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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はたった一戦で後世の評価がひっくり返ってしまった気の毒さんの代表格。
駿遠三の太守、海道一の弓取りこと「今川義元」です。
今回はその最後です。
本当は前回とくっつけてたんですが、やったら長いので泣く泣く分割した次第でございます。
ああっ、義元さま…。
前回は「あの当時に天下を狙って上洛するのは不自然ではないでしょうか?」という話でした。
ただ、それが尾張侵攻であろうが、天下号令であろうが、織田家にとっては滅亡の危機に変わりないんですね。
ちなみに今回写真は「今川義元」木像、です。
永禄三年(1560)
ついに尾張へ侵攻した義元。
ここは有名ですし、長くなるので詳細は記述しません。そのうちやるかもしれませんが。
奇策を得意とする信長に警戒はするものの、突然大雨が降るなどの不運も重なってしまいます。
わずか二千たらずの兵で出陣した織田信長。
丸根・鷲津の砦が陥落したという情報は、織田勢の緊張感をより高め、今川勢にとっては組みし易しという感覚になったことでしょう。
総勢二万五千と言われる今川の大軍に対し、その本陣にのみ集中することによって桶狭間地域での兵力差は半分程度にまで縮まっておりました。
豪雨によってかき消された織田勢の動向。
勝利の報告で油断した今川勢。
情報を得て。、田楽狭間へ急行した信長の決断。
それらの偶然が重なり、奇跡の逆転劇となるのでした。
奇襲を受けた義元はここで討死。
今川義元、享年四十五。(※四十一という資料もありました)
窮地から這い上がった信長はその後天下への道を歩み、結果として序盤の大敵「今川義元」はその英雄譚に欠かせない悪役となってしまうのです。
(※義元が「天下に号令~」というのも、信長になぞらえているのではないかと思います)
事実は汚され、賊軍たる義元には不名誉な話だけが強く残ってしまうのでした。
例えば…
■肥満して馬に乗れなかった。
ちゃんと桶狭間の時も騎乗しておられます。
だいたいあの当時馬に乗れないほど肥満している人なんていないのでは?
■馬に乗れないから輿に乗っていた。
…だから馬乗ってたんだってば。
名門であるため、輿に乗れることが”許されていた”ようなのです。
■胴長短足だった。
なんの証拠もありません。だいたい、コレ単なる悪口じゃねーか。
この当時の人は純日本的体格なはずなので、皆ほぼ短足でしょう。
■桶狭間出陣前に落馬した。
なんの証拠もありません。んな落馬くらい誰だってします。
桶狭間出陣前なんて言っているところが、いかにも創作臭いです。
臭ってきそうです。
消臭ポット置いときたいくらいです。
■お歯黒で貴族趣味のキモイ野郎だった。
京文化に憧れはもっていましたし、文化人の保護もしていました。
だからと言って、これは単なる趣味ですから、人にどうの言われることではありません。
また、文化に没頭して政務がおろそかにもなっていません。
いーじゃん、べつに。
■歌合せや蹴鞠など、のんきに公家風の生活をしていた。
だから趣味程度のことですってば。遊び呆けていたことはありません。
だいたい蹴鞠好きなのは息子の氏真くんですよ。
また、いかにも考えなしで馬鹿っぽく書かれてたりしますが、お寺で勉強しただけあって教養は高いのです。
…こんなんです。
私の好きな「石田三成」さまもそうですが、敗者はいつの時代も厳しいものですね。
最後に、よく言われる話を一つ。
軍師「雪斎」が生きていたならば、桶狭間での惨めな敗戦はなかったかもしれない。
…あ、そうかもしれませんねぇ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyoko_cloud.gif)
【 戦国メーター★今川義元 】
家柄: ■■■■■ 足利、吉良につぐ将軍を約束された家柄。
実力: ■■■■□ 雪斎が目立つが、戦略・内政・外交と高レベル。
地理: ■■■■□ 温暖な土地で上洛が実現できる距離。
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※三大奇襲戦で最も知名度の高い「桶狭間」
いっぱい本が出ていました。もう聞き飽きた、という人も多いでしょう。
…しかし信長ってーのはドラマティックな人生ですねぇ。
やっぱ英雄たる素質があるんですよ。
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本日はたった一戦で後世の評価がひっくり返ってしまった気の毒さんの代表格。
駿遠三の太守、海道一の弓取りこと「今川義元」です。
今回はその最後です。
本当は前回とくっつけてたんですが、やったら長いので泣く泣く分割した次第でございます。
ああっ、義元さま…。
前回は「あの当時に天下を狙って上洛するのは不自然ではないでしょうか?」という話でした。
ただ、それが尾張侵攻であろうが、天下号令であろうが、織田家にとっては滅亡の危機に変わりないんですね。
ちなみに今回写真は「今川義元」木像、です。
永禄三年(1560)
ついに尾張へ侵攻した義元。
ここは有名ですし、長くなるので詳細は記述しません。そのうちやるかもしれませんが。
奇策を得意とする信長に警戒はするものの、突然大雨が降るなどの不運も重なってしまいます。
わずか二千たらずの兵で出陣した織田信長。
丸根・鷲津の砦が陥落したという情報は、織田勢の緊張感をより高め、今川勢にとっては組みし易しという感覚になったことでしょう。
総勢二万五千と言われる今川の大軍に対し、その本陣にのみ集中することによって桶狭間地域での兵力差は半分程度にまで縮まっておりました。
豪雨によってかき消された織田勢の動向。
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情報を得て。、田楽狭間へ急行した信長の決断。
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奇襲を受けた義元はここで討死。
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窮地から這い上がった信長はその後天下への道を歩み、結果として序盤の大敵「今川義元」はその英雄譚に欠かせない悪役となってしまうのです。
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例えば…
■肥満して馬に乗れなかった。
ちゃんと桶狭間の時も騎乗しておられます。
だいたいあの当時馬に乗れないほど肥満している人なんていないのでは?
