のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は戦国後継者シリーズ(そんなのない)、桶狭間合戦で非業の死を遂げた天下に最も近かった…かもしれない武将「今川義元」の嫡男「今川氏真(いまがわ・うじざね)」です。
ついに武田勢の侵攻を受けた氏真さま。
永禄十一年(1568)の薩埵峠合戦では寝返る家臣団を止められず、武田勢とまともに戦うことすらできない始末。
駿河は瞬く間に占拠され、遠江へ逃れるのでした。
続く十一年、遠江・掛川城(※写真)では頼れる重臣「朝比奈泰朝」の活躍によって攻める徳川勢に対してよく防衛。
なんと四ヶ月もの籠城戦に耐えていくのです。
この頃、北条方の援軍は「薩埵峠」にて武田勢と交戦していたようです。
ちなみに、「武田晴信」が一方的に同盟破棄して駿河へ攻め込んだ際、「今川氏真」のもとへ嫁いでいた「北条氏康」の娘「蔵春院」は輿に乗ることすらできず、雑兵にと共にほうほうの体で逃げたということで…父「北条氏康」は娘の身を案じて激怒したと伝えられています。
こんなんは戦国時代でもさすがにお父さんですね(笑)
こうして武田と絶縁し、「上杉謙信」と同盟を結んで武田を牽制するまでの事態へ発展するのです。
余談ですが、北条家としても単に同盟と私怨だけで今川を支援をしたのではなく、ちゃっかり孫「北条氏直」を「今川氏真」の猶子としていました。形式的ではありましたが、駿河領有権を得ていたのです。
さすがに相模の獅子。抜け目ないですよ。
また、徳川方としても、当初の約束を違えて遠江へ侵入してきた武田に不信感を覚え、掛川城に残る今川と講和。
ついに掛川城は開城するのでした。
こうして、大名でなくなったものの命を繋いだ氏真は妻の実家である相模へと向かうこととなるのです。
なお、共に戦った頼みの家臣「朝比奈泰朝」も彼に従ったのでした。
武田の悲惨な最後とは違い、講和での開城だったことで命を助けられ、しかも妻方の実家がちゃんと残っているという運に恵まれた氏真さま。
結局、国は二桁年まで維持できませんでしたから、そういう意味では凡庸。
ただ、相手が武田・徳川などという超一流が相手ですから。
そこは考慮してあげないと可哀想です。
妻「蔵春院」の実家に身を寄せた「今川氏真」さま。
当主氏康が死去し、「北条氏政」の代となると、北条家はこれまでの作戦から方針転換し、武田と再び同盟することとなるのでした。
そうすると、少々立場が微妙になってしまった「今川氏真」は今度は徳川家の庇護を受け、さらには憧れの京へ上って文化人のような生活を送るのでした。
旧知の者などもいたようですから、あるいは氏真にとって最も幸せな日々だったのかもしれません。
当時、京を支配下としていた仇敵「織田信長」とも会見したようですが、お互い何を喋ったのか不明。
…ちょっと聞いてみたいですね。
信長にしてみれば、珍しい生き物を眺めるような感じだったのかもしれません。あるいは、過去のことは置いといて、単なる文化人として接したのかも。
こうして、戦国武将としては大成しなかった「今川氏真」ですが、戦国時代を自らの才と運を味方につけて生き抜き、なんと慶長十九年(1614)七十六歳まで生きてこの世を去るのでした。
なお、その正室「北条氏康」の長女・「蔵春院」も共に寄り添うようにして生き抜き、氏真より二年先に死去しております。
過去に文化人っぽい戦国大名は何名もおりましたが、悲惨な末路がほとんどでした。
奥さんと添い遂げ、無事に長寿を全うした氏真は、やはり単なるお馬鹿さんでは片付けられないと思うのですよ。
ちなみに、子孫は江戸時代高家として存続。
ここまで見てみれば、歴史の勝ち組なのかもしれませんよ。
【 戦国メーター★今川氏真 】
家柄: ■■■■■ 下手すると将軍になれる家柄。
実力: ■□□□□ 戦国武将としては三流以下、文化人なら二流くらい?
地理: ■■■□□ 上洛が実現できる距離でしたが、国力低下で混乱してました。
[関連記事]
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [前 中 後]
⇒ 海道一の弓取り・今川義元 [1 2 3 4 5 6 7 8]
⇒ 隠れた名将「北条氏照」 [1 2 3]
⇒ 人間五十年…の幸若舞「敦盛」
⇒ 信長の正妻「濃姫」(京都・総見院)
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※ぴったりな本がありました。
ひでるが思う勝ち組は…やっぱり薩摩・島津家ですかねぇ。
義久くんはスゴイ!
