お寺さんぽ Ver.03

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金龍寺 (群馬県・太田市)

2011年10月09日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はこないだ紹介した「金山城跡」、そして「太田市立史跡金山城址ガイダンス施設」…へ、行った後にそのまま立ち寄りたい、「新田義貞」ゆかりのお寺「金龍寺」です。
徒歩で「金山城跡」から十分可能な距離だったので、ぜひこちらも攻略しておきましょう。
ひでるさんはガイダンス施設の方に近道(ちょっとね)を聞いていきましたよ。

上州太田七福神では「毘沙門天」、秋の七草寺では「桔梗」が担当というこちら「金龍寺」
正式名称は、「大田山義貞院金龍寺」でした。
「新田義貞」の法名は「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」であり、そのお名前にちなんで命名されたことが伺えます。


※駅前の「新田義貞」さまです。

時代は、まだ「後醍醐天皇」がブイブイ言わせていた頃。
元亨元年(1321)
こちらのお寺はもともと、「新田義貞」が精神道場としてお寺を開いていたとも言われております。
確かではなく、そんな感じだったらしいのよ。
南北朝の動乱で敗れた義貞は北陸へ逃れ、延元三年(1338)に越前で戦死してしまうのです。

その菩提を弔うため、新田一族の「岩松満純(いわまつ・みつずみ)」はこの地に諸堂を建立。
応永五年(1398)には、「金龍寺」を開いたのでした。
義貞の開山が真実なら、それを中興したというところでしょう。
そんな祖先思いの岩松氏でしたが、新田荘横瀬郷を本領としていた横瀬氏(※戦国時代には由良氏と改名)に下剋上そのまま取って代わられることとなるのです。

応永二十四年(1417)
新たに金山城主となったのが、岩松氏の重臣だった横瀬氏。
越前から義貞の遺骨をこの境内まで移し、「大見和尚」を招いて開山したのは初代とされる「横瀬貞氏」
(※あまりハッキリしてない様子)
義貞の廟所と定めて、その木像を安置しました。
その後、横瀬氏は主家と対立・圧倒し、実権を握っていくのです。
周辺地域を併合して、自らの勢力を拡大。
その菩提寺となった「金龍寺」も、共に栄えていったのでした。


※五輪塔・供養塔

しかし、「由良(横瀬)国繁」の代に「豊臣秀吉」の小田原征伐が勃発。
国繁は北条氏に加担したものの、祖母、息子は前田勢に参加したため、どうにか滅亡の危機を回避しております。
戦後は上総国牛久へ移封。
それと共に寺・僧なども移り、建物や木像、墓のみが残されたこの地は荒廃してしまうのです。
上野国・館林城主となっていた徳川四天王の一人「榊原康政」はこれを惜しみ、寺領を整備し再興させ、現在に至るのでした。
康政は”田畑八町余りを寄進”したそうですよ。


※看板の七福神です。漫画ちっくなのね。

本堂の裏手には歴代金山城主となった横瀬氏(由良氏)の五輪塔は九基ほど。
また、最上段には寛永十四年(1637)に造立されたという「新田義貞」の供養塔もありました。


[住所]
 金龍寺 群馬県太田市金山町40-1

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  時代背景[   
  「赤坂城籠城戦」[ 
  「天王寺合戦」[
  信濃源氏・村上親子の奮戦[
  「千早城籠城戦」[ 10
  天皇親政[11 12 13 14
  「湊川合戦」[15 16
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(    
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [   
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[     



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御神山・三輪山 登山について (奈良・大神神社)

2011年09月11日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…とても”のんびり”とは言っていられない、「三輪山」の登山について、です。


最古の神社という「大神神社(おおみわ・じんじゃ)」
こちらが崇めているのは、なんと「三輪山」と、お山そのものなのでした。
そのために本殿はなく、奥に三ツ鳥居があって、それを通してお山を拝するという原初の信仰形態です。
(※いちおう御祭神は「大物主大神(おおものぬし・のおおかみ)」)
ちなみに三ツ鳥居は勤番所から神主さんを呼び、横から参拝できます。

…でね、その神様そのものな「三輪山」に直接登れるということで、このたび行ってきました。
ぶっちゃけひでるさんは普段座り仕事でスポーツも特にしないため体力はなく、行ったのも真夏の真っ只中であったため…あまり気乗りはしなかったんです。
そのため、事前に色々と調べてみました。
神体山ということで写真・飲食などが禁止されているなど”入山心得十箇条”があり、いまいち期待するような情報は得れませんでした。
そのため、今回のブログでは、実際のところどんなもんか、について書いてみます。
登山できない日付とか、一般的な事柄などについては、他ブログを参照下さい。



※こちらが狭井神社です。

●所要時間について
 ちょうど往復二時間でした。(12:33~14:33 ←マジでぴったり二時間)
 神社左奥の「狭井神社(さい・じんじゃ)」から入ります。
 パンフには二~三時間と書いてありましたが、なるほどそんな感じでしょうか。
 登りでは立ったまま休憩、どっかり座って休憩と、ちらほら休みを挟みつつ、頂上「奥津磐座(おきつ・いわくら)」も数分程度の滞在。
 降りは一度休憩をしただけでした。
 
●装備について
 番号のふられた「三輪山参拝証」のたすきを首にかけて進みます。
 コロコロとした鈴の音が良く、邪魔には感じません。
 また、竹の杖を持っていくよう言われますが、なるほど行き・帰り共にある・ないでは大違い。
 いくつかありましたので、持ちやすいのをチョイスしてください。
 特に降りは足元危険なので、あった方が良いと思います。

 服装はやはり動き易いものがオススメ。
 食べ物はNGですがいちおう飲み物はOKなので、ペットボトルがあるといいでしょう。
 一本だけだとやや少ないかな
 ただ、ガブガブ飲んだとしても、三本は必要ありません。たぶん。
 神社には御神水ありますが、頂上までは何もありませんでした。

