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美濃の蝮 「斎藤道三」 (4)道三、大名になる

2006年06月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も戦国三梟雄の一人、斎藤道三です。
第四回です。
やっぱり長くなってしまいましたが、これで最終回ですよん。


前回のあらすじ。
商人から武士へ転職した、人生ロールプレイングゲームの「斎藤道三」は、うまいことやって主君「土岐頼芸」を追い出し、ついには美濃国を治める大名となっておりました。
たはー、人生ってロールプレイングゲームなんですね。
そんなん。
おしまい。


斎藤道三―信長が畏れた戦国の梟雄

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道三は家督と稲葉山城を嫡男の義龍に譲り、自身は隠居して鷺山城へ移りました。
これは義龍が頼芸の子であるという風評を逆手にとった手段でした。
道三に仕えるのは耐え難いが、土岐家の血を引く義龍ならば問題ない、ということなのでしょう。
これには後になってから義龍を廃嫡し、子の孫四郎か喜平治に譲るつもりだったという話もあります。
ただ、噂はあるものの、義龍が実際に誰の子であったのかは当人以外誰も知らないのでした。

また、家督は譲ったものの道三は依然として国政からは手を引いてはおりませんでした。単に名目のことだけだったんですね。

国主となった道三は追放された土岐盛頼、土岐頼芸の要請を受けた越前朝倉、尾張織田との抗争に突入します。
特に尾張「織田信秀」とはいいライバル同士という感じで、土岐頼芸を保護した信秀は度々美濃へ出兵しています。
合戦では老練な道三に散々翻弄され、ほぼ敗北しているんですが、それでも若い信秀はめげることなく、不屈の闘志で凝りもせずに次々と攻撃を仕掛けてくるのです。そのしつこさには、さぞ道三も舌を巻いたことでしょう。

やがて両家は利害の一致もあり、可愛い娘「帰蝶」と織田家嫡男であります信長の婚姻を成立させ、和睦するのです。

この斎藤道三。
政治面では信長の政策として知られる「楽市楽座」をやった(らしい)人物として知られています。

市とか座というものは、いわゆる独占や不入などの特権を持った商工業団体なんですが、これを排除して自由な市場をつくろうね、という政策です。
これを信長が思いついたというより、道三が思いついたというほうが自然なんですよ。油商という座・市にばっちり支配されていた職業を経験していた道三だからこそ考え付くと思うんですね。ほら、秀吉の刀狩りと同じで。
たぶん、信長は発展していた美濃の城下町を見聞きして、それを取り入れて大々的に行っただけだと思うんです。

弘治元年(1555)
病気と称した義龍は弟の孫四郎・喜平治を呼び寄せ、これを謀殺。
我こそは土岐の血を引く者なり、いまこそ父の無念を晴らさん!
そう宣伝し、父道三に対して謀反を起こしました。

この時、道三は約六十歳。
彼の人生にてごく稀な、他人に欺かれるという屈辱を自らの息子によって味わうこととなるのです。

義龍の元には一万七千あまりの兵が集結したのに対し、道三の元に馳せ参じたのはわずか三千程度でした。
追い出した筈の「桔梗の旗」が目前に再び立ち並ぶ光景を道三はどんな思いで眺めていたんでしょう。
ここに、親子が対決するという「長良川合戦」が始まります。

道三方はよく防戦しますが、圧倒的な兵力差に押し切られ、無残に討ち取られてしまうのです。
舅道三のために援軍を率いていた娘婿の織田信長は途中で悲報に接し、やむなく引き返しています。

織田信長を高く評価していた道三はわざと駆けつける前に討たれた、なんて説もあったりします。
もし、それが本当だったなら…悲しいことですけどなんだかいいですね。


[関連記事]
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
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