お寺さんぽ Ver.03

現在は更新をお休みしています。

秀吉、因幡国へ進出 (鳥取城合戦)2

2009年09月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も魅惑の攻城戦シリーズ(そんなのない)です。
後の太閤「羽柴秀吉」の実力が遺憾なく発揮される「鳥取城合戦」をお送りしております。
これがやりたかったので、ちまちま山名氏を調べていたんですねー。


「応仁の乱」では、西軍総大将という地位であった山名家。
しかし、京都にて疲弊した山名氏は播磨攻めなどに失敗したほか、各地での支配力も次々失って大きく没落。

戦国時代になると、尼子・毛利などの新興勢力に押されておりました。
今回の戦場となる「鳥取城」は、因幡山名氏の「山名誠通(やまな・のぶみち)」が築いたとされています。

久松山の地形を利用した、天険の要害である山城。
もともとは誠通に従っていた「武田信高」は、こちらの改修を続けてじっくりと力を蓄え、主家の混乱を機に下剋上を果たしたのでした。

その信高によって追放されてしまった「山名数豊」の弟「山名豊国(やまな・とよくに)※写真」
劣勢であった豊国は、宗家・但馬守護「山名祐豊(やまな・すけとよ)」に身を寄せ、その助力を受けて毛利に追われた尼子氏残党とも結びました。
一方の信高は毛利氏と結び抵抗したものの、尼子残党軍との合戦に敗れるなど戦況は信高勢に不利でした。
こうして両者の間で和睦が結ばれ、「鳥取城」は豊国へと明け渡されたのです。

城主へ返り咲いた豊国。
しかし、その前途は明るいものでなく、因幡へと兵を出す大義名分を得た毛利氏より出陣した猛将「吉川元春」に攻められ、あっさり降伏しております。
また、将軍を奉じて上洛を果たし、瞬く間に近畿を制圧した難敵「織田信長」率いる織田勢も山陰へと兵を進めてきたのでした

さて、中国地方の司令官として抜擢されたのは「羽柴秀吉」でした。
草履取りから出世した彼は織田家の有力な武将となっており、北陸の「柴田勝家」、関東の「滝川一益」、近畿の「明智光秀」らと共に、司令官クラスの一人に抜擢されていたのです。

参謀「竹中重治(※三木城攻めの際に病死)」、「黒田孝高」らを加えた中国地方の攻略は、播磨制圧から但馬・因幡という山陰方面にシフトしておりました。
天正六年(1578)頃から但馬国の攻略にかかり、天正八年(1580)には因幡国へと進出していました。

城主「山名豊国」の鳥取城はそれらのターゲットとなり、次々と来襲する両軍に挟まれた山名勢は、毛利氏・織田氏の間をぎりぎりで渡り歩くのです。

天正八年(1580)九月
秀吉率いる織田勢が鳥取城を包囲。
三カ月ほどの籠城に耐えた豊国でしたが毛利氏の援軍はなく、これに降伏するのでした。

⇒ つづく
 次回は「米がない!~驚愕の経家~」(3/6)



[関連記事] 【織田政権セット】
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
⇒ 滋賀県 「姉川古戦場」 (史跡探訪シリーズ)
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 魔王の弟 「織田信行」 [    
⇒ 有能な秘書官・森蘭丸 [父と蘭丸 兄と蘭丸 主君と蘭丸
⇒ 米のような必需人「丹羽長秀」 前編 後編
⇒ 天才軍師「竹中半兵衛重治」 (1)(2)(3)(4)(5)(6)
⇒ 海賊大名 「九鬼嘉隆」 [   
⇒ 文武二道・会津に適う人物 「蒲生氏郷」 [      
⇒ 信長に背いた男 「荒木村重」 [  
⇒ 本願寺・大谷派  大通寺 (滋賀)
⇒ 坂本城址 (滋賀)
⇒ 迷う明智光秀「おみくじを引く人間心理」
⇒ 明智光秀の誤算「歴史を動かした手紙」
⇒ 謀反の理由は?「本能寺跡地」


 ★宜しければ応援クリックお願いします。  ⇒ 【人気blogランキング】


戦国武将《太閤/豊臣秀吉》コットンミニタオル☆レキジョ御用達通販☆

エレファント

このアイテムの詳細を見る

※タオルだそうです。
 「夢のまた夢」がかっちょえーのですよ。


最新の画像もっと見る