お寺さんぽ Ver.03

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訶梨帝母[鬼子母神] (仏像) 

2008年08月31日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は優しい母親ちっくな仏像「鬼子母神(きしぼ(も)じん)」、あるいは「訶梨帝母(かりていも)」です。
…えー、実際には双方の名で呼ばれるんですが、いちおう後の説明に絡め易いということで以後は「訶梨帝母」で書いていきます。
よく耳にするのは「鬼子母神」の方かもしれませんけどね。

インドではかなり早くから信仰されたという、こちらの方。
まぁ、”子を優しく抱く母の像”というのは、あちらのマリアさまなどと似て、それだけでなんとなく神々しさはありますからねー。
時代的にも、流行って当然だったかもしれません。

さて、この「訶梨帝母」さまには、とある有名なエピソードがあります。
もともとは、鬼神「般闍迦(はんじゃか、ぱんしか)」の妻という「訶梨帝母」さま。
五百から一万人と言われる、実に子だくさんな大家庭(?)の母親なのでした。
しかし、その性質と言えば大変に邪悪、さらには兇暴で、”常に他人の幼児を捕らえては喰らう”というトンデモな鬼女だったのです。

ある日、悲しむ人々らの訴えを受けた「釈迦」は神通力によって、彼女が最も愛したという末子の「嬪迦羅」を隠してしまいました。
方々を狂ったように探したもののまるで見つからず、大いに嘆き・悲しむのです。
大勢いる子のうち一人でもいなくなればそのようになる。まして少ない子のうち、一人でもいなくなった親の心はどうだろうか
そう諭され、子を失う母の苦しみを知ったのでした。
この後は絶対に人の子を殺さない
「釈迦」は彼女にそれを誓わせ、子を返したのです。

…以後、改心した「訶梨帝母」さまは子の代わりに吉祥果(ザクロの実)を食べ、逆に安産と子を守護する神様になったのでした。
めでたしめでたし。

子供を返した次の瞬間、「訶梨帝母」さまによってタコ殴り(あるいは惨殺?)にされる「釈迦」の映像が浮かんだひでるさん(笑)
テレビなどでもよく取り上げられますが、もし現代の世で同じようなことをやったなら、どれだけ正しいことでも相手は素直に聞いてはくれないでしょうねー。
逆に訴えられたりして。

さてはて、梵名は「ハーリーティー」
お名前の「訶梨帝」はその音写で、別に「訶利底」とも書くのだとか。
見分け方としては、基本的に天女形(密教の場合)
左手で子供を抱き、右手で吉祥果を持っています。
立っているものが多いですが、宣台(せんだい)に腰掛けるもの、座って右足を踏み下げているもの(半跏踏下)というのもあります。
たいていは童子らに取り囲まれてます。
特に混同しそうな像(※僧形ならばお地蔵さま)もなく、形式が浸透しているものなので、分かり易いことと思います。
有名なところでは、「醍醐寺」に国宝の絵が、「東大寺」には重文「訶梨帝母像」があるそうです。
あまりバンバン見かけるタイプではないので、目撃した方はラッキー。

ちなみに余談ですが、いまは懐かしい「逆転イッパツマン」の音楽「シビビーン・ラプソディー」にて、「おそれいりやのキシボブタ♪」と歌われておりますが、これは「恐れ入谷の鬼子母神」という洒落のもじり。
その元は、東京都下谷は「真源寺」に祀られる「鬼子母神」のことなのでした。
「山本まさゆき」さんは本当にこんなん好きな方ですね。

なお、「法華経」では「法華経を読誦し受持する者を擁護せんと欲す」という…あ、このままだと分かり辛いですね。
「法華経を唱え・。覚えて教えを忘れない者を助け守りますよぉー」
だいたいそんな役割。、
「日蓮宗」では、法華経を守護し、現世利益の神さまとして「十羅刹女(じゅうらせつにょ)」、「半支迦大将(はんしか・たいしょう)」らと共に祀られ、信仰されています。
こちらは除病、除災など広い利益が求められているためか、ちょっと異なる鬼神形なのだとか。
いやぁ、そっちも見てみたいですねー。

最後に真言は「おん、どどまり、ぎゃきてぃ、そわか
子授け、安産、子育てほか、盗難よけなんてご利益まであったりします。
ただし、本来は鬼神の天女で、人に見られるのを嫌うため、夜にお願いするのがいいんだって。
もともと鬼神でも美人と評判であったそうなんですが…。



[関連記事] 【観音・菩薩・天部などいろいろ】
⇒ 仏像の種類 (お父さんのための仏像講座) [前編] [後編]
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※懐かしむには、こんなCDがオススメです。
 「山本まさゆき」さんの音楽を大人になって聴くと、違った発見があると思います。

石田三成の真実 (歴史さんぽ:誤解をとく会)

2008年08月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、特別企画「石田三成の真実」ということで、色々言われている悪評について述べたいと思います。

歴史の本を見ると、相変わらず酷く書かれていることがある三成さま。
なにかって、こないだ購入した本もそんなんでした。
お前は徳川の御用学者か?!…という感じなの。

このネタを思いついたのは、そんな流れなのです。


関ヶ原合戦にて「徳川家康」に敵対し、敗北した「石田三成」
それがため、徳川幕府が続く三百年間には様々な悪評をつけられ、常に実像が歪められておりました。
豊臣家を滅ぼして天下を簒奪した家康にとって、彼を徹底的な悪者とする必要があったのです。
しかし、それらは真実ではありません。