本日は戦国後継者シリーズ(そんなのない)、桶狭間合戦で非業の死を遂げた天下に最も近かった…かもしれない武将「今川義元」の嫡男「今川氏真(いまがわ・うじざね)」です。
ついに武田勢の侵攻を受けた氏真さま。
永禄十一年(1568)の薩埵峠合戦では寝返る家臣団を止められず、武田勢とまともに戦うことすらできない始末。
駿河は瞬く間に占拠され、遠江へ逃れるのでした。
続く十一年、遠江・掛川城(※写真)では頼れる重臣「朝比奈泰朝」の活躍によって攻める徳川勢に対してよく防衛。
なんと四ヶ月もの籠城戦に耐えていくのです。
この頃、北条方の援軍は「薩埵峠」にて武田勢と交戦していたようです。
ちなみに、「武田晴信」が一方的に同盟破棄して駿河へ攻め込んだ際、「今川氏真」のもとへ嫁いでいた「北条氏康」の娘「蔵春院」は輿に乗ることすらできず、雑兵にと共にほうほうの体で逃げたということで…父「北条氏康」は娘の身を案じて激怒したと伝えられています。
こんなんは戦国時代でもさすがにお父さんですね(笑)
こうして武田と絶縁し、「上杉謙信」と同盟を結んで武田を牽制するまでの事態へ発展するのです。
余談ですが、北条家としても単に同盟と私怨だけで今川を支援をしたのではなく、ちゃっかり孫「北条氏直」を「今川氏真」の猶子としていました。形式的ではありましたが、駿河領有権を得ていたのです。
さすがに相模の獅子。抜け目ないですよ。
また、徳川方としても、当初の約束を違えて遠江へ侵入してきた武田に不信感を覚え、掛川城に残る今川と講和。
ついに掛川城は開城するのでした。
こうして、大名でなくなったものの命を繋いだ氏真は妻の実家である相模へと向かうこととなるのです。
なお、共に戦った頼みの家臣「朝比奈泰朝」も彼に従ったのでした。
武田の悲惨な最後とは違い、講和での開城だったことで命を助けられ、しかも妻方の実家がちゃんと残っているという運に恵まれた氏真さま。
結局、国は二桁年まで維持できませんでしたから、そういう意味では凡庸。
ただ、相手が武田・徳川などという超一流が相手ですから。
そこは考慮してあげないと可哀想です。
妻「蔵春院」の実家に身を寄せた「今川氏真」さま。
当主氏康が死去し、「北条氏政」の代となると、北条家はこれまでの作戦から方針転換し、武田と再び同盟することとなるのでした。
そうすると、少々立場が微妙になってしまった「今川氏真」は今度は徳川家の庇護を受け、さらには憧れの京へ上って文化人のような生活を送るのでした。
旧知の者などもいたようですから、あるいは氏真にとって最も幸せな日々だったのかもしれません。
当時、京を支配下としていた仇敵「織田信長」とも会見したようですが、お互い何を喋ったのか不明。
…ちょっと聞いてみたいですね。
信長にしてみれば、珍しい生き物を眺めるような感じだったのかもしれません。あるいは、過去のことは置いといて、単なる文化人として接したのかも。
こうして、戦国武将としては大成しなかった「今川氏真」ですが、戦国時代を自らの才と運を味方につけて生き抜き、なんと慶長十九年(1614)七十六歳まで生きてこの世を去るのでした。
なお、その正室「北条氏康」の長女・「蔵春院」も共に寄り添うようにして生き抜き、氏真より二年先に死去しております。
過去に文化人っぽい戦国大名は何名もおりましたが、悲惨な末路がほとんどでした。
奥さんと添い遂げ、無事に長寿を全うした氏真は、やはり単なるお馬鹿さんでは片付けられないと思うのですよ。
ちなみに、子孫は江戸時代高家として存続。
ここまで見てみれば、歴史の勝ち組なのかもしれませんよ。
【 戦国メーター★今川氏真 】
家柄: ■■■■■ 下手すると将軍になれる家柄。
実力: ■□□□□ 戦国武将としては三流以下、文化人なら二流くらい?
地理: ■■■□□ 上洛が実現できる距離でしたが、国力低下で混乱してました。
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ひでるが思う勝ち組は…やっぱり薩摩・島津家ですかねぇ。
義久くんはスゴイ!