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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。
またかよー、なんて文句も聞こえてきそうですが、ここからがクライマックスなので、ぜひご覧下さいませ。
ちなみに、登場人物が多いので、一部を除き、括弧くくりのフルネームとしております。
読みづらいとは思いますが、ご勘弁を。
さて、これまでは事の成り行きでしたが、遂に「応仁の乱」直接の説明となります。
両軍激突ですよ!
まぁ、のんびりとどうぞ。
■東西・軍勢のまとめ
●東軍
将軍家: 足利義政(八代将軍)
日野富子(義政正妻)
足利義尚(義政の子。のちの九代将軍)
足利義視(義政の実弟。のちに出奔して↓西軍へ)
総大将: 細川勝元
参加大名:
畠山政長(御霊合戦にて逃走していた)
斯波義敏(追放されてた)
赤松政則(播磨)
…など総勢十六万。(応仁記より)
ちょっと大げさだと思います。実際は半数以下ではないでしょうか?
●西軍
将軍家: ※足利義視(義政の実弟。のちに東軍から出奔してくる)
総大将: 山名宗全
参加大名:
畠山義就
斯波義廉
大内政弘(北九州から中国地方を領有する実力者)
…など総勢十一万(応仁記より)
こちらも大げさです。実質四、五万ってところでは?
■応仁の乱・前編
京都市街地を舞台とし、両軍の争いが始まります。
当初は将軍「義政」を確保し、官軍となっていた東軍が有利に進めていました。
しかし、西軍に「大内政弘」を筆頭とする中国・四国の援軍が続々と加わると、西軍は体勢を持ち直し、戦況を五分としました。
…中央で権勢を誇っていた「細川勝元」は地方では人気が薄かったようなのです。
「いけすかんヤツ」
と、いうところでしょうか?
東は百万遍、西は船岡山、南は二条付近まで…という、京都北部一帯での争いは激烈を極め、付近の建物は次々と炎上。中でも細川方の拠点「相国寺」の戦いは大激戦となりました。
ちなみに、その相国寺の南には将軍「義政」の御所がありましたが、彼は炎上する相国寺の火の粉を眺めながら近臣・侍女らとどんちゃん宴会をしていたそうです。
またまたでました!
将軍「義政」のいい加減・適当・どうでもいーや、モード炸裂です!!
この人やる気ゼロ…というか、もう人間として最低ですよっ!!
さて、そんな両陣営の激烈な争いで忘れ去られていた人がひとり。
……そうです、兄からの指名で”次期将軍候補”とか言われながら、まっったく職を譲られないまま日が過ぎていた不幸の弟「足利義視」です。
「日野富子」が子を生したため、浮いた存在となっていた「足利義視」
これにいじけた「足利義視」は突如東軍から出奔してしまいます。
細かく説明しますと、妻「日野富子」が自らの子を次期将軍に!と、強く要望したことでその旦那で父の「足利義政」は態度を一変。
さらには、「足利義視」の後見役であった「細川勝元」すらもそれに同調して態度を変化させてしまったのです。
…まぁ、そりゃそうでしょうね。
ちなみに、”いい加減”の代名詞「足利義政」は弟の「足利義視」に対し、「子供ができても将軍職は弟に譲る」なーんて証文も交わしているんですけどねー。
所詮は紙切れ。なんの拘束力もありませんよ。
伊勢へ出奔していた「足利義視」は説得されて一時東軍へと戻りますが、結局彼が邪魔な存在になってしまったことは変わらず、戻って間もなく「細川勝元」は「足利義視」を正式に比叡山へと追放処分にしました。
要するに、中途半端なままでなく、事務手続きをすっかり済ませ、身ぐるみ剥いで追い出した、という感じです。
酷いですね。
そんな不遇な彼を賊軍扱いとされていた西軍が見逃す訳はなく、追放されていた「足利義視」を説得して自軍へ囲い、彼を奉じて東軍に対抗しました。
結局のところ、「足利義視」もあまーく魅力的な将軍職が諦められなくなっていたのでしょう。
これで、市街地を巻き込む戦争はドロ沼と化していくのです。
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[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領
[住所] 相国寺 京都市上京区今出川通烏丸東入ル相国寺門前町701
※今回写真は激戦のあった「相国寺」です。
あんまりいい写真ではないですけどねぇ。
ちなみに、この建物の天井には有名な龍の絵がありますよ!
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※戦国時代付近の合戦話集…となると、たいていはこの「応仁の乱」からですね。
この本ではないですが、ひでるさんは二、三これと似たような本を持っています。
なんというか、ドラマティックですよね?!
