お寺さんぽ Ver.03

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切れ者の祖父・忠朗と忠棟くん 「伊集院忠棟」1

2008年05月15日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は島津家の主力として政務・軍事の両面で大活躍をしながら、最終的には悲しい結果となってしまった「伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)」さまについてお送りいたします。

それぞれ特徴を持った四兄弟が特に有名な島津家。
その家臣団にも魅力ある方がずらり揃っておりますが、中でも筆頭家老だった「伊集院忠棟」、その父・祖父などは際立って目立つ存在です。
果たして、祖先が叶わなかった”島津宗家を凌駕すること”はできるのでしょうか?


さて、とりあえずは「伊集院忠棟」さまの伊集院家の成り立ちから。
時代はだーいぶ昔のことで、武士が台東する鎌倉時代。

島津家二代当主「島津忠時」には多くの子がおりましたが、さらにその七男「島津忠経」の子「島津俊忠(四男)」は薩摩国・日置郡伊集院村の地頭職を与えられ、そちらに土着しております。
これが起こりとされているのでした。
以後より「伊集院」を名乗り(子、久兼より)、子に恵まれて各地へ散らばった一族支流は島津一族でも非常に多く、見逃せない勢力になっていくのです。

南北朝時代では、当初島津本家にならって北朝でしたが、後に南朝へ鞍替えをして島津家と争っております。
また、九州探題「今川了俊(いまがわ・りょうしゅん)」と島津本家が対立した際には島津方につき、勝利に貢献。
しかし、その後から島津本家の家督相続にちょくちょく関与し、たびたび争いに巻き込まれているのです。
(※一時的には本家を凌ぐほどの権勢だった時もあったらしい)

七代「伊集院頼久(いじゅういん・よりひさ)」も島津本家とたびたび対立。
また、嫡男(八代)の「伊集院煕久(いじゅういん・ひろひさ)」も所領を巡って島津本家と激突したうえ、敗北して肥後へと逃亡するのでした。

一方、その弟「伊集院倍久」は伊作家(のち相州家)の名将「島津忠良(日新斎)」に従って、家名を存続しました。
さて、ここで島津家の家系図をご覧ください。


●島津家系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は家督相続者)

            ■伊作家(のち相州家) 
              忠良(日新斎)
■島津宗家        ↓
(14勝久)→[養子]→15貴久-忠将(相州家)-尚久(伊作家)
               ↓
             16義久-17義弘-歳久-家久
                     ↓        ↓
                     ↓       豊久
                    久保-18忠恒(家久)
                           ↓
                          つづく(江戸時代~明治~)
  
  
先の「倍久」の孫が「島津忠良」をよく補佐して領国統一に尽力した、忠棟の祖父「伊集院忠朗(いじゅういん・ただあき)」なのです。
彼をはじめ「伊集院忠倉(いじゅういん・ただあお)」、今回主人公の「伊集院忠棟」という三代はなかなかの切れ者揃いで、代々島津家の家老として活躍するのです。

祖父忠朗は主に政務を取り仕切る筆頭家老でした。
しかし、軍事面でも非凡な才を発揮して活躍し、守護・島津宗家「島津勝久」の伊集院城、谷山城などの攻略。薩摩・谷山苦辛城にては「平田宗秀」を下すなど、軍事面でもたびたび功を重ねております。

また、忠良の子「島津貴久」からの信頼も変わらず厚く、大隅・咲隈城の守備に任命されております。
そちらでは、代々日向伊東氏と対立していた豊州家「島津忠親」と共に伊東氏、肝付氏らと戦っております。
ここでも忠朗は数々の軍功をあげ、大隅経略の布石となるのでした。

なお、合戦での鉄砲(火縄銃)使用を強く推したのが忠朗といわれ、参加した岩剣城攻めは日本史上で初めて実戦で鉄砲が使われた合戦と言われているのです。

⇒ つづく
  次回は「政務に長けた父・忠倉と忠棟くん」(2/4)

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※小田原「北条五代まつり」にて火縄銃を見ましたが…。
 いや、実際目の当たりにすると、その音の大きさにびっくりしますよー。


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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (カミタク(リンク先は「一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)訪問記」))
2011-01-08 14:03:59
【リンク報告】
こんにちは。カミタク
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/
と申します。

 私が運営しております、鹿児島県内外の観光と温泉を紹介するホームページ「温泉天国・鹿児島温泉紹介!」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/kagoonin.htm
内の「一宇治城跡(伊集院城跡;城山公園)訪問記」
http://homepage2.nifty.com/kamitaku/KAGKANB1.HTM
から貴ブログ記事にリンクを張りましたので、その旨、報告申し上げます。

 今後とも、よろしくお願い申し上げます。

返信する
ありがとうございます (あおぶひでる)
2011-01-09 00:15:12
カミタクさま、コメント・リンクありがとうございます。
温泉はいいですよね!
鹿児島にもぜひいつか行ってみたいです。
返信する
伊集院城は伊集院のシンボルだ!! (伊集院町民)
2011-06-13 19:32:31
あのさ、
伊集院城をPRしようよっ

日本キリスト教発祥の地
島津義弘が過ごしていたお城

桜島、大パノラマ360度見渡せる絶景の山頂見晴台!!

島津貴久とフランシスコザビエルの会見石碑とザビエル像が建立

日本最初にキリスト教の布教が行われた場所

日本最初の鉄砲実戦使用者、伊集院忠朗もいたお城

温泉は熱海でも、箱根でも秋田でも入れるでしょ!!

伊集院城は全国的に貴重なのです!!!




返信する
Unknown (伊集院家末裔)
2019-11-01 07:51:56
先祖を調べていて不思議に想いますが
忠棟の弟側になりますが
忠棟の連座を恐れ 名前を変えたと
調べても出てきますが
系図には伊集院久明の名前も有ります
惨殺から二百年後の時代なのに
名前を変えたとあるのに久明は
名前が変わったのは後の幕末?明治の伊集院五郎と
うちを区別するために国の命令で変えさせられたのか
疑問が残ります
返信する