のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はあまり評価されることが少ない…というか、普通の人はその存在すら知らない(笑)であろう、北条家の重鎮「北条氏照」について。
その第二回目です。
こうして地味などうでもいい線(←失礼)をつくのが、いかにもひでるさんらしいでしょ?
バカだのなんだの言われる可愛そうな兄・氏政とは違い、評価が上々な氏照。
若いころより聡明で、武勇にも優れる氏照は北条家の主力部隊として主要な合戦のほとんどに参加し、度々功を立てております。
長じてからは北条家三大支城のひとつ、大規模な山城「八王子城」城主として君臨するのでした。
この、現在は地名にもなっている「八王子」ですが、付近に八王子社(※そのまま五男三女神の八名が祀られた社です)が設けられ、それがもとで「八王子城」となり、そのまま地名となったそうです。
(→ちなみに、八王子城の詳細を後でやります。お楽しみに!)
こちらでは、滝山城時代に武田に攻められて苦戦した経験から、小田原城を真似た大外郭を有する巨大な山城を建築していたようなのです。
その戦いというのが…
永禄十二年(1569)
今川、武田、北条の三国同盟はその一角である今川義元の討死により、武田が駿河今川領へ進攻開始したことによって頓挫します。盟約を守った北条家は今川へ援軍を送ったため、武田・北条の仲は険悪なものとなるのです。
そこで、これまで関東管領として度々北条と鉾を交えてきたライバルの上杉家ですが、この際には共同して武田にあたるべく、同盟を結ぶのです。
(※氏政の弟、後の上杉景虎が養子に出されるのはこの際)
武田晴信が北条領へ侵攻し、小田原城を囲んだのは、その報復攻撃なのでした。
武田勢は鉢形城、滝山城を攻め、ついに小田原城にまで押し寄せます。
この、甲斐との国境近くに位置していた「滝山城」攻防戦では、十倍という戦力差によってあわや落城寸前まで追い詰められています。
しかし、城主・氏照らの奮戦によって、どうにかそれを免れたという有様でした。
また、小田原城を囲む武田勢に対し、当時はまだ健在であった氏康は武田方に決戦を望む気配がないことを見抜き、徹底した籠城策をとっています。
しきりに攻撃仕掛ける上杉勢を相手にしなかった(※戦っても被害が出るだけ。雪が降る前には引き揚げるという見通し)名将・氏康ですが、この際にも実に的確な判断をしていたのです。
やがて、その読み通り武田勢は撤退を開始。
その退却する武田軍を追撃したのが「三増峠合戦」なのです。
北条氏照、四男・氏邦以下の北条軍は三増峠に布陣して退路を塞ぎ、別に追尾する本隊との挟撃する策をもってその壊滅を狙います。
が、山岳戦に慣れた武田方は布陣を事前に察知すると「山県昌景」の別動隊に高所から側面攻撃を仕掛けさせ、難を逃れています。
この戦国最大規模と呼ばれる山岳戦では、さすがに晴信要する武田勢に敗北してはいるものの、強行突破をした武田方の被害も大きく、”北条侮り難し”という印象を与えています。
武田方は勝利したとはいえ、一歩間違えれば殲滅されかねない、ぎりぎりの勝利なのでした。
…こうした有名・大規模な戦で敗北していることも、氏照くんの評価がイマイチ芳しいものとならない一因なんですねぇ。
おしかった。
⇒つづく
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※三増峠合戦です。
うまいこと本隊が到着していれば武田討ち取れたというのに…ああ、くそー。
くやし~い
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本日はあまり評価されることが少ない…というか、普通の人はその存在すら知らない(笑)であろう、北条家の重鎮「北条氏照」について。
その第二回目です。
こうして地味などうでもいい線(←失礼)をつくのが、いかにもひでるさんらしいでしょ?
バカだのなんだの言われる可愛そうな兄・氏政とは違い、評価が上々な氏照。
若いころより聡明で、武勇にも優れる氏照は北条家の主力部隊として主要な合戦のほとんどに参加し、度々功を立てております。
長じてからは北条家三大支城のひとつ、大規模な山城「八王子城」城主として君臨するのでした。
この、現在は地名にもなっている「八王子」ですが、付近に八王子社(※そのまま五男三女神の八名が祀られた社です)が設けられ、それがもとで「八王子城」となり、そのまま地名となったそうです。
(→ちなみに、八王子城の詳細を後でやります。お楽しみに!)
こちらでは、滝山城時代に武田に攻められて苦戦した経験から、小田原城を真似た大外郭を有する巨大な山城を建築していたようなのです。
その戦いというのが…
永禄十二年(1569)
今川、武田、北条の三国同盟はその一角である今川義元の討死により、武田が駿河今川領へ進攻開始したことによって頓挫します。盟約を守った北条家は今川へ援軍を送ったため、武田・北条の仲は険悪なものとなるのです。
そこで、これまで関東管領として度々北条と鉾を交えてきたライバルの上杉家ですが、この際には共同して武田にあたるべく、同盟を結ぶのです。
(※氏政の弟、後の上杉景虎が養子に出されるのはこの際)
武田晴信が北条領へ侵攻し、小田原城を囲んだのは、その報復攻撃なのでした。
武田勢は鉢形城、滝山城を攻め、ついに小田原城にまで押し寄せます。
この、甲斐との国境近くに位置していた「滝山城」攻防戦では、十倍という戦力差によってあわや落城寸前まで追い詰められています。
しかし、城主・氏照らの奮戦によって、どうにかそれを免れたという有様でした。
また、小田原城を囲む武田勢に対し、当時はまだ健在であった氏康は武田方に決戦を望む気配がないことを見抜き、徹底した籠城策をとっています。
しきりに攻撃仕掛ける上杉勢を相手にしなかった(※戦っても被害が出るだけ。雪が降る前には引き揚げるという見通し)名将・氏康ですが、この際にも実に的確な判断をしていたのです。
やがて、その読み通り武田勢は撤退を開始。
その退却する武田軍を追撃したのが「三増峠合戦」なのです。
北条氏照、四男・氏邦以下の北条軍は三増峠に布陣して退路を塞ぎ、別に追尾する本隊との挟撃する策をもってその壊滅を狙います。
が、山岳戦に慣れた武田方は布陣を事前に察知すると「山県昌景」の別動隊に高所から側面攻撃を仕掛けさせ、難を逃れています。
この戦国最大規模と呼ばれる山岳戦では、さすがに晴信要する武田勢に敗北してはいるものの、強行突破をした武田方の被害も大きく、”北条侮り難し”という印象を与えています。
武田方は勝利したとはいえ、一歩間違えれば殲滅されかねない、ぎりぎりの勝利なのでした。
…こうした有名・大規模な戦で敗北していることも、氏照くんの評価がイマイチ芳しいものとならない一因なんですねぇ。
おしかった。
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