お寺さんぽ Ver.03

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知恩院 (京都)

2006年03月31日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は総本山シリーズ(そんなのない)京都は東山区の知恩院です。

知恩院は浄土宗の総本山です。
出ました「総本山」
なんだかそう聞いただけで胸躍るような感じがしませんか?
……あ、私だけですか。そりゃどうも。

ちなみに本当は「華頂山知恩教院大谷寺」と言うそうです。
(※かちょうざん・ちおんきょういん・おおたにでら)
ここは元々は鎌倉時代に法然上人が住み、説法していた場所でした。

法然さんは比叡山(天台宗)で修行・出家しておりましたが、中年期にぴかーん
と開眼。
突然山を下り、浄土宗を開きました。

その教えを簡単に書けば、阿弥陀様の名を何するでも頭の片隅に置き、継続
すること。阿弥陀様の名を唱え続ければ極楽往生できますよー、という考えです。
(だいたいそんなん)

なんか思いつく人はいますね?
そうですよ「南無阿弥陀仏」ですよ。
単にそれ唱えなさいよーという実にファジーな教えに共感者が続出し、急速に拡
大。「やばい」と考えた旧勢力が弾圧に乗り出します。

結果、法然上人は流罪となりますが、その後も信者は減ることなく武士や庶民に
広く信仰されることとなるのです。
ちなみに、戦国ファン好きな「一向宗」こと「浄土真宗」は法然の弟子である親鸞
(しんらん)の教えで若干異なります。こっちは妻帯OKでさらにお気楽。

でね、居住・説法していたここがなんとなく浄土宗のメッカとなっていましたが、
延暦寺の嫌がらせとか火災とか応仁の乱(でた!)で度々破壊され続け、本堂な
どが建設されるのは江戸時代になってからのことでした。

なぜかって、徳川家康が浄土宗徒だったんですね。
その関係からか、現在の知恩院も「徳川権現堂」とか「千姫の墓」など徳川関係が
多く、また山門から建物から庭園から、まーどれも広くて立派。
国宝・重文、美術品、もちろん仏像などもわんさかありました。

そして、注目はパンフレット!
よくあるお寺の、よーわからん文がだらだら書いてあるのではなく、初心者でも簡潔
に読めるようカテゴリ分けされており、イラストや写真もいっぱい活用。
ついでに「知恩院・七不思議」なんてどこか学生気分なおまけもついた、素晴らしい
ものです。
専門用語を使いまくったどこぞの寺院に見せたいくらい、いいものですよ。
ぜひ!手に入れに行きましょー!



[住所] 知恩院 京都市東山区林下町

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無料・公衆電話 (天龍寺)

2006年03月30日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はお寺ハイテクシリーズ(そんなのない)世界遺産は天龍寺の無料
公衆電話です。

前の自動水洗所とかの際にお寺の近代化について当ブログで活発な意見
交換がなされてきましたが、そういえばこんなのもあったんです。
(↑んな大そうな議論はしてない)


えっと、これはいつものようにお寺をさんぽしていたその時、ひでるさんの目
に飛び込んできた素敵な単語「無料

それに引き寄せられるように見たらこれがあったの。(写真参照)

うっはー、無料だって。
これが何年か前であれば実家の両親に「健康で頑張ってるよ」とか伝えたい
シチュエーションなんですが…、ねぇ。

だって、携帯あるし。
特に用もないし。

そんなこんなで、とりあえず写真におさめておきました。
まぁ、珍しいのは事実でしょ?

またね、コレがトイレのすぐ脇という位置で微妙に近寄りがたかったので(本当)

でー、この文書くにあたってネット検索してみたらでてきました、あっさりと。
これ「Mosivo(モシーボ)」とかいうらしい。

要するに、モニタに再生されるCMを見るかわりに電話は九分間、携帯には
一分間だけ電話ができるシステム。商業地や病院などはあったそうですが、
寺院への設置はここ天龍寺がはじめて。
おまけに京都では設置第一号だそうです。
さっすが世界文化遺産ですね!

でね、流れるCMは設置地域に合致したものとなるらしく、天龍寺ではお寺
の解説と付近の観光情報が流れるそうです。
  ↑
うわ、見ればよかった。
皆様はぜひ見逃さずに、お電話下さいませ。



…て、いいのかな。勝手に掲載しましたが。
宣伝にもなるだろうし、いいよね、ね?
もし問題ある場合は即撤去しますんで御連絡下さい。
いいですよね、「Mosivo」って。(フォロー)
→ ■ ㈱アイデアマンユニオン


[住所] 天龍寺 京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町68


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楊貴妃観音 (京都・泉涌寺)

2006年03月29日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都の東山区は泉涌寺。
泉涌寺のなかで大注目の「楊貴妃観音」です。

なんで楊貴妃が日本の、しかも京都にいるのか!?
それもそうですが、その前に楊貴妃って何者なんでしょう。
そう、世界三大美女の一人ですよ。
でもそれ以外に知らないでしょ?

