お寺さんぽ Ver.03

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越後を狙う切れ者の執念 「長尾為景」2

2007年11月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は軍神「上杉謙信」の父、見事下克上に成功した越後の傑物「長尾為景(ながお・ためかげ)」さまです。

国人衆の台頭で危機感を持った越後・守護「上杉房能(うえすぎ・ふさよし)」
彼は支配力強化のため、国人領主らの権限を大幅に制限するという方策を立てますが、それがために守護代「長尾為景」らの反発を招いてしまうのでした。

※ちなみに画像はお父さまのかわりに謙信くんです。
 「軍神」の冠がよく似合いますね。

永正四年(1507)
ここで先手を取ったのが、切れ者の「長尾為景」です。
若い「上杉定実(うえすぎ・さだざね)」を擁立した為景はついに挙兵し、父の代から対立していた越後国守護「上杉房能」を攻め、なんとこれを自害にまで追い込んでしまうのでした。
こうして下克上に成功し、越後・戦国大名「長尾為景」が誕生します。

永正六年(1509)
しかし、これがちょっとやり過ぎたのか、あるいは事を急ぎ過ぎたのか。
二年後、台頭しようとする新勢力に旧勢力の代表、関東管領「上杉顕定(うえすぎ・あきさだ)」が報復のため、越後へ進軍してきたのです。

ちなみに、越後国守護であった上杉氏は山内上杉家の一族。
その山内上杉本家の養子となり、後を継いで関東管領になっていたのが、越後上杉氏の出である「上杉顕定(うえすぎ・あきさだ)」、その実弟が為景に攻め滅ぼされた「上杉房能」なんですね。
ため、これは”弟の仇”でもあったのです。

まだ権威の影響力が強い時代でして、関東軍数万とも称される攻撃軍に対し、完全に越後を統一できていなかった守備軍・長尾勢ではどうすることもできず、敗れて佐渡へと逃亡をするのでした。
「あいるびーばっく」
ということで復讐に燃える為景さま。

その翌年(1510)には早くも兵を整え、さらに外祖父で信濃の国人「高梨政盛」らの援助を取り付けて反撃を開始。
越後にて関東管領「上杉顕定」率いる八千と称される軍と再び激突します。
戦いは「高梨政盛」以下、各地の諸勢力と共に抵抗して有利に進めていたようです。
そのクライマックスは坂戸城北方、長森原で両軍入り乱れる大激戦となり、今度はこれに勝利しました。
(※長森原合戦:新潟県南魚沼郡六日町長森)
さらに、撤退する上杉軍を追撃し、ここで総大将「上杉顕定」を討ち取るという、大勝利になるのでした。

こうして、為景は悲願であった越後の実権を完全に掌握するのです。

⇒つづく。
 「次回は権威好きな英雄」

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※タイトルで選びました。迷走大将だって、うふふふふふふふ。
 確かに仕える家臣にとっては困った大将だったでしょう(笑)



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2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
前の筆名忘れた(^^; (お久しぶりです(^^ゞ)
2010-01-11 21:09:31
こんばんは
 面白い一文を見つけたので書いていきます。

《長尾為景》
…上杉房能は越後守護就任から四年後、郡司不入権を放棄、直接越後の支配に乗り出した。
郡司は守護の郡単位の代官で、守護の公的権力介入を拒否出来る権限を持っていた。
突然の方針転換に代官は反発、"租税に苦しむ民衆の不安も増幅した"。
そして権力強化を図る房能への反発は日増しに大きくなり、反対勢力と為景は、上杉定実を取り込み、房能を討伐した。
 つまり房能は、領民を顧みないで家臣の為景に討たれた。

 以上新潟で見つけた記事でした。
参考にどうぞ(^^) 
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為景ですね (あおぶひでる)
2010-01-13 00:57:26
ありがとうございます。
この当時はまた資料が少なかったんですよねー。
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