お寺さんぽ Ver.03

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松本城 (長野県・松本市)

2011年10月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、新潟からの帰りに立ち寄った、国宝「松本城」です。

そう、帰り道にあったので、ふと軽い気持ちで行ってきました。
さーっと写真撮って、登って見てこよう、みたいな。

なんだか人がいっぱいいたんですよ。
ああ、連休も最終日だからねー。
そんな事を思いつつ、城に至ると…なんとびっくり、人、人、人……
あの「松本城」が、大量の人でずらりと埋め尽くされていたのです。
びっくりしました。
床が抜け落ちてしまいそうです。
最上階まで八十分だってよ
ウソか本当か、そんな噂まで城内にありました。

さすがにそこまでは耐えられず、泣く泣く城外へ。
せめてグッズでも~と、立ち寄ったお土産にて、今回の原因が分かりました。
NHK・連続テレビ小説「おひさま」

こ、これかー!!

確か川越へ行った時も同じ目に遭いましたが、みなさんお好きですね。
最上階はまたの機会にしますよ。


※逆さ「松本城」ですよ。

さて、そんなこんなで国宝「松本城」です。
趣たっぷりな深い濃いめな色彩の五重な城と、たっぷりな堀が素敵なこちら。
文禄二年から三年頃(1593~94)の築城が残っているんだって。

もともとこちらは守護大名である、清和源氏の名門小笠原家のお城でした。
築城はだいたい戦国時代の初期である、永正年間(1504~1520)のこと。
えっと、永正七年(1510)は「織田信秀」とか、「松永久秀」が生まれてますね。
だいたいそうした頃。

松本平の井川あたりに館を構えていた、小笠原氏。
しかし、同族争いは激しく、戦国の世となると、防御に適した林地区へ館を移しました。
この「松本城」は、そちらを守る支城の一つだったのです。
この当時は「深志城」という名称でした。

さて、クーデターによって当主となった甲斐「武田晴信」は、信濃へと侵攻。
こちらの小笠原氏とも激しく争い、当主「小笠原長時」は敗れて逃亡。
付近は、武田氏の治める土地となったのでした。
武田氏は林城を破棄し、この「深志城」を拠点としたようです。

それから、時は天正十年(1582)
この年に、武田家滅亡と共に、京都では「本能寺の変」が勃発しています。
配布しているパンフレットには、再興を目指す「小笠原貞慶(おがさわら・さだよし)」が混乱に乗じて挙兵し、「深志城」を占領した、という雰囲気でしたが。
(※「小笠原長時」の三男です)
実際のところは、織田家に属して武田氏の対策をしていた貞慶が功を認められて与えられた、あるいはその後信濃を占拠した徳川氏によって与えられた、というのが正しいようです。
ともかく、徳川氏の家臣となった貞慶が、城主として返り咲いたのでした。
「松本城」と命名したのも彼でいいのかな。


※裏側はこうした風情になってます。

その後、歴史の主役は「豊臣秀吉」に。
徳川氏が関東へ移封されると、この地は「石川数正」が入っています。
城と城下町の整備ほとんどを行ったのは、数正のようです。
秀吉にそそのかされ、徳川氏より出奔したという経緯もあってか、石落・矢狭間・鉄砲狭間などを無数に備えた、戦闘城という風情になってますね。
大久保長安事件に連座し、数正の子「石川康長」は改易。
その後は戸田氏、松平氏、堀田氏などが藩主となっていったのでした。

城内には展示があり、鉄砲とか城の歴史が見れます。
だいたい城はそうですが、かなり階段が急で段の高さもあったので、お年寄りは特に注意。


[住所]
 松本城 長野県松本市丸の内4-1

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※コレですね。
 いやはや、凄い集客力でした。


海津城(松代城)跡 (長野)

2011年09月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は信濃の重要拠点として有名な「海津城(松代城)跡 (長野)」です。

行ってきました、川中島。
関ヶ原と並び、戦国ファンならば一度は訪れたい場所ですよね。
こちらへは車で行ってきましたが、道路看板に”川中島古戦場”とか見えただけで…自然とテンションが上がります。
付近のメインは八幡原史跡公園ですが、とりあえずは「海津城址」から。


※見下ろした城内の風景 こぢんまりとした風情

「海津城」が文献に確認できるようになるのは、なんと永禄三年(1560)のことでした。
意外でしたが、結構こっち側なんですねー。
永禄三年は、ゲーム「信長の野望」でもよく開始年になっている、戦国時代の節目ともいうべき年。
三大奇襲戦でもダントツに有名な「桶狭間合戦」、そして「長宗我部元親」の初陣である「長浜合戦」がズバリそちらです。
ちなみに、どちらも5月頃のことでした。

後継者となった甲斐「武田晴信」は、信濃へと侵攻。
北信濃を追われた諸将らに助けを求められたことで、越後「上杉謙信」は武田勢に決戦を挑むこととなったのです。
戦国を代表する両雄が衝突する場所こそが、古来から交通の要衝だった川中島。
そして、付近に位置していた海津城は、北信濃の制圧(統治)・防衛のため、大変に重要な拠点となったのでした。

「川中島合戦」では、しばしば名前が登場しています。
その関係もあって有名なこちらですが、実際の築城年は不明とのこと。
よく分かっていないそうです。
機能・役割から、合戦の前後にはおそらく存在していたと思われるので…第一次合戦の天文二十二年(1553)くらいなのかな。

合戦後も重要な役割であったこちら。
武田氏滅亡後は、その討伐戦や高遠城攻略で活躍していた「森長可(もり・ながよし)」の居城となりました。
付近の四群を合わせて、二十万石だったそうです。
信長死後の混乱期を経て、江戸時代では松代藩。
真田家の居城となったのです。
城名が松代城と変更されたのも、その頃みたい。


