お寺さんぽ Ver.03

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陶晴賢の謀反 「厳島の戦い」 <前編>

2006年07月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は日本三大奇襲戦の一つ、みんなの憧れ「厳島合戦」について。


迫る敵の大軍にどう立ち向かうか?
…その回答は日本三大奇襲戦にありました。

敵軍の戦意を大幅に消失させ、烏合の衆としたのが「河越城夜戦」こないで紹介したやつ。敵の本陣、指揮する総大将のみに狙いを定めたのが「桶狭間合戦」最も著名で、織田信長の名前を一躍有名にした合戦。
そして、相手を閉所へ誘い込み、身動き取れないようにして討ち取ったのが、今回の「厳島合戦」となります。


世界文化遺産の島 宮島を楽しむ

中国新聞社

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※中国地方はいったことないひでるさんです。
 …と、いう訳で写真ないのでイメージ本ですよ。いいなぁ、宮島。


三矢の教え(嘘ですけどね)で知られる中国の覇者「毛利元就」は子供らに一致団結をさかんに説いている(これは本当)だけあって、その当初は一族と争ってきた経験をもっています。

兄とその子の早世によって偶然家督を相続することとなった元就。これに不満をもった一族家臣らを撃退し、どうにか国を安定させました。さらに、付近の有力豪族の吉川家、強力な水軍をもつ小早川家には自らの息子を送り込み、これら勢力の取り込みに成功しています。
当時は余裕もなかったのでしょうが、この一族争いや他家取り込みの際にはかなり強引な手段をもって挑んでいます。
…簡単に書くと、「逆らう者には容赦しない」ですね。信長に負けないような、一族皆殺し的なこともしております。
戦国時代の恐ろしさが肌身に染みている人なんです。

そんなこんなでようやく安芸国を安定させた元就ですが、彼を取り巻く環境はまだ実に厳しいものでした。
東には切れ者「尼子経久」の代に勢力を大いにのばした尼子家が、西には勘合貿易で富を築いた名門大内家がおりました。
元就はその巨大な両勢力の間で、つかず離れずの厳しい戦略を強いられ、最終的には大内家へ属しています。
報復攻撃を仕掛けてきた尼子勢には本拠吉田郡山城を囲まれますが、わずかな兵でよくこれに耐え、元就はその武名を轟かせております。

さて、元就が頼みとした大内家の当主は十六代「義隆」でした。
貿易による富で栄える彼の本拠、周防は小京都と呼ばれるほどの賑わいをみせており、先の「応仁の大乱」で戦地となった京を離れた文化人たちはここにも身を寄せていました。
…これは越前の朝倉家と非常によく似たケースなんですね。
この「応仁の乱」で先代が保護し、連れてきた文化人たちは、結局その後間接的に家を崩壊させる火種となるのです。

後を継いだ「大内義隆」はそういった文化人の影響を強く受けており、ともすれば武将らしい覇気に欠ける質がありました。
(※公家文化に強い関心をもっていたと伝えられます)
それでも、当主となった義隆は西へ東へと忙しく転戦を繰り返していました。

天文十一年(1542)
ライバル、尼子氏との決戦に望んだ義隆ですが、ここで思わぬ大敗を喫してしまいます。すると、この敗戦を切っ掛けに弱気になったのか、政務・軍事から遠ざかるようになってしまうのです。
現実逃避する当主に危機感を募らせる家臣団。
諌言も聞き入られないようになると両者の溝は深まり、やむなしと見た重臣「陶晴賢」は反乱を起こしてこれを討ち取ってしまうのでした。

天文二十年(1551)
大内義隆死亡。
にわかに不穏な空気が流れてきました…。



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