のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はたった一戦で後世の評価がひっくり返ってしまった気の毒さんの代表格。
駿遠三の太守、海道一の弓取りこと「今川義元」です。
ああっ、義元さま…。
ごめんねぇ、長いよねぇ…。今回もこれで五回目となってしまいました(笑)
今川家が嫌いな方すみません。
もうすぐ…ではないですが、あとちょっとで例の事態が起こりますんで。
えっと、今川家へ護送されることとなっていた松平家の嫡男「竹千代」は裏切りによって織田家の人質となってしまいました。
義元さまは併合した三河領内から織田勢を追い払うため、頼れる軍師「雪斎」を大将とした軍勢を送ります。
その「小豆坂合戦」にて見事勝利するのでした。
天文十八年(1549)
合戦に勝利し、西三河から織田勢を駆逐した「今川義元」
しかし、今川家の傘下に入っていた「松平広忠」は二十三歳という若さで突然死してしまうのです。
これは暗殺とも、病死とも言われていますが、詳細はもう闇の中。
ともかく、これで松平家の家臣らが主君と仰ぐ者は、織田家の人質「竹千代」しかいなくなってしまったのです。
(※これで、自らが取って代わろうと思わないところが岡崎衆のいいと・こ・ろ。うふふ…)
さて、義元は主不在となって去就が怪しげな松平家を確保しておくため、まず岡崎城には家臣の朝比奈・鵜殿ら信頼できる重臣を送り、これをしっかり・ちゃっかり接収しました。
さらに、絶大な信頼を寄せる「雪斎」を総大将とし、織田方に落ちていた三河・安祥城を攻めさせるのです。
ここで今川軍を率いる「雪斎」にはある思惑がありました。
城を囲んだ今川勢は総攻撃をせず、じわじわと追い込む程度に攻撃していました。
やがて三の丸、そして二の丸を落とし、本丸だけとなった際にタイミング良く降伏勧告をして、これを攻略。
城主「織田信広(※信秀の長男で信長の兄。でも正室の子ではない)」を捕らえることに成功するのです。
いいですか、攻撃側の総大将、「雪斎」はわざわざ微妙な加減で攻撃をしていたのです。
今回目的の一つは人質「竹千代」の奪還だったのです。
だから、城主の「織田信広」には自刃されないよう、わざとじわじわ追い込んでいたようなのです。
追い込みすぎて、命の限り抵抗されるのも困るんですね。そのあたりの微妙な加減ができるんですよ。
こんなん、相当の実力がないとできません。
結果として、信広の生け捕りにはしっかり成功しています。
こうして、めでたく「竹千代」と「織田信広」の人質交換をするのでした。
岡崎衆は今川家で成長する若君のため、辛い臣従の道を余儀なくされるのです。
そんな苦労の松平勢はともかく、これによってほぼ三河全域を支配下とすることに成功。
今川家は駿・遠・三を統治する大勢力となりました。
このあたりは温暖な気候で平野にも恵まれ、農地の生産性は非常に高かったのです。
基盤もばっちりだったでしょう。
今川義元が「海道一の弓取り」と評されるようになるのはこの頃なのです。
⇒つづく。 次回は「三国同盟と義元さま」
※ちなみに今回写真は裾野「葛山城・城址」です。ちょっと関係薄いですが。
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※海道一の弓取り、です。
こちらでは「徳川家康」のことを指します。
義元の死後、武田勢に敗れながらも決死の抵抗をした家康にその称号が送られるのでした。
…けっ!家康ごときが!!
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本日はたった一戦で後世の評価がひっくり返ってしまった気の毒さんの代表格。
駿遠三の太守、海道一の弓取りこと「今川義元」です。
ああっ、義元さま…。
ごめんねぇ、長いよねぇ…。今回もこれで五回目となってしまいました(笑)
今川家が嫌いな方すみません。
もうすぐ…ではないですが、あとちょっとで例の事態が起こりますんで。
えっと、今川家へ護送されることとなっていた松平家の嫡男「竹千代」は裏切りによって織田家の人質となってしまいました。
義元さまは併合した三河領内から織田勢を追い払うため、頼れる軍師「雪斎」を大将とした軍勢を送ります。
その「小豆坂合戦」にて見事勝利するのでした。
天文十八年(1549)
合戦に勝利し、西三河から織田勢を駆逐した「今川義元」
しかし、今川家の傘下に入っていた「松平広忠」は二十三歳という若さで突然死してしまうのです。
これは暗殺とも、病死とも言われていますが、詳細はもう闇の中。
ともかく、これで松平家の家臣らが主君と仰ぐ者は、織田家の人質「竹千代」しかいなくなってしまったのです。
(※これで、自らが取って代わろうと思わないところが岡崎衆のいいと・こ・ろ。うふふ…)
さて、義元は主不在となって去就が怪しげな松平家を確保しておくため、まず岡崎城には家臣の朝比奈・鵜殿ら信頼できる重臣を送り、これをしっかり・ちゃっかり接収しました。
さらに、絶大な信頼を寄せる「雪斎」を総大将とし、織田方に落ちていた三河・安祥城を攻めさせるのです。
ここで今川軍を率いる「雪斎」にはある思惑がありました。
城を囲んだ今川勢は総攻撃をせず、じわじわと追い込む程度に攻撃していました。
やがて三の丸、そして二の丸を落とし、本丸だけとなった際にタイミング良く降伏勧告をして、これを攻略。
城主「織田信広(※信秀の長男で信長の兄。でも正室の子ではない)」を捕らえることに成功するのです。
いいですか、攻撃側の総大将、「雪斎」はわざわざ微妙な加減で攻撃をしていたのです。
今回目的の一つは人質「竹千代」の奪還だったのです。
だから、城主の「織田信広」には自刃されないよう、わざとじわじわ追い込んでいたようなのです。
追い込みすぎて、命の限り抵抗されるのも困るんですね。そのあたりの微妙な加減ができるんですよ。
こんなん、相当の実力がないとできません。
結果として、信広の生け捕りにはしっかり成功しています。
こうして、めでたく「竹千代」と「織田信広」の人質交換をするのでした。
岡崎衆は今川家で成長する若君のため、辛い臣従の道を余儀なくされるのです。
そんな苦労の松平勢はともかく、これによってほぼ三河全域を支配下とすることに成功。
今川家は駿・遠・三を統治する大勢力となりました。
このあたりは温暖な気候で平野にも恵まれ、農地の生産性は非常に高かったのです。
基盤もばっちりだったでしょう。
今川義元が「海道一の弓取り」と評されるようになるのはこの頃なのです。
⇒つづく。 次回は「三国同盟と義元さま」
※ちなみに今回写真は裾野「葛山城・城址」です。ちょっと関係薄いですが。
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※海道一の弓取り、です。
こちらでは「徳川家康」のことを指します。
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