■馬に乗れないから輿に乗っていた。
…だから馬乗ってたんだってば。
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■胴長短足だった。
なんの証拠もありません。だいたい、コレ単なる悪口じゃねーか。
この当時の人は純日本的体格なはずなので、皆ほぼ短足でしょう。
■桶狭間出陣前に落馬した。
なんの証拠もありません。んな落馬くらい誰だってします。
桶狭間出陣前なんて言っているところが、いかにも創作臭いです。
臭ってきそうです。
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■お歯黒で貴族趣味のキモイ野郎だった。
京文化に憧れはもっていましたし、文化人の保護もしていました。
だからと言って、これは単なる趣味ですから、人にどうの言われることではありません。
また、文化に没頭して政務がおろそかにもなっていません。
いーじゃん、べつに。
■歌合せや蹴鞠など、のんきに公家風の生活をしていた。
だから趣味程度のことですってば。遊び呆けていたことはありません。
だいたい蹴鞠好きなのは息子の氏真くんですよ。
また、いかにも考えなしで馬鹿っぽく書かれてたりしますが、お寺で勉強しただけあって教養は高いのです。
…こんなんです。
私の好きな「石田三成」さまもそうですが、敗者はいつの時代も厳しいものですね。
最後に、よく言われる話を一つ。
軍師「雪斎」が生きていたならば、桶狭間での惨めな敗戦はなかったかもしれない。
…あ、そうかもしれませんねぇ。
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家柄: ■■■■■ 足利、吉良につぐ将軍を約束された家柄。
実力: ■■■■□ 雪斎が目立つが、戦略・内政・外交と高レベル。
地理: ■■■■□ 温暖な土地で上洛が実現できる距離。
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※三大奇襲戦で最も知名度の高い「桶狭間」
いっぱい本が出ていました。もう聞き飽きた、という人も多いでしょう。
…しかし信長ってーのはドラマティックな人生ですねぇ。
やっぱ英雄たる素質があるんですよ。
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義元の父、氏親が造らせたという豊橋の今橋城(吉田城)に行って来ました。
歴読にも紹介されてましたから・・・。
鉄櫓が開放されていて、見物人がそこそこ来てました。外人さんも。
現存するお城の階段は急ですが、ここの石段もそうでした。
豊川よりはまさに真下に落ちるって感じで、降りるのが怖いくらい。
お城、いいですね!!
鷲津砦、丸根、大高城址も行きましたよ。
今川義元!いかにも信長の引き立て役にされてしまっている観がありますね。
見過ごされがちな悲運の武将に光を当てるひでるさんの記事、また次回に期待しています。
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京都も行きたいですけど、名古屋・岐阜あたりも行きたいですねー。
ものすんごく羨ましいですよー。
旅行だと細かいところまでゆっくり見れないですからねぇ。
義元さまの名誉回復が多少でもできれば幸いです。
>ゴロケンさま
ありがとうございます。
そうなんです。もってこいという感じの引き立て役なんですよね。
ただ、単なる悪口みたいな肥満だの短足だのというのはどうにも許せませんでした。
木像もかっこいいですからねぇ。
ブログでは何回か述べておりますが、私も家康は嫌いです。トンデモない野郎ですよ。
人気投票とかで上位に来るとなんだかイラっとします。
だいたい、京文化に浸って油断ばかりてしているような人が「海道一の弓取り」なんて言われませんよねー。
※この場をお借りして。
本日(2/6)移転先のサーバーの調子が悪く、ログインすら出来ない状況です。
更新は難しいかもしれません。