平時では政務に腕を振るい、有事では大部隊の支援をそつなくこなす彼の才覚は「豊臣秀吉」をして、
我に異ならぬ才を持つのは三成だけ
…と言わしめておりました。
事実、五奉行の面々「浅野長政」「増田長盛」「前田玄以」「長束正家」らが皆年上で先輩だったにも関わらず、その筆頭とされた三成は唯一の二十代でした。

その権威は肩を並べる者がいない/島津義弘

少しでも背けば、たちまち身の障りをなす/木食上人

秀吉の下で辣腕をふるった三成。
しかし、上に書いたように、諸大名らには大変恐れられた存在だったのです。


■野心・権力欲はあったのか?
こちらはあったでしょう。
ただ、彼の生涯を追いかけて分かるように、三成は徹底した忠義の士なのです。
権力欲については、個人的な欲求という訳ではなく、”恩義に報いれるだけの力を欲していた”ということだと推察します。
おそらく、三成は「豊臣家を守れるのは自分しかいない」と自負していたのではないでしょうか。
関ヶ原合戦の計画を練っている段階で、自らの石高の低さを嘆いた、という逸話もあります。
あちこちに強く当たっていたのも、あるいは豊臣家の権威強化のためだったのでは…とか考えるのは、ひいきのし過ぎですかね。

■野心・物欲はあったのか?
奉公人は主人から頂戴する知行を全て使い切って奉公すべき。使い過ぎて借金するのは愚人、使い残すのは盗なり
という、三成の言葉があります。
その通り、彼の居城である「佐和山城」は実に質素なものでした。
関ヶ原合戦後に落城させた東軍勢が「あれだけの権威だったのだから、さぞかし豪華な生活だろう」と城中を調べたところ、その質素ぶりと金銀の蓄えがないことに大変驚いた、と伝えられてます。
このように、日頃から無欲な人だったのです。
三顧の礼で迎えた家臣「島左近」に、当時水口四万石のうち一万五千石もの高禄を与えたという有名なエピソードも、その表れだと思います。
(※ちなみにその後の加増については固辞されたと伝えられております)

なお、秀吉が目立つ「色欲」という点では、はっきり言って不明。
三成の妻についての記述はなく、不明であるそうなのです。
子については嫡男「重家」、次男「佐吉」、ほか娘が何名かおります。

■勇気が足りない?
天正十一年(1583)「賤ヶ岳合戦」では、先駆衆として突撃。
七本槍の武功には及ばなかったものの、「大谷吉継」らと共に戦功を上げております。
勇気がないどころか、非常に度胸のある人だったのです。
なにより、秀吉没後「徳川家康」の専横に対して真っ向から対抗していることからもそれが伺えます。
豊臣譜代の家臣ですら自己保身に走って命に背いたのに対し、なんとも格好いいではないですか。
最後まで豊臣家存続のために奮闘したのは、彼以外にいないと思います。
(※あるいは「福島正則」のように単純で先見性なく、いいように使われたというのはおりますが)
遺骨調査から優男であったという三成ですが、大変に鼻っ柱の強い方だったのです。

最後、武士らしく自害をせず生きながらえた結果として捕縛されたというのも、
大事を成す者は最期の最期まであきらめないものだ
という言葉が残っているそのまま、自らが死ぬぎりぎりまで打倒家康を諦めていなかったためなのです。

■裏で暗躍していた?
性格的に、三成はこんなんを最も嫌う方でした。
彼には、対立する「徳川家康」を何度か襲撃できるタイミングがありました。
「島左近」が何度かそれを献策していたようなんですが、迷い、断っているのです。
清廉潔白な質であるため、卑怯な作戦を好まなかったのでしょう。
黒幕と言われる「豊臣秀次」、「千利休」の事件。
三成は役目柄、それらを詳しく調査・詰問し、厳しく処分する必要があったのです。
事実として、秀吉の意向を正確に遂行したことは間違いなく、それがために恨まれ、根も葉もない噂を立てられてしまったのでした。
その一方、秀次事件では助命嘆願をしているうえ、処分後には旧臣を多く召抱えております。

■嫌われ者だった?
誤りは誤りとして譲らず、実直で直球な性格だったため、誤解を生むことが多かったのでしょう。
決定的に柔軟性には欠けている方なのでした。
真面目な学級委員長タイプなんですね。
これは、「福島正則」「加藤清正」といった子飼いの武功派連中には甚だ評判悪く、また行政家として優れていため、秀吉がその意見に耳を貸すことも多かったのです。
そんなんが、また気に入られなかった要因なのですよ。

逆に、「大谷吉継」「宇喜多秀家」「小西行長」「佐竹義宣」…ら、彼と打ち解けた者は全幅の信頼を寄せるという、人気面では両極端な人でした。
秀吉に見出される切っ掛けとなった「三度の茶」の逸話、「毛利輝元」が献上してきた季節はずれの大桃をやんわり断って送り返すなど、細やかな心配りのできる人でした。

また、領民には善政をほどこし、時には年貢の免除をしたとか、落城を前にして将士に退去を命じたものの、二千八百という数が残ったと言う話なども、その人柄をしのばせます。
「水戸光圀」は江戸時代であるというのに、
人の臣たるものは治部少(三成)のように心がけるべきだ
と評しております。



…もういいかな。
とかく、能力があったものの、生き方が下手なんですよ。
自らを引きたててくれた秀吉の恩に報いるため、一生懸命に頑張った方なのでした。
そうした不器用さが、ひでるさん好きな面でもあるんですけどね。

