お寺さんぽ Ver.03

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布袋尊 (七福神)

2008年11月30日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、日本で最も有名であろう七名グループ「七福神」のメンバー「布袋尊(ほていそん)」についてです。

「布袋」と言えば…思い出されるのは、「やきやき♪」か、歌うたいな方(※ひでるさんはほぼ知識無い)ですか?
七福神の中では、頭が長く不気味な老人「福禄寿」と並び、”もっともなんなんだかよく分からない、正体不明な方”、ですよね。ちがう?
しかも、彼に至っては宝船を転覆させる勢いがありそうな、ちょっと迷惑っぽい容姿なのでした。
笑ってる場合じゃないですよ。
メタボが話題になることの多いこの世の中、果たしてメンバーとして活動を続けられるんでしょうか?


※東京「浄心寺」の巨大・布袋像

…と、いつもの冗談はそれくらいに「布袋尊」です。
これがね、bueq@k「黄檗山萬福寺」の続きでブログ記事にしようと考えたはいいものの…やったらめったら資料が少なくて困ったんですわ。
(※上写真は京都「黄檗山萬福寺」の半跏布袋像)
仏像系の本には、ほとんど掲載されてなかったの。
調べて分かるこの事実。

しかし、伊東で行った”七福神めぐり”の資料にて、しっかりと記述がありました。
大助かりです。
やっぱり、お寺は直接巡ってみるもんですね。


※京都「八大神社」_付近の「布袋道祖神」

さて、「布袋尊」はもともとは実在人物なのです!
びっくりしたでしょ。

五三〇年頃の中国。
「梁」という国の高僧で、その名も「布袋和尚」と言う方がおりました。
現在知られている姿そのまま、かなり恰幅の良いスタイルだったようです。
そんな「布袋和尚」は、吉凶から天気までを予知したほか、様々な逸話を持って信仰を集めておりました
そのため、いつからか「弥勒菩薩」の化身じゃないか、と言われるようになっていたのです。

真言である「おん まいたれいや そわか」が弥勒さまのソレと同一というのは、決して単なる偶然ではないのですよ。
後に世の人を救うと言われた弥勒信仰は古くから長きにわたって続いており、この「布袋和尚」もそれに当てはめられたのでしょう。


※京都「赤山禅院」の布袋さま

…とか、長々書いてきましたが。
そういう説が有力とされているものの、実際には不明点が多く微妙。

とりあえず、平安時代後期頃から単独神として日本でも信仰されるようになり、特に水墨画の題材にチョイスされる”描き易い方”であったようです
ドラえもんみたいなもんですね。
絵描き歌とかあったりして。(←ない)

それが、室町時代に「七福神」の一人に抜擢され、グループ結成。
特に江戸時代では庶民の間で人気爆発。
各地にて像が作られ、その姿を見られることとなったのでした。

福々しい大きな耳と、満面の笑顔。
肥満した太鼓腹で大きな袋を背負う姿が一般的な特徴。

笑顔は、どんな時でも微笑みを持って人に接する態度。
大きな腹は、しっかりとした意思を持ちつつも、”世の中の清・濁を合わせて呑む”という器の大きさ。、
背負う大きな袋には、信仰する人に金銀パール…でなく、財宝を限りなく与えるという、福徳の神様なのでした。


太っているのも、笑顔も意味あったんですねー。



[関連記事] 【如来のいろいろ】 
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⇒ 四天王編 (お父さんのための仏像講座)


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※じじくさいと侮るなかれ、巡ってみるとかなり面白い七福神巡り。
 こんなんを切っ掛けに仏像世界に興味持つこともあるでしょう。


黄檗山萬福寺 (京都・宇治)

2008年11月27日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、京都は宇治の注目寺院「黄檗山萬福寺(おうばくさん・まんぷくじ)」です。

お腹いっぱい「萬福寺」
…と、肌寒くなったところで、名前も覚えやすいこちらの寺院(笑)
境内はどかーんと広く、あちこちに注目仏像などを安置したこちらは、まさにお腹いっぱいなお寺なのでした。

さて、「萬福寺」は「黄檗宗(おうばくしゅう)」大本山の寺院です。
大本山シリーズなんですね。


※萬福寺・大雄宝殿

承応三年(1654)
時は四代将軍「徳川家綱」が治める、江戸時代のこと。
中国におられた「臨済宗」の僧「隠元禅師(いんげん・ぜんし)」は、その名声が日本まで届くほどの有名人でした。