楊貴妃は唐の皇妃です。当時の日本はまだ奈良時代の頃。
この人があんまり美人なんで寵愛した皇帝玄宗(げんそう)の失政をまねき、
大規模な反乱が起きてしまいます。
結果、反乱の原因とされた楊貴妃は玄宗の命で討たれてしまいます。

すごいですね、伊達に「傾国の美女」と言われているだけのことはあります。
最近で言えば吉永小百合さんみたいな感じでしょうか?(←最近じゃないじゃん)
ラジオの赤胴鈴之助で声優として出演し、声で人気を博した後にテレビドラマで
本人が登場すると、声そのままの可愛さで一大旋風を巻き起こしたという…。
あ、吉永小百合さんを語るブログではなかったですね。
楊貴妃でした。
国が傾くほどの美貌ですよ。
死ぬ前に一度会ってみたいものです。…と、その方に会えるチャンスがここに
あるんですよ、皆さん。
京都は泉涌寺を目指しましょう。

えっと、先の歴史の続きで玄宗は亡き妃をしのぶため、等身坐像にかたどった
聖観音像をつくりました。
これが楊貴妃観音。
そう↑文字として書くとなんだかしんみりする感じですが、実際目の当たりにす
るとやや気色悪い感じもしますね(笑)

さて、そうした経緯で作られた聖観音像。
京都市の看板どおりに書きますと、「たまたま建長七年(1255)中国に渡った
湛海(たんかい)はこの像を持帰り、ここに安置したという」
…だって。なんですか「たまたま」って。
まさかよからぬ手段を用いたのではないでしょうねぇ…。
まぁ、そんなこんなで日本にいながら楊貴妃と会うことができるんですね。

この楊貴妃観音は秘仏でしたが、昭和三十一年から一般公開されたため誰で
も日付に関係なく拝観できます。
やはりモデルそのまま女性に近い雰囲気をもつ像で、豪華な宝冠など非常に美
しい仏像です。広隆寺(京都・太秦)の弥勒菩薩と相対すると書いてありましたが、
その通りだと思います。
さぁ!みんなで会いにいこう!


※ちなみに、写真が安置されている「楊貴妃堂」です。
 像については…やっぱりその目でお確かめ下さい!


[住所] 泉涌寺 京都市東山区泉涌寺山内町27


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※月曜に書いていたイベントをニュース↓で見かけましたんで掲載します。

「最澄と天台の国宝」展が開幕

 天台宗開宗1200年を記念し、国宝31件、重要文化財100件を含む
名宝166件を集めた特別展「最澄と天台の国宝」(読売新聞東京本社
など主催)が28日、東京・上野公園の東京国立博物館で開幕した。

 桜が咲き始めた上野では先週末、東京都美術館で「プラド美術館展」
も始まり、美術展も花盛りとなった。

 「天台」展には午前9時30分の開館から1時間で500人近くが詰め
かけ、寺外初公開となる上野・寛永寺の薬師如来三尊像や、全15幅
そろっての公開は半世紀ぶりという滋賀・聖衆来迎寺の六道絵などに
見入っていた。
 5月7日まで。一部、展示替えを行う。
(2006年3月28日15時45分 読売新聞)


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戦国時代の女性 (歴史さんぽ)

2006年03月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国期(その付近)で活躍した武家の女性についてなんとなく。

ひでるさんは戦国期が好きで小説などを読んだりもするんですが、ドラマ
については一時期からほとんど見なくなってしまいました。
妙な脚色があるのも気になりますし、好きな人は皆様同じでしょうが、キャ
スティングで違うと感じてしまえば見続けることができなくなるからです。
詳しくない時はそうでもなかったんですが…厄介なもんですね。

それは登場する女性の扱いについても同じで、戦国の女性は、ドラマに
あるような”見知らぬ他家へ無理やり嫁がされる不幸の象徴”ではありま
せん。
…あ、最近はその傾向↑なくなってるのかな?
見てないから詳しくは知りませんが…まあいいか。無視して話を続けます。

まず、嫁ぐパターンはいくつかあります。
い) 血縁関係をつくり、一門衆とするとき。
ろ) 同盟関係を結ぶとき(あるいは不可侵条約)
は) 屈服したとき。

ちなみに本人の意志が関係ないのは男女同じことです。わざわざ他家の娘
(家臣の娘とか)を自らの養女とし、嫁がせるケースもかなりあったようです。

い) 血縁関係をつくり、一門衆とするとき。
まず、一門衆のケースは分かりやすいですね。子供が生まれればその家に
取り込まれるような形となりますし。北条家で八幡大菩薩の化身と言われた
「北条綱成」、最終的には裏切りますが武田家の「穴山信君」などがそうです。

ろ) 同盟関係を結ぶとき(あるいは不可侵条約)
同盟関係はおそらく最もポピュラーなケースでしょう。有名な「濃姫」や「お市
の方」がその典型です。

は) 屈服したとき。
また、屈服した際にも姫の出番がありえます。これは臣従の証を示す完全な
人質です。これは嫁ぐ、というよりは略奪ですね。
しかし、万が一子供を生めばまた違った展開が望めるかもしれません。


さて、女性ですから子供を生むことが最大の仕事というのはその通りですが、
他に外交官のような「情報を伝えつつ、両家の仲をとりもつこと」も重要な役目
としてありました。
だから無能な人は他家に嫁ぐことできません。…だって、変なことして逆に揉め
てしまっては意味がありませんから。
他家へ嫁ぐというのは、どちらかというと名誉なことだったんですね。

仲をとりもつ、の例では有名な伊達政宗の母「義姫」の例があります。
彼女は最上(生家)・伊達(嫁ぎ先)の仲が険悪なり、両軍激突必死という時に
自ら争いの仲裁に行ったりしてます。(両軍のど真ん中に居座ったとかなんとか)

情報伝達で言えば、信長の正妻「濃姫」は父斎藤道三へ逐一情報を送っていた
ようですし、信長の娘で徳川家へ嫁いだ「徳姫」は姑と夫の行状を父信長へ訴え
ています。

特異な例ですと、黒田孝高あたりは嫁がせた娘に暗殺させるという離れ業をやっ
たりしてます。
(…そう聞いたけどこれは調べきれませんでした。史実かどうか微妙)

