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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国最強軍団と恐れられた武田軍の頭目、武田晴信こと信玄の父、「武田信虎」です。
天文十年(1541)
武田晴信は父「武田信虎」を国外追放としました。
粗暴で傲慢、極悪非道な「鬼畜王ランス」のように言われる信虎ですが、それはちょっと言い過ぎではないかいな、という話のつづき。
昨日までの点から伺えるキーワードは「家臣団」なのです。
ここに、想像される事態を箇条書きにしてみました。
い) 国内統一のため、武力によって有力豪族を討伐した。
ろ) 屈服した生き残りを傘下に組み入れた。(心服ではない)
は) 自ら望んで旗下となった勢力も、武威に恐れをなしただけだった。
に) 外敵に対抗するため、勢力拡大をする必要から戦闘が続いていた。
ほ) 山国である甲斐の国力は豊かでなかった。
へ) 兵役のため、民は何度も働き手(農民ね)を戦に取られていた。
と) 傘下となった豪族たちも、それに困っていた。
ち) 信虎自身が豪快でおっかない性格だった。
り) 自らの権威を上げるためか、単に性格なのか、信虎はワンマンであった。
ぬ) 諌言した家臣が手打ちにされた。その事実に尾鰭がついて広まった。
る) 成長した晴信はおやじに比べ、聡明で人の話をよく聞いていた。
実績も立て、将来有望だった。
…こんな感じでしょうか。
と、そーんな流れが重なり・広まり、立派な若武者となっていた晴信のもとへ家臣団が集結したのではないでしょうか。
いわゆる室町時代の流れである連合国家の色が強かった武田家では、配下たる家臣団に担がれない(信服させない)限り、国を維持することはできなかったのです。
それ以外には、信虎は物静かでどことなく気味悪い晴信よりも、素直で柔順な次男信繁を愛し、彼に後を継がせようとしていた、なんて話もあります。
(※信虎にしてみれば、息子晴信は初陣の際などもそうですが、コイツ何考えてるのかわからない、という感じを受けていたようです)
これ本当かどうかは不明ですが、信繁を溺愛する信虎は何かと彼に贈り物をするんですね。
それを丁寧に拝領した信繁は「こういうものを頂きました」とわざわざ晴信のもとへ見せに行き、場合によっては献上していたというのです。
「武田の副将」と言われ、その片腕として活躍した彼の性格・兄弟関係がよく見て取れるエピソードだと思います。
(※余談ですが、後に信繁は川中島合戦で窮地に陥った晴信を守るため、自ら身代わりに討死するのです。「惜しみても、尚惜しむべし」と言われた彼の死は晴信にとって大変な衝撃で、号泣したと伝えられています。ちなみに「真田幸村」の名(信繁)はこの人から拝借したとか…)
話を戻しまして、信虎が本気で後継を信繁にと考えていたのなら、これも追放となる要因の大きな一つになったでしょう。
大名家はいわば現代の会社のようなものですから、おかしな方向へ進む大将(社長ね)を家臣団(社員)としては捨て置くことできません。
特に後継者問題は、大友・斎藤・織田・上杉…などでもあったように、国を二分し、それがため最悪他国に付け入られて滅亡の危機にもなりかねません。
変に派閥が出来上がって内乱へと発展する前に手をうったのだとも考えられます。
追放された信虎は今川氏へ居候し、その滅亡後は各地を流浪。
勝頼の代になってようやく甲斐へ戻り、そこで死亡するのです。
結局、病によって志半ばで死んだ息子晴信より、長く生きたのです。
享年八十一。
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[関連記事]
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※こんなん見つけました。いつも本ばかりでつまんないので、こちら。
かるた、ですよ懐かしいなー。
※おまけ。上記文中に登場するランスくんはこれがモトネタ。
