お寺さんぽ Ver.03

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豊臣秀頼公首塚 清涼寺(京都)

2006年02月03日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も清涼寺…ですがお寺の説明でなく秀頼公首塚です。

大阪城と運命を共にした秀頼・淀さま母子。
私は思うんですけど、大阪の陣で淀さまは最悪なにがあっても助かるって、
考えてたんではないでしょうか?

淀さまは時の覇者織田信長の姪、信長の同盟者浅井長政・お市さまの長女
として生まれました。
幼名を「お茶々」
過去の友好を重視した長政は結果信長から反旗を翻し、敗北。小谷城は落城。
淀さまは、まずここで一回目の落城を味わいつつも、助かりました。
(※ちなみに寄せ手の一番手は秀吉だったりして…)

助けられたお市さまは三人の娘たちと共に織田家へ戻ります。
信長も傷心の妹に配慮したのか、珍しくその後再利用することなく放置しました。
(信長はああ見えて、女性に気をつかうようなエピソードがいくつかあります。
 ちょっと意外でしょ?)
しかし、その庇護者であった信長が本能寺で亡くなると、利用価値のでたお市は
秀吉の競争相手である柴田勝家と再婚させられます。
その勝家も皆様承知の通り、秀吉との争いに敗れ、北ノ庄城は落城。
ここで母お市は城と運命を共にしますが、淀さまら娘たちは二回目の落城を経験
しつつも助かりました。
その後、時の権力者秀吉の側室となり、長男鶴松、次男秀頼を生んだことで歴史の
表舞台へ登場することとなるのです。

ね、この人二度も敗軍に加わっていながら助かるんですよ。
しかも、その後も権力者の庇護を受けて、まぁ…悪くない生活できたんですね。
信長の姪で、秀吉の子供を唯一生み、その秀頼は次期後継者という存在。
しかも美貌で知られたお市さまの娘の中で、最も母親似だったようですから…。

秀吉の正室、ねねさんは彼と共に出世してきているだけあって「戦国時代」というものを
よく見て、理解しているんです。
それは時代が違いますが、鎌倉時代、頼朝の正室だった北条政子さまも同じ。
彼女らは苦労してきているだけ、時代が(周囲が)よく見えていたと思うんですね。

一方、淀さまは生まれた時からずっと”お姫様”だったので、そのあたりがよく分かっていない。
おそらく、自分は物事をよく知っている、と思い込んでいただけ。

大阪の陣で集まった武将が次々と死んでいく中にあっても、淀さまは最悪「命だけは取られない
でしょう」と考えていたのではないでしょうか?

そして、名目上は大阪城の総大将だった豊臣秀頼もその才を発揮することなく、
歴史から消えていきました。彼の発言・記録はほとんど残っていないそうです。


[住所] 清涼寺 京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町46

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (時任杏子)
2009-06-10 20:00:38
ひでるさんは、淀殿のことに関しては、ほとんどお調べになっていない印象を受けました。
ユニークに解りやすい解説をなさっているだけに、そのあたりが残念です。
返信する
Unknown (時任杏子)
2009-06-10 20:02:20
ひでるさまは、淀殿に関してはほとんどお調べになっていない印象を受けました。
ユニークでわかりやすい解説なだけに、片手落ちが残念です。
返信する
ありがとうございます (あおぶひでる)
2009-06-11 01:06:38
時任さま、コメントありがとうございます。
この頃の歴史記事は確かに記憶だけで書いていました。
ただ、今読み返しても…そう違った記事にはならないと思います。
勉強します。
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