お寺さんぽ Ver.03

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耳川合戦と宗麟の最後 「大友宗麟」6

2006年09月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日もキリシタン大名としての認知が高い、「大友宗麟(そうりん)」について。

だいぶ長くなりましたが、これで最後にします。
ちなみに「耳川合戦」の詳細はまた別にやりましたんでそちらをどうぞ。
歴史と宗教が重なる、当ブログ趣旨にぴったり合った宗麟さまの波乱に満ちた生涯の結末をご堪能下さい。


天正六年(1578)
ついにキリスト教に帰依した宗麟。
島津より追われた伊東氏のため、宗麟は日向(宮崎県)へ侵攻を開始します。
実際は日向にキリシタン王国を造る心であったという宗麟。
城攻めなどで使用していた「国崩し」という大砲により、道々の神社・仏閣を破壊しながらの進軍は「仏罰」を恐れる兵の士気を下げるには絶大だったのです。
戦う前から勝敗は決していたのかもしれません
さらに悪いことには、宗麟に諫言できる「立花道雪」ら古参の名将は遠ざけられ、この時には留守番を命ぜられていました。

耳川(高城川)にて対峙した島津・大友軍。
しかし、全体指揮をする筈の宗麟の姿はそこにありませんでした。
……なんと、彼は遥か後方にて宣教師らと共に神に祈りを捧げていたのです(本当)
宗教好きもここまで来るともう異常です。

神の手が差し伸べられるか?!
はたまた祈りが空振りに終わるのか?!
…と、見方によっては非常に面白い合戦である、九州・覇権争いの「耳川合戦」
神の存在意義が問われる、重大な意味を含んだこの合戦。
島津方の「釣り野伏(つりのぶせ)」戦法によって序盤優位であった大友勢が完膚なきまで叩きのめされ、多くの家臣が討死するという、致命的な大敗北となるのでした。

有能な家臣を失った宗麟には島津の進軍を止めれられません。
各地の将は島津へと降り、大友家は衰退。
ここで勢いに押されていた宗麟は、大坂へ赴き「豊臣秀吉」に会見しました。
単独での抵抗を諦めて援軍を請うたのです。
これが天正十四年(1586)のこと。
ちなみに、秀吉・家康の「小牧・長久手合戦」は天正十二年です。その二年後なんですね。

日向から豊後へと侵入した島津勢の勢いは凄まじく、本拠地府内をも占領されてしまいます。
宗麟は「丹生島城」に籠城。
大砲「国崩し」を使い、丹生島城を死守します。

岩屋城の名将、「高橋紹運(たかはししょううん:旧・吉弘鎮種(よしひろしげたね))」は千名にも満たない兵で島津の五万とも言われる大軍を引き受け、徹底抗戦した後に玉砕。
なんと相手方に四千の死傷者を出すという、凄まじい奮戦をしたのです。
単純に考えて、一人で四名以上を道連れにしたのだから、ものスゴイのです。

立花山城に籠城する鎮西一の剛勇「立花宗茂(たちばなむねしげ)」もゲリラ戦を展開して島津勢を散々に苦しめます。
さらに、岩屋城で死んだ父・紹運の敵討ちにと島津本陣への奇襲を成功させると、撤退する軍勢をさらに追撃。
高鳥居城を攻略し、さらに岩屋城、宝満城らを逆に奪還するなど、目覚しい活躍をみせるのでした。

島津勢に九州制覇のあと一歩のところまで迫られながらも、残った家臣らの命を賭した活躍と太閤秀吉の援軍によって、宗麟は最後の危機もどうにか退けることに成功しました。

秀吉の大軍勢を受けた「島津義久」は天正十五年(1587)に降伏。
そして、これを見届けたように宗麟は降伏から約二ヵ月後、病によって死去しました。
享年五十八。

彼の心には平穏をもたらしたキリスト教ですが、結果としてそれ以外には和を乱す元凶となってしまったのです
数奇な運命を辿った宗麟に、果たして神の手は届いたのでしょうか?


今回写真は宗麟ゆかりの京都「瑞峯院」の安勝軒です。
ちょっと物悲しい雰囲気漂っているでしょ?

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