もしあの時代に生まれていたなら、本気でそれを忠告してあげたいところなんですが…
容易に人に聴かず、自ら信ずる事すこぶる厚し
とか言われております。
まぁ、ひでるさんの言うことなんて聞かないでしょうねー(笑)
なお、有名な軍旗「大一大吉大万」は資料の裏付けなく、実際のところは不明なんだって。



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石田三成―戦国を差配した才知と矜恃 (歴史群像シリーズ (55))

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※三成さまはひでるさん最も好きな戦国武将です。
 ほぼ無理ですが、この方のようになりたいです。

大通寺 (滋賀)

2008年08月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は滋賀賢長浜市の大寺院「大通寺」です。

「豊臣秀吉」の居城として有名な「長浜城」
…そちらへ行ったら、ぜひぜひ立ち寄ってほしいお寺がこちら、「大通寺」なのです。
お寺自身もそうですが、山門前に広がる門前町「ながはま御坊表参道」には様々な店が懐かしい雰囲気を残したままの良い風情で、気持ちから歴史にどっぷりと浸れます。
オススメですよん。

さて、そんな訳で、別名を「長浜御坊(ながはまごぼう)」、正式名は「真宗大谷派長浜別院大通寺」です。
…長浜御坊?
そうした単語で引っ掛かった貴方は、ひでると同じ戦国ファン。

そうなんです、こちらはお寺というより歴史好きな方が狂喜乱舞する(かもしれない)お寺なのでした。

浄土真宗の布教をする異人「蓮如上人」(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺兼壽」)
当時の近江国(滋賀県)は、最大の布教拠点でした。
そのうち、坂田、浅井、伊香という湖北三郡ではよく教えは浸透し、いつしか”真宗王国”と呼ばれるほどになるのです。
そちら湖北三郡の中核が、「長浜の御坊さん」と呼ばれていた、こちら「大通寺」だったのです。

もともと、こちらはいわゆる寺ではありませんでした。
天正時代の初期頃ということですから、まさに戦国時代の真っただ中のこと。
天下統一をすすめる時の権力者「織田信長」は、ある難敵に出会っておりました。

信長と対決した武将らは色々おりますが、おそらく信長当人がもっとも嫌だった(と思う)のが、石山本願寺を本拠とする、一向衆(一向宗)門徒でしょう。
戦国好きにはお馴染みですね。

さて、信長と対立する、一向衆は本願寺一派。
滋賀の僧たちが”籠城した「石山本願寺」の支援の協議を行う”ため、長浜に寄合道場を設置したんですが…これが「大通寺」の起こりなのでした。

当ブログで紹介した寺院中で、最も純粋でない切っ掛けなのですよ(笑)
まぁ、戦国時代ですからねー。

天正八年(1580)
当時の本願寺法主「顕如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光佐」)」と信長の間には和睦が成立しました。

約十年という長期戦であった「石山合戦」はこうして終結したのです。
しかし、その嫡男「教如上人(※信長の野望ちっくに言うと「本願寺光寿」)」はあくまでも徹底抗戦を主張。
こちらの「大通寺」もそれに応じ、「教如上人」と共に戦ったのでした。
(※さらに一部では籠城戦が続いていたのだとか…)


※ながはま御坊表参道からの風景です。

慶長七年(1602)
「徳川家康」より許可を得た「教如上人」は側近を集め、別に大谷派本願寺(東本願寺)を興しました。
これが本願寺分立の切っ掛けなのです。

それに合わせ、長浜の旧地に移っていたこちらも道場から「無礙智山(むげちざん)大通寺」と号する寺院として発足したのです。
以後、彦根藩「井伊直孝」の援助を得るなどして発展し、真宗大谷派の別格寺院となっていくのでした。

そんな、歴史要素いっぱいな「大通寺」
脇門はなんと旧長浜城の大手門、梵鐘は南北朝時代のもので県指定。
遠くからも目を引く立派な山門は江戸時代のもので、なんと三十三年もかかったという巨大建築物になっています。
ぜひ、歴史要素がいっぱいにつまった、こちらを訪れてみて下さい。


[住所]
 大通寺 滋賀県長浜市元浜町32-9


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⇒ 中世の名僧 「夢窓国師」 (前編 ・ 後編


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信長の野望DS 2

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※追加情報をば。
 本願寺でプレイしても、任意に”一向一揆”は起こせませんでした。(自動になる)
 残念!
 また、合戦では政治・教養の高い武将を連れていけば計略系の戦術を避ける確率が上がるようでした。


河童狛犬 (常堅寺・岩手県遠野市)

2008年08月21日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は岩手県遠野市は「常堅寺(じょうけんじ)」と共に、そちらに鎮座する「河童狛犬」についてです。

えー、いきなり始めます。

延徳二年(1490)
日本は室町時代の末期頃でした。
「北条早雲」が伊豆へ攻め込んだのが明応二年(1493)ですから、ちょうど戦国時代との境目付近ですね。

遠野郷は曹洞宗十二寺の筆頭「大原弾正勝行」、そして「大聞秀宗(だいもん・しゅうすう)」禅師の開山にて「蓮峰山・常堅寺」が建立されました。

もともとは安倍氏の菩提寺とも言われておりましたが、先の大原城主「大原勝行」が付近を領した際に整備したのが、こちらの「常堅寺」なのです。
山門の仁王像はもともと市内の「妙泉寺」にあったものを移したもの。
カクカクでロボットちっく(笑)

さてはて、このお寺のすぐ隣には「河童っぱ~るんぱっぱ、な民話の里「遠野」 (岩手県遠野市)」の際にも紹介しました、「カッパ渕」という河童の住まう小川かあるんです。
あ、信じてないでしょ?
…いやいや、本当に”いる”んですよ、そこの方。

その昔。
川へ馬を冷やしにきた子がふと目を離した隙に、いつしか現れた「河童」は馬を川へ引き込まんといたずらをしたのです。
しかし、親の助けも借りたその子らによって、逆に厩まで引きずられてしまうのでした。
捕まってしまったものの助けられ、いたずらを許された「河童」はそのお礼(お詫び?)に母子の守り神となったのです。



「常堅寺」が火災となった折には、頭の皿より水を吹き出させてこれを消しとめたというこの河童。
こちらの「河童狛犬(かっぱ・こまいぬ)」こそが、その河童であり、今も付近を守っているというのでした。

…と、まぁそんな訳で今回メインの「河童狛犬」がそちらです。
ほら、ちゃんと頭部分に凹みがあるでしょう?