本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。
またかよー、なんて文句も聞こえてきそうですが、ここからがクライマックスなので、ぜひご覧下さいませ。
ちなみに、登場人物が多いので、一部を除き、括弧くくりのフルネームとしております。
読みづらいとは思いますが、ご勘弁を。
さて、これまでは事の成り行きでしたが、遂に「応仁の乱」直接の説明となります。
両軍激突ですよ!
まぁ、のんびりとどうぞ。
■東西・軍勢のまとめ
●東軍
将軍家: 足利義政(八代将軍)
日野富子(義政正妻)
足利義尚(義政の子。のちの九代将軍)
足利義視(義政の実弟。のちに出奔して↓西軍へ)
総大将: 細川勝元
参加大名:
畠山政長(御霊合戦にて逃走していた)
斯波義敏(追放されてた)
赤松政則(播磨)
…など総勢十六万。(応仁記より)
ちょっと大げさだと思います。実際は半数以下ではないでしょうか?
●西軍
将軍家: ※足利義視(義政の実弟。のちに東軍から出奔してくる)
総大将: 山名宗全
参加大名:
畠山義就
斯波義廉
大内政弘(北九州から中国地方を領有する実力者)
…など総勢十一万(応仁記より)
こちらも大げさです。実質四、五万ってところでは?
■応仁の乱・前編
京都市街地を舞台とし、両軍の争いが始まります。
当初は将軍「義政」を確保し、官軍となっていた東軍が有利に進めていました。
しかし、西軍に「大内政弘」を筆頭とする中国・四国の援軍が続々と加わると、西軍は体勢を持ち直し、戦況を五分としました。
…中央で権勢を誇っていた「細川勝元」は地方では人気が薄かったようなのです。
「いけすかんヤツ」
と、いうところでしょうか?
東は百万遍、西は船岡山、南は二条付近まで…という、京都北部一帯での争いは激烈を極め、付近の建物は次々と炎上。中でも細川方の拠点「相国寺」の戦いは大激戦となりました。
ちなみに、その相国寺の南には将軍「義政」の御所がありましたが、彼は炎上する相国寺の火の粉を眺めながら近臣・侍女らとどんちゃん宴会をしていたそうです。
またまたでました!
将軍「義政」のいい加減・適当・どうでもいーや、モード炸裂です!!
この人やる気ゼロ…というか、もう人間として最低ですよっ!!
さて、そんな両陣営の激烈な争いで忘れ去られていた人がひとり。
……そうです、兄からの指名で”次期将軍候補”とか言われながら、まっったく職を譲られないまま日が過ぎていた不幸の弟「足利義視」です。
「日野富子」が子を生したため、浮いた存在となっていた「足利義視」
これにいじけた「足利義視」は突如東軍から出奔してしまいます。
細かく説明しますと、妻「日野富子」が自らの子を次期将軍に!と、強く要望したことでその旦那で父の「足利義政」は態度を一変。
さらには、「足利義視」の後見役であった「細川勝元」すらもそれに同調して態度を変化させてしまったのです。
…まぁ、そりゃそうでしょうね。
ちなみに、”いい加減”の代名詞「足利義政」は弟の「足利義視」に対し、「子供ができても将軍職は弟に譲る」なーんて証文も交わしているんですけどねー。
所詮は紙切れ。なんの拘束力もありませんよ。
伊勢へ出奔していた「足利義視」は説得されて一時東軍へと戻りますが、結局彼が邪魔な存在になってしまったことは変わらず、戻って間もなく「細川勝元」は「足利義視」を正式に比叡山へと追放処分にしました。
要するに、中途半端なままでなく、事務手続きをすっかり済ませ、身ぐるみ剥いで追い出した、という感じです。
酷いですね。
そんな不遇な彼を賊軍扱いとされていた西軍が見逃す訳はなく、追放されていた「足利義視」を説得して自軍へ囲い、彼を奉じて東軍に対抗しました。
結局のところ、「足利義視」もあまーく魅力的な将軍職が諦められなくなっていたのでしょう。
これで、市街地を巻き込む戦争はドロ沼と化していくのです。
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[住所] 相国寺 京都市上京区今出川通烏丸東入ル相国寺門前町701
※今回写真は激戦のあった「相国寺」です。
あんまりいい写真ではないですけどねぇ。
ちなみに、この建物の天井には有名な龍の絵がありますよ!
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※戦国時代付近の合戦話集…となると、たいていはこの「応仁の乱」からですね。
この本ではないですが、ひでるさんは二、三これと似たような本を持っています。
なんというか、ドラマティックですよね?!
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