「妙心寺」住持らの度重なる招きに応じて、当時は六十三歳だった体に鞭うって中国福建省より来日。
長崎は「興福寺」へ入りました。
…烏龍茶も持ってきたのかなぁ。

さて、皆さんが知るように、当時の日本は鎖国状態でした。
貿易港長崎なら別でしたが幕府の態度は厳しく、「妙心寺」派の摂津「普門寺」から外出が許されなかったほか、寺内ですら制限がつけられるなど、かなり窮屈な思いをしたようです。
そこで、彼を招いた「龍渓宗潜(りょうけい・そうせん)」らが必死な働きかけをして、ついに将軍家綱へ謁見するチャンスを得たのでした。

…こうして、将軍「徳川家綱」、「後水尾法皇」などより尊敬され、幕府・その他より多くの帰依者を得た「隠元禅師」
彼らの熱心な要請により、当初は三年で帰国する予定を変更し、残りの生涯を日本にて過ごすこととなるのです。

万治四年(1661)
来日して七年目。
幕府より山城国宇治は大和田の地が与えられ、そちらにて「黄檗山萬福寺」は開創されました。
(※開創:初めてその寺を開くこと)
この寺号は「隠元禅師」の故郷福建省の寺院と同じものなんですね。


※卍及び卍くずしの文様です。

禅師の創建した「萬福寺」は協力者も多く大いに流行し、国内に新しい禅がもたらされました。
中国ではもともとの「臨済宗」に含まれておりますが、日本の「臨済宗」はそれと異なっていたため、明治九年に独立して「黄檗宗」となったのです。
(※日本三禅宗の一つが「黄檗宗」、他は「臨済宗」「曹洞宗」です)


なんと、こちら「萬福寺」は創建した当時そのままの姿を残しているという、”建物全体が重文”というお寺なのです。
境内の十六棟は重文で、中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置なんだって。

なお、注目の「十八羅漢像」は最大の建物である本堂「大雄宝殿(だいゆうほうでん)」におわします。
ひでるさんはこれが見たかったんですね~。



凄かったですよー「羅怙羅尊者(らごら・そんじゃ)」
お腹あたりをがばーって開いて、その中から仏が見えてるやつよ。
それを知ったのどちらかのお寺にあったポスター(↑それね)でしたが、衝撃度は絶大なものでした。
ほとんど、これだけのために行ってきました。
オススメです。
ほか、「天王殿」での「弥勒菩薩」の化身とされる「半跏布袋像」も要チェックですね。

お寺の方によると、こちらは全体で龍を表現しているのだとか。
置かれている石がひし形に並んでいるのも、龍の背中を表現したんだって。



[住所]
 黄檗山萬福寺 京都府宇治市五ヶ庄三番割三四


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土門拳 古寺を訪ねて―京・洛北から宇治へ (小学館文庫)
土門 拳
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※評価高かったので掲載してみました。
 萬福寺はあるのかなぁ。

麻生さんは漢字苦手?…でも漫画に罪はないでしょう (読売新聞ほか)

2008年11月20日 | ネタ
こんばんわ。
年末までお仕事でいっぱい・いっぱいです。
最近はコレという記事なく、すっかりご無沙汰だったんですが…どうにもちらほら引っ掛かる部分があったので、久し振りに。
さてはて、世の中の闇を一刀両断するこのブログ(大嘘)
本日は『 麻生さんは漢字苦手?…でも漫画に罪はないでしょう (読売新聞・ほか) 』です。

”漫画好き”というのが売りの一つである「麻生首相」
理解のある人が頻繁に画面へ出てくるのはいいことだなー、とか思っていましたが…。
なにやらちらほら気になる事が。


■みぞうゆう?ふしゅう??…麻生さんは漢字苦手?
 [読売新聞] 2008年11月13日

 麻生首相が最近、言葉遣いの誤りを連発している。

 12日午後、日中関連イベントであいさつした首相は、「これだけ『はんざつ』に両首脳が往来したのは例がない」「(四川大地震は)『みぞうゆう』の自然災害」などと語った。手元に用意した原稿にはそれぞれ「頻繁(ひんぱん)」「未曽有(みぞう)」と書かれており、誤読だったようだ。
 7日の参院本会議でも、植民地支配と侵略への反省を表明した村山首相談話を「ふしゅう」すると表明した。首相は「踏襲(とうしゅう)」を「ふしゅう」と読む間違いを国会で何度も繰り返しており、12日の衆院内閣委員会では、質問に立った民主党議員が首相に近い甘利行政改革相に、「首相が日本語を正しく発音しないのも何ですから、『とうしゅう』と読むんだと伝えてほしい」と苦言を呈する場面もあった。

