お寺さんぽ Ver.03

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名人と呼ばれた武将「堀秀政」 (神奈川・一夜城址)

2006年04月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は名人の冠がよく似合う戦国武将「堀秀政」です。
いいですか、将棋が得意な人でも、過去に連射で有名になった方ではないですよー。
(…って、もう誰も覚えてないか?この↑ネタ)

この「堀秀政」は残念ながら若くして亡くなったためちょっとマイナーなんですが、信長・秀吉という天下人に愛されたこの方の名前をぜひご確認下さい。


えっと、織田信長の小姓と言えば「森蘭丸」が有名ですが、彼の前に仕えていたのがこの「堀秀政」です。
どうすか、この時点ですごいでしょう?

なにしろ信長の小姓と言えば下手すると本気で殺されかねない、戦々恐々とした職場ですから。
(※実際何名か手討ちにされた様子です。宣教師「ルイス・フロイス」によると、信長がちょっと手を動かしただけで人が目まぐるしく動いたとか…)
あれですよ、志村けんの「バカ殿」で怒った時に刀持って暴れるネタがありますが、そのリアルバージョンですよ。きっと。

この人、そんな職場でだいたい十年くらいやっていたようです。
ベテラン選手です。
…まあ、辞めたくてもそれ口に出すことすら許されないでしょうけどね(笑)

さて、その秀政さま、越前や伊賀の合戦などで功を立て、ついに近江長浜の城主となりました。
勃発した「本能寺の変」後は秀吉に従い、山崎合戦や賤ヶ岳合戦、長久手合戦などで活躍しました。
その中でも「長久手合戦」では実力を存分に発揮します。

天下人へと着実に進む豊臣秀吉に信長の次男、「織田信雄」が抵抗。彼に協力する形で「徳川家康」が参戦。
ついに両者の決戦となりました。

対峙した両軍はなかなか動かず・動けず、ただ時が過ぎていきました。
数に勝る秀吉軍は信長の乳兄弟「池田恒興」と、その武勇から鬼武蔵と呼ばれた「森長可」の提案した”別隊で徳川の背後、本拠・三河を一気に攻める作戦”を取り入れます。
(※ちなみに、この森長可は森蘭丸の兄です。お父さんの森可成を含め、壮絶な討死家系。ああ…)

この作戦には養子「羽柴秀次」も乗り気で、自ら大将にと申し出ました。
戦の妙を心得ている秀吉は当初から乗り気ではなかったんですが、結局それを退け続けることができず、やむなく承知してしまったんですね。

秀吉は別隊に上記三名のほか、戦上手の「堀秀政」を作戦に参加させました。
何か思うところがあったのでしょう。

その懸念は的中します。
別隊の動きは家康に察知され、小牧の陣からこっそり抜け出した徳川勢は追撃にかかります。
(※ちなみにこの別働隊は奇襲の割に数が多く、また途中の城を落城させたりと行動がやたら目立っていたので、あっさりみつかったらしいんですね)

まず、総大将の羽柴秀次隊が休息中に攻撃を受け、瞬く間に壊滅。この時秀次自身はぎりぎり助かっちゃいますが、多くの忠臣が彼の身代わりとなって討死するのです。

そして、その報を受けた秀政は冷静に兵をまとめ、左右に展開。初戦の勝利で勢いに乗った徳川勢と激突すると、なんと戦上手な秀政はこの不利な状況で逆に撃退するんですね!
うわ、かっちょえー!
おまけに、前方に家康の旗印を確認すると、かなわぬと悟ってすぐさま退却しました。
引き際も実に鮮やかですよ。

その後、後方にいた池田・森の両将は撤退中に徳川勢の追撃を受け、激戦の中でどちらも討死してしまいます。
これは単なる局地戦でしたが、秀吉勢の完敗です。

「どんな敗戦でも生き残る」
この合戦は唯一徳川勢を撃退した秀政のまさに面目躍如と言ったところですが、彼は戦以外にもなんでもそつなくこなすところから、ついたあだ名が「名人久太郎」
そりゃあ伊達に信長の小姓を十年間もやってませんよ!(笑)

豊臣の旗のもと、越前十八万石を与えられた秀政は四国攻めや九州征伐にも従軍。
そして、小田原合戦の陣中で病を得て病没。
享年三十七。

秀吉はこの名人に関東を与えようとしていたようですが、結局それはかないませんでした。
ああ、その後も生きていたらなぁ…。



[住所] 石垣山一夜城 神奈川県小田原市早川字梅ヶ窪地内
  (※その通り道に参戦した武将の看板があります。必見!)


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