お寺さんぽ Ver.03

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陣頭指揮・鯰尾の兜の武者 (蒲生氏郷)5

2007年12月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…現代ではあまり名前が出なくて地味めですが、当時の人々は誰しもが「彼はスゴい方だ!」とその才覚を認めていた、歴史に隠れた英気「蒲生氏郷(がもう・うじさと)」をお送りします。

家督を相続した氏郷くん。
伊勢の松ヶ崎に本拠を移し、十二万石を領しました。
そんな氏郷くんは「本能寺の変」でも活躍し、さらに相続後の危機も無事乗り越えたのでした。

天正十五年(1587) [厳石城(がんじゃくじょう)合戦]
天下統一を目指す秀吉は四国・長宗我部氏に次いで、島津氏が制覇目前であった九州征伐を開始しました。
秀吉配下であった氏郷は当然こちらにも従軍するのです。

豊前・厳石城は天然の要害の地であり、難攻不落を誇っていました。
こちらの合戦では、遠くより見物する秀吉の前で真っすぐに突撃した氏郷が、一気に城を落としたといいます。
このエピソードでも分かるように、氏郷の戦い方は後方にあって指揮するものでなく、陣頭指揮を取る珍しいタイプな人でした
こんな話が残っています。

新しい家臣を召し抱えた氏郷は、決まってこんな話をしていました。
おまえは戦場へ出た際、銀の鯰尾(なまずお)の兜を被って奮戦する武者が我が家中にいる。そいつ負けないようによく働け
その家臣がいざ合戦へ出てみると、なるほど鯰尾の兜の武者がおりました。
真っ先に突撃していく鯰尾の兜の武者こそが、「蒲生氏郷」その人であったのです。
この当時で陣頭指揮をした、珍しい人物なのですが、それもちゃんとした理由がありました。

通常、全体の状況が見えなくなる陣頭指揮はあまり良くないとされていました。
しかし、経済的に恵まれた江州の兵は弱卒で知られていたのです。
不利となると敵前逃亡するのは当たり前、みたいな。
そのため、氏郷自らが先頭に立って、皆の勇気を奮い立たせる必要があったのです。
また、氏郷は自らの武勇に自信があったのでしょう。

⇒ つづく
  次回は「会津に適う人物は他にない」

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