あまりいないかもしれませんが、河童好きな方、狛犬好きな方はぜひ間近でご覧下さいませ。
なお、調べたら愛媛県は「若宮神社」にもあるそうです。
そちらの写真では、より河童ちっくでしたよー。


[住所]
 蓮峰山・常堅寺 遠野市土淵町土淵7-50 
★駅からバスで30分くらい。

[関連記事] 【神社・日本の神さま・など特集】
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⇒  ちょっと特殊な仏像 「鉈彫仏」
⇒ 大天狗像 大雄山最乗寺 (神奈川)
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河童千一夜 (シリーズ昭和の名作マンガ) (シリーズ昭和の名作マンガ)
水木 しげる
朝日新聞出版

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※やっぱり「河童」と言えば「水木しげる」センセでしょう。

信長の野望DS2 プレイレビュー (ゲーム・光栄)

2008年08月17日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
いつものような記事をお望みな方、すみません。
こないだも紹介しております、「信長の野望DS2」の追加記事なのでした。
…うわ、なんだかゲームブログみたいですね!
(↑そうでもない)


とりあえず前回はプレイしたての、ざっくりとした内容だけだったので、今回はもう少し突っ込んだ感じにてお送りします。
仕事と睡眠の間にブログを書いているような生活なんですが、現在はいかにゲームをやる時間をつくるか、頑張っております。
そんな訳でまだ統一もしてませんし、プレイ時間も長くはありません。
ただ、購入を迷っている方の参考になれば幸いです。

なお、ひでるさんは最近の信長シリーズはほぼ未プレイ。
だいたい同時期頃にPCゲームをやられていた方を中心にお送りしたいと思います。
(※下の文中で昔とかいう言葉ありますが、PC版の「戦国群雄伝」、元ゲーム「武将風雲録」あたりを指しております)

コーエー定番シリ-ズ 信長の野望 武将風雲録

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■内政について
金額は一人固定(40)、何名参加させるか選ぶタイプになってます。
昔は金額まで入力したものですが、やっぱりテンキーのない携帯機器では、この方がやり易いです。
税比率をうんぬんというのもありません。
米相場を追い掛け、売り買いした方が儲かるのも従来通りですね。
感覚として、お馴染みの金山、技法獲得など、「技術」の重要度が増しているかなぁ。
(※技法のため、なんとなく200まで上げたくなるのです)
また、さして気にならなかった「文化」についても、”文化効果”があるため重要です。
その値が高い国に従って自然に上昇するのも同じなので、京を目指す理由になってます。
なお、「輸送」もいきなり遠方まで可能になっていました。

■茶会について
回数はさしてやってませんが、あんまり変化はないかなぁ…。
ひでるさんはなにげに茶器収集は好きです。
来訪者がくれたりするのも変わらない点ですね。
なお、所有している武将を捕らえると、自動的に没収するようになりました。
また、「褒美」の使い回しで忠誠度を上げることもできなくなりました。
…が、あまり低くて困るということもないですね。
「勧告」などで従属させても、だいたい(60)以上になってます。

■イベントについて
各種自然災害、山師、金山商、ルイスフロイスなどお馴染みです。
やっぱり一向一揆はありますねー。
これがなかなか痛いのです。
信長が根絶やしにしようとした理由が分かると思います(笑)
なお、歴史イベントは「実力モード」だけとのことです。
周防では「陶晴賢」、美濃では「齋藤義龍」など、史実通りに謀反が発生するのは「実力モード」だけみたい。
こちらは、現在プレイ中です。
…あ、たった今さきほど九州を制圧したら、やっぱり”九州探題イベント”が発生しました。(実力モード)
効果は家臣全員の忠誠度上昇です。
↓それ。



■武将関連について
前作はよく人不足な印象がありましたが、今回はたまに余り気味になったりします。
結構、浪人がふらふらとしている印象ですね。
京に「種子島時堯」が顔を出したりしてます。…観光?
当初は人材難な大名家でも、我慢すれば意外に何とかなると思います。たぶん。
あるいは、新武将作成して補って下さい。
ひでるさんは「北条政子」ほか、「北条時頼」など、北条オールスターズを作成しました(笑)
こないだも書きましたが、合戦後の処置にて相手大名を従属させれば、家臣もセットで召し抱えることができます。
「織田信長」だの「今川義元」だのという、通常では考えられないようなメンバーも配下にできます。
これは良し悪しかもしれませんが、信長が配下というのは…ちょっとドキドキ。
忠誠度も、だいたい(70)以上からでしたね。
能力評価としては、たまに気になるところもありますが、概ね文句なし。
堀秀政 」の戦闘はもっとほしいかなぁ。
コマンド実施にしたがって経験値がたまり、気付くと能力がプラスされたりしますので、好きな武将は使い倒しましょう。
ちなみに、顔グラフィックは従来作品からの使いまわしみたい。
(※携帯アプリの”戦国群雄伝”も同じでした)