※海津城・門 まだキレイです。

国指定の文化財。
城跡は整備され、門や城郭が復元されています。
平成になってからのことらしく、まだ真新しいですね。
本丸内で最も大きさのある太鼓門は、時を告げる太鼓を備えていたことからの命名。
その前には橋が掛かっていたことが判明しており、どちらも復元されていました。
城内は資料館などなく、まだこれからというところでしたが、逆にそんなんが良い風情でした。


[住所]
 海津城(松代城)跡 長野県長野市松代町松代44


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※やっぱりこうも漢字が並ぶとかっちょえーですよね。


忍城・行田市郷土資料館 (埼玉県・行田市)

2011年09月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もこないだ行ってきました、「忍城」と「行田市郷土資料館」です。

そこで一つアドバイスから。
ひでるさんはJR高崎線で行田駅を下車し、”行田市観光案内所”に立ち寄ってから忍城に向かいました。
歩いて十五分程度と聞いていたので、歩いていったんですが…これが、なぜかなかなか着かない。
なんでだろう。
よくよく周辺を確認して驚き。
その時の現在地は吹上駅をさらに越したあたりだったんですが、最寄駅は「行田駅」でなく、秩父線の「行田市駅」だったのです(本当)
行田市駅だと思って歩いていたんですねー。
皆さんは間違えぬよう、くれぐれもご注意。
ちなみに、行田駅からは車でも十五分以上くらいかかりますよー。


さて、そんな訳で現在の「忍城」について。
現在の場所はかつての本丸跡地だそうです。

十五世紀後半あたりに、「成田顕泰」によって築城されたという「忍城(おしじょう)」
天正十八年(1590)の小田原征伐によって開城した後は、「徳川家康」の四男「松平忠吉」が入城。
十万石ほどだったみたい。
その後は「松平信綱」、「阿部忠秋」、そして文政六年(1823)には桑名より奥平松平氏が入り、明治を迎えました。
明治六年には残念ながら取り壊されてしまうのでした。
そんな訳で、現在の忍城址公園と博物館は昭和六十三年(1988)頃にオープンしたもの。
阿部氏の時代に築かれたものを模したそうでした。



まずは「行田市郷土資料館」です。
メインだろう忍城の水攻めを頭に、行田市の歴史について紹介されてます。
古墳とか埴輪もあり、もともとメッカだった足袋製造と、その工程なども詳細に紹介されていました。
外観で特徴的な三階ほどの櫓は、その博物館からの連絡通路を経由して向かいます。
こちらもにも絵や写真などの展示がありました。
上からの眺望は…まぁ、それなり。
やっぱり外から見たほうが楽しいかなー。

資料も多く、外からの城も格好良く、楽しいですね。
くれぐれも下車駅を間違えぬように(笑)


[住所]
 忍城・行田市郷土博物館 埼玉県行田市本丸17-23


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※こんなんを発見。
 エプロンにもなってるんですねー。どんな手料理だろ。

守れ忍城・リアルなんちゃら無双 「忍城攻防戦」後編

2011年08月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
先週は突然おやすみして、すみませんでした。
本日も、こないだ行ってきた関東七名城の一つ「忍城」の攻防戦について、です。


天正十八年(1590) [小田原征伐]
関白「豊臣秀吉」は、北条・真田の事件を切っ掛けに、北条征伐を決断。
武蔵国忍城へは「石田三成」ら二万三千という軍勢が進軍するのです。
城主「成田氏長」らは小田原城へ入ったため、忍城には残った氏長の正室と城代「成田長親」を中心に、籠城の準備を進めるのでした。


豊臣勢によって忍城が攻囲されたのは、同年の六月頃から。
沼や深田で囲まれた忍城は、”忍の浮き城”と言われる、天然の要害。
(※実際には合戦後に言われたんですけどね)
攻め手となった三成は、ここで水攻めをしております。

彼の失敗として有名で、”戦の才がない”と言われる発端となった、こちらの作戦。
しかし、水攻めを指示したのは秀吉で、実際にそうした文献もしっかり残っています。
周囲に何もない忍城を水没させるのは困難なことで、現地の三成はもともと水攻めに反対でした。
”緒将が(水攻めだと判断し)攻める気がない”と、書き送っています。
落城には、もっと激しい戦術が必要であると考えていたようです。

そうした中、秀吉からは明確に水攻めを指示した書状が届き、また”ともかく水攻めをしろ”という内容の書状もあり、それに従うこととなったのです。
さらに秀吉は”後に視察に行く”ということも書いており、どうやら小田原城包囲と共に、こちらの水攻めをパフォーマンスとして考えていた様子がありました。
上杉隊、前田隊にも、堤の完成を手伝うよう指示を出していますね。

ともかく、こうして丸墓山を本陣とした三成は、城の周囲に堤を築き始めました。
七日から開始し、十三日頃には総延長二十八キロという堤(石田堤)が完成。
さっそく、利根川・荒川の水を引き入れ、城の周囲には順調に水がたまっていたんですが…十八日。
この地方に激しい豪雨があり、あっさり堤は決壊。
溢れた水は逆に豊臣勢を襲い、二百七十名ほどが溺死してしまうこととなるのです。
堤を築く際には周辺の住民を動員しておりますが、成田氏に心を寄せる彼らがひそかに手抜き工事をしていた、とも言われております。

こうして、城周辺はいっそうの沼地と化し、足を取られて城へ近づくことすらできないという有様になってしまったのです。
後に「浅野長政」、「真田昌幸」らが参加した一斉攻撃でも連携の乱れから城兵の反撃を受け、寄せ手は多数の犠牲が出し、撤退するのでした。

この際に、武蔵国忍城主「成田氏長(なりた・うじなが)」の妹、あるいは娘と言われる「甲斐姫」も活躍。
武芸に秀でた彼女は水攻めを逆手に取った戦術を仕掛け、さらに乱戦では自らも敵中に飛び込み、槍を振るって奮戦したと言われております。
反乱者を斬り伏せたという逸話もあり、このお姫様は「巴御前」と違って実際に強かったみたいですよ。