 秘書官らに指摘を受けた首相は、「おれ、そんな風に言っているかなあ」とこぼしたといい、自覚はあまりないようだ。
 12日夜も、間違いの多さを指摘した記者団に平然とこう答えた。
 「それは単なる読み間違い、もしくは勘違い。はい
---------------------------------- 。。。



この記事の前後あたりから、よく耳にするようになりました。
新聞記事などで明確に結び付けているものを探したんですが、とりあえず見当たりません。
しかし、中吊りにて発見しました。
↓それ。

 「学習院の恥」とOBも見放した「おバカ首相」
 ~マンガばかり読んでいるからだ!
[週刊新潮]

テレビなどを見ていると、よくコメンテーターの方がそういった言葉を発しております。
いまだに、「漫画=低俗」という風潮であることに驚きます。


漫画と学力は直接関係ないことでしょ?
小説ならいいの?
新聞ならいいの?
活字だけってーのは、そんなに偉いものですか??
(※毎日新聞の英語版サイトで、世界に向けて低俗な捏造記事を発信してましたよねー)

最近のドラマ、映画には漫画原作が多いんですが、それもくだらないと思います?
小説離れも確かにあるんでしょうけど、漫画がそれだけエンターテイメントとして、面白い存在になってきているということもあるでしょ?
また、そんなんをゴールデンに流すテレビ局はどうなの?

これらは単なる表現方法の違い。
ことさら結び付けて貶めたり、コメントするのはだいぶおかしいと思うのだけど…。
とにかく、最近の首相バッシングに”漫画好き”というキーワードが絡められていることは、非常に悲しいです。

漫画好きと学力には関係ありません。
あれだけ評価されていながら、認知されるにはまだ時間かかるのかなぁ…。



もっけ(勿怪) 3 (3) (アフタヌーンKC)
熊倉 隆敏
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※例えばこんなん。
 妖怪を退治するのではなく、”うまく付き合っていく”ことが描かれています。
 人間ドラマですね。


こどものじかん 5 (5) (アクションコミックス)
私屋 カヲル
双葉社

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※あるいはこんなん。
 一見するとえっちっぽさが目立つ漫画ですが、実は扱っているネタは非常に重いものです。
 誇張はあるでしょうけれど、現実にこんなんあると思います。


暴れん坊少納言1 (ガムコミックスプラス)
かかし朝浩
ワニブックス

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※何度か紹介してます、こちら。
 はっきり言って、授業を数百回やるよりも歴史に興味を持つ切っ掛けになるでしょう。
 上の画像がこちらの漫画ね。



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押され続けた「明智光秀」 (中国大返し・山崎合戦)6

2008年11月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りしてきましたが、本日が最終回です。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
 本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
 羽柴の陣へ誤って入った伝令によって、悲報に接す。
六月四日
 高松城は開城、毛利氏と和睦締結。
六月五日
 高松陣を撤収。
六月六日
「中国大返し」を開始。
六月七日
 姫路城へ入城。
六月八日
 姫路城にて休息・部隊編成。
六月九日
 姫路城を出陣。
六月十日
 兵庫付近に到着。
六月十一日
 摂津・尼ヶ崎に到着。
六月十二日
「羽柴秀吉」は摂津富田にて軍議を開き、決戦の地・山崎を目指すのでした…。


■六月十三日 「秀吉、山崎合戦に挑む」
高松城から引き返してきた秀吉以下羽柴勢には、「中川清秀」「高山重友」「池田恒興」などの摂津勢、「丹羽長秀」「織田信孝」という四国討伐軍が加わっていました。
その総勢は四万。

先鋒「中川清秀」は天王山を、「高山重友」は山崎の集落をいち早く占領。
一方、明智勢は一万七千程度で、重要拠点を占拠された上に兵力もほぼ三分の一程度という、非常に不利な状況だったのです。

さて、この日は、朝方より雨が降っていたそうです。
降りしきる大雨の中、「明智光秀」は中桂川を渡って本陣を御坊塚(※勝竜寺城の南西)まで進め、東上する羽柴勢に備えたのです。