そんなんだから「よよよ…」とか泣いてる場合ではないんです。貴族の娘だとそん
なかもしれませんが、武家の女性というのは肝の据わった、色々な意味で勇まし
い方が多かったようです。(ゲームにも登場する九州立花家の千代姫は名前だ
けですが実際城主として登録されていましたし、関ヶ原後には武装して国内を守っ
ていました)

この辺の感覚は現代では理解しがたいことと思います。
だから、ドラマとかでそういうシーンがあったなら、無言で冷ややかな視線(笑)を
送ってあげて下さい。
まぁ、確かにさみしげな、不幸な例もありますが。秀吉の妹「朝日姫」とか。

そう、理解しがたいついでで言いますと、武家女性の仕事には「取ってきた首に
化粧をほどこす」という、想像するとえらーくおっかないのもあります。

戦で取ってきた首は手柄の順序を決める首実検にかけられ、そこでそれぞれの
褒美が決まります。
その際、少しでも偉い人を討ち取ったんだよー、とアピールするために生首を洗い、
奇麗に化粧をするのでした。
(もしかしたら亡くなった人に敬意を払うという意味もありそうですね)

……これ女性の仕事ですよ。
おそらく手は血だらけになりますよ。
生首なんておそらく結構重たいものですよ。
そこのあなた、できますか??

ひでるさんは当然できません。
こんなんやったら夜眠れなくなりますよ、ええ。


※ちなみに写真は平安時代の姫ですね。
 いい写真なかったのでコレにしました。

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●九州立花家の千代姫の登場するゲーム。
 ちなみに「」は”和らぎ慎む”という意味で、お父さん的にはやさしく女性らしく
育つように願をかけた様子。うふふ、まっったく逆ですね(笑)
 そんなもんです。「誠」とつければ嘘つきになったり…。

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天台宗 特別展 (東京上野・イベント)

2006年03月27日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はちょっと特別編です。

いやね、この前寅さんでも有名な葛飾柴又まで「題経寺」を見にぶらり
と途中下車…でなくてお寺さんぽに行ったんですよ。
そして、駅でふと目に入ってきた仏像につられてポスター見たら、こん
なのがありました。
(※写真参照)

どうですか?
ついにきました、上野公園「最澄と天台の国宝」展!

見てください、「百年に一度の大展覧会」ですよ、まつりですよ!
世界文化遺産「比叡山延暦寺」は開宗千二百年だそうです。
すごいですね!
ひでるさんも延暦寺は一度行きましたが、まー広いの高いのって。
階段もけっこうな段数のものがあちこちあり、お年寄りにはしんどいパビ
リオンだと思いました。

で、聞くところによると、その延暦寺が隠し持っている国宝・重文がわん
さか出てくる、空前の大博覧会だそうです。
中でも大注目は数十年に一度しか公開されない秘仏中の秘仏、
重文「薬師如来坐像」です。
寺外初公開なんですよ!
わーわーパチパチパチ。
すごいすごいー!

まだ始まってすらいないので詳しくは書けません(当然)が、なにがあっ
てもひでるさんは必ず行きますよー。
その時は当ブログで簡潔に皆さんは行くべきか、そうでないか、潜入レポ
を書きますね(笑)
お楽しみに!

場所: 東京国立博物館 平成館 [HP
期間: 3/28 ~ 5/7
料金: 一般1300円


※関連記事 ⇒ ひでるさん行ってきました。  


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十輪寺 (京都)

2006年03月26日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は西京区の十輪寺です。

起源は古く、パンフにも誰が建立したとかなかったので詳細は不明ですが、
嘉祥三年(850)に文徳天皇の御后「染殿」の世継ぎ誕生を祈願、めでたく
御子が誕生し、後に清和天皇となったことから文徳天皇の信任を得て、そ
の勅願所(注)となりました。
要はその頃にはもうあったようです。

その後、藤原北家(花山院家[かさのいんけ])が帰依し菩提寺としました。
伊勢物語の主人公とされる平安時代の歌人在原業平(ありわらのなりひら)
がその晩年に余生を過ごしたのもここ十輪寺で、ついた通称は「なりひら寺」
です。

この在原業平くんは六歌仙の一人でして、公の歴史書「三代実録」によると
「体貌閑麗・放縦不拘」とのこと。
なんのこっちゃわかりませんね。
えっと、身のこなしが物静かで、イケメンで、好き勝手にやっていた性格、とい
う感じになりますか。
現代で言えば、よく芸能ネタにされるかっちょえーミュージシャンみたいなもん
ですね。
ちなみに美女としてよく知られる人で同じ六歌仙の小野小町は有名ですが、
美男代表はこの人だそうです。
一般にはあまり知られてませんね。男なんて所詮そんなもんです。

ここの本尊は地蔵菩薩ですが、その木像に巻かれた腹帯を先の染殿が使用
したところから、腹帯地蔵尊とも言われ、現在も安産を願う人々の信仰を集め
ているようです。
へー、とパンフをよんで思いましたが、なぜかひでるさん記憶まっったくありま
せん。で、文を読み進めると、「秘仏で八月二十三日のみ開帳」だって。
出ました秘仏・年一日のみ公開。
ちなみにここへ行ったのは十月でした。だめじゃん。

