のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はこないだ紹介した「金山城跡」、そして「太田市立史跡金山城址ガイダンス施設」…へ、行った後にそのまま立ち寄りたい、「新田義貞」ゆかりのお寺「金龍寺」です。
徒歩で「金山城跡」から十分可能な距離だったので、ぜひこちらも攻略しておきましょう。
ひでるさんはガイダンス施設の方に近道(ちょっとね)を聞いていきましたよ。
上州太田七福神では「毘沙門天」、秋の七草寺では「桔梗」が担当というこちら「金龍寺」
正式名称は、「大田山義貞院金龍寺」でした。
「新田義貞」の法名は「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」であり、そのお名前にちなんで命名されたことが伺えます。
※駅前の「新田義貞」さまです。
時代は、まだ「後醍醐天皇」がブイブイ言わせていた頃。
元亨元年(1321)
こちらのお寺はもともと、「新田義貞」が精神道場としてお寺を開いていたとも言われております。
確かではなく、そんな感じだったらしいのよ。
南北朝の動乱で敗れた義貞は北陸へ逃れ、延元三年(1338)に越前で戦死してしまうのです。
その菩提を弔うため、新田一族の「岩松満純(いわまつ・みつずみ)」はこの地に諸堂を建立。
応永五年(1398)には、「金龍寺」を開いたのでした。
義貞の開山が真実なら、それを中興したというところでしょう。
そんな祖先思いの岩松氏でしたが、新田荘横瀬郷を本領としていた横瀬氏(※戦国時代には由良氏と改名)に下剋上そのまま取って代わられることとなるのです。
応永二十四年(1417)
新たに金山城主となったのが、岩松氏の重臣だった横瀬氏。
越前から義貞の遺骨をこの境内まで移し、「大見和尚」を招いて開山したのは初代とされる「横瀬貞氏」
(※あまりハッキリしてない様子)
義貞の廟所と定めて、その木像を安置しました。
その後、横瀬氏は主家と対立・圧倒し、実権を握っていくのです。
周辺地域を併合して、自らの勢力を拡大。
その菩提寺となった「金龍寺」も、共に栄えていったのでした。
※五輪塔・供養塔
しかし、「由良(横瀬)国繁」の代に「豊臣秀吉」の小田原征伐が勃発。
国繁は北条氏に加担したものの、祖母、息子は前田勢に参加したため、どうにか滅亡の危機を回避しております。
戦後は上総国牛久へ移封。
それと共に寺・僧なども移り、建物や木像、墓のみが残されたこの地は荒廃してしまうのです。
上野国・館林城主となっていた徳川四天王の一人「榊原康政」はこれを惜しみ、寺領を整備し再興させ、現在に至るのでした。
康政は”田畑八町余りを寄進”したそうですよ。
※看板の七福神です。漫画ちっくなのね。
本堂の裏手には歴代金山城主となった横瀬氏(由良氏)の五輪塔は九基ほど。
また、最上段には寛永十四年(1637)に造立されたという「新田義貞」の供養塔もありました。
[住所]
金龍寺 群馬県太田市金山町40-1
[関連記事] 【室町時代セット】
⇒ 室町時代(歴史さんぽ)
⇒ 続・室町時代 中央政治編
⇒ 続・室町時代 地方政治編
⇒ 関東公方と関東管領 (歴史さんぽ)
⇒ 賢才武略の勇士 「楠木正成」
時代背景[1 2 3 4]
「赤坂城籠城戦」[5 6]
「天王寺合戦」[7]
信濃源氏・村上親子の奮戦[8]
「千早城籠城戦」[9 10]
天皇親政[11 12 13 14]
「湊川合戦」[15 16]
⇒ 南北朝時代の若き英雄 「北畠顕家」(1 2 3 4 5)
⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [1 2 3 4]
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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徒歩で「金山城跡」から十分可能な距離だったので、ぜひこちらも攻略しておきましょう。
ひでるさんはガイダンス施設の方に近道(ちょっとね)を聞いていきましたよ。
上州太田七福神では「毘沙門天」、秋の七草寺では「桔梗」が担当というこちら「金龍寺」
正式名称は、「大田山義貞院金龍寺」でした。
「新田義貞」の法名は「金龍寺殿眞山良悟大禅定門」であり、そのお名前にちなんで命名されたことが伺えます。
※駅前の「新田義貞」さまです。
時代は、まだ「後醍醐天皇」がブイブイ言わせていた頃。
元亨元年(1321)
こちらのお寺はもともと、「新田義貞」が精神道場としてお寺を開いていたとも言われております。
確かではなく、そんな感じだったらしいのよ。
南北朝の動乱で敗れた義貞は北陸へ逃れ、延元三年(1338)に越前で戦死してしまうのです。
その菩提を弔うため、新田一族の「岩松満純(いわまつ・みつずみ)」はこの地に諸堂を建立。
応永五年(1398)には、「金龍寺」を開いたのでした。
義貞の開山が真実なら、それを中興したというところでしょう。
そんな祖先思いの岩松氏でしたが、新田荘横瀬郷を本領としていた横瀬氏(※戦国時代には由良氏と改名)に下剋上そのまま取って代わられることとなるのです。
応永二十四年(1417)
新たに金山城主となったのが、岩松氏の重臣だった横瀬氏。
越前から義貞の遺骨をこの境内まで移し、「大見和尚」を招いて開山したのは初代とされる「横瀬貞氏」
(※あまりハッキリしてない様子)
義貞の廟所と定めて、その木像を安置しました。
その後、横瀬氏は主家と対立・圧倒し、実権を握っていくのです。
周辺地域を併合して、自らの勢力を拡大。
その菩提寺となった「金龍寺」も、共に栄えていったのでした。
※五輪塔・供養塔
しかし、「由良(横瀬)国繁」の代に「豊臣秀吉」の小田原征伐が勃発。
国繁は北条氏に加担したものの、祖母、息子は前田勢に参加したため、どうにか滅亡の危機を回避しております。
戦後は上総国牛久へ移封。
それと共に寺・僧なども移り、建物や木像、墓のみが残されたこの地は荒廃してしまうのです。
上野国・館林城主となっていた徳川四天王の一人「榊原康政」はこれを惜しみ、寺領を整備し再興させ、現在に至るのでした。
康政は”田畑八町余りを寄進”したそうですよ。
※看板の七福神です。漫画ちっくなのね。
本堂の裏手には歴代金山城主となった横瀬氏(由良氏)の五輪塔は九基ほど。
また、最上段には寛永十四年(1637)に造立されたという「新田義貞」の供養塔もありました。
[住所]
金龍寺 群馬県太田市金山町40-1
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時代背景[1 2 3 4]
「赤坂城籠城戦」[5 6]
「天王寺合戦」[7]
信濃源氏・村上親子の奮戦[8]
「千早城籠城戦」[9 10]
天皇親政[11 12 13 14]
「湊川合戦」[15 16]
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⇒ 父の背中を追う英雄 「楠木正行」(前編 中編 後編
⇒ ”六分の一殿”の名門・山名一族 [1 2 3 4]
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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