 後述しますが木陰多く、帽子は必要ないと思います。
 汗っかきでなくとも、タオルっぽいものはあった方が便利。
 また、ひでるさんはギャッツビーのボディペーパー(ひんやりする濡れティッシュみたいなやつ)とウェアデオドラントスプレー(冷却スプレー)を持って行きましたが、これらがなかなか爽快。
 特にボディペーパーはよく持続し、ちょっとした風も爽やかに感じました。
 オススメ。
 ただ、ゴミはきっちり持ち帰るように
 そのほか、余計な荷物は持っていかない方がいいでしょう。
 神社に無料のコインロッカーがあったので、御利用下さい。


※三輪山・入口 かなりの急坂なので注意。
 
●道について
 木々が高く木陰も多くあり、八月の炎天下でもそう気温は高くありません
 たまに風も吹いていました。(※冬は寒いと思う)
 ただ、道はかなりの急坂で、見上げると進む気がなくなるほど
 まれに進みにくい場所があったものの丸太による階段などで、さして問題ないでしょう。

 狭井神社(80m)
  ↓
  ↓ いきなり結構な急坂。
  ↓ ある程度進むと、なだらかになります。
  ↓
 水呑谷
  ↓ ※そのうち小川が見え、その脇を進みます。
  ↓
 三光の滝・休舎(270m)
  ↓ ※とりあえずここを目指して進むのがいいかと。
  ↓  飲めませんが顔は洗えます。
  ↓   
  ↓ 付近は急坂多く、根もあるので足ひっかけないよう注意。
  ↓ ひでるさんは三回くらいひっかかりました。
  ↓
 中津磐座[なかついわくら](364.5m)
  ↓ ※しめ縄のある岩・木の場所です。
  ↓  アブがぐるぐる飛んでいて威嚇され、休み辛かったです。
  ↓
  ↓ このあたりも急坂です。   
  ↓ たまに分岐がありますが、どちらもそう変化しません。
  ↓ 浮石も注意。たまにカパカパなってるのがありました。
  ↓
 高宮神社(446.7m)
  ↓ ※やや平たくなり、建物が見えれば頂上は間近です。
  ↓
 奥津磐座[おきついわくら](467.1m)
    ※ごつごつとした岩があります。
     奥は行き止まりでしたが、ちらと裏側が見えました。 
 


※杖と御神水 杖は必須です。しっくりくるのを選びましょう。

受付の神主さんに、厳しい調子で説明を受けました。
気が引き締まります。
登山目的、ハイキング目的では困ります、あくまでも参拝目的で登るようにして下さい。
また高さではそれほどでもないですが急坂が続くため、生半可な気持ちでは危険だと思います。
しっかり装備をして進むのがいいかと。



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三輪山と卑弥呼・神武天皇
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学生社



少林山達磨寺 (群馬県高崎市)

2011年07月24日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はダルマの発祥地として有名な、「少林山達磨寺(しょうりんざん・だるまじ)」です。

縁起モノとして今でもよく使われる、「縁起達磨」発祥のお寺です。
当然のように、お寺でも「縁起達磨」は購入でき、大きいものから小さいものまで様々ありました。
とりあえず、机における程度のものを買ってきましたよー。
なかなかいい風情です。
なんらか願いが叶った際に目を入れるようにしましょうかね。


※絵馬も達磨でした。なかなか可愛いですね。


さて、そんな訳で「達磨寺」です。
HPを見たところ細かく歴史が残っておりましたが、ごく簡単に。
三百年ほど前、とあったので、だいたい江戸時代頃でしょう。

昔、碓氷川のほとりに観音堂がありました。
「行基菩薩(ぎょうき・ぼさつ)」作の、十一面観音だそうです。
延宝年(1673~80)に大きな洪水があり、碓氷川も氾濫したんですが…その後、川の中に何やら光る物を見つけたのでした。
不審に思って引き上げたところ、それは古木だったのです。
なんで光ってたんでしょうね!?

ともかく、それがたいそう良い香りだということで、霊木としてお堂に安置しておいたのです。
古木は香木だったんですよ。

それから時は過ぎて、延宝八年(1680)のこと。
「達磨大師(だるま・たいし)」から夢でお告げを受けた、と「一了居士(いちりょう・こじ)」という行者が訪ねてきました。
お告げの内容から、おそらくは安置した霊木だろう~ということで、彼はそちらに「達磨大師」の像を彫ったのでした。

”ひと彫りするごとに拝礼を三度する”という、一刀三礼(いっとうさんれい)なんて彫り方をしたようです。
それだけ気持ちがこもるということなんですが…時間かかりそうねー。
聞いたところ、「一了さん」はさほど若くないようなので心配。

まぁ、ひでるさんの心配をよそに、無事座禅している「達磨大師」像を完成させ、ここにお祀りしたのでした。
それがなかなか素晴らしい出来栄えだったらしく、
「ウチのお堂にすげぇ達磨大師像があってさぁー」
みたいに村人が言いふらしたことから(たぶん)、たちまち周辺の噂となり、”達磨大師出現の霊地”となっていったのでした。
山号が「少林山」となったのもその頃。

その話題はやがて藩主「酒井忠拳(さかい・ただたか)」の耳に入り、彼はここにお寺を建てることとしたのです。
「水戸光圀(みと・みつくに)」に進言し、僧「天湫(てんしゅう)」が「達磨寺」を開創するのでした。

その観音堂は、創建当時のまま現在も残る最古の建物。
さらに境内には達磨堂という、”ダルマ・ミュージアム”というべき施設もありました。
色々な達磨、そのグッズが集合しているという、注目のスポットです
日本地図と共に全国の達磨が並べられており、その変化を見比べたりもできます。
そう大きな施設でないのは良し悪しかなー。


※達磨堂 だいたいこんな感じのサイズ

年末年始には、階段にずらーっと参拝客が並び、そりゃー大変な賑わいになるんだとか。
入場制限されるんですよ、と運転手さんが教えてくれました。


[住所]
 少林山達磨寺 群馬県高崎市鼻高町296

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ぐれダルマ [ 貯金箱 オブジェ ]
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DETAIL

※こんなんを見つけました。
 ミュージアムには入れるかなぁ。


長谷寺・長谷観音 (神奈川県鎌倉市)

