お寺さんぽ Ver.03

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北条早雲 <前編> (神奈川県・小田原城)

2006年04月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は関東地方の大スター、北条早雲こと「伊勢新九郎長氏」
さまについてお送り致します。
(※ややこしいから、以下は早雲で統一。写真が北条早雲です)


戦国三梟雄の三名を知ってますか?
それ以前に「梟雄(きょうゆう)」って言葉は知ってます?
辞書で調べると「残忍で強い人」だそうです。共同で所有すること、ではないですよー。
ただ、戦国時代の梟雄は辞書そのままの意味合いよりも、下克上の風潮にのってやや
強引な手段を用いて出世した人、が正しいと思います。
辞書の「残忍」もそうなんですが、クローズアップされるべき単語は「強い人」ですね。

室町後期の下克上思想から名だけでなく、真の実力者が台頭する時代。
室町時代から戦国時代の扉を開いた人物として、この「北条早雲」の名は広く知られて
います。歴史でもちょっとだけ勉強したかもしれませんね。

この戦国初期あたりの人物の特徴として、名はよく知られているのに出自がはっきりし
ないというのがあります。この北条早雲もしかり。
先の「戦国三梟雄」の他二名(斎藤道三、松永久秀)も同じように、歴史の表舞台に立つ
以前はどこで何をしていたのか、実に不確かなんですね。

さて、早雲もイマイチはっきりしてないんですが、駿河の今川氏へ嫁いだ妹の縁を頼って
食客になる、というのが初登場です。(※一説には幕府直属の部下であったらしい、とも)
まあ、妹さんが仮にも守護大名へ嫁いでいるくらいですから、そこそこの家柄ではあったよ
うです。ちなみに、食客というのは今で言う「いそうろう」になります。
「お兄ちゃん、しっかりしないとだめだよぉー」
みたいな。
こう書くとどこぞのギャルゲーにでもなりそうですが、早雲はただ飯食らって余生を安穏と過
ごすような人ではありません。彼は当時の感覚では中年期後半という年齢でしたが、実に
時代とアンマッチな、飛び抜けた感性の持ち主でした。

家督争いから分裂した駿河今川家。
食客であった早雲は第三者という立場だったこともあり、両派の橋渡しを成功させるなど混乱
終結に活躍しました。その褒美として興国寺城を与えられます。
無一文の素浪人(実際はそこまで酷くないですが)から、一城の主となったのです。
お兄ちゃん大出世ですよ!

さて、城持ちとなった早雲は関東の情勢に目を向けると、伊豆に注目します。
当時の伊豆…を語るためにどうしても必要なのが関東情勢なんですが、その関東については
先にやりました。うふふ…。
こちら(→関東公方と関東管領)を参照下さい。

当時の伊豆には鎌倉入りの叶わなかった「堀越公方・足利政知」が実質の支配者としておりま
したが、彼の没後幽閉されていた異母弟の「足利茶々丸」が叛乱を起こし子「潤童子」とその母
を殺害。強引に跡目を継いでしまいます。
この事件により、伊豆国内は大いに混乱しておりました。
逐一状況を伺っていた早雲はチャンスとみるや素早く行動します。
なんと、彼は伊豆に攻め込むと堀越御所を攻撃、伊豆一帯を支配下に置いてしまいます。

元来、戦を仕掛けるには大義名分という理由付けが必要(たとえそれが一方的なものでも)なん
ですが、早雲は大した理由もなく、ただ取れそうだから取っちゃうんですね。
鰹節目の前にした猫みたいに。
一応、幕府から反乱軍の追討を命じられた、というのもあるようなんですが…。
(※実は茶々丸が殺害した潤童子の母は十一代将軍「足利義澄」の母でもあるのでした)
まぁ、あったとしても、ひでるさんはどうも後付けっぽい気がするんですけどねぇ。

と、まぁ公然とルールを無視し、実力で一国を奪ったこの事件を”戦国時代の幕開け”とする見方
もあり、早雲が高く評価される理由となっています。
なにはともあれ、早雲は関東へ来てからたった数年で一国の主にまでのし上がったのでした。

→後編につづく

[住所] 小田原城 神奈川県小田原市城内6-1

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◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。

※ちなみに本日8日は「はなまつり」ですよ!皆さんお寺へ向かいましょう!
 「花祭」は釈迦の誕生を祝う行事です。…知ってますか?
 本来は灌仏会(かんぶつえ)と言うんだってー。


※たまには「光栄」以外の戦国ゲームを…。

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