そんなこんなで、元々の城の守備力に、城兵の団結、寄せ手の中途半端さから天候などもあって忍城は落城することなく、七月五日に小田原城が開城した後も抵抗を続けるのでした。
小田原にあった氏長の説得により、ようやく十六日に開城するのです。

戦後、黄金九百枚、武具などを献上し、秀吉に許されることとなった氏長。
なお、この際に「甲斐姫」を側室へ献上したとも、後に武勇を愛でられて側室になったとも言われています。
戦後氏長は弟と共に「蒲生氏郷」に仕え、城代であった長親は忍城へ入った「松平忠吉」に仕えました。

天正十九年(1591)
氏長はこの際に「那須資晴」の旧領である下野国烏山城主となり、三万七千石を得て大名に取り立てられてました。
これは「甲斐姫」が秀吉に懇願して、実現したと伝えられています。
彼女は大坂の陣を生き延び、”駆け込み寺”として知られる東慶寺に入ったのでした。




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守れ忍城・リアルなんちゃら無双 「忍城攻防戦」前編

2011年08月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、こないだ行ってきました、関東七名城の一つ「忍城」の攻防戦について、です。

天正十八年(1590) [小田原征伐]
関白「豊臣秀吉」は、北条・真田の事件を切っ掛けに、北条征伐を決断。
東山道、東海道、そして海路から、数十万という大軍勢を小田原へ向かわせたのでした。
小田原城を囲む一方、北条方の支城を次々と攻略していった豊臣勢。
しかし、武蔵国の忍城は頑固に抵抗を続け、容易に落城しなかったのです…。


もともと、付近には忍一族という豪族がおりました。
関東管領・山内上杉氏に仕えていた成田氏はそれを攻め滅ぼし、城を築いたのが始まりとされています。
戦国期、「成田長泰(なりた・ながやす)」は関東管領・山内「上杉憲政」に属していましたが、主家の衰えと共に生き残りを模索。
上杉氏から離れ、当時勢いのあった北条氏、上杉(長尾)氏の間を、いったりきたりすることとなったのです。
天文十五年(1546)の川越夜戦後には、「北条氏康」に包囲され、北条方へ。
後の永禄三年(1560)に小田原へ「上杉謙信」が出陣した際には、そちらに従っております。
しかし、ここでは謙信と対立。
今度は上杉勢から攻囲されることとなるのでした。

永禄九年(1566)
嫡男「成田氏長」が家督を相続。
父・長泰としては、もともと次男である「成田長忠(なりた・おさただ)」に家督を譲ろうとしていたらしく、親子で揉めています。
(※家臣の反対や長忠が譲ったことで結局断念し、長泰は出家)
また、上杉・北条の同盟もあり、最終的には北条方に属することとなったのでした。
こうして、北条氏のもとで勢力を拡大させていた氏長でしたが、「織田信長」の後継者となった「豊臣秀吉」の軍勢が襲ってきたのです。

天正十八年(1590) 
秀吉の大軍が小田原へと迫ると、氏長は弟の長忠と共に五百あまりの兵を率い、小田原城へ入りました。
城主が留守となった忍城。
残ったのは、城代「成田長親(※氏長の従弟)」、そして名将「太田道灌」の曾孫「太田資正」の娘という、氏長の正室でした。

長親ほか主だった武将らを集めた氏長の妻は、
上方勢が来攻したなら、士卒が心を一つにして城を枕に討死するまで
そう言って、守りを固め、籠城の準備を進めるのでした。
成田氏ら守備側は、約二千という兵力。
さらに、農民や僧侶、工商、婦女子らを含めた非戦闘員の約千名ほどが参加しています。

一方、支城の攻略を進めていた豊臣勢。
上野国館林城を攻略(※)した「石田三成」、「大谷吉継」らは、常陸「佐竹義宣」、下野「宇都宮国綱」らと合流し、二万三千という軍勢で武蔵国忍城へ進軍するのでした。
(※こちらは十三日ほどで開城)




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水の城―いまだ落城せず (祥伝社文庫)
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※ドラマチックですよね。
 いろいろと小説などを見つけることができます。

「高崎城」と「群馬県立歴史博物館」 (群馬県高崎市)

2011年07月17日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「高崎城」と「群馬県立歴史博物館」です。

高崎市に行った一番のメインは、「白衣大観音」を見るためでした。
ただ、お城の名前もあったため、どうせならそっちも見たいよねーということで行ってきたのです。

「群馬県立歴史博物館」は美術館などもある、”群馬の森”の施設。
高崎駅からは、バスでだいたい二十分くらいという距離でした。
駅近くに城があるのだし、どうせなら付近に作ればいいと思うんですが…そちら県立で、お城の管理とかは市なのかな。
そういった系統の、ややこしい問題があるのだ、とかタクシーの方が言っておりました。
そんなんかー。
実際、高崎市の本庁舎は高崎城の本丸あたりに位置しているそうです。
どかーんとデカイ、そりゃー立派な建物(地上二十一階なのだとか)で、見た目にも大変感じ悪いですよ。


※群馬県立歴史博物館 …お洒落な建物です

話逸れましたが、「群馬県立歴史博物館」
原始から近代までの歴史展示物があり、入ってすぐは「昭和のくらしコーナー」という、昭和な家庭風景から学校までが再現されています。
狩猟風景ジオラマから埴輪群などがあった後は、注目の中世です。
上野国であった頃の武士団についても資料が色々とあるんですが…「新田義貞」も「長野業正」の支配は刹那的で、争奪戦の中心地みたいな感じだったためか、コレというポイントは弱め。
博物館内の「ミュージアム・ショップ」も残念ながら戦国っぽさありませんでした。
結構期待していたんですけどねー。
ただ、企画展示は「親鸞と妙心寺」ということで、仏像など見れて良かったですが。

