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出陣・戦巧者「島津家久」 (沖田畷合戦4)

2010年12月26日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」を切っ掛けに、龍造寺氏から離反する島原半島の諸豪族。
これに対し、本国・分国に総動員をかけた佐賀城主の「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」は、六万とも五万ともいう兵を集めると、晴信の居城・日野江城を陥落させるべく進軍を開始したのです。
一方、救援を求められた当主「島津義久」は、
当家を慕う者を見殺しにはできない
そう言って、弟「島津家久」と重臣「伊集院忠棟」らに出陣を命じたのです。


肥後・八代を出た家久率いる島津勢の兵力は、わずか三千程度
当然ながら、龍造寺氏の大軍と普通に激突しては”到底勝ち目がない”と考えていたのです。

天正十二年(1584)
龍造寺勢の進軍に対し、日野江城を出陣した晴信は五千という主力を率いて出陣。
沖田畷付近の森岳城へ入り、その到着を待ち構えていました。
救援する家久は、八代から海路にて島原半島の南部へ上陸。
安徳城へ入城したのち、半島の東海岸を北上しています。
一方の「龍造寺隆信」は、海路から半島北端の神代湊に入り、森岳城から北に位置する三会城へ軍勢を集結させました。

両軍が激突したのは、島原の前山(眉山)の山麓から海岸まで、島原市の二本木あたり。
当時このあたりは低湿地・深いドロ道だったようなのです。
その中央には二、三名がやっと通れる程度のあぜ道があり、付近は”沖田畷”と呼ばれていました。

そもそも「畷(なわて)」とは、田んぼの間の道のことを指します。
総大将「島津家久」は、どうやらこの足場の悪い湿地帯に敵勢を誘い込むことを考えていたようなのです。

森岳に本陣を構えて伏兵を置き、海上の船には三百という鉄砲隊を待機させました。
また、前山(眉山)から森岳城までにかけて、累壁と大城戸を設置しております。
徹底した守りの陣を敷いたのです。
先鋒は「赤星統家」、右翼の海岸側には「島津家久」、左翼・眉山には「新納忠元」と「伊集院忠棟」、伏兵は「猿渡信光」が指揮するという布陣。
なお、ここで先陣をつとめる「赤星統家」は、肥後の国人領主。
龍造寺からの出陣要請を渋ったことで人質の子らを磔にされており、赤装束に身を包むという決死の覚悟であったようです。

半島を南下してきた龍造寺勢。
軍勢を三つに分け、右翼には隆信の本軍、中央には「鍋島直茂」、左翼には「江上家種」、「後藤家信」という布陣でした。

⇒ つづく。
 ※次回は「炸裂・島津得意の”釣り野伏”」(5/6)

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 歳久くんも気の毒ですが。

離反を招く龍造寺氏 (沖田畷合戦3)

2010年12月19日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という圧倒的に不利な島津勢を率い、見事に全軍を勝利に導いたその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのでした。


天正十一年(1583) 夏
九州統一を目指す島津氏は、龍造寺氏の影響力が強い肥前を虎視眈々と狙っていました。
そんな頃、キリシタン大名としても有名な肥前島原「有馬晴信(ありま・はるのぶ)」は龍造寺を見限って、島津に内通してきたのです。

「龍造寺隆信(※写真)」は優れた大将でした。
しかし、天正八年(1580)頃の隠居からは酒色に溺れる日々を過ごし、横暴な振舞いも多くなっていたと伝わっています。
また、放浪時代には庇護してもらった協力者の孫、筑後「蒲池鎮漣(かまち・しげなみ)」を謀反の疑いで謀殺したほか、その一族・傍流をも”ことごとく抹殺する”という、凄惨な事件を起こしております。
これが天正九年(1581)のこと。
こちらは龍造寺四天王の一人「百武賢兼」からも疑問の声が上がるほどに残酷なもので、周辺領主らの離反を招く要因となったのです。
そもそも、龍造寺氏に従う大半は大友氏の衰退がために帰順した者が多く、支配体制は盤石なものではなかったのです。
実際、その晴信に続いて安徳城の「安徳純俊(あんとく・すみとし)」らも、龍造寺から離反しています。

こうして、動揺の広がっていた島原半島の諸豪族を押さえるべく、はたまた島津勢を殲滅するべく、隆信は自ら兵を率いて出陣。
本国・分国に総動員をかけ、六万とも五万ともいう最大に近いだろう兵を集めると、晴信の居城・日野江城を陥落させるべく進軍を開始したのでした。
(※実際のところは、おそらく二~三万という感じでは)

その攻撃にさらされることとなった晴信は、島津氏へ救援を求めます。
こうして、肥前への進出に、絶好の大義名分を得た島津氏。
当家を慕う者を見殺しにはできない
そう言った当主「島津義久」は、弟「島津家久」と重臣「伊集院忠棟」らに出陣を命じたのです。
ここだけを切り取るのは、違うかもしれませんが…。
恩人を抹殺した龍造寺氏に対して、助けを求めてきた晴信を万全な状態でないながら見捨てなかった島津氏というのは、小さくない差であると思います。