さて、写真は境内裏庭にある業平の墓ですが、イケメンうたうたいだったため
か恋愛・結婚成就の神さまだそうですよ。
ひでるさんも行ったんですが……効果なさそうですね。
あ、うそです。
じょーだんですよ、やだなぁ。
人も少なく静かなお寺ですんで、ゆっくり拝観したい方はオススメですよ。


(注)勅願所(ちょくがんじょ)国家鎮護・玉体安穏などを祈願した社寺。[goo辞書]


[住所] 十輪寺 京都市西京区大原野小塩町481

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室町時代 (歴史さんぽ)

2006年03月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
今日は各時代で最も不人気な(と思うけど、どう?)室町時代についてです。

実際、私もあまりやりたくはないんですが、京都のお寺を語る上で欠かせな
い応仁の乱や戦国時代の説明をするのにどうしても避けては通れない時代
なので……やります。
学生の方には(見てないか)とっつきやすいよう、大人の方には軽く説明がで
きるよう、なるたけ簡潔に書いてみたいと思います。

天皇・貴族が支配していたのが平安時代。
武士が台頭してきて、はじめて武家政治がおこなわれたのが鎌倉時代。
で、ここからが本題。

源頼朝の妻、北条政子の流れで北条家が政治を取り仕切っておりましたが、
元寇などの事件もあって北条家に対する武士の不満が蓄積。
さらに、二系統に分裂していた天皇家も皇位を交互につくよう強制されていた
ことに強い不満を持っていました。

結果、後醍醐天皇を中心とした反幕府勢力が立ち上がり、鎌倉幕府を滅ぼし
ます。
後醍醐天皇は名前そのまま、故醍醐天皇時代(注)の「天皇中心の政治」を
目指していましたから、当然倒幕に活躍した武士には不満が広がり、足利尊氏
を中心として離反。
尊氏は分裂していたもう一方の天皇家を担ぎ、幕府を開きます。これが北朝。
(ちなみに、足利尊氏は当時の武士に人気があったらしく、武士は彼のもとへ
結集しました。後醍醐天皇側には新田義貞という人がおりますが、この人なぜ
かいまいち人気ないのです)

足利尊氏の勢力に敗れた後醍醐天皇は京都を脱出し、吉野(奈良県南部)で
こちらが本物とばかりに吉野朝廷を開きます。これが南朝。
ああ、つかれた。
その後、北陸で三つ目の朝廷が開かれるだの、優位だった北朝で内乱が起き
るだのと、当時は離反・寝返りが当然と考えられていた時代なので、あっちつい
たり、こっちついたりと国内がわちゃくちゃな時代は六十年近くも続くのです。
(これが南北朝時代)

そして、皆が歴史で学習したように、最終的には足利氏の北朝が日本を統一。
武家中心の室町幕府を開きますが、それまでの流れ↑を受けてか、軍事・財政の
基盤は非常に脆いものでした。

①鎌倉幕府で各地に設置されていた「守護」は単に軍事・警察機能のみでしたが、
色々あって領地支配と経済なども任された「守護大名」となっていました。
これにより、各地の守護大名が力を有することとなり、土地と人民増強のため各
地で争いが頻発するようになってしまいます。

②将軍にしても、それになるためには「管領家」など、補佐する有力者のバックアッ
プが必要不可欠でした。
五代足利義量の死去後にはくじびきで後継を決める(本当)など、将軍の影響力は
みるみるうちに脆弱なものとなっていきました。
そのため、リーダーシップを発揮できない将軍は単なるお飾りに。
政治に関心を持ちすぎる将軍は危険な存在として厄介者になってしまうのです。

③将軍は守護大名に対して家督の干渉権を持ち、力をつけた有力守護大名にわざ
と分裂させるよう家督干渉をし、内乱を起こさせて(時には暗殺したりしてる)その勢
力を抑えていました。
これは一見いいように見えますが、自ら土台を崩すのと同じで、不安定な情勢をさら
に助長させることとなるのです。

まぁ、だいたいこんなもんですかね。
そんなんなので、幕府と名がついていても鎌倉・江戸の幕府と違ってほぼ戦国期の
ような不安定さが常につきまとっていたんですね。
将軍の権威はなくなり、能力のある者が台頭する「下克上」の思想はこうして全国に
浸透していくこととなるのです。



(注)年代は890年くらい。当時は1334年だったので、いかに理想とした政治
   が古臭い、時代に合致しないものであったかが分かるでしょう。


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智積院 (京都)

2006年03月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は東山区の智積院です。

えー…のっけからなんですが、このお寺の縁起がややこしくて、頭が弱めな
ひでるさんがどこまで理解できたか疑問なんです。
おそらく苦悩ぶりが文にも出ると思いますので、そんなところを楽しみながら
お読み下さい。(なんじゃそりゃ)

ここ、智積院は空海上人が開いた「真言宗」のお寺で総本山です。
で、総本山と言っても「智山派」の総本山なんですね。やはり人の考えは色々
あるもの。
キリスト教にカトリック、プロテスタント、ギリシャ正教…など様々あるのと
同じようなもんです。
例えがわかりづらいですか?
そうね…お笑いに金ちゃんファミリーとかたけし軍団とかあるみたいなもん
です。おお、ちょっと想像つきやすいですね。

もともとは平安時代末期、覚鑁(かくばん)上人という方が当時やや衰え気味
だった真言宗を今風に刷新し、それが鳥羽上皇に好評で広く普及していくこと
となりました。
真言宗の総本山である高野山に大伝法院を建立しますが、教義上の対立で
紀州(いまの和歌山県)の根来山(ねごろさん)へ移動。
えっと追い出されたんですかね?あるいは怒って家出したのか。まぁ、いいか。