2011年05月15日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は神奈川県は鎌倉市の「長谷寺(はせでら)」です。

こないだ2度目の参拝をしてきました。
堂内にて度肝を抜くような大きさの、通称「長谷観音」で有名なコチラ。
付近には鎌倉大仏があり、どうしてもそっちが目立ってしまうんですが、お寺として楽しいのは断然「長谷寺」です
宝物館には仏像もあり、神奈川寺院の中でも特にオススメ。

正式には「海光山慈照院長谷寺(かいこうざん・じしょういん・はせでら)」です。
開創は天平八年(736)の奈良時代。
奈良は「唐招提寺」とだいたい同じくらいで、当時政権にあった「藤原(中臣)鎌足」の孫・藤原四兄弟が天然痘の流行によって相次いで病死しているような時代ね。
こちらの縁起が面白いので紹介します。


※頂上からの眺め。

「長谷寺」を代表する、「長谷観音」こと本尊「十一面観世音菩薩像」
もともとは、奈良で造られていました。
養老五年(721)
現在の奈良県、当時は大和国の「長谷寺」の開山である「徳道(とくどう)上人」
その本願に基づき、進み出た「稽文會(けいもんえ)」、「稽首勲(けいしゅくん)」と名乗る仏師二人。
巨大な楠の霊木から、わずか三日三晩にて二体の観音像を造り上げたのでした。

これは凄い!
しかも、二体もの観音像ですよ!!

とても人間業とはとは思えませんね。
…とか思ったら。
この仏師、実は「不空絹索観音」、「地蔵菩薩」の化身なのでした。
ああ、なるほど。
ともかく、そのうちの一体は大和「長谷寺」の本尊となり、もう一体は衆生救済の願いを込められ、開眼供養をした「行基上人」によって海中へと奉じられたのでした。

その後、天平八年(736)
像は横須賀市長井まで流れ着き、報告を受けた「藤原房前(ふじわらの・ふささき:藤原四兄弟の一人)」によって鎌倉へと送られるのです。
まあ、モロに流れ着いたんでしょうね。
伝承によると、仏像に付着した”かきがら”の導きによって鎌倉へたどり着いたとされ、境内には「かきがら稲荷」というのが祀られております。


本尊となった「十一面観世音菩薩像」は、九メートルを超える巨大な仏像(9.18m)
錫杖を右手に、岩座に立つ姿は独特で、”長谷寺式”と呼ばれているんだとか。
見上げる巨大な姿はモノ凄いですよ。


※弁天窟です

ともかく、こうして、東国を代表する観音霊場となった「長谷寺」
「聖武天皇」からは勅願所と定められ、栄えていったのでした。
境内には色々と見どころあり、「源頼朝」の厄災除去のため造立されたという「阿弥陀如来座像」
なにげにこちらも六尺という大きさで、鎌倉六阿弥陀の一体。
「弘法大師」が修業の際に訪れ、「弁才天」を感得したという「弁天窟」もちょっとしたダンジョンになっていて、なかなか面白いかと。
仏像好きな方には、やっぱり宝物館。
「観音三十三応現身」という、衆生救済のため観音菩薩さまが三十三の姿に変じたという仏像群があります。
ちらほら名前が分かる方もいるんですが、
名前の分からない方もいるので、あえて表示はしていません
…とのことでした。
一部破損しているのが残念ですが、基本的にはちゃんとした姿で残されています。
これらは室町時代の県指定文化財です。



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仏像アートシリーズ リアル仏像 観音菩薩
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MORITA

※1家に1体な観音さま。
 先立つものと共に置く場所ないのが悔しいですよー。


高尾山薬王院 (東京都・八王子市)

2011年04月10日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は天狗のメッカ、東京都は八王子市の「高尾山薬王院(たかおさん・やくおういん)」です。

連休ともなると、多くの人で賑やかな「高尾山薬王院」
アクセスが良く、ちょっとおでかけには最適な場所ですねー。
ひでるさんが行ったの時も連休中だったので、ケーブルカーはえらい行列になっていましたよ。


※天狗もあちこちにいます

さて、こちらの正式名称は「高尾山薬王院有喜寺(~・ゆうきじ)」
真言宗・智山派の大本山です。
なんと、関東三大本山の一つでもありました。
(※他は成田山新勝寺、川崎大師平間寺)

こちらの起こりは天平十六年(744)、奈良時代のこと。
「聖武天皇」の勅命によって、”菩薩”の称号を持つ「行基(ぎょうき)」によって東国鎮護の祈願寺となるべく開山されました。
ただし、「行基菩薩」の主な活動地域は関西方面。
そちらには実際に開山した寺院が多くありますが…ここの場合は名前を借りただけかなー。
まぁ、いいか。
本尊として「薬師如来」が祀られたため、「薬王院」と名付けられたのです。


※飯縄権現

それから時代がずーっと過ぎて、永和年間(1375~ 1379)
将軍「足利義満」の室町時代のこと。
京都は醍醐寺より「俊源大徳( しゅんげんだいとく)」が迎えられ、こちらは「飯縄権現」を守護神として奉納・中興されたのでした。
これこそが、ヒットの要因。
飯縄信仰では霊山であるという認識が広まり、また修験道の道場として大いに繁栄することとなるのです。
また、戦国時代。
兜の前立にした「上杉謙信」を筆頭に、「飯縄権現」は”戦勝の神”として当時の武将の間で流行しています。
それがためか、関東を支配していた北条家、続いて徳川家からも保護を受け、大きな勢力を持ったのでした。
めでたし、めでたし。


※神変堂

「飯縄権現」のおわす「飯縄権現堂」は修理などはありますが、享保十四年(1729)の建立。
その「飯縄権現」の眷属こそが「天狗」なのでした。
境内に「天狗像」がちらほらあったのは、それがため。
天狗伝説もあるようです。


※伝説だけでなく、こんなんもあります。て、天狗丼!?