本日は戦国最強軍団と恐れられた武田軍の頭目、武田晴信こと信玄の父、「武田信虎」です。
天文十年(1541)
武田晴信は父「武田信虎」を国外追放としました。
粗暴で傲慢、極悪非道な「鬼畜王ランス」のように言われる信虎ですが、それはちょっと言い過ぎではないかいな、という話のつづき。
昨日までの点から伺えるキーワードは「家臣団」なのです。
ここに、想像される事態を箇条書きにしてみました。
い) 国内統一のため、武力によって有力豪族を討伐した。
ろ) 屈服した生き残りを傘下に組み入れた。(心服ではない)
は) 自ら望んで旗下となった勢力も、武威に恐れをなしただけだった。
に) 外敵に対抗するため、勢力拡大をする必要から戦闘が続いていた。
ほ) 山国である甲斐の国力は豊かでなかった。
へ) 兵役のため、民は何度も働き手(農民ね)を戦に取られていた。
と) 傘下となった豪族たちも、それに困っていた。
ち) 信虎自身が豪快でおっかない性格だった。
り) 自らの権威を上げるためか、単に性格なのか、信虎はワンマンであった。
ぬ) 諌言した家臣が手打ちにされた。その事実に尾鰭がついて広まった。
る) 成長した晴信はおやじに比べ、聡明で人の話をよく聞いていた。
実績も立て、将来有望だった。
…こんな感じでしょうか。
と、そーんな流れが重なり・広まり、立派な若武者となっていた晴信のもとへ家臣団が集結したのではないでしょうか。
いわゆる室町時代の流れである連合国家の色が強かった武田家では、配下たる家臣団に担がれない(信服させない)限り、国を維持することはできなかったのです。
それ以外には、信虎は物静かでどことなく気味悪い晴信よりも、素直で柔順な次男信繁を愛し、彼に後を継がせようとしていた、なんて話もあります。
(※信虎にしてみれば、息子晴信は初陣の際などもそうですが、コイツ何考えてるのかわからない、という感じを受けていたようです)
これ本当かどうかは不明ですが、信繁を溺愛する信虎は何かと彼に贈り物をするんですね。
それを丁寧に拝領した信繁は「こういうものを頂きました」とわざわざ晴信のもとへ見せに行き、場合によっては献上していたというのです。
「武田の副将」と言われ、その片腕として活躍した彼の性格・兄弟関係がよく見て取れるエピソードだと思います。
(※余談ですが、後に信繁は川中島合戦で窮地に陥った晴信を守るため、自ら身代わりに討死するのです。「惜しみても、尚惜しむべし」と言われた彼の死は晴信にとって大変な衝撃で、号泣したと伝えられています。ちなみに「真田幸村」の名(信繁)はこの人から拝借したとか…)
話を戻しまして、信虎が本気で後継を信繁にと考えていたのなら、これも追放となる要因の大きな一つになったでしょう。
大名家はいわば現代の会社のようなものですから、おかしな方向へ進む大将(社長ね)を家臣団(社員)としては捨て置くことできません。
特に後継者問題は、大友・斎藤・織田・上杉…などでもあったように、国を二分し、それがため最悪他国に付け入られて滅亡の危機にもなりかねません。
変に派閥が出来上がって内乱へと発展する前に手をうったのだとも考えられます。
追放された信虎は今川氏へ居候し、その滅亡後は各地を流浪。
勝頼の代になってようやく甲斐へ戻り、そこで死亡するのです。
結局、病によって志半ばで死んだ息子晴信より、長く生きたのです。
享年八十一。
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心がくすぐられましたwww
それにしても、信繁のエピソードには泣かされますね。親兄弟が敵になる時代に、こんな人がいたとは。
信繁は好きなんですよ、晴信嫌いなんですが。
幸村くんも弟さんですし、お父さんとしてはああいう風に本家をもり立ててほしいと感じていたんでしょう。
プキさん
親子対立した大名家がいくつかあったなかで、父親の追放で済んだ(家臣団が二分しなかった)というのは晴信くんの人気の高さが伺えます。
弟さんもそうですが、やっぱり傑出した大将だったのでしょうねぇ。