もともとは共同作戦も行ったことのある、同僚同士の対決…。
お互いに警戒して動かず、午前中はそのまま過ぎました。
結局、戦いが始まったのは、午後四時ごろ(申の刻)と言われています。


明智勢は山の手に陣する「並河易家」「松田政近」ら先鋒勢が比較的手薄であった天王山東の「中川清秀」を攻撃。
これが合戦の合図となりました。

勝竜寺城の側面に位置する敵を払うと共に、あわよくば天王山の奪回を目指したのかもしれません。
しかし、山頂に位置していた「羽柴秀長」、「黒田孝高」隊らの奮戦によって、先鋒勢は撃退されてしまうのです。

一方、秀吉勢の右翼「加藤光泰」隊が「津田重久(与三郎)」隊を撃破。
明智勢の主力である「斎藤利三」隊は「池田恒興」「木村隼人」「中村一氏」「加藤光泰」らによって包囲され敗走。
(※後に近江堅田で捕縛されて、斬首となります)
「伊勢貞興」、「御牧景重」らは乱戦の中で討死。

圧倒的な兵力差に追い詰められた明智勢は中央突破を試みますが、左右に展開された秀吉勢によって側面を突かれて足並みを乱し、また中央でも「高山重友」、「堀秀政」に阻まれてどうにも進めず、先鋒勢の敗走からたちまち総崩れとなってしまうのです。

本陣にあった光秀は先陣の大敗北に出撃を決意しますが、家臣「北田則家」に諫められて勝竜寺城へ撤退。

こうして、わずか二時間たらずの合戦に圧倒され続けた光秀は、ここで全てを失ってしまうのでした。
しかし両軍ともに三千という死者を出すほどの激戦で、敗れたとはいえ兵力差の割に明智勢はかなり頑張っていたのです。

勢いにのった羽柴勢は、続いて明智勢の本陣である「勝竜寺城」を包囲。
堅城ではない「勝竜寺城」での攻防を不利と悟った光秀は、城を捨てることを決意し、夜半のうちに脱出しました。
まだ包囲網も完成する前であったんですが、明智勢は文字通り算を乱して敗走するのです。

なお、光秀は本拠である近江「坂本城」を目指していましたが、全軍に撤退先の伝達は不徹底だったことから「亀山城」を目指した部隊もあり、これが双方の兵力を激減させる要因となってしまうのです。
また、まとまっての撤退は目立つため、数人単位で行動したことが仇となってしまいました。

桂川を渡って大亀山を過ぎ、山科まで辿り着いた光秀一行。
…がその途中、小栗栖の竹藪から突き出された農民の竹槍によって脇腹をえぐられ、それがために絶命してしまうのです
「明智光秀」の誕生年は不確かですが、おそらく五十四歳くらいであったようでした。
なお、小栗栖(京都市伏見区)の藪は「明智藪」と呼ばれております。

…その後。
六月十四日には後詰のため安土城から急遽出兵した「明智秀満」を「堀秀政」が打出の浜(大津市)で迎え撃って撃破。
坂本城に追い込んでおります。
さすが名人。

続く六月十五日。
秀満は城内にあった名刀や茶の湯の財宝・名物を秀政へキチンと引き渡し、城に火を放って自刃。


”三日天下”と言われていますが、光秀の天下は実際には十一日にて潰えたのでした。






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俊英明智光秀―才気迸る霹靂の智将 (歴史群像シリーズ戦国セレクション)

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※もし、秀吉が駆け付けることできなかったなら…
 やっぱ、他の誰かに討たれていたでしょうかねぇ。
「柴田」か「徳川」かな。

天王山を占領する「中川清秀」 (中国大返し・山崎合戦)5

2008年11月13日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りしております。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
 本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
 羽柴の陣へ誤って入った伝令によって、悲報に接す。
六月四日
 高松城は開城、毛利氏と和睦締結。
六月五日
 高松陣を撤収。
六月六日
「中国大返し」を開始。
六月七日
 姫路城へ入城。
六月八日
 姫路城にて休息・部隊編成。
六月九日
 羽柴勢、姫路城を出陣。
六月十日
「羽柴秀吉」は兵庫付近までその姿を見せていたのでした…。


