のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…涙なくしては見られない、こちらの合戦をば。
関白・秀吉の停戦命令を無視した島津勢。
所詮は農民の小倅、と侮って侵攻を続けるのでした。
一方、中央にあった秀吉は「大友宗麟」の要請を受け、先発隊として毛利・長宗我部の両軍を九州へと向けるのです。
天正十四年(1586)大分県大南町 戸次川
秀吉の先鋒が九州入りしても豊後攻めを続行する島津勢。
十二月になると、大友方の鶴賀城(大分市)を包囲するのでした。
この鶴賀城が落城すれば、大友家の居城である府内に矛先が向けられることとなります。
まさに、喉元へ刃を突き付けられたような緊急事態となっていたのです。
さて、鶴賀城の守備隊「利光鑑教(りこう・かねのり)」以下は必死に防戦。
「利光鑑教」は合戦中に討死してしまうんですが、なんと主人を失ってもなお城兵たちは決死の覚悟で抵抗を続けていたのです。
十二月頃。
上陸した四国勢はそちらの救援に向かいます。
鶴賀城の北には戸次川が流れていました。
豊臣勢はこの川を挟んで、島津勢と対峙するのでした。
到着を知った「島津家久」は鶴賀城への攻撃隊を残して囲いを解き、坂原山へと軍勢を退かせるのでした
これを追撃しようとしたのが、そもそもの発端なのです。
さて、島津方の総大将は対龍造寺戦で”数倍の大軍を寡兵で打ち破った”司令官、四男「島津家久」でした。
この「家久」は祖父「日新斎」から「戦法戦術の妙を得ている」と称賛されています。
肉親のひいき目もあるでしょうが、こうした実際の戦ぶりを見る限り、批評は的を得ていると言えるでしょう。
梨尾山に本陣を置いた島津方としては、”中央の軍勢なにするものぞ”という気概であったようです。
四国勢の軍議では、未知数の島津方に対して慎重論が主流だったようです。
特に歴戦の将「長宗我部元親」は「どんな策があるかも知れぬ」として慎重だったのでした。
しかし、軍監としてついていた「仙石秀久(せんごく・ひでひさ)」は功を焦ったのか、
「強行渡河して救援へ向かう」
…と主張して譲らなかったのです。
この、あまり知られていない(ように思う)「仙石秀久(※写真は仙石秀久の甲冑)」は元々は美濃の人。
天正二年から八年の六年間で一千石から淡路五万石となり、十三年には四国討伐での功によって讃岐一国を与えられていた武将です。
当時の長宗我部家は秀吉の四国攻めに完敗・降伏した直後のことでした。
今回の出陣では、以前の敵同士がにわかチームを組んだという寄せ集めな部隊だったのです。
おそらく、”忠誠心を試す”という側面もあったでしょう。
そのため、軍監である「仙石秀久」の意見には逆らいづらく、また秀久は強行論を曲げず単独で進もうとさえしたので、やむなくそれに従うこととなったのでした。
⇒ つづく。
次回は「またまた炸裂!釣り野伏」
[関連記事]
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [前 中 後]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [前 中 後]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [前 中 後]
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
※四兄弟で最も有名なのはこの次男義弘くんですが、四男家久くんの戦術はまさに神がかり。
上杉謙信と戦わせてみたい人ですね。
本日は…涙なくしては見られない、こちらの合戦をば。
関白・秀吉の停戦命令を無視した島津勢。
所詮は農民の小倅、と侮って侵攻を続けるのでした。
一方、中央にあった秀吉は「大友宗麟」の要請を受け、先発隊として毛利・長宗我部の両軍を九州へと向けるのです。
天正十四年(1586)大分県大南町 戸次川
秀吉の先鋒が九州入りしても豊後攻めを続行する島津勢。
十二月になると、大友方の鶴賀城(大分市)を包囲するのでした。
この鶴賀城が落城すれば、大友家の居城である府内に矛先が向けられることとなります。
まさに、喉元へ刃を突き付けられたような緊急事態となっていたのです。
さて、鶴賀城の守備隊「利光鑑教(りこう・かねのり)」以下は必死に防戦。
「利光鑑教」は合戦中に討死してしまうんですが、なんと主人を失ってもなお城兵たちは決死の覚悟で抵抗を続けていたのです。
十二月頃。
上陸した四国勢はそちらの救援に向かいます。
鶴賀城の北には戸次川が流れていました。
豊臣勢はこの川を挟んで、島津勢と対峙するのでした。
到着を知った「島津家久」は鶴賀城への攻撃隊を残して囲いを解き、坂原山へと軍勢を退かせるのでした
これを追撃しようとしたのが、そもそもの発端なのです。
さて、島津方の総大将は対龍造寺戦で”数倍の大軍を寡兵で打ち破った”司令官、四男「島津家久」でした。
この「家久」は祖父「日新斎」から「戦法戦術の妙を得ている」と称賛されています。
肉親のひいき目もあるでしょうが、こうした実際の戦ぶりを見る限り、批評は的を得ていると言えるでしょう。
梨尾山に本陣を置いた島津方としては、”中央の軍勢なにするものぞ”という気概であったようです。
四国勢の軍議では、未知数の島津方に対して慎重論が主流だったようです。
特に歴戦の将「長宗我部元親」は「どんな策があるかも知れぬ」として慎重だったのでした。
しかし、軍監としてついていた「仙石秀久(せんごく・ひでひさ)」は功を焦ったのか、
「強行渡河して救援へ向かう」
…と主張して譲らなかったのです。
この、あまり知られていない(ように思う)「仙石秀久(※写真は仙石秀久の甲冑)」は元々は美濃の人。
天正二年から八年の六年間で一千石から淡路五万石となり、十三年には四国討伐での功によって讃岐一国を与えられていた武将です。
当時の長宗我部家は秀吉の四国攻めに完敗・降伏した直後のことでした。
今回の出陣では、以前の敵同士がにわかチームを組んだという寄せ集めな部隊だったのです。
おそらく、”忠誠心を試す”という側面もあったでしょう。
そのため、軍監である「仙石秀久」の意見には逆らいづらく、また秀久は強行論を曲げず単独で進もうとさえしたので、やむなくそれに従うこととなったのでした。
⇒ つづく。
次回は「またまた炸裂!釣り野伏」
[関連記事]
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 毛利元就を欺いた大将「大友宗麟」 [1 2 3 4 5 6 ]
⇒ 固辞する嫡男「毛利隆元」 [前 中 後]
⇒ 日本三大奇襲戦の一つ「厳島の戦い」 [前 中 後]
⇒ 炸裂!島津得意の釣り野伏! 「耳川合戦」 [前 中 後]
★宜しければ応援クリックお願いします。 ⇒ 【人気blogランキング】
島津義弘 江宮 隆之 (2004/05) 学習研究社 この商品の詳細を見る |
上杉謙信と戦わせてみたい人ですね。