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伊達勢を圧倒する義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)6

2009年11月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”そこそこ名前を知っていながら、いまいちどんなだったか知らない戦国武将”という一人。
常陸は佐竹氏についてお送りしております。


若くして十八代当主となった「佐竹義重(さたけ・よししげ)」
通称である「鬼義重」に相応しい活躍をし、父義昭の死で反乱した国人衆らを討伐して勢力拡大。
ついに激突した北条勢には岩井合戦で敗れたものの、白河結城氏を屈服させたほか岩城氏、石川氏などを傘下とし、陸奥南部を手中に収めるのでした。

合戦だけでなく、外交にも冴えを見せる義重
主に北方では縁組政策を取っており、三男貞隆は岩城氏、四男宣家には多賀谷氏を継がせているほか、白河結城氏を継いでいた義広は、後に蘆名氏の跡目に送られることとなるのでした。
ほか、遠く近畿にまで目を向け、信長の後継者という地位を固めつつあった「豊臣秀吉」とも懇意になっています。
流石ですね。
こうした彼の卓越した外交感覚が、後に大きな意味を持つこととなるのです。

天正十二年(1584) 沼尻合戦
下野に宇都宮勢と共に出陣した義重はまた北条勢と激突。
当時は「本能寺の変」後の混乱で、より勢力を拡大させていた北条勢がために終始劣勢。
不利な条件での和睦を結ぶこととなりました。

さらに北方戦線でも、蘆名氏の衰退によって伊達氏が勢力を拡大。
出羽米沢より南下政策を取る「伊達政宗」に、佐竹・蘆名連合で対立することとなっていくのです。

天正十三年(1585) 人取橋合戦(※写真)
この年、伊達家では降伏してきた二本松城主「畠山義継」が突如「伊達輝宗」を拉致する大事件が勃発していました。
駆け付けた「伊達政宗」の指揮による鉄砲隊の一斉射撃によって、父共々撃ち殺ししたようなのです。
どうにも怒りのおさまらない政宗は敵討ちのため、二本松城へと進出。
遺児「畠山国王丸」を擁立する畠山氏は固く城を守って籠城し、一時は伊達勢を撤退させるのでした。

こうして、活発な活動を続ける政宗を脅威に感じていた諸将は、義重の呼びかけに応じて連合軍を結成。
会津蘆名氏、岩城氏、白河氏らは政宗を見捨てて佐竹勢につき、二本松城救援のため、奥州に出陣した義重に合流したのです。

連合軍の兵力は三万という大軍であったのに対し、伊達勢が八千と圧倒的有利な戦況
南観音堂山に陣を置いた伊達勢は、その麓にある瀬戸川周辺にて激戦となりました。
兵数に勝る連合軍伊達勢を圧倒。
高倉城を守備していた五百の伊達勢も北上を止められず、城内へと撤退。
本陣にあった「伊達政宗」のもとにまで敵が迫るという有様なのでした。

ここで殿を務めたのが、七十三という高齢であった「鬼庭良直(左月)」です。
彼が討死した場所こそが人取橋なのです。
多数の死傷者が出たことによって、付近を人取橋と呼ぶようになったのだとか。

兵力で優位に立つ義重は合戦の主導権を握り、側面を突いた「伊達成実」、「片倉景綱」らの奮戦によって壊滅までは回避したものの、伊達勢にとってはまさにぎりぎりの状態。
伊達勢を叩きのめした連合軍でしたが、留守となっていた常陸にて江戸氏、安房里見氏らが不穏な動きを示したことで、中心たる佐竹勢は夜に紛れて撤退してしまうのです。

ほぼ伊達勢を追い詰めていながら政宗らを取り逃し、翌年に二本松城が陥落しているなど、局地的には勝利したものの結果的には利の薄い合戦だったようです。

ちなみにこの頃、遥か遠く近畿では「羽柴秀吉」が関白となっていました。

⇒ つづく。
  次回は「北方を諦める義重さま (佐竹三代:佐竹義重編)」(7/9)

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※今回は佐竹氏視点で書いているので…政宗の強さが小憎らしいですねー。
 また、さすがに北条氏も関東の覇者。侮れません。


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