■合戦について
やはり「戦術」の要素がかなり重要になっていました。こちらは後述。
旧作からの印象としては、だいぶ鉄砲隊の威力が落ちた印象です。
やっぱり脅威には違いないんですけどね。
まとまっていると恐ろしいです。
大友家などが当初から使用できる、大筒隊はかなり強力でした。
鉄甲船の砲撃と同じくらいの強さかな?
そう、相変わらず鉄甲船は兵数を覆すほど強かったです。場所が限られるだけ、あまり出撃できないんですけどね。
やっぱり「九鬼嘉隆」に持たせたいところでしょう。
「突撃」は騎馬隊だけのコマンドになりました。
(※その際に討死するかどうか変更できます)
同盟軍・援軍は相変わらず。
ただし、同盟軍・援軍で出陣した時は「戦術」使えないのちょっと残念かなぁ。弓隊になってちくちくやりたかったのに。
そう、足軽隊から変化する弓隊は結構頻繁に見られ、鉄砲隊ほどの威力はないもののちくちくと痛いです。
無料で間接攻撃できるため、特に籠城戦などではなかなか重要な要素になってました。
なお、旧作ではやたら硬かった本陣(本丸)も極端ではありません。
ここを取られると野戦では兵糧を奪われ、籠城戦では敗北というのも昔と同じ。
雨や夜での「奇襲攻撃」をいかに使うかも鍵なんですが、戦闘が高いほうが圧倒的に有利なんですよねぇ。
能力の戦闘ですが、兵科適性の影響も強く感じましたねー。
あ、そうそう。
画面の絵で道は繋がっているんですが、必ずしも隣接国でないというのがちょっと分かり辛いです。

戦術 名将たちの戦場 (Truth In History)
中里 融司
新紀元社

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■戦術について
今回ゲームの目玉です。
これがため、昔とはかなり異なる雰囲気になっているのです。
どの「戦術」をどんなタイミングで使用するか、かなり戦況に差が出るようになりました。
たとえば鉄砲系の「戦術」は…
「狙撃」 射程がのびる。
「雨撃」 雨・雪でも鉄砲撃てる。(←これは邪道かなぁ。実際、雨っぽいだけで全然ダメだったと聞きます)
「蓮撃」 2回連続で攻撃できる。
三段構え」 3回連続で攻撃できる。(織田家・鈴木家)
…などは強いですが、当然雨・雪が降れば無意味ですし、夜は見えていないと攻撃できない、さらに数ターンで効果は消えちゃう…という感じなの。
特に前回並べたような大名固有の「戦術」はどれも強力です。
(※毛利家などの「虚報」は一部隊を撤退させるという、恐ろしい戦術)
そんな訳で、これらが不利な戦況、兵数差などを一気に覆す可能性を秘めています。
ため、「戦術」を作成するのに必要な「技法」を得る必要があるって訳なのでした。
大名固有のものを除いて、プレイしたひでるさんのオススメ「戦術」は…
「鎮静」 敵味方全ての効果が消滅。(←武田、上杉など強力な固有戦術を有する相手には必須)
「混乱」 政治低い敵が移動できなくなる。(←野戦で大逆転を狙いたいですねー)
「弓構」 足軽隊が弓隊になる。(←前述のとおりです。効果も長く、ぜひ使えるようにしておきたい)
「蓮撃」 2回連続で攻撃できる。(←鉄砲隊を出陣させるなら、これはほしい)
「大筒」 鉄砲隊が大筒隊になる。(←ぜひ使ってみて下さい)

■モードについて
とりあえず「入門モード」をやってますが、ちょっとプレイしてる「実力モード」の方がより好戦的かなぁ。
しっかり「忍者」とか使われました(笑)

■その他について
音楽は旧作からのアレンジ。
織田、武田、上杉など、固有の曲があるのも同様。
内政、特に戦闘シーンで、各武将はよく喋るようになりました。
また、足利家だと「上様」、本願寺だと「法主様」、親子だと「父上」などと呼ばれるほか、それぞれの口調が異なっているのも細かいですが楽しい点。
オープニングの大名紹介は結構お気に入りだったんですが、今回はないみたい。るるる。
浅井親子の掛け合い漫才ちっくなチュートリアルは、なにげに楽しいので必見。
もう一つのモード「群雄争覇」はまだ未プレイです。
遊ぶと「SP武将」が出るのだとか…。

以上っス。
ちまちまとややこしい、現在のシミュレーションが苦手な方。
あるいは、ひでるさんみたいな、時間ないサラリーマンな方には特にオススメですよ。
また、何か発見したら報告する…かも。


[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [  ]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [ ]
⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [    ]


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信長の野望DS 2

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ついに決着・鎌倉時代の幕開け (承久の乱)6

2008年08月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。

尼将軍「北条政子」の熱弁により、心を一つとした幕府軍。
後の三代執権「北条泰時」を総大将にした軍勢は圧倒的な兵力差にも守られ、各地で朝廷勢を撃破するのでした。
…と、そんなこんなでお送りしてきました”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」は本日がラストです。

約十九万という幕府軍に対し、約二万程度だった朝廷勢。
両軍に集まったその兵数からも分かるとおり、勝敗はわざわざ書かぬとも明らかなものでした。
また、元々少なかった兵力を分散したことは作戦でも致命的なことで、より各個撃破されやすくなっていたのです。