大本堂は明治三十四年(1901)のもの。
他には「役小角(役行者)」を祀る「神変堂」などもあります。
ちゃんと二対の鬼、前鬼「妙童鬼(みょうどうき)」、後鬼「善童鬼(ぜんどうき)」がいましたよー。




[関連記事] 【神社・日本の神さま・など特集】
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コスプレキューピー☆鞍馬天狗
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お守り屋さん

※そんな訳でキューピーも天狗でした。
 鞍馬…ですが。
 こちらは現地でゲットしてます。

川越大師 喜多院 (埼玉県川越市)

2011年01月30日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、埼玉県は川越市、川越大師として有名な「喜多院(きたいん)」です。

人がいっぱいでしたよ。
さっすがに人気施設でしたねー。
特に「五百羅漢」はぼーっと眺めるだけでも楽しいと思います。
ほかにも、この周辺には古い街並みや川越城址、お子様向けの菓子屋横丁など、ぶらり観光には楽しいところでした。



時代は天長七年(830)、平安時代。
淳和天皇の勅命により、「慈覚大師」こと「円仁(えんにん)」によって創建されました。
なお、お手の起源にはもう1つ。
伝説では、仙波(せんば)あたりの海水を「仙芳仙人(せんぽう・せんにん)」という方が法力によって取り除き、仏像を安置したのだとか。
なんでわざわざ海水取り除いちゃったのか知りませんが、そんなんもあるみたい。
ともかく「円仁」はここに本尊「阿弥陀如来」ほか「不動明王」、「毘沙門天」などをを祀り、「無量寿寺」を建立したのでした。

その後、元久二年(1205)は鎌倉時代のこと。
こちらが兵火によって焼失してしまうと、永仁四年(1296)に「伏見天皇」の勅命によって「尊海」僧正が再興。
この際に「慈恵大師」を祀り、五十石を持つ関東・天台衆の中心とされました。
さらに正安三年(1301)では、「後伏見天皇」が東国五百八十もの寺を支配下とする本山に指定したのです。
現在の山号である「星野山」は、その数代後の「後奈良天皇」が与えています。
(※後伏見:九十三代~後奈良:百五代)
長く天皇家と繋がっていたんですね。

なお、戦国時代にも兵火によって焼失しております。
天文六年(1537)で「上杉朝定」・「北条氏綱」の争いは、川越城奪取の時みたい。
(※ちなみに「川越城夜戦」は天文十四年(1545年)のこと)

慶長四年(1599)には「徳川家康」の側近として有名な「天海」が住職となり、寺号を「喜多院」としています。
この結びつきによって川越藩主となった「酒井忠利」に再興を命じ、寺領は五百石に増加。
さらに「徳川家綱」の時代には二百石を追加されるなどその庇護を受け、大寺院となったのでした



お寺も凄いですが、「喜多院」でのメインはやっぱり「五百羅漢」
”日本三大羅漢”だそうです。
他には鎌倉「建長寺」、大分「耶馬渓羅漢寺」、栃木「徳蔵寺」…ってあれ?
そっちは”日本三大羅漢寺”なのかな。
まぁいいか。



川越北田島の志誠(しじょう)の発願によって、約五十年ほどで作られたようです。
(※天明二年(1782)から文政八年(1825)の間)
これが表情豊かで、見て回るだけでも面白いので必見。
石仏なので写真も撮り放題ですし。
中央には「釈迦如来」、「文殊菩薩」、「普賢菩薩」もおり、なかなか豪華。
全部で五百三十八体あるそうでした。

なお、深夜に羅漢像の頭をなでると、一つだけ必ず温かいものがあるそうです。
それは…亡くなった親の顔に似ている…というような言い伝えが残っていました。
ちとおっかないですね。



お寺には他に「春日局化粧の間」などの重要文化財も多く、「慈眼堂」や最古(寛永十五年)の建造物「山門」など、広い境内で色々と楽しめると思います。


[住所]
 川越大師「喜多院」 埼玉県川越市小仙波町1-20-1


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小江戸川越見て歩き (見て歩きシリーズNEW8)
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※歴史的施設も多く、なかなか面白い土地です。
 都内からも近いのでふらりと遊びに行くにも最適。

鹿野山神野寺 (千葉)

2010年11月28日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は千葉県君津市は「鹿野山神野寺(かのうざん・じんやじ)」です。


ちょっと遠めでしたが、行ってきました。
付近には「マザー牧場」があり、多くの観光客で賑わっていましたが…今回の「神野寺」はそれよりさらに奥。
最寄の佐貫町駅から、バスで三十一分という山寺なのです。
寺領はなかなかに広く、宝物館もある古刹なので、ぜひ立ち寄ってみて下さい。

なんと開山は推古天皇・六年(598)のこと。
(※日本の元号は「大化」で645年なので、それよりもさらに古いのです)
千年以上の昔から存在する寺院なのでした。

こちらを開いたとされるのが、あの有名な「聖徳太子」です。
…ほんとかなぁ。
山号である鹿野山は、お寺を建立する際に鹿が集まってきたため。
自然環境溢れる山だったんですね。
なお、釈迦が悟りを開いた(※初転法輪[しょてんほうりん])の地サルナートは「鹿野苑(ろくやおん)」とも言い、やはり鹿が多くいるそうです。
ともかく、そちらにちなんで「鹿野山」と名づけられたのでした。

天安元年(857)には天台座主「慈覚大師」こと「円仁(えんにん)」が再興。
鎌倉時代まで、天台の道場として栄えました。
さらに永正年間(1504)では、付近の真里谷城主「真里谷信勝((まりやつ・のぶかつ)」の協力を得た真言宗の僧「弘範」が荒廃していたこちらを再興。
その後安房・久留里城から勢力を拡大させた「里見義堯」も「神野寺」に帰依し、こちらの再興を支援しました。

関東を支配することとなった「徳川家康」も同寺を支援。
軍勢などが乱暴すること、放火すること
…などを厳禁としたほか、格式十万石という大名格を寄進。
さらに、佐貫城主「内藤家長」には伽藍や僧坊の造営を命じるのでした。



