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絶望する関白秀次 (秀次切腹と石田三成)

2006年10月13日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は石田三成さま弁護記事「秀次切腹事件」について、です。


阿呆と病死が多い、秀吉の一族。
天下人となった秀吉の弱点はなんと言っても血縁に恵まれない、という点だったでしょう。
こちらについては、前回の「特別おまけ 豊臣一族」をご参照下さい。
とにかく、「豊臣秀次」はそんな養子らの中で秀吉と最も近い縁者であり、それなりに能力もあったのでした。


奇跡の嫡男「鶴松」誕生。
それが、天正十七年(1589)にわずか三歳で夭折してしまいます。
秀吉の悲しみは大変に大きなものでした。
…そりゃそうでしょう。

しかし、これによって実子への相続を諦めた秀吉は関白職をついに秀次に譲りました。
これによって、内外に”後継者は秀次である”と知らしめたのです。
目出度く聚楽第(じゅらくだい)にて内政を司ることとなりました。
ついに豊臣二代目となった秀次。
しかし、そのまま順調にいかないのが歴史の恐ろしいところなのです。


さて、一連の秀次事件は文禄四年(1595)のこと。
↓こんな流れです。

■文禄四年(1595) 七月八日
 豊臣秀吉、高野山へ豊臣秀次を追放。

■文禄四年(1595) 七月十五日
 豊臣秀次自害。

■文禄四年(1595) 八月二日
 豊臣秀次の妾や子女(約三十名)を京都三条河原で処刑。


愛する淀さまがお拾(豊臣秀頼)を生んだのは文禄二年(1593)
秀次切腹の二年前なんですね。
「鶴松」の夭折によって実子相続を諦めていた秀吉ですが、この誕生によって関白を譲ったことを痛く後悔するのです。

そりゃあ、実子に後を継がせたいと思うのは人の親として当然ですよね。
また、秀吉は人間味に溢れる方ですから、養子の秀次にもそれなりの愛情はあったのだと思います。
そういった心情は秀吉を大いに悩ませ、苦しめるのでした。

日本を五つに分割して、四つを秀次、残り一つを秀頼に与える?
秀次の娘を秀頼の妻とし、秀次の子供として豊臣家を相続させる?
…というように、まだ生まれたばかりの秀頼のため、秀吉は頭を抱える日々が続いたようです。

が。

関白となっていた秀次はそんな秀吉の心を理解していない(できない?)のか、惚けているのか。
秀吉を満足させる言葉も行動もありません。
ただ、前途に絶望したのか、秀次の所業が狂いだすのはこの頃からと言われています。

い) 鉄砲の稽古として農夫を射殺した。
ろ) 弓の稽古として、町民を的がわりにして殺害した。
は) 夜中に辻斬りを行った。
に) 比叡山で鹿狩りをした。(※殺生禁断の地です)
ほ) 武器を携帯して歩き回っていた。

…などなど。
これらの所業ですが、実際どうであったかは不明です。
しかし、市中では「殺生関白」という悪名が広まっていたようではあります。
このうち、「夜中に大勢で武具を携帯して歩き回っていた」ことが、謀反の証拠とされてしまうのです。
ほか、関白職を譲った際に秀吉が与えた訓戒にも、いくつか反する振る舞いが目立っていたようなのです。
事実はどうであれ、秀次には処罰に値する行いがちらほらあったのでした。

⇒つづく 次回「助命に奔走した三成」


[関連記事]
⇒ 石田三成墓所 三玄院 (京都) < >
⇒ ねねさん 高台寺(京都)
⇒ 宇喜多秀家 < >
⇒ 豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)

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4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
秀吉がらみで・・。 (よだきぼママ)
2006-10-13 15:38:32
ひでるさん

こんにちは。

洛中で秀次の大きい石碑みましたよ。龍馬の史蹟見学の時に。



秀吉と同じ時代の人物という共通点だけですが、伊東マンショの銅像が日南市にあります。もしかしたら、秀吉に会ってるかもしれないし。

http://www2.ocn.ne.jp/~hitoshit/Mansho.htm



聞いて!

ここからは故郷自慢です。ごめんなさい。

マンショの銅像の作者が実は高校の先輩だった。(宮崎県人は自分は都会に住んでるのに、故郷自慢が好きなんです。知り合いなら尚の事。お許しを!)その人は田中等さんです。上杉鷹山とその兄種茂の像。知らなかったんですが田中さんの作品でした。地元だから頼んだとも言えるんですが素晴らしいので紹介しました。http://www2.ocn.ne.jp/~hitoshit/koubousakuhinn2.htm

お付き合いくださってありがとうございます。また、blogに書きたいと思っています。
返信する
銅像はいいですねー (あおぶひでる)
2006-10-14 10:30:35
伊東マンショに銅像なんてあるんですね。

知っている人いるかなーどうかなー。

手元資料だと、ローマ教皇に会い、ローマ市から市民権を与えられたそうで。

ひでるさんも名前うっすら記憶あっただけでした。
返信する
宗麟と伊東マンショ (よだきぼママ)
2006-10-14 21:02:41
ひでるさん

こんばんは。



大友宗麟に詳しいのでご存知だって思っておりました。耳川の決戦か、それ以上の事だって。教科書で習ったんですよ。大友宗麟らが少年使節団をローマに・・。ローマに残っている肖像画、最近発表されたし。http://home.att.ne.jp/wood/aztak/news/itoh_syouzouga.html

大友宗麟が送った証拠に、大分にもマンショの銅像があります。

http://www.niigata-u.com/files/oita/ito01.html

帰国して、22歳の時に聚楽第で秀吉に謁見したようです。キリスト教を禁止する秀吉ですが。
返信する
おそらく (あおぶひでる)
2006-10-15 11:33:14
秀吉は派手好きなんで本当は禁止したくなかったと思います。

ただ、利休に対してもそうでしたが、信長ほど余裕ない人なんですよね~。

いろいろと。

終わりたくない、なくしたくないって思ってる。



その点、信長は抵抗するなら叩き潰す、なくなればそれまで、って考えだったようなので禁止まではしなかったかも。



あの時代に海外、しかもローマまで出て行った人は並大抵の苦労でなかったと思います。

石像つくられてしかるべしですね。

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