武田、越前朝倉、近江浅井、畿内三好三人衆、将軍義昭、安芸毛利、加賀・長嶋・石山などの一向宗、比叡山延暦寺、根来寺、雑賀衆など…。
信長の生涯で三度目くらいの大ピンチです。(①桶狭間②金ヶ崎…かな)

元亀三年(1572)反信長の中心的存在でした武田が、ついに上洛の軍を率いて甲斐を出陣しました。
チャーンス!
ということで、昨日の敵は今日の友。将軍義昭と同盟した松永久秀は得意の裏切りを実施、武田に呼応して反旗を翻しました。
…しかし、この将軍義昭もはちゃめちゃですわね。

さて、武田は三方ヶ原合戦にて信長子分の徳川家康を一蹴。大いに期待が高まりますが、なんと!包囲網の一人、越前「朝倉義景」は雪を理由に撤退。(※戦に飽きた感もある[本当])
この一件により、織田勢は朝倉の備えで裂いていた兵に余裕ができたため、どうにか息を吹き返しました。信長はこの機会を逃さず、各地の敵軍の各個撃破に成功します。
連携がモノをいう包囲網の計画が破れ、朝倉を散々罵倒したと言われる信玄ですが、なんと自身も病のため病没。
上洛の夢は破れてしまいました。これは皆さんもよくご存知ですよね。

信玄来ず。
これで困ったのは久秀以下、それを期待していた畿内勢力の皆様です。
松永久秀は持っていた名物などをことごとく献上し、降伏します。
すると、珍しく信長はこれを赦すんですね、なんでだか。…やっぱ好きなんでしょうか?
ただし将軍義昭は追放。(ちなみに一度は天皇の仲裁もあって赦しています)
ここに室町幕府は崩壊しました。

さて、追放はされたものの、どうにか生き長らえた義昭は懲りずに密書を連発し、再び信長包囲網を作り上げます。(ただし、この時は彼の要請というより、単純に信長を危険視してのことかもしれませんが)
今回の目玉は越後の龍こと「上杉謙信」です。

天正四年(1576)対立関係にあった一向宗と和解した謙信は西に軍を進めます。
チャーンス!
ということで、松永久秀は得意(病気?)の裏切りを実施、上杉に呼応して再び反旗を翻しました。

上洛する上杉軍は柴田勝家率いる織田軍と激突。軍神・上杉謙信が指揮をする軍は異様に強く、撤退のため渡河に手間取っていた織田軍を追撃し、大打撃を与えました。(手取川合戦)
居城「信貴山城」に篭る久秀も大喜びしたでしょう。
しかし、その謙信も日頃の大酒が祟ったのか、病のため病没。
上洛の夢は破れてしまいました。こちらも皆さんよくご存知ですよね。
ここまでの信長は実に運がいいんですよ。

謙信来ず。
ほどなく、城は信長の嫡男「織田信忠」の軍勢に囲まれます。この時も、信長の意を受けた信忠はさかんに降伏勧告をしていたようです。
あるいは、ここで降伏していれば本当に命は助かったかもしれませんが、所有していた名物「平蜘蛛の茶釜」(※)を渡すのを拒み、それと共に爆死するのでした。
享年六十七。ちなみに偶然と思いますが、大仏殿を焼き払ったのと同日だとか。

さて、こうした悪どいことがよく目立つ松永久秀ですが、当時一流の茶人「武野紹鴎(たけのじょうおう)」の弟子だったり(※千利休も弟子だった)、実は美男子でたいへんな教養を身に付けていたとか、閨房術にやたら詳しい(笑)とか、城に天守閣を造ったはしりであるなどなど、その実像は非常にスケールの大きい人物であったようです。
早雲とはまた違った、魅力ある人ですね。

もし戦国シミュレーションゲームで見かけたなら、是非使ってあげて下さい!
…裏切られるかもしれませんが。うふふ…。


(※)平蜘蛛の茶釜(ひらぐものちゃがま)
   茶の湯にも通じた松永久秀が持つ秘蔵の名物茶器。蜘蛛のように平べったいものだったとか。
   なお、今回の写真は久秀ピンチ!なイメージ図です。左が信玄、右が謙信。


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。

信長の野望・嵐世記 (Playstation2)

コーエー

このアイテムの詳細を見る
   

暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」(3)

2006年04月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「戦国三梟雄」の一角、松永久秀さまの三回目です。

前回までのあらすじー。
管領家である細川、その被官であった「三好長慶」の右筆程度だった久秀。
キタナイ手段(?)により主家一族を血祭りに上げると、見事下克上を果たし、
いつの間にやら大名と成り代わっておりました、とさ。