現在の本堂は、宝永五年(1708)時の再建。
建造物のたいていは江戸時代のもの。

本尊は「薬師如来」、「軍荼利明王」の二尊。
こちらは秘仏で、十二年に一度の御開帳です。
奥の院には「飯縄大権現」が安置されており、天狗の大下駄などもあります。
ちなみに、残念ながらこちらも秘仏。
本堂内裏側には「聖徳太子像」、そして本尊「軍荼利明王」の化身とされる白蛇などが見られます。
宝物殿には、運慶作という仁王の面、鎌倉時代の「十二神将像」、なぜだか「中国武士俑」もありました。
色々と見どころがあり、寺好きは楽しめると思います。


[住所]
 鹿野山神野寺 千葉県君津市鹿野山324-1

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※里見氏…と言えば、やっぱりコレですね。
 犬神家ではありません。



鑁阿寺 (栃木)

2010年10月17日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は栃木県足利市の注目寺院「鑁阿寺(ばんなじ)」です。

ちょっと前に紹介しました、石仏シリーズ「寝釈迦・行道山浄因寺
そちらの余談でも書きましたが、ハイキングコースで予定を大幅に狂わされたひでるさん。
この「鑁阿寺」へ着いた頃には、ヘロヘロになっていたのです。
まともに拝観できるような状態でなく、撮った写真も微妙なモノばかり。
ちょっともったいなかったですねー。



”足利の大日さま”として知られる「鑁阿寺」は足利氏の氏寺です。
正式名称は「金剛山仁王院法華坊鑁阿寺(こんごうさんにおういん・ほっけぼう・ばんなじ)」
現在は真言宗大日派の本山になっていました。

平安時代末期ころ。
八幡太郎として有名な「源義家」の四男「源義国」の子。
後に足利氏を名乗ることとなる、「源義康」は、ここに館を構えていました。
そう、こちらは寺というより、もともと武家屋敷だった地なんですね。
それが建久七年(1196)のこと。

義康の三男「源義兼」は執権「北条時政」の娘「時子」を妻としておりました。
(※「時子さん」は「北条政子」の妹で、「源頼朝」とは義兄弟)
鎌倉幕府成立に活躍した彼は晩年になって高野山に入りますが、その関係で自宅にも大日堂など七堂伽藍を建立。
源家から伝わる「大日如来」をここに安置したのでした。
その後、災害にも戦火にも遭わず、足利氏の氏寺として無事に発展。
一時期は、一山十二坊の大伽藍という大勢力(鎌倉時代末期)だったようです。
なお、義康の僧名は「法華房鑁阿(ほっけぼう・ばんな)」
付近にある「足利学校」を興したのもその義康なのです。



こちらの本堂は国指定の重文で鎌倉時代のもの。
鐘楼(しょうろう:鐘つき堂)も同じく鎌倉時代で義康の創建と言われている重文です。
楼門(山門)は室町時代(戦国)で、あの「足利義輝」が再建したもの。
歴代の足利将軍座像などもずらりと揃っていました。
(※将軍座像の経堂は常時拝観でないかも)
どちらかと言うと、歴史好きな方のが楽しめるかと思います。




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※なかなか面白い所を突っ込んだ1冊ですね。
 いかにもヘルシーそうですが、どうでしょう。



武田神社・石水寺要害山・積翠寺 (山梨)

2010年10月03日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は山梨県は甲府市の「武田神社」とかその周辺史跡色々です。

泣く子も黙る(かもしれない)、郷土の英雄「武田晴信」
もう、甲府市にもなると、右も左も武田菱でした。
ここ「武田神社」は、彼の本拠として知られる「躑躅ヶ崎館(つつじがさき・やかた)」のあった場所に建てられた神社です。
当然ですが、「武田晴信」を祀ってます。
今は神様なんですねー。


※武田神社


起こりは永正十六年(1519)のこと。
父「武田信虎」が「石和館」よりこちらに移ったのが始まりです。
以後、息子「武田勝頼」が「新府城(しんぷじょう)」へ移るまでの六十三年間ほど居住地として使用されていたようです。

周囲には職人町などの城下町、武田家臣団の屋敷などが立ち並んでおり、かなりの規模であった様子。
まさしく、領国経営の中心地でした。
三重の堀、土塁に囲まれてはいたものの、緊急時にはやや心許ない平城。
そのためか、後方には”緊急の際に逃げ込む”という、「石水寺要害山(要害山城)」があります。


※困った時の「石水寺要害山(要害山城)」

ちなみに、晴信が誕生したの「躑躅ヶ崎館」でなくそちら。
当時は今川軍の福島氏が付近まで軍を進めており(飯田河原合戦)、危機的状況だったのです。
産湯に使ったとされる井戸が付近の「積翠寺」に残っていましたよ。


※産湯に使った井戸(積翠寺)

戦国最強を誇っていた武田軍。
晴信の存命時は問題なかったものの、「長篠合戦」での敗戦後に勝頼は居城を「新府城」へと移しています。

なお、一門衆「木曾義昌(きそ・よしまさ)」は織田氏と結んで反旗を翻しましたが、その切っ掛けが「新府城」築城の際の賦役(ふえき:労働力の提供)ほか重税に不満を持ったためとされています。
晴信の時代から、あちこち支配力が大きく低下していたんですね。
江戸時代には「甲府城」が中心地となり、こちらは半ば放置されたままだったようです。

大正四年。
「大正天皇」の即位記念として従三位が贈られたことを切っ掛けに、官民一体の「武田神社奉建会」が設立され、大正八年に社殿が完成したのです。
境内にある「武田神社宝物館」は、昭和四十七年の開館。
晴信の命日という四月十二日には、例大祭が行われています。
(※命日は天正元年(1573)の四月十二日です)


※ひゃっほぅ!の武田グッズです。

周囲にあった堀、土塁は当時そのままの姿で現存。
戦国時代第一級の居館とされており、昭和十三年には国の史跡として指定されています。

地図上で見ると近い感じですが、甲府駅から歩くのは…ちょっとしんどい。
バスかタクシーで向かって下さい(約八分程度)
宝物館には刀剣ほか二十四将図などがあり、武田関連のグッズも多く販売。
ファンにはたまらない場所でしょう
手前の「かぶとや」さんにもぜひお立ち寄り下さい。