■六月十一日 「秀吉、摂津尼ヶ崎に到着」
二日間走っていた秀吉がついに摂津尼ヶ崎まで到着した頃、光秀はあいまいな態度を続ける「筒井順慶」を諦めて、ついに洞ヶ峠から撤退しております。
下鳥羽まで戻ってここを本陣と定め、「淀城」を修復するなどして守備を固めるのでした。

光秀としては、羽柴勢を何としてでも山崎の隘路(あいろ:狭く険しい道ね)に誘いこみ、そこで殲滅したかったのです。
その地は西国から京都へ入る際の関門。
京都方面へ入る際には必ず通らなければいけないという、重要拠点なのでした。
(※ちなみに現在も東海道線、新幹線ほか高速道路などが集中している交通の要所なのです)


■六月十二日  「秀吉、摂津富田に陣を置く」
光秀の誤算が続く中、逆に京へと向かう羽柴勢には次々と参加者が集まり、総勢四万という大軍になっておりました。

余談ですが、「高松城」の攻撃軍は二万五千という規模でした。
若干数は守備隊として残していたと思われますから、約半数ほどの兵数が秀吉に呼応した部隊だと想像されます。

摂津富田に陣を置いた秀吉はここで軍議をし、全軍の配置を決定。
翌日に山崎へ結集
…という、軍令を出したのです。

秀吉勢の先方「中川清秀」は先んじて、午後には標高二七〇メートルの天王山を占拠しております。
現在でも勝負事にて引用されることの多い「天王山」ですが、ここは双方が決戦地として選んだ山崎の地を一望できる要所であり、優位に導いた原因とされているのです。
まぁ、圧倒的な兵力差があったんですけど、ここを押さえられてしまったことは明智勢にとって実に痛かったのでした。

続いて「高山重友」隊が山崎の集落を占拠。
先の天王山、および山崎の地では明智勢と小競り合いがあったようですが、ここを死守しております。

総大将である秀吉の本陣は山裾後方の宝積寺に置かれました。
弟「羽柴秀長」、「黒田官兵衛」、「神子田正治(みこだ・まさはる)」らは天王山へ布陣しております。

対する明智勢は一万七千という兵を洛南の山崎へ配置。
修復した淀城を再左翼として自身は「勝龍寺城」へ入り、ここを本陣としました。
右翼には、山の手に「並河易家」「松田政近」、円明寺に「伊勢(与三郎)貞興」、「御牧(三左衛門)景重」、「諏訪飛騨守」らを配し、迎撃体勢を整えたのでした。

⇒ つづく。
  次回は「押され続けた明智光秀」(6/6)

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⇒ 宇喜多秀家 < >
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⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)
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⇒ 真田昌幸 (長野・上田城)
⇒ 名人と呼ばれた武将「堀秀政」


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※天王山と言ったら…やっぱり野球でしょう。
 こんなんはどうですか?


明智を見限る「細川藤孝」 (中国大返し・山崎合戦)4

2008年11月09日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りしております。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
 羽柴の陣へ誤って入った伝令によって、悲報に接す。
六月四日
 高松城は開城、毛利氏と和睦締結。
六月五日
 高松陣を撤収。
六月六日
 「中国大返し」を開始。
六月七日
 姫路城へ入城。
六月八日
 「羽柴秀吉」は”出陣は不吉”との予言を笑い飛ばし、出陣準備を整えるのでした…。


■六月九日 「秀吉、出陣する」
さて、早朝に姫路城から出陣した羽柴勢はここでも驚異的な行軍スピードを発揮します。
明石・兵庫を経て尼ヶ崎まで、十一日までの二日間にて八十キロという道を疾駆したのでした。

この頃、「明智光秀」は入洛して御所へ参内。
昇殿を許され、拝謁をたまわったと伝えられています。
…先の「征夷大将軍」の話が真実なら、こちらで正式に宣下されたと思われます。
朝廷には、銀五百枚を献上。
さらに京都市民には地租を免除したほか、京五山の寺にも銀百枚を納めるなど、足場固めに必死な姿が見えます。