ちなみに”群馬の森”は芝生の広がるイイ感じな広場が多く、休日ともあって家族連れでいっぱいでしたよ。


※昭和のくらしコーナー …テレビがいいよね。

続いて駅から歩いて五分くらいの「高崎城」
いきなりなんですが、ぶっちゃけ…コレを目指して訪れるタイプな施設ではありません。

もともと高崎城は、慶長三年(1598)に徳川四天王の一人「井伊直政」によって着手されています。
(※直政が入ったのは、箕輪城です)
交通の要所として重視したんですね。
結局直政は関ヶ原の功によって近江(滋賀)に入ったため、実際に整備・完成をさせたのは三代ほど続いた安藤氏だった様子。
最終的に名は農家に払い下げられ、納屋として利用されていたところ、文化財の指定を受けて復元されたみたい。

現在残っているのは、土塁と水堀、乾櫓に東門がある程度。
櫓に上がることもできず、ざらりと外観を眺めるくらい。
何かのついでに立ち寄るのがイイでしょう。
(※ちなみに、高崎観音は反対側ですが)


※高崎城 …こう見るとかっちょえーですが。

過去には豪族・和田氏が居城とした「和田城」が付近にあったようで、こちらの通称もそのまま「和田城」
それを高崎とした切っ掛けも直政にあるみたい。
箕輪から和田へと移る際、下野から招いていた「白庵和尚」に地名を改めることについて相談したところ、”成功高大”の意味から「高崎」としたのだとか。
ほほー。
調べてみなきゃ分からないものですね。



[住所]
 高崎城 群馬県高崎市高松町
 群馬県立歴史博物館 群馬県高崎市綿貫町992-1

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広島城 (広島)

2011年07月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は広島県の広島城です。

広島と言えば、やっぱり地元の英雄「毛利元就」でしょう。
ただ、実際に行った感覚では、武田一色だった山梨県と違って毛利・毛利はしておらず、なんとなくがっかり。
あれだけの戦国大名、もう少しそれ押しでもいいのではないかなー、ってのは単に歴史好きな意見ですかね。

そんなこんなで、市内で行き易い「広島城」
こちらを築城したのが、「毛利元就」の孫、「関ヶ原合戦」では西軍の総大将となった「毛利輝元(もうり・てるもと)」でした。
毛利氏の居城と言えば、「吉田郡山城(よしだこおりやまじょう:安芸高田市)」のイメージが強いんですが、”山”の漢字が示すそちらは山間部にあり、いわゆる戦闘城でした。
旅行中、できればそっちにも行きたかったんですが…遠いとのことだったので、諦めました。
歴史ファンの方は、きっちり時間を割り振ったほうがいいかも。
なお、天文十年(1541)では、囲んだ尼子氏の大軍を撃退してたりします。
ただし、豊臣政権下で大坂城などを見学した輝元は、時代の流れを痛感。
政治・経済に適した、新しい城づくりを決意したのです。
これが天正十七年(1589)のこと。


※木の感じがステキです。

祖父元就も注目していたという、瀬戸内海に面した太田川河口の三角州に築城を開始。
元就の四男「穂井田元清(ほいだ・もときよ)」、元就の子という「二宮就辰(にのみや・なりとき)」らが普請奉行として進められ、ある程度完成した二年後に輝元が入城したようです。
なお、当時「五箇(ごか)」「五ヶ村」などと呼ばれていたこの地を「広島」としたのは、この際であったとも言われています。
諸説あるようで、パンフレットによると…
①地形を示した「広い島」という意味。
②毛利氏の祖先「大江広元」、案内役「福島元長」から命名された。
③もともと現地の人が呼んでいた地名。
…など諸説あり、はっきりとしていないのです。

慶長五年(1600)は「関ヶ原合戦」がありました。
前述したそのまま、西軍の総大将となった輝元は改易され、安芸・備後両国四十九万石は「豊臣秀吉」の子飼い「福島正則(ふくしま・まさのり)」に与えられました。
築城を引き継ぎ、外堀・外郭などを進めて広島城を完成させたのは、この正則です。
また、検地を実施したほか、身分制度の確立、街道の整備を進めて城下町を発展させていたんですが…城の普請に関して咎められた彼は、改易されてしまったのでした。


※左から、「石田三成・花押ハンドタオル」、「関ヶ原合戦トランプ」、「もとにゃり絵はがき」

こうして広島城へ入ったのが秀吉股肱の臣「浅野長政」の次男「浅野長晟(あさの・ながあきら)」です。
それから二百五十年ほど、浅野氏がこちらを治めることとなるのです。

廃藩置県以後には陸軍の施設が設けられました。
次第に広島城の建造物はなくなっていきましたが、史跡として評価を受け、天守閣は国宝に指定されています。
しかし、明治七年の出火で本丸、三の丸が焼失し、さらに原爆によって建造物は全て壊滅してしまったのでした。
内部は歴史博物館となっている現在の広島城は、昭和三十三年(1958)の再建なのです。



※もとにゃり…実に良い雰囲気です。


前述したように付近は毛利・毛利しておらず、城内グッズもそんな感じ。
ぶっちゃけ、あまり関係ない武将のがずらりと並んでいました。
そんな中光っていたのが、「もとにゃり絵はがき」
猫キャラをかぶせるのは彦根城からセオリーですが、”三本の矢”と重ねたこちらは震える手、ぽかんとした三匹の猫が良く、可愛らしいものでした。
もっといろいろグッズ化してほしいですね。



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※元就ということで。
 今ではゲームポーチにもなっちゃってます。

太田市立史跡金山城址ガイダンス施設 (群馬県太田市)