現代で言うなら、地域に根付いた老舗の大会社、その関連会社の社長秘書程度であった人
が、いつしか本社の社長をやっていた、そんなようなものですよ。
そりゃー誰が見てもおかしい。

さて、当時日本に来ていた宣教師「ルイス・フロイス」によると松永久秀は畿内の王と書かれ、
絶大な権力を有していた様が伺えます。(ルイス・フロイス著 日本史より)

しかし、その栄華もつかの間、最後の将軍「足利義昭」を擁した織田信長が軍勢を京都に向け
ると、それを確認した久秀はあっさり降伏。
こりゃかなわん、というところでしょうか。その判断力も大したものです。

普通ならば一度勝負してみて…としたい場面だと思いますが、それは勝てばいいですが、負け
ればたぶん命なくなるでしょうから、大変な博打となりますし。
(※ちなみに抵抗した伊賀六角家は織田勢にあっけなく蹂躙されてます)
おそらく伝え聞いた情報を分析し、無理だと悟ったのでしょう。
時代に勝利する方は皆判断に優れた方が多いですが、この久秀も例外ではなかったようです。
そういう視点で見ると、確かに英雄には違いないんですけどねぇ…。

信長に名物などを謙譲し、大和一国を安堵された久秀。
何しろ織田が連れてきた将軍義昭にとっては兄を殺した張本人ですから、そりゃー首よこせとか、
どうにかしたいとか言ったでしょうが、結局信長の意向もあって赦すこととなりました。

さて、信長に従った久秀は彼の配下としてどこか意外ですが、活躍してます。
上洛要請に従わない越前朝倉を織田が攻めた際、妹お市の方が嫁いでいた同盟者「浅井長政」
に背後を衝かれ、織田(ちなみに徳川軍もいました)は窮地に陥ります。

これが後の太閤、当時「羽柴秀吉」が殿(※)をして大出世した「金ヶ崎撤退戦」です。
ここで久秀は撤退途中にて旧知の仲であった朽木谷の豪族「朽木元綱」を説き伏せたりなんとか
して、その帰路を安全とする大功をたてております。(※朽木はこの後織田家に仕えます)

へー。久秀はこの↑絶好のチャンスで裏切ったりする考えはなかったんでしょうかねぇ?
お互い性格が近いのはいいのか、悪いのか。
おそらく、両者とも「使い勝手のいい道具」程度の考えだったんではないかと思います。
そういう意味では、まだ利用価値があったんでしょうね。

さて、副将軍を固辞した信長は堺に代官を置くなど実利・実権を握り、名ばかりの傀儡とされてい
た最後の将軍「足利義昭」は自らの立場に不満を覚え、各有力大名に上洛を促す書状を出すよう
になりました。
それは遠く薩摩は島津氏にまで届いた(笑)ものですが、この密書により地方で勢力拡大を続けて
いた大名らは、ふと中央の存在を意識する切っ掛けとなりました。

そして、密書を受け取った中で一人ほくそ笑んだ方がおります。
そう、戦国最強軍団と呼ばれた甲斐武田軍の総大将、武田晴信(信玄)です。


 ⇒ さらにつづく。
   なんだかえらく長いので数回に分けています。お寺・仏像を期待している方、ごめんなさい。
   次回が最終回なんでー。
   ちなみに今回写真は武田信玄像です。

(※)殿(しんがり):軍の最後尾部隊。撤退の際には少ない勢で現地に踏みとどまり、主力を逃がす
   という危険極まりない役目になります。たいていの場合は討死したり…。
   「かかれ柴田に退き佐久間」というように、織田軍家老の佐久間信盛は撤退戦が得意とか言わ
   れていた様子。ちなみに柴田、は柴田勝家のことで、これは攻め上手という意味。いやん。

   
 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。



ちなみに、昔光栄のゲーム「信長の野望 戦国群雄伝」が発売された時、パソコンゲーム雑誌であり
ます「LOGIN」にハンドブックが付録でついたんですが、武将紹介の「松永久秀」の欄にあったコメント
が、「暗殺と裏切りはお手のもの、戦国の申し子というべき武将」みたいな紹介でした。
まさにぴったりだと思います。

あんまりお気に入りなんで、タイトルにも使ってますが、検索したところ出てきませんでした。うわーん。
コレひでるさんは大変お気に入りで、PC88・PC98版を二度(フロッピー読めなくなったため)、そして
WIN版と同じ内容のものを四度も購入しています。ばかみたいですね。
ちなみに下は光栄「信長シリーズ」の二作目、全国版の復刻です。
これじゃないんですよねー。

コーエー定番シリーズ 信長の野望リターンズ

コーエー

このアイテムの詳細を見る

暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」(2)