さて、根来山ですよ。
戦国好きな方ならその名でピーンとくるでしょう。
根来山に移った後も変わらず拡大を続け、戦国期には所領七十万石、僧侶も
六千人という強大な状態となります。
戦国期の紀州は強力な統一者不在で、小勢が多数存在する群雄割拠な土地
でした。そんなとこなんで、このお寺一派は周辺でバカにならない勢力となって
いたのです。

たぶん傲慢にもなっていたでしょう、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の降伏勧告を
無視した結果、天正十三年の根来攻めで炎上。
当時の玄宥(げんゆう)僧正は開戦前に弟子たちと共に京都へ避難しておりま
した。玄宥は智積院の再興を志しておりましたが、念願かなわぬまま死去。

で、そこまでで話を横に置いといて、もう一つ別な話。
秀吉が三歳で夭折した「鶴松」のために建てた「祥雲寺」というお寺がありました。
時が流れて「大坂城合戦」で落城後に勝利した徳川家康はその祥雲寺などに
寄進します。
さすがに後味悪かったんですかね?

当時の日誉(にちよ)僧正はそれをお寺の復興にあて、五百仏頂山根来寺智積院
(いほぶつちょうざんねごろじちしゃくいん)と改名、ようやく智積院が再興することと
なるのです。
(※ちなみに、日誉僧正は根来山の学僧です。細かく書くと、実際は大坂合戦より
前に復興していました。祥雲寺を取り込んだような形でより拡大)

うわ、しんどい。
まぁ、こちらは結構広いお寺で、国宝・重文が無数あるので、観光にはオススメ
なお寺です。長谷川等伯の国宝「大書院障壁画」も有名ですね。
場所も三十三間堂そばなんで行きやすいと思います。
お庭(写真参照)も立派でしたよー。


[住所] 智積院 京都市東山区東大路七条下る東瓦町964

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五大明王(お父さんのための仏像講座)

2006年03月23日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は特別編にしてみました。以前「如来編」をやって一部で大好評頂きました……

「お父さんのための仏像講座ぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)

をお送り致します。
第二回は明王…を全てやるのも大変なので、ひとくくりにされることの多い
五大明王について。

「明王」ってのは「広く人を教育して救済せよ」というような如来の命令を受け、
とくに救い難い者に対して”異形の恐ろしい姿で相手を威嚇・屈服させ、力ずくで
仏の教えへ導く”方だそうです。
…どうよ、この↑文。
えらい脅迫ですね。
普通にやったら警察に捕まったりすると思いますけど。まぁいいか。

ちなみに「明」というのはもともとは知識・学問を意味し、転じて知識・呪力を得る
ために唱える音(真言)
それを身に付けている人を「持明者(じみょうしゃ)」というんですが、その王が
明王。そこから「明」を唱える仏そのものを「明王」と呼ぶようになったそうです。

先に書いたように、敵を屈服させるとはいえ最終目的は迷える人を救うことなの
で、恐い顔の中に慈愛の表現をいかにするか、が仏師の課題だったようですね。
仏師の考えは当然それぞれ異なりますんで、やはり基本形とは別の個性豊か
な像を生み出しています。

さて、見た目ですが、添付の写真をどうぞ。
大きい写真の方(①)が五大明王でも何故か別格扱いを受けている「不動明王」
さまです。
各地になんちゃら不動、とかあるでしょ?
その名がついているところにはこの方が主役でおられます。
えっと見た目に話を戻しますが、とりあえず火焔光背といいます背中が焼けてる
方が明王です。
明王には以前紹介しました孔雀明王なんてステキな方もおられますが、今回は
先に述べたようにセットになってる五大明王のみで。
以下にその五名と方位を。

1) 大威徳明王(だいいとくみょうおう)西方 …写真④
2) 軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)南方 …写真②
3) 不動明王(ふどうみょうおう)中央 …写真①
4) 降三世明王(ごうざんぜみょうおう)東方 …写真③
5) 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)北方 …写真⑤

さあて、肝心の見分け方。
上に書いた表で左端の英数字は、五名が横並びになっている時の順序にして
あります。だいたいそう。
ちがう場合は、きっとお寺が間違っていると思います。(たぶん)
まぁ、上から順に説明しますよー。

1) 大威徳明王(だいいとくみょうおう)西方 …写真④
この方だけ乗り物に乗ってますから簡単です。写真小さいですが、牛(水牛)
に騎乗しておられます。足が六本なのもこの方の特徴ですね。
(※ちなみに写真は牛のアップです)

2) 軍茶利明王(ぐんだりみょうおう)南方 …写真②
元になったサンスクリット語「クンダリー」はとぐろを巻くもの、という意味があり、
この方も手足に蛇を巻きつけております。それが見分け方。
両手を胸の前で交差する、駄目ぇーとやっている方です。
「ひょうきん族・懺悔コーナー」を思い出す人も多いことでしょう。(←そうか?)
(※ちなみに写真は手首です。白いのが巻きついた蛇ね)

3) 不動明王(ふどうみょうおう)中央 …写真①
上↑でも触れましたが、別格な不動さま。
あちこちで見かけますが、小さい石仏から巨大な丈六仏まで嫌になるほど
見かけると思います。また、写真は坐像ですが、立っている場合もあり、その
場合は童子という親衛隊みたいなのを連れてたりします。
→ 関連:狸谷山不動院(1)(2)
特徴は写真に★をつけましたので、そちらを参照下さい。

4) 降三世明王(ごうざんぜみょうおう)東方 …写真③
ちょっと写真見にくいですが、グーにしたような手を胸の前で交差し、小指を
絡ませた印を結んでおられます。(そのまま降三世印といいます)
かっちょえーですよ。ひでるさん好きな仏像です。
ちなみに、見れるなら是非足元もご覧下さい。
この方シヴァとその妻ウマーをふんずけてますので。(理由は別の機会に…)
(※ちなみに写真は降三世印のアップです。わかる?)

