お寺さんぽ Ver.03

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祐豊、悲願の因幡但馬を統一 (山名祐豊・豊国)5

2009年08月23日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえず“山名氏とはなんぞや??”を4回ほどお送りしていましたが、このあたりからがようやく本題です。

清和源氏から続き、南北朝から室町時代に活躍した山名氏。
「嘉吉の乱」に活躍した「山名宗全(持豊)」でしたが、「応仁の乱」に長期関わったことから一族は急速に衰退していくのです。
宗全の孫「山名政豊」は赤松氏討伐に失敗し、後継者問題でも家中を混乱させたことで、その後継者「山名致豊」に国人衆は反乱。
「山名誠豊」を擁立し、致豊を放逐してしまうのでした。

独自の動きを見せ始める有力家臣たち。
さらに、因幡守護の一族「山名誠通(やまな・のぶみち)」はじわじわと影響していた尼子氏に通じ、宗家(但馬)に擁立されていた「山名誠豊(やまな・さねとよ)」に反乱。
また、もともと守護であった出雲国は尼子氏、安芸・石見は大内氏、備前には浦上氏といった諸勢力によって、旧領はすっかり侵食されていたのです。

そんなこんなで戦国時代に活躍するのは、誠豊の養子として宗家・但馬守護を継いだ「山名祐豊(やまな・すけとよ)」、そして因幡守護を継いだその弟「山名豊定」、そして子「山名豊国(※写真)」なのです。
順を追ってみてみましょう。


大永八年(1528)
放逐された「山名致豊」の次男であった「山名祐豊」は擁立されていた「山名誠豊」の養子となっていました。
その祐豊は義父誠豊の死によって、おおよそ十七歳で宗家の家督を継ぎ、但馬・此隅山城(このすみやまじょう)の城主となりました。

一方の庶子家・因幡山名氏ですが、次男「山名豊頼」が兄「山名豊重」を殺害して守護の座を奪うなど混乱。
また出雲に勢力のあった尼子氏の侵攻が強く、伯耆が完全その支配下となったほか、影響力は因幡にまで普及しておりました。
そんな頃、宗家「山名誠豊」を頼って因幡山名氏を相続していた「山名誠通(やまな・のぶみち)」ですが、祐豊が後継者となった天文年間(1532~1555)には独立を目指すようになり、これと対立。

同族ながら、因幡・但馬の間には緊張した空気が漂うこととなったのです

伯耆八橋城にあった戦国大名「尼子晴久」の影響は強く、因幡へ侵攻した尼子勢は大崎、鹿野という両城を陥落させていたほか、天文十年(1541)、天文二十年(1551)には朝廷への運動が実を結び、因幡守護として「尼子晴久」が任命されてしまうのでした。
誠通が尼子氏になびくのも、仕方ないことかもしれません。
天文十三年(1544)頃には完全に尼子氏に下り、その偏諱(へんき)を受けて「山名久通」と名乗っております。
これは完全に尼子氏に臣従した証と言えるでしょう。

後に合戦の舞台となる鳥取城を改修して備えていたと言われる誠通(久通)でしたが…
天正十七年(1548)
突如因幡へ出兵した「山名祐豊」は、奇襲によって居城である布施天神山城を一気に陥落させるのです
この際に誠通(久通)は討死。
悲願であった因幡・但馬の統一を果たした宗家(但馬)の祐豊は、因幡山名氏の家督に干渉して支配を始めることとなったのです。

⇒ つづく
 次回は「混乱を極める因幡国」(6/8)

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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2020-06-06 19:52:52
山名久通討死は天正ではなく天文十七年です。西暦は合ってます。
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