■六月十日 「秀吉、兵庫付近へ到着」
この日、秀吉は兵庫付近にまで来ていたようです。
こうして羽柴勢がぐいぐいと迫ってくる中、光秀は必死に兵を募っていました。

彼の脳裏で計算にあったのは、丹後十二万石は舞鶴城の「細川藤孝(※写真右)」「細川忠興」親子でした。

「細川藤孝」は「足利義昭」と共に流浪していた時代から親交があり、お互い教養ある文化人ということで性格的にも合っていたと思われます。
さらに、義昭を見限った藤孝が織田家へ入った後には、光秀率いる明智勢に加えられているのです。
彼の嫡男「細川忠興」は光秀の娘、三女「お玉(※細川ガラシャ)」を迎えており、公私どちらの繋がりも深かったのでした。
彼ら親子に期待するのは、当然のことでしょう。

しかし、要請を受けた細川親子の態度はその想像とは違っておりました。
中国出陣のため出陣途中であった細川親子は報に接すると、兵を引き返させました。
そして藤孝は名を「幽斎」と称して剃髪し、家督を忠興に譲って弔意を示してしまうのです。
こうして、彼らが中立の構えを見せたのがだいたい三日頃のこと。
慌てた光秀は再三に渡って要請を続け、九日には、
このたび信長襲撃を思い立ったのは婿の忠興を取り立てたいと思ったからだ。五十日から百日のうちに近国を固めたら、政権は十五郎(※嫡男「明智光慶」のこと)や忠興どのに引き渡すつもりだった
…など、なかなか情けない書状を送っているのでした。

襲撃前におみくじ三回もひいてみたり、こんな文を送ったりと、どうしても光秀には”天下を狙った”という感じがしないんですよねー。
やっぱり怨恨の線ではないかなぁ…。

なお、細川親子は光秀が「山崎合戦」にて敗走する頃、明智勢の不利を見切って支城を二つほど落城させていたと言います。
こっちもまた大した先見性なのですよ。ええ

続いて光秀が期待していたのは、大和「郡山城」の「筒井順慶(※写真左)」と言われております。

順慶を信長へ推挙したのが光秀であり、また傘下となった後には藤孝と同様に明智勢へと加えられていたのです。
また、光秀の第四子が順慶の養子(筒井定頼)になっているなど、こちらでも繋がりは深かったのでした。

順慶は先の細川親子と違って光秀の要請に応じ、配下の部隊を取り急ぎ送っています。
しかし、中国路から驚異的なスピードで羽柴勢が戻っている情報を掴むと、態度を一変させてしまうのでした。
秀吉にはこっそりと「敵対しない」旨の書状を送り、順慶自身は郡山城へと引っこんでしまうのです。

この日、京都を出発した光秀は順慶の出陣を促すため、山城八幡付近の河内・洞ヶ峠まで出陣しております。
しかし、順慶は前述したように、既に秀吉と誓紙を取り交わしていたのです。

”戦況を見極めて有利な方につくという日和見な態度”について「洞ヶ峠をきめこむ」という故事になっていますが、実際には戦いの形勢を見ることすらせず、順慶は城に引き籠もっていたのでした。
洞ヶ峠付近まで兵を出したのは光秀の方なんですが、結局順慶自身は一歩も出陣せぬまま終わっております。

ほか、「高山重友(右近)」にも拒絶されており、呼応したのは女婿「津田信澄」、近江・山本山城「阿閉貞征(あつじ・さだゆき)」、さらに前述しております京極氏、若狭武田氏程度で、周囲にはほとんど協力者がいなかったのでした。

⇒ つづく。
  次回は「天王山を占領する中川清秀」(5/6)


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※やっぱり「細川藤孝」さまと言えば…こちらの印象的な顔グラフィック(PC-88版ね)でしょう。
 まるで幽霊みたいで、軍師として出てきた時には大そう驚いたものです。



走る「羽柴秀吉」 (中国大返し・山崎合戦)3

2008年11月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りしております。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
羽柴の陣へ誤って入った伝令によって、秀吉悲報に接す。
六月四日
高松城は開城、毛利氏と和睦締結。
六月五日
見事和睦に成功した「羽柴秀吉」は、早速高松陣の撤収作業開始するのでした…。


■六月六日 「秀吉、備中高松城の囲みを解く」
信長の死を隠したまま、毛利氏との講和に成功した秀吉。
毛利勢が引き揚げたことを確認した秀吉は高松城に「木下家定(※おねの兄)」を配置すると、総撤退を開始しました。
これが午後二時頃のことだったと伝わっています。