[住所]
 武田神社 山梨県甲府市古府中町2611

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※さすがに武田は色々とグッズありますが…コレ。
 いいですね!
 見つけたらゲットします。

甲斐善光寺 (山梨)

2010年09月12日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は山梨県です。
こないだ先に「信玄アイス」なんてやりました、甲府市の「甲斐善光寺」です。


お寺ではありますが、どちらかと言うと歴史ファンにオススメなお寺になってます。
開山はあの「武田晴信」なのです。
山梨県と言えば、やはり彼ですねー。

時代は戦国、永禄元年(1558)のこと。
ちなみに、あと二年後くらいが「織田信長」の名が日本に轟くこととなる、「桶狭間合戦」の年です。
だいたいそんな頃。

信濃(長野県)では、「上杉謙信」との争いで有名な「川中島合戦」が行われていました。(※三/五回戦)
ちょうど信濃・善光寺付近が戦場となっており、焼失を恐れた晴信は、寺宝の移動を決意。
本尊「善光寺如来(阿弥陀さまね)」ほか、諸仏などをこの付近まで避難させたのでした…。
こうした切っ掛けで、「甲斐善光寺」が誕生したようです。



正式名称は「定額山浄智院善光寺(じょうがくざん・じょうちいん・ぜんこうじ)」
江戸時代にも徳川氏との交流から”本坊三院十五庵”という大寺院として発展。
東日本最大級と言われるほどの大勢力になったのでした。

当時の伽藍は一度焼失しており、現在の金堂、山門などは寛政八年(1796)に再建されたもの。
また本尊の「善光寺如来」こと「阿弥陀三尊像」は、武田氏滅亡後に各地を転々としていましたが、無事に信濃・善光寺へ戻りました。

こちらの金堂にある同仏像は、鎌倉時代に僧「定尊」が前立仏として造った重文です。
さらに宝物館には、半丈六という平安時代の重文「阿弥陀三尊像」、最古と言われる木造「源頼朝坐像」・「源実朝坐像」など多くの文化財がありました。


※なんと、お線香は自販機です。

そのほか、境内には戦国武将「加藤光泰」の墓があったほか、金堂の天上には鳴き龍、そして…なんて言うんだろ。
東京(世田谷区)の「玉川大師」にあった”地下遍照金剛殿”のミニチュア版のような施設までありました。
ただ、途中に明るい箇所はなく、出口までずっと真っ暗なの。
だいたい三分程度の暗闇が続くんですが、やっぱりこれが楽しいまでオススメ。

ちなみに…ひでるさんらの入った後には、たぶん中学生くらいな修学旅行の男女三名づつがチャレンジしていました。
暗闇からきゃーきゃーと女子の声が響いて、実に楽しそうでしたよ(本当)

ちょっと本気で羨ましかったです。
…いいよね、若いって(笑)
山梨に修学旅行予定がある男子は、要チェックだ!



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※こんなん見つけました。
 ちょっと欲しい感じ。

清涼寺 (京都)

2010年08月22日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都の右京区は「清涼寺(せいりょうじ)」です。


ひでるさん好きなお寺でした。
そこそこ広い割に入口にゲートないため、すぐに入れるんですね。
お堂や仏像も多く、京都に住んでいた際は何度かお邪魔していました。
(※本堂拝観などで拝観料アリ)

こちらの注目は、何と言っても本尊の「釈迦如来立像」
日本三如来の一つで国宝。
”三国伝来”という、釈迦仏なのです
この三国というのは、「インド」、「中国」、「日本」ですね。
なんと、コレ三十七歳であった「釈迦」の姿をそのまま刻んだというのです。
なるほど、あーんな人だったんですね(たぶん)

なお、こちらには伝承があります。
お釈迦様の母「摩耶(まや)」夫人に法を説くため、「お釈迦様」は「忉利天(とうりてん)」にのぼりました。
(※なお、その「忉利天」というのは、中心に「帝釈天」が住む六つある天上界のうち二番目のトコです。だいたいそんなん)
こうして、お釈迦様が不在となると、弟子たちはひどく嘆き悲しんだのです。

…子供みたいですね。手がかかるなぁ。 

そこで、「優填王(うでんのう)」は「毘首竭摩(びしゅかつま)」に命じて、釈迦の像を作らせたのでした。
戻った釈迦はこれを喜び、
私が亡きあとはこの像が替わって衆生を救うだろう
そんなことを言ったとか。

さて、そんな伝説のある像は、インドからヒマラヤを越えて中国へと伝えられていました。
ここで登場するのが、当時中国(宋)へと渡っていた、奈良東大寺の僧「然(ちょうねん)」さま。
彼はこの彫像に感激(たぶん)し、現地の仏師にお願いして”そっくりな仏像”を作らせたのでした。
なお、その際にはキチンと”五臓六腑”って、絹製の内臓までも入れられていたようなのです
こうして持ち帰った釈迦像こそが、こちらの本尊「釈迦如来」なのでした。

なお、そのお顔に仏牙(ぶつげ:歯ね)を入れたところ、すぅと一点からが出たというお話もあるのです。
どうすか、なかなか凄いでしょ?




そうした、”生身”の「釈迦如来」のある「清涼寺」

もともと、こちらには「光源氏」のモデルと言われる「源融(みなもとの・とおる)」の別荘「棲霞観(せいかかん)」がありました。
融くんは死ぬ際に「阿弥陀座像」を自分の顔に似せて作らせています。
”光源氏写し顔”
とか言われるのは、そんな理由がため。
自ら自分の像を作らせるあたりが男前ですね(笑)

そんな「阿弥陀三尊座像」を安置されたのが「棲霞寺(せいかじ)」(※現在の阿弥陀堂)です。
なお、こちらも国宝。

天慶八年(945)
「醍醐天皇」の第四皇子「重明親王(しげあきら・しんのう)」の奥様はその「棲霞寺」寺領内に新堂を建立しています。
こちらが現在の本堂(釈迦堂)なんですね。
なお、先の僧「然」の願いであった「清涼寺」は、やはり「棲霞寺」寺領内に弟子が建立しています。
その後、焼失・再建を繰り返していくうち、もともとの「棲霞寺」は衰え、”三国伝来”という「釈迦如来」を擁する「清涼寺」が残ったというのでした。

広く信仰された釈迦像がため、「嵯峨釈迦堂」とも呼ばれています。
正式名称は「五台山清涼寺(ごだいさん・せいりょうじ)」

なかなか広い寺領には多宝塔、一切経蔵、狂言堂のほか、「豊臣秀頼」の墓から多くの仏像・宝物を収納する「霊宝館」もあります。
どうせ行くならば、やっぱり霊宝館の公開される春・秋がオススメですよ。


[住所]
 五台山清涼寺(嵯峨釈迦堂) 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤の木町46

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※びっくり、こんなん見つけました!
 し、週刊!?

