のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまのラストをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。
…でも、あらためて見返すと、「嘉明さま」があまり登場しておりませんね(笑)
天正十一年(1583)
賤ヶ岳での追撃戦で、ライバル柴田隊を散々に打ち破った羽柴勢。
今回の主役「加藤嘉明」もそちらにて華々しい戦功をあげるのでした。
以後は秀吉軍団の一員として、根来・雑賀討伐、「佐々成政」の越中討伐などに参加。
四国征伐・九州征伐の際には、水軍を率いて参加しております。
小田原・北条氏攻めでも船団を統率し、毛利、長宗我部、宇喜多らの水軍と相模湾に布陣しておりました。
それらの功によって、天正十四年(1586)には淡路志智城主として一万五千石を与えられるのでした。
苦節…二十三年、一時は浪人した(←父ですが)ものの、見事大名へと成り上がったのです。
あるいは、徳川家臣のままであれば、ここまでの出世はなかったかもしれませんね。
わかんないけど。
以後、「文禄の役」でも、舟奉行として参加。
続く「慶長の役」にも参加し、「小西行長」「島津義弘」らと共に「元均」率いる朝鮮水軍を巨済島にて撃破など、活躍しております。
こうして、文禄四年(1595)には、伊予松前城主、六万石を与えられました。
なお、秀吉が関白となると、それに合わせて従五位下左馬介となっております。
さて、秀吉の没後は多くの武断派大名と同じく、「石田三成」への反目から「徳川家康」に接近。
「関ヶ原合戦」では東軍方として、前哨戦である岐阜城・大垣城攻略戦に参加。
各将入り乱れる関ヶ原では、「黒田長政」「細川忠興」らと共に布陣し、石田隊と激しく戦っております。
また、豊臣恩顧の大名が苦慮した「大坂冬の陣」では江戸にて留守、「大坂夏の陣」では徳川方として参加するのでした。
それら功により、伊予松山二十万石を与えられ、現在も残る重文「松山城」を築くのでした。
以前の居城であった松前の「松」、勝山(※勝山山頂に本丸がある)の「山」を取って、「松山」という地名にしたそうです。
実は、嘉明さまはこちらの命名主なんですね。
こちら松山の城、および城下町を整備したのは、この「加藤嘉明」の実績です。
合戦での功が目立つ嘉明ですが、政治力も持ち合わせていたのです。
寛永四年(1627)には「蒲生氏」が転封された後に会津へ入り、なんと会津若松四十万石に加増転封。
官位も、最終的には従四位下侍従にまで昇進するのでした。
ちなみに、会津若松では、城内の屏風に家臣らの甲冑をそれぞれ描かせ、戦場で見誤らないよう常に目に入るようにしていたんだとか。
しかし、寛永八年(1631)
嘉明の死後にはお家騒動が勃発、後を継いでいた嫡男「加藤明成」は改易となってしまうのです。
とりあえず家はどうにか保たれ、近江水口藩として存続していくこととなるのです…。
【 戦国メーター★加藤嘉明 】
家柄: ■■□□□ 三河・松平家家臣です。武士ですが、そう大したものではないでしょう。
実力: ■■■■□ 各地の主要合戦に参加するなど、地味ながら戦闘・政治とも安定。
地理: ■■□□□ 伊予で判断。まぁ、天下とは無縁の方でしょうけれど。
[関連記事] 【目指せ下克上! 戦国梟雄の皆様】
⇒ 北条早雲 <前編> <後編>
⇒ 松永久秀 (1) (2) (3) (4)
⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
⇒ 権謀術数の策士「宇喜多直家」 (1) (2) (3) (4) (5) (6)
⇒ 意外と知らない軍神の父 「長尾為景」 [前 中 後]
⇒ 梟雄?名将?不確かな東北出世頭 「津軽為信」 [前 後]
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※そんな訳で、実は「加藤嘉明」さまの松山城なのでした。
なかなかいいお城ですよねぇ。