5) 金剛夜叉明王(こんごうやしゃみょうおう)北方 …写真⑤
こちらは写真で分かりますね。両手に五鈷杵と金剛鈴を持っておられる方です。
ちなみに、五鈷杵(ごこしょ)は短い五つに分かれた武具、金剛鈴(こんごうれい)
とはベルみたいなものです。
(※ちなみに写真はお腹のあたりです。右の金色が金剛鈴、左が五鈷杵)

おしまい。あー長かった。
まぁ、先に書きましたが、色々違ったりするのでだいたいこんなんだよー、という
程度に願います。あまり深く考えないように。
「以上、お父さんのための仏像講座でしたぁ」 (※鼻にかかった声で読んでね)


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河村城址 (神奈川)

2006年03月22日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はお寺ではなくお城にしてみました。
知る人ぞ知る、神奈川は山北の「河村城址」です。

この河村城は平安末期頃から存在を確認されています。
脚光を浴びるのは南北朝時代。
時の城主は名前そのまま「河村氏」でした。

足利幕府成立後、執事高師直と弟の足利直義が対立、さらには尊氏が南朝へ
降伏するなど、日本がわちゃくちゃだった頃。
河村秀国(ひでくに)、秀経(ひでつね)は新田義興(注)の挙兵に応じ、この
要害河村城に立て籠ります。
その数は四千。
攻め寄せる北朝軍、畠山国清(当時の関東管領です)はなんと攻略に二年という
歳月を費やしました。
まさに難攻不落な城だったんですね。

戦国時代になると河村城は北条氏の支配となり、武田氏の駿河侵攻による三国
同盟崩壊後に備えとして大改修を受けました。
ですがここで戦闘はなく、残念ながらその威力を発揮することなく、歴史の舞台から
そっと消えてしまいます。(秀吉の小田原攻めでも戦闘はなかった様子)

えー、ややこしい話はここまで。
特に南北朝付近は敵だか味方だか寝返ったりなんだりと複雑怪奇で疲れます。
あの時代があまり人気無い(と思う)のはそんな所が原因ではないでしょうか?

とまぁ、とりあえず河村城ですよ。
自然の地形を巧みに生かした典型的な山城で、当時の管領記という書物によると、
「河村城は人数で攻め寄せても斜面や苔で滑り、人馬とも立つことすらままならない」
そんなことが記述されているそうです。

その当時より階段状になってたりとだいぶ楽にはなっている筈なんですが…。
(※ここで写真参照)
見ました?
このどえらい急斜面!
まぁ、疲れるわしんどいわで、ふと後ろを振り返ったらこんな光景だったんですよ。
思わず写真撮っちゃいました。
こんなだから帰り道もまー怖いのなんのって。
そりゃ難攻不落な訳ですよ。

県指定史跡・美しい日本の歩きたくなるみち500選。
…だそうですが、お年寄りはくれぐれも気をつけて。


(注)ちょっと有名な新田義貞。その次男。
   兄に新田義顕、弟に新田義宗がいます。


[住所] 河村城址 神奈川県足柄上郡山北町

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手水のつかいかた (上野・清水堂)

2006年03月21日 | ネタ
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は東京上野、清水堂なんですが…一発ネタなんでちょっとです。
いつもだらだら長いので、今回は短いです。
まじめなの続いたからたまに息抜きです。
あっさりお読み下さい。

サクラと不忍池で知られる文化の杜、上野公園。(そうHPに書いてあった)
上野恩賜公園(うえのおんしこうえん)が正式名称だったんですね。
へー。
んで、なんだかのついででひでるさんは公園内の清水堂を見つけ、そちらへ
向かったんですよ。
ついでなお寺さんぽですね。
……で、そのとき見つけたのがコレ。
(写真参照)

どうよ?
いやね、確かに秋葉原は近いですよ。
ひでるさんは漫画好きでもありますよ。

でもなんでこんな絵柄なの??
なんでフリフリな女の子?
客寄せ?
(よらんよ)
これはひょっとして住職の趣味ですかね?
正直、物凄い違和感ありましたが。

えー…そんな訳でそのテの属性をお持ちの方。
お寺でびっくりしたい方。
ぜひ上野公園に立ち寄ってみて下さい。
うふふふふ…。


※関連 全自動・御手洗所(東京・大円寺)

[住所] 台東区上野公園・池之端三丁目

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★今回紹介はネタに合わせて漫画にしてみました。
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ルビー・ブラッド

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石橋山古戦場・与一塚 (神奈川)

2006年03月20日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は石橋山古戦場・与一塚です。

鎌倉幕府でお馴染み、源頼朝挙兵の地石橋山古戦場。
そこには与一塚というものがあります。
「吾妻鏡」には頼朝が伊豆からの帰りにこの与一塚へ立ち寄ったという記述があるそうで、
当時から存在したことがわかります。

