お寺さんぽ Ver.03

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史上最悪の市街戦「応仁の乱」 (4)御霊合戦編

2006年05月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
一日お休みしましたが、本日も史上最悪の市街戦、と名高い「応仁の乱」についてです。

ついに戦となってしまいます。
応仁の乱の発端と言われる畠山家の家督相続争い「御霊合戦」です。
ややこしくて長いので、細かく切り分けております。
まぁ、ゆっくりどうぞ。


■畠山・家督争い「御霊合戦」

畠山の家督争いに敗れ、追放されてしまった「畠山義就」

応仁元年(1467)
その「畠山義就」を擁立していた室町幕府の実力者「山名宗全」は彼の復権のため、将軍「義政」に働きかけ、その懐柔に成功。

将軍「義政」は当事者のもう片割れ、「細川勝元・畠山政長」チームに断ることなく彼を許し、さらに「畠山政長」には総領の明け渡しを迫りました。

事態に仰天した「細川勝元」は画策をしていた「畠山義就」の追討を出させようとしますが、これを察知した将軍「義政」の正妻「日野富子」に阻まれ、失敗してしまいます。

「日野富子」はさらに事を「山名宗全」へ伝えると、逆に「畠山政長」の追討を出させることに成功しました。

でました、暗躍大好き「日野富子」。
伊達に悪妻の異名をとっていませんね。

逆に将軍家からの討伐令を出されてしまった「畠山政長」は再び「細川勝元」を頼ります。
しかし、追討指示によって、もはや賊軍となっていた「畠山政長」に加担することを避けるため、この要請を徹底的に無視します。

これで完全に追い詰められた「畠山政長」は兵を率いて上御霊社に陣を敷き、「畠山義就・山名宗全」らの軍と激突となりました。
(※ちなみに、上御霊社には「応仁の乱勃発地」の碑があります)

みぞれまじりの寒い日。
軍を率いた「畠山義就」が上御霊社へと押し寄せます。
大軍に包囲され、敗れた「畠山政長」は社に火を放ち、命からがら逃走するのでした。
これが「応仁の乱」の発端となった戦いです。


■東西・軍勢集結、応仁の乱へ

「御霊合戦」にて勝利した「山名宗全」派閥。
その「山名宗全」らに対抗するため、ライバル「細川勝元」は自国領にて兵を集めます。
そのほか、勝元派の「赤松政則」は山名領へ、「武田信賢・細川成之」らが若狭の一色領へ侵攻するなど、軍事行動を活発化させました。

ここで追放されていた「斯波義敏」も同調し、挙兵。侵攻を開始します。
「細川勝元」は宇治や淀の橋を焼き落とし、京都の東西南北の四門を自軍で固めると、逃走していた「畠山政長」など諸将を京都へ結集し、戦火から保護するという名目で素早く将軍「義政」を確保しました。
このあたりはさすが政争の申し子というべき行動ですね。

「細川勝元」は京都今出川の自邸に本陣を置き、諸将を集結させました。
これがいわゆる東軍です。

対して「山名宗全」は現在の京都市上京区の堀川の西にあった自邸に本陣を置きました。
これがいわゆる西軍です。

これにより、双方の陣地跡をそれぞれ東陣、西陣と呼ぶようになります。そう、西陣の地名だけが今でも残っていますね。
両軍が布陣しました。ついに合戦ですよっ!


[関連記事]
⇒ 室町時代
⇒ 関東公方と関東管領


[住所] 嘉祥寺  伏見区深草坊町71番地

   ※今回写真は応仁の乱で被害にあった寺院の一つ「嘉祥寺」です。
    他にもいっぱいありますがとりあえずここ。
    別名、深草聖天(ふかくさしょうてん)です。


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