⇒ つづく。
 ※次回は「出陣・戦巧者「島津家久」」(4/6)


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五州二島の太守・龍造寺氏 (沖田畷合戦2)

2010年12月12日 | 歴史
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本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
九州では、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という圧倒的に不利な島津勢を率い、見事に全軍を勝利に導いたその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのでした。


前回に続いて、島津に対する龍造寺氏。
北九州の大半を押さえていたのは「大友宗麟」でした。
しかし、その宗麟でも服属させることができなかったのが、”肥前の熊”こと佐賀城主の「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」なのです。

もともとは平安時代末期に「藤原季家」が肥前の龍造寺郷(佐賀市)にて地頭職を得たのが龍造寺氏の起こり。
結構古い家柄なんですね。
戦国時代では、守護大名家・少弐氏(しょうにし)の家臣となっていました。
当初は出家していた隆信でしたが後に還俗。
水ヶ江龍造寺、続いて宗家・村中龍造寺を相続しています。
一時期は内紛によって逃亡生活を送っていましたが、蒲池氏の支援を受けて帰国しました。

戦国大名としての地位に返り咲いた隆信は、曾祖父「龍造寺家兼」が見抜いていたその才を発揮。
主君筋である少弐氏を筑後へ追放するのでした。
九州地方ではなかなか珍しい、下剋上を果たしているんですね
以後は肥前の周辺豪族を次々と破り、やがて大友氏とも対立。
これには、安芸の毛利氏と結んで抵抗しています。

元亀元年(1570)
宗麟の弟「大友親貞」の率いる六万という大軍勢に取り囲まれています。
この絶体絶命の危機を「鍋島直茂」の奇襲策によって撃破する(今山合戦)などしぶとい抵抗を見せるのでした。
大友氏とは結局は和議を結ぶこととなったものの、その支配下でしたたかに勢力を拡大。
「有馬晴信」、「大村純忠」という諸将を下して肥前の統一に成功すると、天正六年(1578)の「耳川合戦」後の大友氏の混乱に乗じて積極的に出兵。
肥後、筑前、筑後…と、勢力を拡大していくのでした。
こうして、龍造寺氏は九州を三分する一家にまで勢力を拡大、”五州二島の太守”となっていたのです。

⇒ つづく。
 ※次回は「離反を招く龍造寺氏」(3/6)


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敵将も畏怖する戦巧者「島津家久」 (沖田畷合戦1)

2010年12月05日 | 歴史
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本日は九州の覇者決定戦というべき合戦の一つ、「沖田畷合戦(おきたなわて・かっせん)」についてです。

島津と聞いて真っ先に思い出すのは…”鬼島津”こと、関ヶ原の敵中突破で有名な「島津義弘(しまず・よしひろ)」でしょう。
戦のプロフェッショナルですよね。
しかし、島津家にはその義弘に勝るとも劣らない、戦巧者がいるのでした。
敵将も畏怖したという、義弘の弟「島津家久(しまづ・いえひさ)」です。
これから紹介する「沖田畷合戦」は、その才が遺憾なく発揮されたものなのです。


天正十二年(1584) 三月
天下人への道を進んでいた「織田信長」の死から二年後。
中央ではその配下だった「羽柴秀吉」が着々とその地盤を固めていた頃。
九州に目を向けると、九州戦国史のクライマックスというべき、島津・龍造寺という両雄の激突・覇権争いが行われていました。
兵力では半数以下という、圧倒的に不利な島津勢。
それを率いて見事全軍を勝利に導き、大将「龍造寺隆信(りゅうぞうじ・たかのぶ)」を討ち取ったその人こそ、今回の主人公「島津家久」なのです。


さて、まずは薩摩の島津氏の状況から。
鎌倉時代から続く名族、島津氏。
当主の「島津義久」は分裂していた島津家を統一した祖父・父の後を継ぎ、薩摩から支配を大きく拡大させていました。
伊地知氏、肝付氏を攻略して大隅までを手中にすると、日向の伊東氏を圧倒。
九州最大の大名「大友宗麟」率いる大部隊が迫った天正六年(1578)の「耳川合戦」では、得意の”釣り野伏”によって大友勢を耳川に破ったのでした。
こうして、続いて肥後へと進出した島津氏は、相良氏・阿蘇氏を追って南九州を固めつつあったのです。

今回の主人公「島津家久」は「島津貴久」の四男です。
天文十六年(1547)に誕生した彼は、義久とは十四、義弘とは十二歳違いの弟。
祖父「島津忠良(日新斎)」からは、
軍法戦術に妙を得たり
という評価を得た戦巧者で、先の「耳川合戦」でも活躍しています。

⇒ つづく。
 ※次回は「五州二島の太守・龍造寺氏」(2/6)


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