のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はこれまで当ブログでは一度もまともに触れなかった、戦国時代での四国のお話のラストです。
戦国ファンにはお馴染み、四国の覇者「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の初陣「長浜合戦」なのでした。
永禄三年(1560)
本山氏の属城・長浜城を急襲した父「長宗我部国親」はその奪取に成功。
長浜城陥落の急報を受けた「本山茂辰」はすぐさま二千五百ほどの兵を率い、奪還を目指して夜間ながらも進軍をしてきたのです…。
進軍する本山勢が二千五百ほどの兵力であったのに対して、当時の長宗我部氏が動員できたのはわずか千程度でした。
そんな両軍が夜半のうちから長浜城周辺の戸ノ本で激突するという、いわゆる夜戦であったようなのです。
戦の前、勇猛で知られる家臣「秦泉寺豊後(じんぜんじ・ぶんご)」より、
「槍は敵の眉間あたりを狙って突くように」
「大将は先頭で戦ってはいけず、また逃げ出してもいけない」
というように、直前で手ほどきを受けたという有様だった元親。
…まったくの初心者ですね。
一説には、連れてきた父・国親すら、”戦力外に考えていた”と伝えられています。ひでえ。
さて、戦は兵力で劣る長宗我部勢の踏ん張りにより、一進一退という有様でした。
付近には無数の死者が散乱するという、激戦・乱戦になっていたようです。
しかし、ここで五十騎ほどの精鋭を率いた元親は、果敢にも敵部隊に対して真一文字に突き進んでいったのです。
その戦いぶりは、これまでの柔和な様が嘘であるかのような、激しいものだったとされています。
「人は命よりも名を惜しむものぞ、一歩もここを退くな!」
そう鼓舞された兵は勢いを増し、また”嫡男を討たせまい”と本軍より繰り出された兵によって本山勢は大きく崩れ、結果として勝利のきっかけとなる華々しい戦果を上げるのでした。
この若君の意外な活躍に、家臣団は驚くと同時に、頼もしく感じたと想像されます。
…なお、これらは父・国親のパフォーマンスで、華々しく息子をデビューさせるための作戦だった、という説もあるようです。
それが真実ならば興味深い話なんですが、わざわざ初陣を遅らせたり、その素質が微妙であるかようにするのはどうかなぁ…。
だいたい、子供がそうそう演技できるものでないと思うし。
さらに、武田家、織田家の例にもあるように、当時の家臣団は下手をすると大名を追い払う、討ち倒すことさえしておりました。
江戸時代のような忠誠という概念はまださほどありません。
そんな状況でしたから、わざわざ家中を混乱させるようなことをしたとは思えないのです。
ついでに、当時の長宗我部氏はまだ弱小領主でしたから、そんな余裕はなかっただろうと推測します。
初陣がやたら遅かったことを踏まえると、やはりしっかり成長するまで温存しておいた、というのが本当のところではないでしょうか。
また当人としては、自らの批評を覆すべく「今に見てろよ」と密かに闘志を燃やしていたと思うのです。
それが果敢な初陣に繋がったのではないかなぁ。
合戦は嫡男元親の活躍もあって長宗我部氏の勝利となりました。
がしかし、程なくして病を得た父国親はそのまま死去してしまうのです。
後継は元親が継ぐこととなりました。
しかし、姫若子と呼ばれていた大将が大器の片鱗を見せたためか、さほどの混乱はおきなかったと伝えられています。
”土佐はいうに及ばず、四国の主ともなるべき大将の器である”
[関連記事] 【中期・合戦祭り】
⇒ 史上最悪の市街戦「応仁の乱」[1 2 3 4 5 6]
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⇒ 戦国最強軍団の落日「長篠合戦」[1 2 3 4 5]
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※お手軽に「長宗我部元親」で四国の主となるには、こちらがオススメ。
弟「香宗我部くん」が軍師だし。
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戦国ファンにはお馴染み、四国の覇者「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」の初陣「長浜合戦」なのでした。
永禄三年(1560)
本山氏の属城・長浜城を急襲した父「長宗我部国親」はその奪取に成功。
長浜城陥落の急報を受けた「本山茂辰」はすぐさま二千五百ほどの兵を率い、奪還を目指して夜間ながらも進軍をしてきたのです…。
進軍する本山勢が二千五百ほどの兵力であったのに対して、当時の長宗我部氏が動員できたのはわずか千程度でした。
そんな両軍が夜半のうちから長浜城周辺の戸ノ本で激突するという、いわゆる夜戦であったようなのです。
戦の前、勇猛で知られる家臣「秦泉寺豊後(じんぜんじ・ぶんご)」より、
「槍は敵の眉間あたりを狙って突くように」
「大将は先頭で戦ってはいけず、また逃げ出してもいけない」
というように、直前で手ほどきを受けたという有様だった元親。
…まったくの初心者ですね。
一説には、連れてきた父・国親すら、”戦力外に考えていた”と伝えられています。ひでえ。
さて、戦は兵力で劣る長宗我部勢の踏ん張りにより、一進一退という有様でした。
付近には無数の死者が散乱するという、激戦・乱戦になっていたようです。
しかし、ここで五十騎ほどの精鋭を率いた元親は、果敢にも敵部隊に対して真一文字に突き進んでいったのです。
その戦いぶりは、これまでの柔和な様が嘘であるかのような、激しいものだったとされています。
「人は命よりも名を惜しむものぞ、一歩もここを退くな!」
そう鼓舞された兵は勢いを増し、また”嫡男を討たせまい”と本軍より繰り出された兵によって本山勢は大きく崩れ、結果として勝利のきっかけとなる華々しい戦果を上げるのでした。
この若君の意外な活躍に、家臣団は驚くと同時に、頼もしく感じたと想像されます。
…なお、これらは父・国親のパフォーマンスで、華々しく息子をデビューさせるための作戦だった、という説もあるようです。
それが真実ならば興味深い話なんですが、わざわざ初陣を遅らせたり、その素質が微妙であるかようにするのはどうかなぁ…。
だいたい、子供がそうそう演技できるものでないと思うし。
さらに、武田家、織田家の例にもあるように、当時の家臣団は下手をすると大名を追い払う、討ち倒すことさえしておりました。
江戸時代のような忠誠という概念はまださほどありません。
そんな状況でしたから、わざわざ家中を混乱させるようなことをしたとは思えないのです。
ついでに、当時の長宗我部氏はまだ弱小領主でしたから、そんな余裕はなかっただろうと推測します。
初陣がやたら遅かったことを踏まえると、やはりしっかり成長するまで温存しておいた、というのが本当のところではないでしょうか。
また当人としては、自らの批評を覆すべく「今に見てろよ」と密かに闘志を燃やしていたと思うのです。
それが果敢な初陣に繋がったのではないかなぁ。
合戦は嫡男元親の活躍もあって長宗我部氏の勝利となりました。
がしかし、程なくして病を得た父国親はそのまま死去してしまうのです。
後継は元親が継ぐこととなりました。
しかし、姫若子と呼ばれていた大将が大器の片鱗を見せたためか、さほどの混乱はおきなかったと伝えられています。
”土佐はいうに及ばず、四国の主ともなるべき大将の器である”
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弟「香宗我部くん」が軍師だし。