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のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえずは山名氏の歩みである“山名氏とはなんぞや??”の3回目をお送りしております。
清和源氏から続く山名氏。
室町幕府初期頃には、「山名一族は六分の一殿」と言われるほどの巨大勢力でした。
しかし、権力強化を目指した三代将軍「足利義満」によって、わずか三ヶ国とされてしまうのです。
所領は減少したものの、幕府からは「侍所」の職を得た山名氏。
赤松、京極、一色氏と並んで三管領家に次ぐ四職家の筆頭として、中央政治に参加することとなったのでした。
ここで登場するのが、”赤入道”と呼ばれる「山名宗全(持豊)※写真」でした。
幕府討伐軍の主力として、「嘉吉の乱」に活躍。
但馬より南下した宗全率いる山名勢は赤松方の城を次々に陥落させ、総大将「赤松満祐」を討ち取るなどの大功をたてたのです。
この功によって、山名氏は失っていた勢力を大いに回復させたのでした。
因幡、但馬、伯耆という旧来からの土地に加え、
伊賀、播磨、美作、備後、備前、石見、(安芸?)…など、新たに守護職を得ております。
こうして幕府の実力者となっていた宗全は、八代将軍「足利義政」を確保して幕府にて権力を握ったのです。
応仁元年(1467)
しかし、管領家であったライバル細川氏がそれに対抗。
山名・細川という幕府の実力者、そして将軍家の確執、斯波・畠山などの権力闘争が幾重にも重なった「応仁の乱」に発展するのです。
この大乱に「山名宗全」は西軍の主将として各国から一族を集めて参加するのでした。
まぁ、ここは以前もやっているのですっ飛ばしますね。
ともかく、ただ消耗するだけで利のない不毛な戦に十一年もの間かかわったことで、山名一族はまた急速に衰退。
宗全と共に「嘉吉の乱」から活躍していた有力者「山名教之」も文明五年(1473)に死去。
山名氏を代表する両者の死は、一族の結束を大いに揺るがすこととなったのでした。
(※教之の子「山名豊之」もほとんど京で過ごしたため、伯耆国は急速に不安定な情勢となったようです)
各国の守護という名目は残っていたものの、宗全の孫「山名政豊」が継いだ際には各地の反乱などがため、支配は不安定なものでした。
特に下剋上の風潮というのは中国地方に強く、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏、備前の浦上氏、そして宇喜多氏…など、勢力を拡大させていくのは新興勢力ばかりなのです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_oro.gif)
⇒ つづく
次回は「国人衆、誠豊を擁立する」(4/8)
[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 戦国時代の幕開け「北条早雲」 <前編> <後編>
⇒ 暗殺と裏切りはお手のもの「松永久秀」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [前 中 後]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [前 後]
⇒ 謀略が得意な天性無欲正直の人 「尼子経久」 [1 2 3 4 5]
⇒ イケてる三好軍団 「三好長慶とその一族」 [1 2 3 4 5 6 7 8 9 10]
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※下剋上です。
そう、戦国の中国地方は強敵揃いなんですよねー。
ゲームとかでも、皆さま苦戦しているでしょう。
本日も但馬国の名門家である山名氏です。
渇殺しで有名な「鳥取城合戦」を取り上げるため、事前知識として戦国時代の山名氏にスポットを当ててみたのでした。
とりあえずは山名氏の歩みである“山名氏とはなんぞや??”の3回目をお送りしております。
清和源氏から続く山名氏。
室町幕府初期頃には、「山名一族は六分の一殿」と言われるほどの巨大勢力でした。
しかし、権力強化を目指した三代将軍「足利義満」によって、わずか三ヶ国とされてしまうのです。
所領は減少したものの、幕府からは「侍所」の職を得た山名氏。
赤松、京極、一色氏と並んで三管領家に次ぐ四職家の筆頭として、中央政治に参加することとなったのでした。
ここで登場するのが、”赤入道”と呼ばれる「山名宗全(持豊)※写真」でした。
幕府討伐軍の主力として、「嘉吉の乱」に活躍。
但馬より南下した宗全率いる山名勢は赤松方の城を次々に陥落させ、総大将「赤松満祐」を討ち取るなどの大功をたてたのです。
この功によって、山名氏は失っていた勢力を大いに回復させたのでした。
因幡、但馬、伯耆という旧来からの土地に加え、
伊賀、播磨、美作、備後、備前、石見、(安芸?)…など、新たに守護職を得ております。
こうして幕府の実力者となっていた宗全は、八代将軍「足利義政」を確保して幕府にて権力を握ったのです。
応仁元年(1467)
しかし、管領家であったライバル細川氏がそれに対抗。
山名・細川という幕府の実力者、そして将軍家の確執、斯波・畠山などの権力闘争が幾重にも重なった「応仁の乱」に発展するのです。
この大乱に「山名宗全」は西軍の主将として各国から一族を集めて参加するのでした。
まぁ、ここは以前もやっているのですっ飛ばしますね。
ともかく、ただ消耗するだけで利のない不毛な戦に十一年もの間かかわったことで、山名一族はまた急速に衰退。
宗全と共に「嘉吉の乱」から活躍していた有力者「山名教之」も文明五年(1473)に死去。
山名氏を代表する両者の死は、一族の結束を大いに揺るがすこととなったのでした。
(※教之の子「山名豊之」もほとんど京で過ごしたため、伯耆国は急速に不安定な情勢となったようです)
各国の守護という名目は残っていたものの、宗全の孫「山名政豊」が継いだ際には各地の反乱などがため、支配は不安定なものでした。
特に下剋上の風潮というのは中国地方に強く、出雲の尼子氏、安芸の毛利氏、備前の浦上氏、そして宇喜多氏…など、勢力を拡大させていくのは新興勢力ばかりなのです。
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⇒ つづく
次回は「国人衆、誠豊を擁立する」(4/8)
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※下剋上です。
そう、戦国の中国地方は強敵揃いなんですよねー。
ゲームとかでも、皆さま苦戦しているでしょう。