お寺さんぽ Ver.03

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ついに激突・上田原合戦 (村上義清3)

2011年03月06日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も源氏の血を引く名門家の末裔「村上義清(むかかみ・よしきよ)」です。

義清は甲斐「武田信虎」と謀って、海野氏を追放。
小県群を支配しております。
その直後、共に戦った信虎は嫡男である「武田晴信」のクーデターによって、駿河へ追放されてしまったのでした。
家督を継いだ晴信は、信濃へ侵攻を開始。
諏訪氏、大井氏、高遠氏などと争って版図を広げ、信濃守護である小笠原氏、そして実力者である村上氏らと対立することとなったのでした。

天文十七年(1548)
諏訪、伊那、佐久郡を攻略していた晴信は、ついに村上氏の小県郡へと侵攻。
ついに武田・村上の両軍が激突することとなりました
こちらが有名な「上田原合戦」です。

葛尾城を出陣した村上勢は国衆を集め、天白山を背に岩鼻へと布陣しております。
一方、村上勢出陣の急報に接した晴信は甲斐を出陣。
諏訪から大門峠を越え、小県郡へと侵入。
倉升山に陣を張りました。
この時、武田勢は約七千、村上勢は約五千ほど。
数では資料によって色々と差がありましたが、だいたい両軍はそのくらいなのでしょう。

上田原にて激突した両軍勢。
晴信の右腕と言われた「板垣信方(※写真)」が猛烈な攻撃を見せたものの敵陣深く突入。
やがて村上勢に囲まれることとなり、やや不可解な討死をしております。
序盤の勝利から油断をしていた、という説もありましたが詳細は不明。
ともかく、周囲を囲まれて混乱・壊滅した先陣の板垣勢が大崩れしたことで、地の利も生かしていた村上勢が優位となったのです。
その波状攻撃によってかく乱され、先陣の崩壊から踏みとどまった「初鹿野伝右衛門」、「才間河内守」など名のある有力武将までが討死し、大いに統制を乱された武田勢。
浦野川にて孤立してしまった晴信のもう片腕「甘利虎泰(あまり・とらやす)」も、村上勢の伏兵がためここで討死してしまいました。
さらに、総大将である晴信自信までもが手傷を負うという、大敗となったのでした。
敗北後、しばらく上田原に駐屯して傷を癒していた晴信。
(※約半月くらい)
村上勢の退陣を確認してから上田城に入り、甲斐へと撤退しております

なお、この敗戦に乗じた信濃守護「小笠原長時」
すかさず諏訪郡へと侵攻し、一時的にはそちらを支配しております。
しかし、それを切っ掛けとして逆に武田勢のターゲットとなり、「塩尻峠合戦」では寝込みを襲われて完敗。
小笠原勢は千ほど討死するという総崩れとなり、逃れ逃れてかつてのライバル村上家へと身を寄せることとなるのでした。
こちらの合戦は村上勢に手痛い敗北をしていた武田勢に勢いを取り戻すと共に、反武田勢力を牽制することとなったのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「誕生、”北信濃最強武将”」(4/6)


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※ライターも戦国です。
 タバコ吸わないですが、こんなん持っていたいですね。



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