与一塚。
塚の主、佐奈田与一義忠は石橋山合戦にて先陣を任されます。
そこで奮戦した与一はついに敵将の俣野景久を組み伏せますが、血糊がついていた刀が
抜けず、その間に討ち取られてしまいました。
ちょっとうっかりさんですね。

この合戦は敵の軍勢が十倍を超える圧倒的な兵力差であり、敗れてしまいます。
まぁ、この合戦は仕方ないとしても全体的に頼朝は合戦が下手なんですね。

平治元年(1159)保元の乱後の賞罰を不満として源義朝(頼朝の父)は反乱を起こします。
これが「平治の乱」ですが、頼朝は奮戦する長兄の源義平(悪源太)に続いて戦いますが、
平家に敗れてしまいます。ちなみに頼朝くんは三男です。

治承四年(1180)上で書きました石橋山合戦。平家軍勢三千余騎と戦い、三百騎を率いる
頼朝は敗れ、僅かな従者と共に山へ隠れます。
(付近の有力者である和田・三浦らと合流前に戦って、敗戦)

同年の富士川合戦ではで平維盛と対峙し、”水鳥の飛び立つ音に浮き足立った”維盛軍
になんちゃって勝利。

寿永二年(1183)叔父源義広が兵を挙げた際には周辺に主な御家人が不在であったため、
頼朝は小山朝政に全権を託し、自らは鶴岡八幡宮で”東西の戦いの静謐を祈っていた”
…戦いなさいよ(笑)

その後の木曾義仲との争いは向こうが折れ、平家との合戦では弟の天才・源義経にお任せ。
反旗を翻した義経には藤原氏をつついて討たせ、その藤原氏は奥州合戦で二十八万という
圧倒的な兵力で滅亡させています。

下手という自覚があったのか、おっかなかったのか、自分はたいてい後方の安全圏におり、
ほぼ政治的に幕府を樹立した頼朝くん。
年齢より大人びており、容貌は美しい…はーなるほど。そんな方だったんですね。
だから暗いだの冷酷だの言われるんですよー。


[住所] 石橋山古戦場 神奈川県小田原市石橋


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大雄院 (京都・妙心寺派)

2006年03月19日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都は妙心寺派の大雄院(だいおういん)です。

まず、写真はすみません。
ここはうっかり撮り忘れていたようで、残っていませんでした。
パンフ持ってたので、偶然特別拝観をゲットしていたようです。
そんな訳で…まぁ広域地図を掲載してみました。
大雄院はこの北あたりに位置してる筈なんですが…小さくて文字読めませんね。
たぶん通常は拝観不可なんで、行かれる方はご注意を。

建立は慶長八年(1603)…というから、ちょうど関ヶ原合戦が終わって、徳川幕府が
開かれる時代の変革期です。
石河光忠が父光元の菩提を弔うために建立したそうです。
↑ところで、これは誰??

戦国好きなひでるさんですが、この方は知りませんでした。
ちょっと調べると、いしかわ、でなくて「いしこ」と読むんですね。

関ヶ原合戦後に尾張藩に属したのが石河光忠。お寺作った人。
そのお父さん光元は豊臣家家臣で小田原征伐・朝鮮出兵では肥前名護屋を守備した
らしいんですね。

で、わからないのが石河備前守光吉(いしこびぜんのかみみつよし)。

実家に戻れば辞典があるんで詳しく調べれるんですが…この方↑が前述のお二人と
どんな関係だか分かりませんでした。
石河光吉は犬山城主で、豊臣秀吉によって木曽代官として木曽・飛騨を支配。
この方は真田幸村の娘婿だそうですよ!へー。
関ヶ原合戦ではそんな関係からか西軍に属し、敗北後は懇意にしていた「とらや」に
三日間身を隠し、その後妙心寺へ逃れたそうです。

でました「とらや
聞いたことありますよね!
ようかんとかでお馴染み、皆さんが想像するあの老舗お菓子メーカーの「とらや」さんですよ!
パンフレットにもちゃんと特別協賛として掲載されていました。
この話を書きたくて中途半端な知識のままこのお寺を選択したんですねー。

しかしすごいですねー「とらや」さん。
ひでるさん営業で行った時も実に丁寧な対応をしていただきました。
とらや最高! (注:ひでるさんと「とらや」さんはまっったく何の関係も協賛もありません)

ちなみに、交配を重ね「石河蚕」という平らな糸を吐く蚕(カイコ)によって作る蚕繭紙
(さんけんし)を住職が発明したところから、ついた名が「蚕の寺」だそうです。


[住所] 大雄院 京都市右京区花園妙心寺町52
(※特別拝観のみなようなので、行かれる際はご注意下さい)


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真田昌幸 (長野・上田城)

2006年03月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は非公式(笑)にリクエストがありました信州上田は
真田氏について。
真田で言うと圧倒的に幸村(信繁)くんが有名なんですが、
あえて逆らってお父さんである真田昌幸さまのエピソード
を一つ。(まぁ、この方も有名なんですが)

「親か、子か?!」

大阪城合戦の際、真田が入城したという報告を聞いた家康
はそう言って大いに狼狽えたそうです。
子、というのは幸村くんであり、親というのは昌幸さまの
ことを指します。
天下人家康を狼狽えさせた「真田昌幸」さまとはどんな人物
だったんでしょう。