芝山仁王尊 観音教寺 (千葉・芝山町)

2010年08月08日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は千葉県は山武群芝山町の「芝山仁王尊」です。

行ってきました、芝山まで。
けっこう遠いんですねー。
付近の芝山千代田駅までは、東成田駅から一駅だけという”芝山鉄道”で向かいます。
看板に書いてありました。
「日本一短い」だって。
ちょっと調べたところ、何やら…色々と事情があったみたい。
空港ができるってのはやっぱり大変なことなんですね。



さて、よく聞く「芝山仁王尊」いうのは例によって通称で、お寺の名前は「観音教寺(かんのんきょうじ)」
正式名称は「天応山観音教寺」でした。

創建は非常に古く、なんと天応元年(781)のこと。
「なくよ」、よりも前のことです。
奈良時代ですね。
なにしろ、切っ掛けとなった四十九代「光仁天皇」は、あの「中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)」こと「天智天皇」のお孫さんなのですから、どれだけ古いかなんとなく察せられるでしょう。

そんな「光仁天皇」の勅命によって、征東大使「藤原継縄(ふじわらの・つぐただ)」が守り本尊「十一面観音菩薩」をこの地に安置したことが切っ掛け。
京都などの寺院と違って戦火・災害にも遭わず、中世まで存在しました。
その頃に付近を統治していた、”坂東八平氏”の一家である千葉氏も祈祷所としたため、大いに繁栄しました。
”近隣に八十余りの寺院~”ということでしたから、当時は相当な勢力であったと想像されます。



珍しく、この寺院はなかなか順調に時代を渡っています。
江戸時代に入っても、しっかり徳川氏の庇護を受けておりました。
なんと、管内十州(※関八州に出羽・陸奥が加わった呼び名)の天台宗寺院を統括する、十万石の格式を得ています。
さらに庶民の信仰も集め、
「厄除け・火事泥棒除けの仁王様」
…と、江戸の商家・火消し衆らに親しまれたのでした。

なお、付近には古墳が多く、こちらのお寺も出土したはにわ群を「芝山はにわ博物館」に展示しています。
かなりの数のはにわがありましたので、そんなんお好きな方にもオススメ。
ちなみに二階は「釈尊館」
「大日如来」、「毘沙門天」などが見られるほか、お釈迦様の歴史が二十枚くらいの絵で描かれていました。
仏像好きも大満足です。



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大谷観音 大谷寺 (栃木県・宇都宮市)

2010年06月20日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は餃子で有名な栃木県宇都宮市の「大谷観音(おおや・かんのん)」です。

ネットで一目見た時から狙っていました。
周囲の風景を飾る独特な石が見事なこちら、通称「大谷観音」は「大谷寺」です。


正式名称は「天開山大谷寺」
歴史は古く、なんと平安時代の初期頃にまでさかのぼります。

大小の独特な岩が広がる、大谷の地。
その岩下からは水が湧き出していました。
がしかし、そちらに住んでいた毒蛇のため、水は毒気を含んでいたのです。
鳥獣ほか人がコレに触れると病気になるほか、最悪の場合は死んでしまうこともあったようなのです。

弘仁元年(810)
”もうこの地を捨てなければいけない”
そんな里人の憂いを聞きつけたのが、「弘法大師」こと「空海」さま。
ちょうど東国を旅していた彼は、毒蛇を除くべく谷へと入って行ったのです。

…それから、十日余り。
無事に谷から出てきた大師は、毒蛇を退治したと告げ、去って行っていきました。

おそるおそる人々が谷へ入ってみると、光輝く「千手観音」と、その脇侍として「不動明王」と「毘沙門天」が岩山にあったのです。
大いに感謝した人々は、仏教に帰依していったのでした。



と、こんなんが大谷寺の始まりのようです。
仏教絵本みたいなストーリーですねー。
ひでるさんは昔そんなん見てましたよ。

とりあえず確かなことは、平安初期にはこの地に千手観世の磨崖仏(まがいぶつ)があり、深い信仰があったらしいこと。
こちらの宝物館には縄文時代のものとされる人骨がありましたが、付近にはその頃から人が住んでいたようなんですね。
(※お寺の防災工事の際に、お堂下から発見されたようです)
そりゃー、仏教信仰があっても不思議ではありません。たぶん。

江戸時代になると、「徳川家康」の五女「亀姫」が住職「伝海僧正」による中興を援助。
現在の大谷寺の基盤を作っています。
徳川家の庇護を受けて大いに繁栄し、西の大分県は「臼杵磨崖仏」に対して”東の磨崖仏”として広く知られることとなるのでした。



そんなこんなで、「弘法大師」の作と伝えられる「千手観世音菩薩」
天然の岩壁に直接仏像を刻んだ、「磨崖仏」ですね。
古くから「大谷観音」と呼ばれ・親しまれ、鎌倉時代には坂東十九番の霊場として定められています。
日本初の”二重指定”の仏像としても有名で、”日本の石仏中で最優秀な技巧を究めたもの”として、特別史跡と共に重要文化財に指定されているのです。

見事な石仏ほか、岩山に張り付いたようなお堂、周囲の奇妙なな奇岩群なども独特で、楽しめると思います。
規模は小さいですが、先の人骨が展示された「大谷資料館」も見どころですよ。


[住所]
 大谷観音 大谷寺 栃木県宇都宮市大谷町


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アニメ絵本 親鸞さま―ねがい、そしてひかり。
相馬 和彦,グループタック
本願寺出版社