2011年06月05日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は「金山城跡」へ行った際にぜひ立ち寄りたい、「太田市立史跡金山城址ガイダンス施設」です。


「金山城跡」へ向かう途中、ぱっと目を奪われるだろうこの施設。
こちらこそ、城の歴史を伝える「太田市立史跡金山城址ガイダンス施設」なのでした。

施設とてはそう大きくなく、ぶっちゃけ…これをメインにするほどではありません。
解説と写真が主で、展示物も少しだけ。
館内には金山の歴史が詳しーく書かれており、各ポイントでは横瀬氏が築城したり、軍議をしていたりというジオラマが展示されていました。
さらに中央には、”戦国シアター”という大スクリーンがあり、その手前には体験装置の”城ナビ”が。
やや薄暗く、ぱっと見はどこぞのゲームセンターのよう。
歴史紹介施設としてはかなり洗練され、格好良いです。

そのうち”城ナビ”を体験しました。
解説つきの、バーチャル「金山城」ですね。
空中撮影など、空からの風景が見れるほか、歩いたりもできました。



※金山城模型 雰囲気出てます。
 前回記事で書きましたが、門に見える線路みたいな溝が水を外へ逃がすというソレです。


↑あの、特徴ある外観がそうなんですが…。
まるで美術館であるかのような特徴的な模様は、石垣をデザインしたのだとか。
館内の方からそれを聞いて納得。

実は「隈研吾(くま・けんご)」さんという、かなーり有名な方のデザインなのでした。
なるほどー。
その関係か、施設の方針で大々的に看板などを掲げないとのこと。
道を行き来する地元の方も、知らなかったりするようです。

また、「金山城」を再現した模型もありました。
なかなか素敵だったので、ちゃんと許可を取って撮影させて頂きましたよ。
入口からの風景に注目。
実はさして距離ないものの、下からだと遠く見えるよう、遠近法の効果があるんだとか。


※金山城模型 入口からの風景

また、施設の反対側(向かって左)は「地域交流センター」ということで、別の団体が管理していいる様子。
こんなところでも、なかなかややこしい感じです(笑)

太田駅からは徒歩で三十分とありましたが…雰囲気としてもっとかかるように思います。
やっぱり車とか、タクシーで行くのがいいかと。
ちなみに、駐車場は約十台まで大丈夫です。
入場料は無料なので、ぜひ一緒にお立ち寄り下さい。


[住所]
太田市立史跡金山城址ガイダンス施設 群馬県太田市金山町40-30


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※こんな本もあります。
 たまにふらっと立ち寄ると面白いですよね。

ぜひ行きたい・風情たっぷり「金山城跡」 (群馬県太田市)

2011年05月29日 | 歴史

のんびり気軽にさんぽがてら。
ぜひ行きたい!
本日は写真で見てそう思った、史跡「金山城跡」です。


①頂上からの景色

どうですかー、↓この風情は。
いちおう復元されているコチラ。
変に天守閣とか建てたりせず、山城な雰囲気を壊すことない程度に整備されておりました
また車で近くまで行くことができ、頂上である「新田神社」までも徒歩でそう遠くはなく、道もそう厳しくもないという按配。
オススメです

こちらの起こりは文明元年(1469)
「応仁の乱(※1467年)」の後で、室町時代の末期頃になります。
もともとこの付近を治めていた「新田義貞」の一族「岩松家純」が築城したようです。
「新田金山城」、「太田金山城」とも別名がありました。
戦国期関東七名城の一つ。
同族を追って本領に復帰した家純でしたが、その没後から重臣「横瀬国繁」が勢力を拡大。
(もともと築城の中心人物であったのも国繁のようです)
その後、岩松氏の筆頭家老であった横瀬氏でしたが、「由良(横瀬)成繁」は下剋上を果たし、金山城を占拠したのです。
しかし、上野国は上杉、北条、武田に囲まれており、成繁も北条・上杉の間で所属を変えつつ存続。
武田、上杉の軍勢の攻撃もあったようですが、落城することなく、”難攻不落”と言われたのでした。

太田駅からは徒歩だと一時間以上…たぶん二時間くらいはかかりそう。
車では展望台まで行けるので便利です。
展望台にはいちおう駐車場がありましたが、そう広くはないので要注意。
トイレもここにあります。


②山道はだいたいこんな感じ。

展望台からは徒歩ですね。
単なる山道に矢倉台・馬場曲輪…など、当時の面影あるものが見え、月ノ池の先が大手虎口になります。


③先に見えるのが「馬場曲輪」です。それほどキツくない山道です。

メインの大手虎口です。
こちらの石垣の景色が非常に良く、いかにも城址という風情です。
かなりゆっくりめに歩いても、展望台からだいたい十五分くらいで到着する筈。


④こちらが「大手虎口」です。格好良いですね!

その先にあるのが、日ノ池です。
後で紹介しようと思いますが、ガイダンス施設の方が言うところ「この地域は水が湧く」そうです。
そのため、「月ノ池」・「日ノ池」も自然に湧いた水が確保されているのでした。
雨の日ともなると、今でもかなり水が出るのだとか。
なお、大手虎口の道脇にくぼみありますが、それは水を逃がすためのものだそうです。


⑤特徴的な「日ノ池」です。

頂上には新田神社があります。
ちょっとした広場になってました。


⑥こちらが「新田神社」です。

写真撮りつつざっと歩いた結果、ここでちょうど二十分でした。
運動不足なひでるさんでもそんなくらいです。
自販機とかあっても良さそうですが、ないので要注意。
水飲み場とトイレがあります。
駅の観光協会などでもらえる「金山ハイキングガイド」が便利なので、もらってから行くのがいいでしょう。




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新田義貞〈上巻〉 (1978年)
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新潮社

※新田義貞です。
 有名な割に、イマイチ感漂う人なのですよ。

甲府城 舞鶴城公園 (山梨県)

