のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「戦国三梟雄」の一角、松永久秀さまの四回目です。
四回目なんで…ついに最後です。へろへろです。
ここまでお付き合い(してくれてるかな?)有難う御座いました。
とりあえず前回までのあらすじぃ。
畿内の覇者となった松永久秀。
将軍義昭を擁した織田信長が上洛してくるとあっさり降伏。その配下となりました。
久秀は織田家中でも大活躍。
しかし、傀儡であった将軍義昭がなにやら影でこそこそとゴキブリのように動きはじめたのです…。
姉川合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田軍。
ですが、将軍義昭の要請で大義名分を得た周辺諸大名は”調子づいた織田を潰すいい機会”とばかりに、次々と反織田陣営に加わりました。これが信長包囲網です。
その名簿はこんな(↓)感じです。
越後上杉、甲斐武田、越前朝倉、近江浅井、畿内三好三人衆、将軍義昭、安芸毛利、加賀・長嶋・石山などの一向宗、比叡山延暦寺、根来寺、雑賀衆など…。
信長の生涯で三度目くらいの大ピンチです。(①桶狭間②金ヶ崎…かな)
元亀三年(1572)反信長の中心的存在でした武田が、ついに上洛の軍を率いて甲斐を出陣しました。
チャーンス!
ということで、昨日の敵は今日の友。将軍義昭と同盟した松永久秀は得意の裏切りを実施、武田に呼応して反旗を翻しました。
…しかし、この将軍義昭もはちゃめちゃですわね。
さて、武田は三方ヶ原合戦にて信長子分の徳川家康を一蹴。大いに期待が高まりますが、なんと!包囲網の一人、越前「朝倉義景」は雪を理由に撤退。(※戦に飽きた感もある[本当])
この一件により、織田勢は朝倉の備えで裂いていた兵に余裕ができたため、どうにか息を吹き返しました。信長はこの機会を逃さず、各地の敵軍の各個撃破に成功します。
連携がモノをいう包囲網の計画が破れ、朝倉を散々罵倒したと言われる信玄ですが、なんと自身も病のため病没。
上洛の夢は破れてしまいました。これは皆さんもよくご存知ですよね。
信玄来ず。
これで困ったのは久秀以下、それを期待していた畿内勢力の皆様です。
松永久秀は持っていた名物などをことごとく献上し、降伏します。
すると、珍しく信長はこれを赦すんですね、なんでだか。…やっぱ好きなんでしょうか?
ただし将軍義昭は追放。(ちなみに一度は天皇の仲裁もあって赦しています)
ここに室町幕府は崩壊しました。
さて、追放はされたものの、どうにか生き長らえた義昭は懲りずに密書を連発し、再び信長包囲網を作り上げます。(ただし、この時は彼の要請というより、単純に信長を危険視してのことかもしれませんが)
今回の目玉は越後の龍こと「上杉謙信」です。
天正四年(1576)対立関係にあった一向宗と和解した謙信は西に軍を進めます。
チャーンス!
ということで、松永久秀は得意(病気?)の裏切りを実施、上杉に呼応して再び反旗を翻しました。
上洛する上杉軍は柴田勝家率いる織田軍と激突。軍神・上杉謙信が指揮をする軍は異様に強く、撤退のため渡河に手間取っていた織田軍を追撃し、大打撃を与えました。(手取川合戦)
居城「信貴山城」に篭る久秀も大喜びしたでしょう。
しかし、その謙信も日頃の大酒が祟ったのか、病のため病没。
上洛の夢は破れてしまいました。こちらも皆さんよくご存知ですよね。
ここまでの信長は実に運がいいんですよ。
謙信来ず。
ほどなく、城は信長の嫡男「織田信忠」の軍勢に囲まれます。この時も、信長の意を受けた信忠はさかんに降伏勧告をしていたようです。
あるいは、ここで降伏していれば本当に命は助かったかもしれませんが、所有していた名物「平蜘蛛の茶釜」(※)を渡すのを拒み、それと共に爆死するのでした。
享年六十七。ちなみに偶然と思いますが、大仏殿を焼き払ったのと同日だとか。
さて、こうした悪どいことがよく目立つ松永久秀ですが、当時一流の茶人「武野紹鴎(たけのじょうおう)」の弟子だったり(※千利休も弟子だった)、実は美男子でたいへんな教養を身に付けていたとか、閨房術にやたら詳しい(笑)とか、城に天守閣を造ったはしりであるなどなど、その実像は非常にスケールの大きい人物であったようです。
早雲とはまた違った、魅力ある人ですね。
もし戦国シミュレーションゲームで見かけたなら、是非使ってあげて下さい!
