お寺さんぽ Ver.03

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金龍寺 (群馬県・太田市)

2011年10月09日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はこないだ紹介した「金山城跡」、そして「太田市立史跡金山城址ガイダンス施設」…へ、行った後にそのまま立ち寄りたい、「新田義貞」ゆかりのお寺「金龍寺」です。
徒歩で「金山城跡」から十分可能な距離だったので、ぜひこちらも攻略しておきましょう。
ひでるさんはガイダンス施設の方に近道(ちょっとね)を聞いていきましたよ。

上州太田七福神では「毘沙門天」、秋の七草寺では「桔梗」が担当というこちら「金龍寺」
正式名称は、「大田山義貞院金龍寺」でした。
「新田義貞」の法名は「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」であり、そのお名前にちなんで命名されたことが伺えます。


※駅前の「新田義貞」さまです。

時代は、まだ「後醍醐天皇」がブイブイ言わせていた頃。
元亨元年(1321)
こちらのお寺はもともと、「新田義貞」が精神道場としてお寺を開いていたとも言われております。
確かではなく、そんな感じだったらしいのよ。
南北朝の動乱で敗れた義貞は北陸へ逃れ、延元三年(1338)に越前で戦死してしまうのです。

その菩提を弔うため、新田一族の「岩松満純(いわまつ・みつずみ)」はこの地に諸堂を建立。
応永五年(1398)には、「金龍寺」を開いたのでした。
義貞の開山が真実なら、それを中興したというところでしょう。
そんな祖先思いの岩松氏でしたが、新田荘横瀬郷を本領としていた横瀬氏(※戦国時代には由良氏と改名)に下剋上そのまま取って代わられることとなるのです。

応永二十四年(1417)
新たに金山城主となったのが、岩松氏の重臣だった横瀬氏。
越前から義貞の遺骨をこの境内まで移し、「大見和尚」を招いて開山したのは初代とされる「横瀬貞氏」
(※あまりハッキリしてない様子)
義貞の廟所と定めて、その木像を安置しました。
その後、横瀬氏は主家と対立・圧倒し、実権を握っていくのです。
周辺地域を併合して、自らの勢力を拡大。
その菩提寺となった「金龍寺」も、共に栄えていったのでした。


※五輪塔・供養塔

しかし、「由良(横瀬)国繁」の代に「豊臣秀吉」の小田原征伐が勃発。
国繁は北条氏に加担したものの、祖母、息子は前田勢に参加したため、どうにか滅亡の危機を回避しております。
戦後は上総国牛久へ移封。
それと共に寺・僧なども移り、建物や木像、墓のみが残されたこの地は荒廃してしまうのです。
上野国・館林城主となっていた徳川四天王の一人「榊原康政」はこれを惜しみ、寺領を整備し再興させ、現在に至るのでした。
康政は”田畑八町余りを寄進”したそうですよ。


※看板の七福神です。漫画ちっくなのね。

本堂の裏手には歴代金山城主となった横瀬氏(由良氏)の五輪塔は九基ほど。
また、最上段には寛永十四年(1637)に造立されたという「新田義貞」の供養塔もありました。


[住所]
 金龍寺 群馬県太田市金山町40-1

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