2011年05月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は山梨県甲府市は「甲府城」です。

甲府駅から徒歩数分。
駅前で「武田晴信」像を見た後、とりあえずすぐ行ける歴史スポットがこちら、「甲府城」こと「舞鶴城公園」です。
公園名にも含められた「舞鶴城」ほか、「甲斐府中城」、「一条小山城」などとも呼ばれています。
典型的な平城ですね。
戦略上、甲斐国は関東の「徳川家康」に対する重要拠点であり、戦国末期に築かれた「甲府城」もなかなか意味深いものだったようです。



天正十年(1582)
武田氏の親族衆「木曾義昌」の寝返りによって、「織田信長」はその支援と共に武田氏討伐を決意。
嫡男「織田信忠」を総大将に、大軍を出陣させました。
岩殿城の重臣「小山田信茂」の寝返りによって天目山へと追い詰められた「武田勝頼」・「武田信勝」親子はここで自害。
ここに武田氏は滅亡したのでした。

こうして甲斐国は織田氏の支配下となったんですが…それから約二ヶ月後。
勝利者だった信長も本能寺にて自害。
その混乱をついた「徳川家康」は、武田氏の旧領をちゃっかり奪ったのです。

その後、後継者となった「豊臣秀吉」の支配地域となっています。
甲斐へ入った甥「羽柴秀勝」・「加藤光泰」らが築城を開始し、五奉行の一人「浅野長政」・「浅野幸長」親子の時代に完成したようです。
これが慶長五年(1600)頃。
もしかしたら天守閣があったかも、とのこと。



なお、ちょうどその年の夏に「関ヶ原合戦」があり、結果として甲斐は徳川氏の支配となっています。
かなり支配者がコロコロ変化していましたが、九男「徳川義直」が入ってようやく落ち着くのでした。
宝永元年(1704)
「徳川綱吉」の側用人として有名な「柳沢吉保やなぎさわ・よしやす)」が甲府藩・藩主になっています。
この際に城・城下町ともに整備されたようです。


※城門です。
 階段途中の人で大きさが分かると思います。

明治時代になって廃城となりますが、明治三十七年(1904)には残った城郭と共に「舞鶴公園」として整備されるのでした。
城門や櫓は復元されたもの。
城壁などが立派ですが天守がないため目立つ写真ポイントがなく、面白さとしてはいまいち。
いわゆる戦闘城(山城みたいな)とは違うのでアクセスにも優れ、ふらふらし易いのが良いトコロ。
…ただ、本丸まで行った際には、ひでるさんやや息切れしてましたが(本当)


[住所]
 舞鶴城公園(甲府城) 山梨県甲府市丸の内1-5-4

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戦国武将マウスパッド・武田信玄「風林火山」
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歴史城

※武田と言えば…コレですか。
 漢字並ぶとかっこえーですよね。

非凡な嫡男・父の念願を果たす (村上義清6)

2011年04月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日が源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)※写真」のラストです。

信濃へ侵攻した甲斐の若き大将「武田晴信」
これに義清は上田原で大敗させたほか、戸石城攻防戦でも”戸石崩れ”という痛い敗戦を味あわせたのでした。
しかし、晴信に仕えていた「真田幸隆」は調略によって次々にその勢力を削ぎ、晴信念願の戸石城をも調略によってあっさり攻略。
こうした事態に動揺した北信濃の国人らは、こぞって村上方より鞍替えをしてしまうのです。
ついに葛尾城を支えられなくなった義清は、越後の龍「上杉謙信」を頼って落ち延びたのでした。

天文二十二年(1553)
葛尾城の落ちた数ヵ月後には、謙信の支援もあり八幡にて武田勢に勝利。
この時は葛尾城の奪回に成功しておりますが、反撃を受けて越後へと撤退しております。
さらに三カ月後、上杉の主力と共に信濃へと侵攻。
ここでは先鋒として出陣した義清は、布施での合戦に武田勢の先鋒を崩すなど活躍していました。
しかし、決戦を避けた武田勢がため、兵を退いています。
こちらが第一次の「川中島合戦」です。

武田・上杉が激突した「川中島合戦」には二度ほど従軍している義清。
しかし、結局望みは果たせなかったのです。

晩年はその庇護を受け、根知城を預けられて越後西浜地方を支配しておりました。
元亀元年(1573)にて越後・根知城で病死。
享年七十。
菩提寺は長野県埴科郡は「満泉寺」です。

上杉勢に属した嫡男「村上国清」
父と似て非凡な才を発揮し、信濃、越中などを転戦して活躍しています。
「上杉謙信」にも気に入られ、その側近となていました。
謙信に代わって書状を発行する要職を得たほか、越後の名族であった山浦上杉家を継いで「山浦国清」との名乗りになりました。
こうして、一門衆並みの厚遇を受けるのです。
なお、上洛から急遽沈黙した「武田晴信」について疑問を持ち、その死を謙信まで伝えたのも国清であったようです。
相続争い「御館の乱」でも、判断良く「上杉景勝」を支持して勝利に貢献。
その一字を拝領して、「山浦景清」となったのです。

天文十年(1582)
この年には信濃四郡の代官として「海津城」を与えられ、父の念願だった信濃復帰を果たしております
(※後に越後へ帰還してますが)
さらに、徳川家との外交交渉にも尽力。
後の「小田原城合戦」でも「上杉景勝」と共に従軍し、こちらでは先鋒を任されています。
謙信に続き、よく景勝を補佐しておりました。

なお、上杉勢として活躍する彼の陣中へ手紙を出していた義清。
”家臣を自らの分身とし、人の扱いには留意するよう…”
そうした内容であったようです。
息子の活躍に満足しているという書状もあり、武田勢を駆逐した猛将の優しい一面が垣間見えます。
調略によって崩されるあたりを含め、おそらくこの方は単純にイイ人だったのではないでしょうか。




