お寺さんぽ Ver.03

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この子の行く末は百万の将たるべし! (蒲生氏郷)3

2007年12月02日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は…現代ではあまり名前が出なくて地味めですが、当時の人々は誰しもが「彼はスゴい方だ!」とその才覚を認めていた、歴史に隠れた英気「蒲生氏郷(がもう・うじさと)」をお送りします。

信長率いる上洛軍。
主家六角氏と共に対抗した蒲生家ですが、織田勢に成すすべもなく諸城は陥落。
蒲生家の居城であった「日野城」も落とされ、あわれ氏郷は人質として織田家に差し出されてしまうのでした…。

さて、氏郷が信長と面会したのが、どのタイミングであるかは不明です。
ただ一つ、確かであること。
人質として連れられた敵将の息子を見た信長はたちまちその才を見抜き、小姓として取り立てているのです
急激に版図を拡大していた織田勢ですから、おそらく何名もの人質が引き出されていたはずです。
その中で、あの信長の目に止まって見出されたということは、幼少の氏郷にも”非凡な何か”があったのでしょう。
(※あるいは才覚はとりあえず二の次で、単に美童であったのかもしれませんけれど)

余談ですが、「織田信長」という人は優れた人物鑑識眼の持ち主でした。
乞食同然だった「羽柴秀吉」を取り立て、今川勢の一武将に過ぎなかった「松平元康(後の徳川家康)」と同盟し、素浪人の「滝川一益」「明智光秀」らを雇用・重用しているのです。
氏郷と同じような若者では、信長の命で家督を継がされた「前田利家」や名人と呼ばれた戦上手の「堀秀政」、若くして本能寺で討死した「森蘭丸」などがおります。
(※ちなみに、小姓ってのは秘書官と同じようなものなので、単に顔がいいだけでは務まりません。蘭丸も顔がいいことばかりが宣伝されてますが、万事に落ち度がない、相当な才能があったのでしょう)
気性が激しく気分屋な信長に気に入られたんですから、氏郷はそれだけで大した人と言えるのですよ。ええ。

よく言われることですが、氏郷の才を明確に分かりやすく示したものとして、石高があります。
「御恩と奉公」と言われていた時代より、武将に与えられる褒美の第一はやっぱり土地でした。
さらに、生産量の目安であった「石高」はそのまま才のバロメーターと言って差し支えないでしょう。

これを氏郷で調べると、驚くような出世をしていた事実が分かるのです。
まず、信長が横死した「本能寺の変」頃(1582)は日野で六万石でした。
その十年後、秀吉が朝鮮出兵をする前頃(1591)には、もう会津で百万石となっているのでした。
このように、わずか十年でざっと十倍以上の身代を得ているのです!!

なお、美濃三人衆の一人「稲葉一鉄」は若い氏郷に対してこんな称賛の言葉を残しています。
この子の行く末は百万の将たるべし!

⇒ つづく
  次回は「出撃!本能寺の変と戸木城合戦」

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※この絵は甲冑でカッコいいですね。
 彼の甲エピソードはまた後に…。


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