2006年04月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「戦国三梟雄」の一角、松永久秀さまの二回目です。
前に北条早雲をやったので、せっかくだから三人揃えてみようと
思ったのよ。

さて、北条早雲もそうでしたが、彼の出自はより不確かではっきりしません。
とりあえず、京都付近の小豪族ではあったようです。


まず管領家である細川、その被官であった「三好長慶」の右筆(※1)として歴史に登場します。
細川家の衰退から、次第に主家を凌駕した三好家は畿内から四国の一部まで、中央に一大勢
力を築きました。
ゆえに、この人も下克上に成功したクチなんですが、それもつかの間、暗い事件が頻発するの
です。

まず、鬼十河と恐れられた猛将で弟の「十河一存(そごうかずまさ)」が突然死。
次に文武両道・知勇兼備の弟「三好義賢(実休)」が討死。
そして期待されていた嫡男「三好義興」の急死。

さらに、淡路を拠点とする安宅水軍を率いる有能な弟「安宅冬康(あたぎふゆやす)」は久秀の
陰謀で長慶自ら手にかけてしまうと、当人の三好長慶もほどなく病を得て、その後を追うように
病没してしまいます。
ああ、気の毒。

……なぜにこれほど血縁が次々と、しかも不可解に死んでいくのか。
(なんと上記は五年程度の間に全て起こっている)
ひでるさんも今ざっと上げてみて、なんだか可笑しくなるほどでしたが、これらの死には久秀が
絡んでいたのではないか、ということ。
確実なのは「安宅冬康」の一件だけのようですが、まー他にも関わっていたのではないか、と。
ねぇ。
実際、そんな風評は当時からあったようです。
そりゃそうですよね、変でしょう。

相次ぐ肉親の死、とりわけ嫡男「義興」の死は長慶にはだいぶ応えたようで、この頃にはもう
心身に異常をきたしていたようです。
このあたりが北条早雲と違って嫌われる点なんですね。

さて、そんな相次ぐ有力者の死で大いに勢力を伸ばしたのは今回の主役「松永久秀」です。
彼は若い「三好義継(十河一存の子)」に三好家の後を継がせますが、もちろん実権はしっかり
自身で掌握します。

さらに久秀は意のままにならない将軍義輝を三好家の有力者である三好三人衆(※2)と共に
二条御所を急襲して殺害。
ああ、やっちゃいました。
その後、十四代将軍足利義栄(あしかがよしひで)を擁立します。
余談ですが、この人将軍でいられたのは数カ月です。
ああ、気の毒。

昨日の友は今日の敵、上では共闘していた三好三人衆と不和になり、次第に対立するように
なりました。
苦戦した久秀は彼らの立てこもる東大寺を攻撃、それに火をかけ、焼き打ちにします。
うわあ、東大寺全焼ですよ!やってくれます、このお方!
さらにものすごいのが、その際に残したコメントなんですが、こんなん↓。

「木と銅で出来たものを焼いてなんの罰があろうか」

凄まじいです。
まっったく神様を信じていないことがこの言動で証明されてます。
現代人だって躊躇してしまいそうなことを、あっさり実行するんですね、この人。
当時の感覚は仏罰を恐れる、ということもありますが、基本的に寺院ってのは中立と考えられて
いたので、手出ししないのが普通なんですね。
ああ、気の毒。(大仏が…)

だいたい将軍殺害というのも、権威が墜ちていたとはいえ一応奉るべき対象ですから、それを
襲って殺しちゃう強引さも尋常な話でないんですよ。


 ⇒ まだつづく。
   なんだかえらく長いので数回に分けています。お寺・仏像を期待している方、ごめんなさい。

 ※ちなみに今回写真は畿内の覇者「三好長慶」の菩提寺「聚光院」です。
  三好義継が建立しました。

[住所] 大徳寺・聚光院 京都市北区紫野大徳寺町58 (注:通常拝観不可)


(※1)右筆(ゆうひつ)文書く人のことですね。今風に言うとライターよ。
(※2)三好三人衆(みよしさんにんしゅう)三好長逸(ながやす)、三好政康、
   岩成友通(いわなりともみち)の三名のこと。
   皆三好一族で勢力拡大に貢献した指揮官。
   ちなみに政康は真田十勇士でお馴染み「三好清海入道」のモデルです。
   最後は豊臣秀頼に仕え、大阪の陣で戦死したと言われる。


 ★ランキング参加しております。応援お願いします★
⇒ 人気blogランキングへ
⇒ ブログランキング (マイプロフ


◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。


※滅びし三好の無念をすっぱーと晴らしてあげて下さい。

セレクション2000 第3弾 復刻版 天下統一

エレクトロニック・アーツ

このアイテムの詳細を見る