進軍を続ける幕府軍は、最終防衛線であった宇治・勢多をあっさり突破するなど朝廷勢を圧倒。
なんと開始(五月)の翌月には早くも京都を占領していたのでした。

比叡山へ登った「後鳥羽上皇」はその協力を求めるも失敗。
乱は謀臣の企てだった
ついには、そんな現代の政治家のような使者を幕府軍に送ったのです。
その一方で、自らを正当化するため義時追討の院宣を取り消し、逆に敗走してきた「藤原秀康」、「三浦胤義」らの逮捕を命じるのでした。
…ひでえ。
(※ちなみに「藤原秀康」は捕縛、「三浦胤義」は自害)

こうして、幕府・朝廷という日本を二分した大乱戦は、朝廷側の大崩れ・大敗となったのです。

もともと朝廷側では、「土御門上皇」ほか多くの公家が”討幕について消極的、あるいは反対”するなど、意志統一がされていなかったこと。
傑物であった「後鳥羽上皇」らが幕府軍を過小評価し、楽観的な考えが多かったことも原因だったようです。

院宣の効果を絶対視しており、
義時に参じる者は千人もいないだろう
など、諸国の武士はこぞって朝廷の味方をすると確信していたのでした。
時代が読めてない…というより、幕府をまとめていた中心人物が”源家の男性だけでなかった”ことは理由の一つでしょう。

さて、追討を撤回し、乱の責任を近臣の策謀であるとか主張し出した、どうにも見苦しい「後鳥羽上皇」
当然ながらそんなんは聞きいられず、隠岐の島へ流罪となるのでした。
この際、四十二歳。(※その地で崩御)

皇子「土御門院」は土佐へ流罪(※乱には関与していなかったが、自ら進んで配流の身となってます)
「順徳院」は佐渡へ流罪。
ほか、「葉室光親」「中御門宗行」「一条信能」「高倉範茂」…などの近臣らは乱の首謀者とされ、斬殺・自害させられました。
なお、公家「坊門忠信」だけは「源実朝」正室の兄であったため許され、助命されております。

それ以外には、在位期間わずか八十一日ほどで「仲恭天皇(ちゅうきょう・てんのう)」の退位。
朝廷の監視と西国武士らを統率する「六波羅探題(ろくはらたんだい)」の設置。
(※京都・六波羅の地はもともと平氏一門の本拠地でした)
さらに、朝廷より没収した三千という領地は、戦いの功労者らへ恩賞として与えられました。
これによって、幕府の支配は一気に西国にまで及ぶこととなったのです。

この乱によって、結果的に朝廷はその勢力を大いに失い、逆に幕府は一気に全国政権となったのでした
そんな訳で、歴史家の方にはこの乱以降を”鎌倉幕府の創設”とする方もいるのです。


[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     



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古都 三都物語/花と寺 奈良・京都・鎌倉

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※そんなこんなで鎌倉です。
 ぜひ、一度は行ってほしい土地ですね。

後の三代執権「北条泰時」活躍する (承久の乱)5

2008年08月10日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。

過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。
…と、そんなこんなで、”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」をお送りしております。


尼将軍「北条政子」の熱弁により、心を一つとした幕府軍。
幕府は遠江(静岡県)から東、約十五カ国へ動員令を出し、執権「北条義時」の嫡男「北条泰時(ほうじょう・やすとき)」を総大将にしました。
幕府軍の主力は「北条泰時」、そして義時の弟「北条時房」らが率いる十万余騎でした。

ちなみに、後に三代執権となる、こちらの「北条泰時」
後々の世まで裁判基準となる、「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を制定したのが有名ですね。
ほかにも、政治対立を避けて協調し合うよう、幕府を合議制へと大きく切り替え、安定させた人なのでした。

飢饉が発生した際には、自領から米を放出するだけでなく自らの生活を戒める。
弟「北条朝時」の屋敷に盗賊が入った際には、一番に駆けつけて感激させる…など、よくできた方で、御家人から民衆まで絶大に信頼を集めていたのです。
情にも厚い人物で、存命中の二十年は鎌倉時代で最も安定していた時期と言われるほどなのでした。
ちなみに家系図では…。

■おまけ: 鎌倉時代・北条家系図 (※↓:子、-:兄弟、数値は執権)

 1時政
  ↓
 2義時-時房-政子(※「源頼朝」正妻)
  ↓
 3泰時()-朝時-重時-有時-7政村-実泰
  ↓           ↓         ↓
  時氏        6長時-業時   時村
  ↓
 4経時-5時頼-時定
  ↓
 時輔-8時宗-宗政-宗頼
       ↓
      9貞時


…こんな感じ。

さて、東海道を西上する、幕府軍の主力。
東山道からは五万余騎、北陸道には四万余騎…と道々で徐々に兵力を増した幕府軍は、三軍合わせて約十九万という大軍勢でした。
…ちょっと誇張があるかなぁ。どうかなぁ。

なお、「吾妻鏡」の伝える朝廷勢は、院の近習、北面・西面の武士、検非違使(けびいし)、西国の守護(在京御家人)などなど、わずか二万数千余騎だったのでした。

そうなんです、「後鳥羽上皇」の想像よりも、はるかに兵は集まらなかったのです

さてはて、そうした圧倒的な兵力差がため、各地にて朝廷勢は敗退。
「北条朝時」率いる北陸道軍四万は、砺波山などで次々と朝廷勢を撃破。
東山道軍の大将、甲斐源氏嫡流「武田信光」率いる五万は、大井戸渡(岐阜県可児市)に布陣した朝廷勢「大内惟信」の軍勢を撃破。
余談ですが、そちらの「武田信光」は馬上での弓に優れ、”弓馬四天王”と称された武勇の人です。
後に安芸守護職を与えられております。
戦国時代の「武田晴信」は彼の子孫なんですね。