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※こんなアニメちっくなのでなく、リアルな絵だったと記憶してます。
 なんだっけかなー。
 最後のエピソードで、子供たちにいろは歌を教えるのよ。



智恩寺 (京都・天橋立)

2010年05月09日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は京都宮津市・天橋立付近でも有名なお寺「智恩寺(ちおんじ)」です。

こないだやりました「成相寺」よりもこっちのが有名。
天橋立へ行くことが決定した際に、結構期待していたのがコチラなのでした。

実は、珍しくあらかじめ情報を得ていたひでるさん。
このブログで何回か紹介してますが、「見仏記6」に登場しているのです。
色々と仏像を所持しており、「いーじゃない」とか思っていたんですが…普通に行くと、ほぼ何も見れません
いきなり木端微塵です(笑)

あ、何もってのは誤解されるか。
さして仏像は見れません、ですね。

みうらじゅん・いとうせいこうのTV見仏記 6 [DVD]

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さて、正式名称を「天橋山智恩寺(てんきょうざん・ちおんじ)」
三文殊の一つであり、「知恵の文殊」と呼ばれています。
(※残りは奈良・阿部院、京都・金戒光明寺)
他にも「切戸(きれど)の文殊」、「九世戸(くせと)の文殊」と称され、古くから信仰の厚いこちら。
開創は延喜年間(901~923)で、「醍醐天皇」の時代です。
もともと天橋立とセット、その一部のような考えだったみたい。

「京極高国」の修復したという本堂。
メインの「文殊菩薩像」は鎌倉時代の重文です。
「善財童子(ぜんざいどうじ)」、「優填王(うてんおう)」という脇侍が非常に特徴的なのでした。
ただ彼らは…秘仏。
見れません。



多宝塔は唯一室町時代のもので重文。
(ほかは近年の修復だそうでした。残念)
丹後国の守護代「延永春信」が建立したもの。
こちらには「大日如来」がいるんですが…通常は非公開。
るるる、こっちもか。
TVの力、ということで先の「見仏記6」では本堂ほか多宝塔の内部が公開されていました。
ぶっちゃけ、仏像好きは実際に行くよりもDVD見るのがオススメです。
中にあった、複数の猪に騎乗するレア仏像「摩利支天像」が見たいですねー。
宝物館とか作ってくれないものかなぁ。
また、市指定文化財という「山門(※上↑写真)」もDVDでは公開されており、「釈迦如来」ほか「羅漢像」も紹介されていました。



石造りの輪灯籠「知恵の輪」です。
お寺のシンボル的な存在ですね。


[住所]
 智恩寺 京都府宮津市天橋立文珠小字切戸

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オススメ!地下遍照金剛殿 (東京都世田谷区・玉川大師)

2010年04月25日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は東京都世田谷区の「玉川大師 玉眞院」です。

二子玉川駅を下車し、繁華街を抜けて瀬田方面へ。
徒歩で遠すぎず、かと言って近過ぎずという道のりにて到着したのは、「玉川大師 玉眞院」です。

ぱっと見た感じでは、そこそこ規模な普通のお寺。
一見何の変哲もない感じのお寺なんですが、ちらほらと人の姿がありました。
付近の看板には、「地下佛殿」の文字。
そう、こちらは魅惑の地下迷宮が最大の魅力という、まさにテーマパークちっくなお寺なのでした。

はっきり言って、ここは凄い!

都内、関東付近にお住まいの方は無論のこと、全国の皆さまにもぜひ一度は訪れてほしいスポットです。
はっきり言って、下手な大寺院よりも絶対にコチラ。
超オススメなお寺です。



さて、このブログではお寺の歴史・あらましについて書くんですが、特にパンフにもなかっ
たのでそこは省略。
こじんまりとしたお寺内には「大日如来」、「不動明王」などの仏像ほか、なぜか象頭六臂のガネーシャ象(大自在天)がちらほら三体くらいありました。
そして、その入口左手には何やら怪しげな階段が。

そう、こちらこそが境内の地下にかなりの規模で存在する、奥の院・地下霊場「地下遍照金剛殿」なのでした。
昭和九年に完成したという、鉄筋コンクリート造り。
その参道は約百メートル、石仏の総数は三百体もあるのです。
こちらは巨大な「秘仏・大日如来」さまの胎内を表しているとのことでした。

百円を収め、記帳してからスリッパを履いてさっそく階段へ。
いきなり真っ暗です。
”一切の明りを禁ず”
ということで、何も見えません。

そんな訳で、基本的な迷宮脱出の方法。
「右の壁に手を添えて進む」を実践することとなりました。
道は一人で進むのが精一杯というほどの狭さ。
コンクリ造りなので壁・床どちらもつるつるとしており、すり足でじわじわと進みます。
なにせ、やや上下しているんですねー。

そうした、不確かな状態であるため、ふと明かりが見えた際の自由さ、心地よさたるや最高
なるほど、これが目的なんでしょうね。
当初はのそれは短めで、最初の明かりから次にある真っ暗ゾーンはそこそこ長めでした。

本尊「弘法大師」像ほか、都内最大というサイズの涅槃石仏(釈迦です。そのほかに大師の涅槃像もありました)
その左右には柱に巻きついた「龍神」があり、浄瑠璃寺モデルな「吉祥天」ほか、壁画・石仏などがずらりと並んでいます。
四国(八十八箇所)、西国(三十三箇所)の大師、観音という石仏が並び、四国遍路と西国巡礼さながらお詣りできるようになっているのです。

パンフレットによると、
至心に順拝修業すれば、身心ともに清浄となり、そのまま無辺の大慈悲に浴し、生きる力と幸福が授かる
…とかなんとか。
まぁ、これで参拝したひでるさんにも色々と良いことがあるのでしょうね。たぶん。


玉川大師 玉眞院 東京都世田谷区瀬田4-13-3
※駐車場もありましたが小さめ。
 二子玉川駅からは徒歩15分程度で到着です。

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※タモリ倶楽部などでもやってましたが、地下はいいですね!
 お寺のダンジョンもいいですよー。