この京への強行軍こそ、世に言う「中国大返し」なのです。

折からの暴風雨の中、なんと”約八十キロ”という道を羽柴勢は疾駆することとなるのです。
あらかじめ道に火を灯させておき、現代のマラソンのように各ポイントに飯や飲料を用意させた、とか聞いたんですが…色々調べましたが、あまり確かなことは分かっていないみたい。
(※それどころか、なかったのでは?という説まである様子)

とりあえず確かなことは、これが真実であれば歴史に残るほどの強行軍であったということです。
ちなみに、当然ながら皆全員が綺麗に走り去ったことなどなく、秀吉の疾走から大幅に遅れた者が続出したと言います。
…名もなき足軽の人たちの苦労が偲ばれますね(笑)
そりゃー秀吉は騎乗していたでしょうからねー。

そんなこんなで、六日は午後二時に高松城を出発し、岡山を経て備前「沼城(岡山城東方)」まで進んで宿泊。(※到着は夜半のこと)
ここは約十二キロという距離でした。


■六月七日 「秀吉、姫路城へ入る」
夜のうちに備前「沼城」へ入った秀吉以下、羽柴勢。
今度はその沼城から播磨「姫路城(兵庫県姫路市)」まで、約五十五キロという道のりをわずか一日で疾駆するのです。

早朝に出発した軍勢が姫路城へ到着したのは、実際には八日の朝でした。
前述したように梅雨時で暴風雨であったということで、各河川は増水しておりました。
そのため、付近の農民らに協力を要請して彼らに人間の鎖を作らせ、その肩にすがって渡河した、と伝わっています。
すごいですね。


■六月八日 「秀吉、姫路城にて休息する}
二日に渡る強行軍から、姫路城へと落ち着いた秀吉はここで束の間の休息。
しかし、単に休んでいた訳もなく、軍編成など決戦に向けての準備を着々としていたようです。

この際、秀吉の性格を象徴するような、有名なエピソードがあります。

家中にて占いをする僧侶が、
明日は二度と戻れない悪日なため、出陣はとりやめた方が良いと思われます
…と、進言してきました。

当時、出陣の際に吉凶を占うことは日常的なことで、開戦の日時などもそれで決定することも多かったのです。
(※ちなみに、古くは軍師の役目となっており、軍配を預かる者に易学は必須でした)

それに対して秀吉はこんな返答をしております。
主君のために討死する覚悟はできている。それに、もし光秀に勝てば姫路へ戻る必要がないから、それは吉日だ

いかにも秀吉らしい、ポジティブさが伝わってきますね。
なお「決戦で敗北したら、この城を焼き尽くしてくれ」というように、遺言まで残しておりました。
こちらは一か八かの決戦を目前とした、気迫が感じられます。
歴史を知る我々はどうしても「秀吉が大勝する」という目で見てしまいますが、当人はもちろん、あの時代に生きていた人々に絶対はありませんでした。
皆、ぎりぎりな判断を強いられているのです。


一方、光秀は安土城に重臣「明智秀満」を残し、本拠である「坂本城」へと戻っております。
おそらく、この頃には羽柴勢の接近を察知していたのでしょう。
さてはて、どうする!?

⇒ つづく。
  次回は「明智を見限る細川藤孝」(4/6)

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※こんなん見つけました。
 かわいらしいんですが…たっかいのよ。

家中を抑える「小早川隆景」 (中国大返し・山崎合戦)2

2008年11月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「洞ヶ峠の日和見」、「天王山」、「三日天下」…など、現在でも引用されることの多い、それら故事と関わる「山崎合戦」、さらには最も秀吉の真価が発揮された「中国大返し」についてお送りさせていただきます。
時代の覇者「織田信長」の死後にあった、それぞれの人間模様をとくとご覧くださいませ。


天正十年(1582) 六月二日 「本能寺の変」
本能寺に宿泊していた「織田信長」は突如兵を反転させた「明智光秀」の急襲を受け、四十九年の人生を終えました。
六月三日
その悲報に接した「羽柴秀吉」は、急ぎ対峙している毛利氏との和睦を目指すのです…。


■六月四日 「秀吉、毛利氏と同盟を締結する」
秀吉勢からは「森高政」が人質として毛利氏へ。
一方、毛利氏からは「小早川秀包」が人質として送られました。
正午過ぎ、小舟に乗った「清水宗治」は城兵の命と引き替えに自害。
高松城はここに陥落したのです。

なお、毛利氏が紀州雑賀衆の伝令によって「信長死亡」の報に接したのは、この直後だと言われております。
(※あるいは六日とか言われている様子)