さらに、泰時、時房らの率いる、約十万といわれる東海道を西上していた本軍。
「武田信光」の東山道軍と合流し、美濃は木曽川にて迎撃した朝廷勢「藤原秀康」「三浦胤義」らの率いる本軍と激突しますが、これを次々に撃退するのでした。
なお、敗走する朝廷勢の中で「山田重忠」は僅かな兵と共に抵抗したものの大勢には影響なく、たちまち総崩れになってしまうのです。

⇒つづく。
 次回は「ついに決着・鎌倉時代の幕開け」(6/6)

[関連記事]  【 源氏祭り 】
⇒ 武家の名門「清和源氏」とは?
⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 天下一の武勇 八幡太郎「源義家」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 義仲寺 (滋賀)
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編



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源平合戦事典

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※この付近を勉強するため、こんなん買ってみました。
 合戦、人物、事項、付録(年表・家系図など)という感じの、まさに事典という風情です。

尼将軍「北条政子」熱弁を振るう (承久の乱)4

2008年08月07日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
さて、いきなりですが…日本の歴史では、何度か”天下分け目”という、覇権を争う大決戦がありました。
過去より国内を支配し続けてきた朝廷。
そして、新たな武士の時代を切り開いた幕府。
それら勢力が直接対決するという、大事件があったのです。
…と、そんなこんなで、”直接対決!鎌倉幕府vs朝廷”という歴史の大事件「承久の乱」をお送りしております。

承久三年(1221)
「流鏑馬汰へ(やぶさめそろ・へ)」と称して兵力を集めた「後鳥羽上皇」以下朝廷勢はついに挙兵。
京都守護「伊賀光季(いが・みつすえ)」を討ち、幕府に立ち向かったのでした。

ついに行動を起こした朝廷勢。
京都守護「大江親広」、有力御家人・三浦一族の「三浦胤義」なども参加し、幕府方は大いに混乱していたのでした。
まさに”鎌倉幕府最大の危機”と言っても過言でないこの事態。
動揺していた御家人らをまとめたのは…亡き頼朝の妻・ひでるのアイドル「北条政子」さまだったのです…。



京都からの急使を迎えた鎌倉では、主だった御家人衆を集めておりました。
ここに立ち上がったのは、当時六十五歳になっていた「北条政子」でした。


「皆心を一にして承るべし、これ最後の言葉なり。
 故右大将軍朝敵を征伐し関東を草創してより以降、官位・俸禄など、その恩義は山よりも高く、深い。
 報謝の志浅からし
 しかるに今、逆臣の讒言によって非義の綸旨が下される。
 名を惜しむ者は早く秀康・胤義を討ち取り、三代将軍の遺跡を全うすべし。
 ただし、院中に参じるとせん者は、只今申しきるべし!」

 

…うーん、このままだと分かりづらいですよね。
ちょっと修正してみると…


「皆心を一つにして聞きなさい、これが最後の言葉です。
 亡き将軍頼朝は朝敵を討伐し、幕府を創設して以来、もたらした官位・俸禄などの恩は山よりも高く、海よりも深いものでしょう。
 しかしこの度、逆臣らの讒言によって道理でない綸旨が出されました。
 首謀者「藤原秀康」、「三浦胤義」を討ち取って、三代続いた将軍の墓を守りなさい。
 もし、「後鳥羽上皇」方に味方しようとする者がいるなら、私を斬ってからお行きなさい!」


一部は本からの引用ですが、ところどころはひでるさんが考えました。
まぁだいたいこんな感じでしょう。たぶん。(※あまり鵜呑みにしないように)

この、尼将軍「北条政子」が声涙と共に振るった熱弁は、集まった御家人衆に亡き「源頼朝」の御恩を思い出させたのです。
さすがに、頼朝と共に修羅場を潜ってきただけあって、武士の勘どころをしっかり押さえております。
ほぼ”絶対というべき存在だった朝廷”に刃を向けさせる決意をさせたのは、まさしく「北条政子」の功績だと思います。

こうして、彼女の言葉に感銘した御家人らは、その場で上皇と戦う決意を固めると共に、改めて幕府への忠誠を誓ったのでした。

ちなみに、上皇の皇子をもらいうけることに失敗していた幕府は、遠縁である摂関家「九条道家」の子「三寅(みとら:後の源頼経)」を四代将軍に据えておりました。
その彼がまだ幼少の身(二歳)であったため、元服するまでは「北条政子」が後見していたのです。
よくあちこちに書かれている「尼将軍」という呼称は、なんと当時からのものでした。
実質、この当時に将軍の役割を果たしていたのは彼女だったのです。

⇒つづく。
 次回は「後の三代執権「北条泰時」活躍する」(5/6)

[関連記事] 【中期・合戦祭り】
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北条政子 (文春文庫)
永井 路子
文藝春秋

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※関連書籍も多い「北条政子」さまです。
 ひでるさんも持ってます。

オススメ!信長の野望DS2 (ゲーム・光栄)

2008年08月03日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
ブログは鎌倉時代の命運をかけた駆け引きが続いていますが、こちらは戦国時代。
本日は、こないだ発売されました戦国シミュレーション、「信長の野望DS2」をちょっとご紹介なのです。


コーエー定番シリ-ズ 信長の野望・全国版

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※記念すべき、シリーズ2作目。


何度か書いておりますが、ひでるさんが歴史好き、その延長でお寺・仏像好きになった切っ掛けは、光栄の「信長の野望」シリーズでした。
具体的には、その3作目「信長の野望 戦国群雄伝」ですね。
(※そちら、現在は携帯アプリになっておりました。…すげぇー世の中です)

こちらをプレイしたことで武将の名前、土地の名前(※日本地図で頭に浮かぶ地名はこっちの方が早い)を覚え、添付の史実解説書を読み、別の本を買い…とやっていたら、↑↓こんな感じになったんです。

信長の野望・蒼天録 武将ファイル (CHARACTER FILE SERIES)
シブサワ コウ
光栄

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※たとえば、こんなん読んでみては如何でしょうか?