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戦国武将フィギュア 織田信長
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※あまり関係ないですが。
 この信長かっこえーですね。



最強武将を手玉にした真田の智謀 (村上義清5)

2011年03月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

信濃へ侵攻した甲斐の若き大将「武田晴信」
義清は上田原にて激突し、これを大敗させたのです。
しかし、信濃守護「小笠原長時」を追って勢いを取り戻した武田勢は、義清の留守を狙って山城・戸石城へと侵攻。
争っていた「高梨政頼」と結んで軍勢を急遽反転させた義清は、撤退する武田勢を追撃して再び大敗させたのでした。
こちらが、世に宣伝された”戸石崩れ”という晴信の敗戦です。


天文二十年(1551)
あの晴信をしても落とせなかった堅城・戸石城。
しかし、仕えていた「真田幸隆」は調略をもって、内通者を押さえ、この城をあっさり攻略しております
さらに葛尾城より北の清野氏の内通にも成功しているなど、合戦での勝利者であった村上勢を次々に切り崩していったのでした。

そのあまりな鮮やかさに、武田の宿将らは幸隆を牽制したようですが、晴信は彼を重用し続けています。
優秀な参謀として、以後は特に信濃攻略にて大活躍することとなるのでした。

なお、ライバル「上杉謙信」は、
我、弓を取らば真田に劣らぬが、智謀は七日遅れあり
そう評しておりました。
真田氏と言えば大坂合戦で華々しく活躍した孫「幸村(信繁)」、晴信に側近として仕え、「両眼の如し」と言われた子「昌幸」が有名ですが、この幸隆も只者ではありません。
信濃攻略ほか、西上野侵攻でも功を上げています。
謙信の批評そのまんまな活躍を見せていたんですね。
晴信との相性も良かったらしく、譜代家臣と同様の扱いをされていました。

天文二十二年(1553)
その敗戦を切っ掛けに、これまで村上家を頼っていた国人らにも動揺が走りました。
安雲、筑摩から武田勢が侵入すると、次々にそちらへと鞍替えを始めたのです。
それまで共に戦っていた「布下雅朝」、「屋代政国」、「楽巌寺雅方(らくがんじ・まさたか)」という各将までも、武田氏に降ってしまったのでした。

局地戦では勝利していたものの、結局は居城・葛尾城を支えることができなった義清。
越後にて勢力を伸ばしていた「上杉謙信」を頼って、落ち延びたのでした。
なお、彼の居城であった葛尾城は、義清の脱出後に総攻撃で陥落しています。

助けを乞われた謙信は、戦国時代では珍しく義理がたいことで有名な大将。
実際に彼を客将として遇した謙信は、その失地回復のため、信濃へ頻繁に出兵することとなるのです。
天文二十二年(1553)の数ヵ月後には八幡・布施での合戦に勝利。
一度は葛尾城までをも奪回するなど、武田勢と死闘を繰り広げることとなるのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「非凡な嫡男・父の念願を果たす」(6/6)


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※そんな訳で、お弁当箱まで戦国です。
 真田家は人気あるねぇ。



誕生、”北信濃最強武将” (村上義清4)

2011年03月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)※写真」です。

クーデターによって家督を継いだ「武田晴信」
信濃へ侵攻するとたちまち諏訪氏、大井氏、高遠氏などを下し、村上氏と対立することとなったのでした。
上田原にて激突した両軍勢でしたが、地の利を生かした村上勢が優位。
両腕と言われた「板垣信方」、「甘利虎泰」が討死するほか、晴信自身までもが傷を負う大敗となったのです。
しかし、その敗戦に乗じた信濃守護「小笠原長時」が武田勢にあっさり駆逐されたことで、反武田勢力の勢いは弱まってしまったのでした。
もう、余計な事するんだからー。


天文十九年(1550)
「上田原合戦」から二年後のこと。
”東には神川へのぞむ崖、西も険しく、山上は広く要害堅固、規模広大”
…という、小県郡の山城・戸石城。
かねてより、晴信はこの戸石城を狙っていたと言われています。

「高梨政頼」との争いから、義清自らが出陣していたのを好機とし、再び晴信は軍勢を動かしました。
しかし、その報を受けた義清は逆に政頼と結び、共に戸石城の救援へと駆け付けてきたのです。
これは、義清が単に武力一辺倒の大将ではなかったことを示していると思います。
こちらの合戦が晴信にとって二度目となる敗戦、「戸石城攻防戦」です。

戸石城を攻囲して一ヶ月という武田勢。
軍勢を急遽反転させた義清の報に接した晴信は、撤退を決意しました。
しかし、六千の村上勢はそれを執拗に追撃。
戸石城から討って出た守備隊と挟撃されてしまうのです。
こうして、殿軍となった備中守「横田高松(よこた・たかとし)」が討死したほか、千ほどの兵を失う大敗となるのでした。

これが”戸石崩れ”と、世に宣伝された敗戦です。
なんと、この「村上義清」は二度に渡って戦国最強軍団と言われた武田勢を退けているのです。
スゴイでしょ。
”北信濃最強武将”
そう呼ばれていたのも、決して伊達ではありません。

ちなみに、またまたそれに乗じて旧領回復をめざした懲りない信濃守護「小笠原長時」
家臣「平瀬義兼(ひらせ・よしかね)」を頼って筑摩群へ侵攻を図りましたが、こちらでも失敗。
武田勢の総攻撃を招く切っ掛けとなり、以後長時は流浪生活となっていくのでした。
この名目上での支配者と、自力で勢力を拡大した実力者の対比がちょっと可笑しいですね。

⇒ つづく。
 ※次回は「最強武将を手玉にした真田の智謀」(5/6)


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※ふと気付いたら…なんと、毛布になっていました(笑)
 でも、ぶっちゃけ本気で欲しいかも。

ついに激突・上田原合戦 (村上義清3)