騙された毛利氏の家臣には”撤退する羽柴勢の追撃を主張”した者もいたそうですが、
誓紙の血痕も乾かぬうちにこれを破るのは武士の恥
…と、後の五大老「小早川隆景(※写真右)」が反対。

約定を順守した結果、後年になって秀吉に深く感謝されることとなるのです。
なお、兄「吉川元春(※写真左)」はこの事に腹を立てて大の秀吉嫌いとなり、隠居していたりします。
なんだか可愛らしい行動ですね。

一説によると、この頃に「明智光秀」は朝廷「正親町天皇」より、”征夷大将軍を宣下を伝達された”と言われております。
もしそれが本当なら、一時的とは言え光秀は正真正銘の天下人となっていたのです。


■六月五日 「秀吉、撤収作業を開始する」
京を押さえた明智勢は、さっそく畿内制圧に動き出しておりました。
留守となっていた秀吉の本拠「長浜城」は、光秀に呼応した「京極高次」が攻略。
なお、秀吉の正妻「おね」は素早く「大吉寺」に身を寄せていたため、無事でした。
(※ちなみに、「平治の乱」の際に若き「源頼朝」が身を寄せたのも大吉寺)
さらに、「丹羽長秀」の居城であった「佐和山城」は若狭武田氏「武田元明」が攻略。
これが四日から五日のあたり。

そう、京極氏は元四職の一つ、武田氏は若狭守護ということで、光秀の誘いに対して積極的に応じたのは、没落していた名門家なんですねー。
こんな所は、「大阪の陣」での豊臣家を彷彿とさせます。

さて、近江「瀬田城」の「山岡景隆」「山岡景友」らは光秀からの誘いを拒否し、逆に瀬田橋を落とすなどして明智勢の進路を阻止しております。
(※さらに弟「山岡景佐」は、「徳川家康」の退路を確保するなど、この一族は各方面にて活躍しておりました)
光秀は落とされていた瀬田橋を修復してこれを渡り、信長の居城「安土城」へと入城。
この時点で、近江はほぼ明智勢によって平定されておりました。

ちなみに、安土城の留守を守っていた「蒲生賢秀(がもう・かたひで)」は、二日…だから本能寺が襲われたその日のうちに悲報に接し、信長の妻子らを伴って自らの居城日野城へ移し籠城。
(※なお、彼の嫡男「蒲生氏郷」の妻は信長の娘「冬姫」です)

こちらにも光秀からの誘いがありましたが、蒲生親子は拒絶して籠城を続けるのでした。
結果的にはしっかり守り切り、有事での適切な判断を皆から称賛されることとなります。

一方、秀吉は高松陣の撤収作業に追われておりました。
摂津は茨城城主「中川清秀」から届いた書面に対し、
信長親子は光秀の謀反を切り抜け、無事に近江の膳所ヶ崎までたどり着いた。今後も油断なく備えてほしい
…というような返事を出しているのです。
さすがは秀吉。
こうした情報戦(虚報)を仕掛け、戸惑う摂津付近武将らの叛意を押さえるという、したたかで用意周到な面を見せています。
彼らも、どちらかで信長が生きてる(かもしれない)という情報を聞けば、そう簡単に明智勢へ協力する訳にはいかなくなるのです。
事実、「中川清秀」「高山右近」といった摂津の各将は、秀吉に味方して活躍するのでした。

また、四国出撃の準備をしていた織田家家老「丹羽長秀」と信長三男「織田信孝」は大阪玉造にて報に接しております。
(※正確な日付はよく分かんなかったの)
そちらの部隊に参加していた光秀の女婿、大溝城「津田信澄」は”縁者である”ということで内通を疑われ、五日大阪城にて信孝より襲撃・自刃に追い込まれております。

ちなみに彼は信長の弟「織田信行(信勝)」の嫡男でして、「一段の逸物」と称されるほどの人物だったと伝わっています。
一説には、行く手を阻止するべく大阪京橋へ出陣した信澄に尻ごみをする信孝を、長秀が「自分から討たれに出てきたようなもの」と、叱咤激励をしたと伝えられていますが…詳細は不明なようでした。

⇒ つづく。
  次回は「走る羽柴秀吉」(3/6)

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※知りませんでした、こんなんやってたんですね。
 しかし、”神に愛されなかった”とはなんだかひでェなぁ。