ただ、シリーズが進むにつれて何やらゲームがややこしくなっていったこと、ひでるさん自身がだんだん時間なくなってきたこと、などの原因で、すっかりシリーズからは遠ざかっていたのでした。
…で、そんなこんなで発売された任天堂DS用ソフト「信長の野望DS2」

こちらは昔懐かしい4作目「信長の野望 武将風雲録」のリニューアル版なのです。
以下、プレイしている方しか分かんないかもしれませんが、大きな特徴・違いについてまとめてみました。


コーエー定番シリ-ズ 信長の野望 武将風雲録

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※こちらがリニューアル前のゲーム。
 これでも当時はすごく斬新だったんですよぅ。


い) 国が増えた。
 単純に、武将風雲録(48国)からDS2は(52国)と増加してます。
 群雄伝から追加された東北地方ですが、伊達氏、最上氏だけだったんですね。
 そちらが、陸奥・陸中の南部氏、羽後の安東氏、磐城の相馬氏などが登場するようになりました。
 付近にお住まいな方には、特に嬉しい変更でしょう。

ろ) 武将が増えた。
 当然ですが、国が増えているので武将も増えてます。
 顔グラフィックもいわゆるモンタージュ顔がなくなり(たぶん)、皆格好よくなっています。
 能力値項目にほとんど変更がなかったのは、逆にやり易いですね。複雑だと面倒だし。
(※武将タイプ、兵科適正などが追加されてます)
 また、DSの特徴である2画面を活かした画面構成で、武将情報画面には史実のコメントが表示されたりしているのも、嬉しい点でした。
 あれ読んでるうち、自然と詳しくなりますよ。
 なお、新武将登録によって、100名までオリジナル武将の追加もできます。

は) 国に特徴がついた。
 技術を高めることで得れる8種類の「技法」は国ごとに異なります。
 また、文化値の上昇で得られる効果も国ごとに違います。
 これによって、どの国を攻めるかという選択要素が広がりました。

に) 戦術が追加された。
 戦場で特殊な効果を得れる「戦術」が追加されてます。
 織田の「三段構え」、武田の「風林火山」、上杉の「車懸」、島津の「釣野伏」、大友の「国崩」、長宗我部の「一領具足」、秀吉(羽柴)の「大返し」…など、戦国ファンならば名称を聞いて小躍りしたくなるもの
 他に、足利の「威光」→敵の兵数下がる、徳川の「三河魂」→足軽の攻撃力上昇・敵の戦術効果消える、なーんていう、一瞬どんなんだか分からない(笑)ものを持っていたりもします。
 また、国ごとの「技法」を組み合わせることで、新たな戦術が獲得できたりもします。
 これらが、各大名の特徴付けに一役買っていると共に、戦場での駆け引きとして緊張感が広がっておりました。
 「混乱」で動けなくなった際など、兵数有利な状況でも焦りますよぅー。

ほ) 兵種が増えた。
 鉄甲船は今回もありますが、それ以外に弓隊、大筒隊などが追加されました。
 大友の固有戦術「国崩」がどんなんか分かるでしょ?

へ) その他
・戦場グラフィックスなど、あちこち今風の自然な感になっています。
 昔は線で区切られてたりしたんですけどねぇ…。(武将風雲録は区切られてなかったですが)
 籠城戦の城も格好良いです。
 …やや見にくいかな、って気もしますけれど。
 なお、合戦シーンでは上画面に情報、下画面に戦場となっています。2画面はいいですね。

・大名も普通に召抱えられます。
 昔は「斬る」か「逃がす」でしたが、そのまま家臣になったりするのです。
 つい先ほど、常陸「佐竹義昭」を確保したんですが…ちゃんと、息子「佐竹義重」ほか一族・家臣らが「父上が臣従したのなら…」みたいに召抱えることができました。
 ちょっと感動です。 

・経験値があります。
 今回は教育コマンドがなくなってます。(※政治・戦闘が150以上で軍師になるのは同じ)
 しかし、武将が行動することによって経験値が増え、能力アップがありました。

・収支が表示されている。
 情報画面で確認できるんですが、これが何気に便利です。
 武将風雲録の上杉氏は、気付いたら忠誠度が下がったりしてましたねー。
 (※シナリオ1の越後は金収支が少ない割に兵数・武将が多いため、うっかりそのままにすると俸禄を支払えないのです)

…まだプレイしたてなので全貌は見えておりませんが、現状ではだいたいそんな感じかな。
大まかには武将風雲録とまったく同じ感覚でプレイできるため、ひでるさんと同年代な旧作品のファンは取っつき易いことでしょう。

他にも色々要素がありそうですが、とりあえずはこんな感じ。
また、何か発見したら書きたいと思います。

久々に熱中できました。
オススメですよ!



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※ひでるさんは北条ファンクラブなんですが…浮気して、上杉氏でプレイ中(笑)
 だって、戦闘強いのが良かったんだもん。



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