…裏切られるかもしれませんが。うふふ…。
(※)平蜘蛛の茶釜(ひらぐものちゃがま)
茶の湯にも通じた松永久秀が持つ秘蔵の名物茶器。蜘蛛のように平べったいものだったとか。
なお、今回の写真は久秀ピンチ!なイメージ図です。左が信玄、右が謙信。
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◎東京国立博物館 「最澄と天台の国宝」展 開催中◎ ⇒ ひでるさん行ってきました。
本日も「戦国三梟雄」の一角、松永久秀さまの四回目です。
四回目なんで…ついに最後です。へろへろです。
ここまでお付き合い(してくれてるかな?)有難う御座いました。
とりあえず前回までのあらすじぃ。
畿内の覇者となった松永久秀。
将軍義昭を擁した織田信長が上洛してくるとあっさり降伏。その配下となりました。
久秀は織田家中でも大活躍。
しかし、傀儡であった将軍義昭がなにやら影でこそこそとゴキブリのように動きはじめたのです…。
姉川合戦で浅井・朝倉連合軍に勝利した織田軍。
ですが、将軍義昭の要請で大義名分を得た周辺諸大名は”調子づいた織田を潰すいい機会”とばかりに、次々と反織田陣営に加わりました。これが信長包囲網です。
その名簿はこんな(↓)感じです。
越後上杉、甲斐武田、越前朝倉、近江浅井、畿内三好三人衆、将軍義昭、安芸毛利、加賀・長嶋・石山などの一向宗、比叡山延暦寺、根来寺、雑賀衆など…。
信長の生涯で三度目くらいの大ピンチです。(①桶狭間②金ヶ崎…かな)
元亀三年(1572)反信長の中心的存在でした武田が、ついに上洛の軍を率いて甲斐を出陣しました。
チャーンス!
ということで、昨日の敵は今日の友。将軍義昭と同盟した松永久秀は得意の裏切りを実施、武田に呼応して反旗を翻しました。
…しかし、この将軍義昭もはちゃめちゃですわね。
さて、武田は三方ヶ原合戦にて信長子分の徳川家康を一蹴。大いに期待が高まりますが、なんと!包囲網の一人、越前「朝倉義景」は雪を理由に撤退。(※戦に飽きた感もある[本当])
この一件により、織田勢は朝倉の備えで裂いていた兵に余裕ができたため、どうにか息を吹き返しました。信長はこの機会を逃さず、各地の敵軍の各個撃破に成功します。
連携がモノをいう包囲網の計画が破れ、朝倉を散々罵倒したと言われる信玄ですが、なんと自身も病のため病没。
上洛の夢は破れてしまいました。これは皆さんもよくご存知ですよね。
信玄来ず。
これで困ったのは久秀以下、それを期待していた畿内勢力の皆様です。
松永久秀は持っていた名物などをことごとく献上し、降伏します。
すると、珍しく信長はこれを赦すんですね、なんでだか。…やっぱ好きなんでしょうか?
ただし将軍義昭は追放。(ちなみに一度は天皇の仲裁もあって赦しています)
ここに室町幕府は崩壊しました。
さて、追放はされたものの、どうにか生き長らえた義昭は懲りずに密書を連発し、再び信長包囲網を作り上げます。(ただし、この時は彼の要請というより、単純に信長を危険視してのことかもしれませんが)
今回の目玉は越後の龍こと「上杉謙信」です。
天正四年(1576)対立関係にあった一向宗と和解した謙信は西に軍を進めます。
チャーンス!
ということで、松永久秀は得意(病気?)の裏切りを実施、上杉に呼応して再び反旗を翻しました。
上洛する上杉軍は柴田勝家率いる織田軍と激突。軍神・上杉謙信が指揮をする軍は異様に強く、撤退のため渡河に手間取っていた織田軍を追撃し、大打撃を与えました。(手取川合戦)
居城「信貴山城」に篭る久秀も大喜びしたでしょう。
しかし、その謙信も日頃の大酒が祟ったのか、病のため病没。
上洛の夢は破れてしまいました。こちらも皆さんよくご存知ですよね。
ここまでの信長は実に運がいいんですよ。
謙信来ず。
ほどなく、城は信長の嫡男「織田信忠」の軍勢に囲まれます。この時も、信長の意を受けた信忠はさかんに降伏勧告をしていたようです。
あるいは、ここで降伏していれば本当に命は助かったかもしれませんが、所有していた名物「平蜘蛛の茶釜」(※)を渡すのを拒み、それと共に爆死するのでした。
享年六十七。ちなみに偶然と思いますが、大仏殿を焼き払ったのと同日だとか。
さて、こうした悪どいことがよく目立つ松永久秀ですが、当時一流の茶人「武野紹鴎(たけのじょうおう)」の弟子だったり(※千利休も弟子だった)、実は美男子でたいへんな教養を身に付けていたとか、閨房術にやたら詳しい(笑)とか、城に天守閣を造ったはしりであるなどなど、その実像は非常にスケールの大きい人物であったようです。
早雲とはまた違った、魅力ある人ですね。
もし戦国シミュレーションゲームで見かけたなら、是非使ってあげて下さい!
…裏切られるかもしれませんが。うふふ…。
(※)平蜘蛛の茶釜(ひらぐものちゃがま)
茶の湯にも通じた松永久秀が持つ秘蔵の名物茶器。蜘蛛のように平べったいものだったとか。
なお、今回の写真は久秀ピンチ!なイメージ図です。左が信玄、右が謙信。
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ですが、パソコンの画面設定というのはそれぞれで違っており、場合によってはひでるさんのそれがマイナスに作用していたことがあったかと思います。
※こんなん
ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ。 ←コレ
あああああ。
(説明:ひでるさんPCが画面設定小さいため、改行位置が上のように中途半端にずれていたりしたと思います)
内容はともかく、読み易い文というのはひでるさんが目標としている点であり、小さな親切大きなお世話となってしまっては無意味なんです。
そのため、今回から改行をいれない書き方に変えました。
んな、イチイチ大袈裟に知らせんでも、と思う方もおられるでしょうが、一応コメントにいれさせて頂きました。
また、文には注意しておりますが、この他に間違い、不具合、読みずらい、くだらねえ(←うわあっ!)などありましたら、お気軽にコメントなどでお知らせください。
るるる。
まぁ、なんかあったんだーと思って下さい。