2011年03月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

義清は甲斐「武田信虎」と謀って、海野氏を追放。
小県群を支配しております。
その直後、共に戦った信虎は嫡男である「武田晴信」のクーデターによって、駿河へ追放されてしまったのでした。
家督を継いだ晴信は、信濃へ侵攻を開始。
諏訪氏、大井氏、高遠氏などと争って版図を広げ、信濃守護である小笠原氏、そして実力者である村上氏らと対立することとなったのでした。

天文十七年(1548)
諏訪、伊那、佐久郡を攻略していた晴信は、ついに村上氏の小県郡へと侵攻。
ついに武田・村上の両軍が激突することとなりました
こちらが有名な「上田原合戦」です。

葛尾城を出陣した村上勢は国衆を集め、天白山を背に岩鼻へと布陣しております。
一方、村上勢出陣の急報に接した晴信は甲斐を出陣。
諏訪から大門峠を越え、小県郡へと侵入。
倉升山に陣を張りました。
この時、武田勢は約七千、村上勢は約五千ほど。
数では資料によって色々と差がありましたが、だいたい両軍はそのくらいなのでしょう。

上田原にて激突した両軍勢。
晴信の右腕と言われた「板垣信方(※写真)」が猛烈な攻撃を見せたものの敵陣深く突入。
やがて村上勢に囲まれることとなり、やや不可解な討死をしております。
序盤の勝利から油断をしていた、という説もありましたが詳細は不明。
ともかく、周囲を囲まれて混乱・壊滅した先陣の板垣勢が大崩れしたことで、地の利も生かしていた村上勢が優位となったのです。
その波状攻撃によってかく乱され、先陣の崩壊から踏みとどまった「初鹿野伝右衛門」、「才間河内守」など名のある有力武将までが討死し、大いに統制を乱された武田勢。
浦野川にて孤立してしまった晴信のもう片腕「甘利虎泰(あまり・とらやす)」も、村上勢の伏兵がためここで討死してしまいました。
さらに、総大将である晴信自信までもが手傷を負うという、大敗となったのでした。
敗北後、しばらく上田原に駐屯して傷を癒していた晴信。
(※約半月くらい)
村上勢の退陣を確認してから上田城に入り、甲斐へと撤退しております

なお、この敗戦に乗じた信濃守護「小笠原長時」
すかさず諏訪郡へと侵攻し、一時的にはそちらを支配しております。
しかし、それを切っ掛けとして逆に武田勢のターゲットとなり、「塩尻峠合戦」では寝込みを襲われて完敗。
小笠原勢は千ほど討死するという総崩れとなり、逃れ逃れてかつてのライバル村上家へと身を寄せることとなるのでした。
こちらの合戦は村上勢に手痛い敗北をしていた武田勢に勢いを取り戻すと共に、反武田勢力を牽制することとなったのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「誕生、”北信濃最強武将”」(4/6)


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※ライターも戦国です。
 タバコ吸わないですが、こんなん持っていたいですね。


信濃に攻め入った若き大将 (村上義清2)

2011年02月27日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

”戦国最強軍団”と恐れられていた甲斐の大将「武田晴信(※写真)」
その生涯で敗北を味あわせたのは、鎌倉時代から続く名門・村上家の末裔「村上義清」でした。
国人層の反乱に悩まされていた信濃守護小笠原氏の隙をつき、北信濃にて高梨氏・井上氏らと争って勢力を拡大。
埴科(はにしな)郡を中心に、六郡(佐久・小県・更級、高井、水内)を領有する王者となっていたのでした。

天文十年(1541)
義清は甲斐「武田晴信」の父「武田信虎」とも争っていましたが、後に盟約。
共に謀って、小県(ちいがた)群の海野氏を追放し、そちらを支配することとなりました。
なお、武田氏の下で辣腕をふるうこととなる真田氏は、この際に主家である海野氏と共に追放されています
義清は後にその真田によって信濃から追われてしまうのが運命的ですね。

ちょうどその後に、とある歴史的事件が勃発しています。
海野氏を駆逐し、信濃から凱旋した「武田信虎」
娘婿である「今川義元」に会うため、ふと駿河へ赴いておりました。
これが六月から九月頃のこと。
すると、甲斐に残っていた嫡男「武田晴信」は突如国境を封鎖。
父・信虎を帰国できないようにしてしまうのです。

譜代家臣であった「板垣信方」、「甘利虎泰」なども晴信を支持し、晴信は国主となったのでした。
これには父子で共謀していたなど出来過ぎな説もあるようですが、暴政を行っていた信虎のこと。
個人的には、父子不和、国人層の訴えなどのが原因としてしっくりきますね。

天文十一年(1542)
そうした経緯で家督を継いだ晴信は、肥沃な土地である信濃への侵攻を決意しました。
父・信虎の戦略方針を無視し、当時は同盟関係にあった諏訪氏へ出陣。
こちらの上原城・桑原城などを次々に攻略していったのです。
さらに、大井氏、高遠氏などを次々に下し、信濃守護である小笠原氏、そして実力者である村上氏らと対立することとなったのでした。

天文十四年(1545)
守護「小笠原長時」は武田勢に囲まれていた妹婿「藤沢頼親」の救援に出陣。
しかし、桔梗ヶ原での対決にて、小笠原勢は惨敗してしまうのです。
なお、佐久郡を拠点にしていた海野氏の一族(※「海野棟綱」の娘の子と言われる)である「真田幸隆」が武田氏に臣従したのが、天文十五年(1546)頃。
付近の道案内を切っ掛けとして、武田家へ身を寄せています。
さらに、後に上杉家で活躍をすることとなる義清の嫡男「村上国清(幼名源五)」が坂本館にて誕生したのも、この頃でした。

⇒ つづく。
 ※次回は「ついに激突・上田原合戦」(3/6)


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