本日は”賤ヶ岳の七本槍”の一人で、加藤とくれば…「清正」なんですが、もう一人「加藤嘉明(かとう・よしあき)」さまのラストをお送り致します。
たいていの主要合戦に参加していながら良くも悪くも派手さなく、ドラマなどでもあまり取り上げられない、ちょっと不幸な嘉明さまの一生を是非ご覧下さいませ。
…でも、あらためて見返すと、「嘉明さま」があまり登場しておりませんね(笑)
天正十一年(1583)
賤ヶ岳での追撃戦で、ライバル柴田隊を散々に打ち破った羽柴勢。
今回の主役「加藤嘉明」もそちらにて華々しい戦功をあげるのでした。
以後は秀吉軍団の一員として、根来・雑賀討伐、「佐々成政」の越中討伐などに参加。
四国征伐・九州征伐の際には、水軍を率いて参加しております。
小田原・北条氏攻めでも船団を統率し、毛利、長宗我部、宇喜多らの水軍と相模湾に布陣しておりました。
それらの功によって、天正十四年(1586)には淡路志智城主として一万五千石を与えられるのでした。
苦節…二十三年、一時は浪人した(←父ですが)ものの、見事大名へと成り上がったのです。
あるいは、徳川家臣のままであれば、ここまでの出世はなかったかもしれませんね。
わかんないけど。
以後、「文禄の役」でも、舟奉行として参加。
続く「慶長の役」にも参加し、「小西行長」「島津義弘」らと共に「元均」率いる朝鮮水軍を巨済島にて撃破など、活躍しております。
こうして、文禄四年(1595)には、伊予松前城主、六万石を与えられました。
なお、秀吉が関白となると、それに合わせて従五位下左馬介となっております。
さて、秀吉の没後は多くの武断派大名と同じく、「石田三成」への反目から「徳川家康」に接近。
「関ヶ原合戦」では東軍方として、前哨戦である岐阜城・大垣城攻略戦に参加。
各将入り乱れる関ヶ原では、「黒田長政」「細川忠興」らと共に布陣し、石田隊と激しく戦っております。
また、豊臣恩顧の大名が苦慮した「大坂冬の陣」では江戸にて留守、「大坂夏の陣」では徳川方として参加するのでした。
それら功により、伊予松山二十万石を与えられ、現在も残る重文「松山城」を築くのでした。
以前の居城であった松前の「松」、勝山(※勝山山頂に本丸がある)の「山」を取って、「松山」という地名にしたそうです。
実は、嘉明さまはこちらの命名主なんですね。
こちら松山の城、および城下町を整備したのは、この「加藤嘉明」の実績です。
合戦での功が目立つ嘉明ですが、政治力も持ち合わせていたのです。
寛永四年(1627)には「蒲生氏」が転封された後に会津へ入り、なんと会津若松四十万石に加増転封。
官位も、最終的には従四位下侍従にまで昇進するのでした。
ちなみに、会津若松では、城内の屏風に家臣らの甲冑をそれぞれ描かせ、戦場で見誤らないよう常に目に入るようにしていたんだとか。
しかし、寛永八年(1631)
嘉明の死後にはお家騒動が勃発、後を継いでいた嫡男「加藤明成」は改易となってしまうのです。
とりあえず家はどうにか保たれ、近江水口藩として存続していくこととなるのです…。
【 戦国メーター★加藤嘉明 】
家柄: ■■□□□ 三河・松平家家臣です。武士ですが、そう大したものではないでしょう。
実力: ■■■■□ 各地の主要合戦に参加するなど、地味ながら戦闘・政治とも安定。
地理: ■■□□□ 伊予で判断。まぁ、天下とは無縁の方でしょうけれど。
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⇒ 美濃の蝮 「斎藤道三」 (1) (2) (3) (4)
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※そんな訳で、実は「加藤嘉明」さまの松山城なのでした。
なかなかいいお城ですよねぇ。
ほかに、加藤で思い浮かぶのは、映画「帝都物語」の島田久作のキョーレツな加藤です・・。
でも、この加藤くん・・・なかなかしぶくていいですね。
加藤茶とか。
あるいは加藤博一かなぁ。
野球好きなんで。