真田昌幸は信州の豪族真田幸隆の三男で、人質がてら武田
信玄の小姓をつとめていました。この時から才気抜群で、
あの信玄をして、「わしの両目のごとし」と言わしめたほ
どでした。
いいですか、”片腕”でなくて”片目”でもなく、「両目」
ですからね。どんだけ気に入られてたか想像できるでしょう。
(ちなみに片腕、と言われたのは板垣信方と甘利虎泰)
また、現在でいう政治秘書(あるいは社長秘書か)だった
彼は間近で信玄の采配ぶりを見ることで、元来もっていた
才能を大いに伸ばせたと思います。

その武田が織田に滅ぼされ、また信長も本能寺に倒れると、
畿内は旧織田家家臣の権力闘争の場となります。
すると、主を失った(直前までは織田家領)信州は周辺大名
の草狩場と化してしまいます。
真田氏は依然信州上田におりました。
そこに遠江の徳川、相模の北条、越後の上杉といった各有力
大名が来襲してくるんですが、昌幸は彼等を相手に虚々実々
の駆引きを展開して、必死に生き残りを図ります。
しかし、領土問題で徳川と決裂すると居城上田城は家康の
攻撃を受けることとなりました。

この際、家康は昌幸とこの地で何度か戦っていますが、兵力
差では圧倒的有利な状況ながら、全て真田の小勢に翻弄され
痛い敗戦を味わうこととなるのです。
ざまーないですね。(注:ひでるさんは家康が大嫌いです)

「表裏比興の者」

それは豊臣秀吉が昌幸を評した言葉ですが、「卑怯(=比興)」
と単語があるためそのまま悪口ととってしまいそうですが、
これは「凄い知略を有した奴だ」というような意味合いであり、
おそらくはほめ言葉だと思います。

そういえば楠正成も「悪党」と呼ばれていたことが当時の資
料にありますが、これも強いというイメージの批評だったよ
うです。小勢で大群翻弄したり、と似てますね。この二人。

まぁ、そんなだから、家康にしてみれば名前聞くだけでも嫌
だった筈です。冒頭の台詞も納得ですね。
そう、家康は三方ヶ原で武田信玄にも完璧に負けてますね。
要は師弟揃って不得意な相手だった訳ですよ。
だから、昌幸が大阪城なんていう秀吉が思案を重ねに重ねた
巨大な城にでも籠城しようものなら、どエライことになりかねん
と思った訳です。


……というか、もし昌幸さまが入城していたなら、まったく
違う歴史になっていたでしょう。
「なんで前もって知らせてくれなかったんだ?」
関ヶ原合戦で石田三成に誘われた昌幸さまはそう文面を返し
ています。当人もそりゃあ自信あったんですよ。
(でも、たぶん三成さまは彼を信用してなかったと思います)
実際、その言葉通りに中山道を行く徳川秀忠の大軍勢を翻弄
する値千金な活躍をするのです。
凄いですねー!
かっちょえーですよ。
「真田の軍略、天下に示せぇ!!」


[住所] 上田城 長野県上田市二の丸3-3


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★やっぱり真田と言えばコレでしょう。★
真田太平記 第弐集

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薬師如来 (京都・仁和寺御室八十八ヶ所巡り)

2006年03月17日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は仁和寺は御室八十八ヶ所巡りでの薬師如来です。

おんころころせんだりまとぅぎそわかー。
おんころころせんだりまとぅぎそわかー。
おんころころせんだりまとぅぎそわかー。
こう真言を唱えれば、寿命が伸び、病が治り、お産が軽く
なるそうです。
当ブログ来訪の方々のため唱えてみました。合掌。

さて、阿弥陀様も数多く見かけますが、同様に目にする
機会が多いのがこの薬師さま。

正式には薬師瑠璃光如来といい、名前そのまま衆生の
病苦を取り払ってくれます。
どこかお悪い場合は近所の薬師様にすがってみるのも
手ではないでしょうか?
…もっとも、普段から信仰心ないのに都合わるいときだけ
頼っても無駄かもしれませんがー。
うふふふふ…あ、そうすると冒頭の真言は無意味ですね!
こりゃ、うっかりだ!

ちなみに梵名は
「バイシャジャグルバイドゥールヤプラバージャ」
まったく、舌噛みそうです。
別で調べたところでは「バイシャジャグル」だけでも良さそう
でした。そっちにしましょう。

この薬師様、なぜか日本に近づくにつれフィーバーしたらしく、
インドでは作例がまったくなし。
次の中国でも一部のみ存在するだけらしいんですが、朝鮮
半島でそこそこ増えてくると、日本で爆発的にヒットしたという、
日本人好みな方です。
あれよ、阪急ブレーブスのブーマーみたいなもんです。(古っ!)

特に奈良時代では、薬師様は国分寺の本尊となっておりました。
また、信長の焼き打ちで有名な「比叡山延暦寺」でも本尊とされ、
その関係で天台衆系統では数多く作成されたようです。

見分け方としては簡単、左手に土瓶みたいな薬箱を持っておられ
る方です。
ただ、これは平安時代以降の一般系であり、それより古い方などは
天皇さまが手を振っているような如来形でして、他の如来と見分ける
のは困難です。

えー…例えば、奈良は「薬師寺」の薬師様は持ってません。
いかにも薬箱もっていそうなおててなんですが。
残念!
他に見分け方としては、脇侍に日光・月光菩薩を従えていれば薬師様。
(薬師三尊像といいます)
十二神将と一緒なのもだいたい薬師様ですね。

ちなみに、サンスクリット語では「医者の長」と言う意味で、
その和訳が「薬師」だそうです。ほへー。


※関連記事 → お父さんのための仏像講座「如来編」

[住所] 仁和寺 成就山御室八十八ヶ所巡り 京都市右京区御室大内33


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