お寺さんぽ Ver.03

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徳川幕府・最大の腫れ物 (結城秀康)1

2007年12月16日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は天下人二人を父にもつという、歴史界のサラブレット。
しかし、出生がため不幸な人生を歩んでしまうこととなる徳川幕府・最大の腫れ物「結城秀康」です。

惜しいよ、秀康さま。
持って生まれた才を十分に発揮できずに死んでゆくのは、なんとももったいなく、悲しいことです。
嫡男亡き後の次男という位置づけでありながら、後継を弟に譲らなければならなかった不幸もそうですが、なにより関ヶ原という天下分け目の合戦で留守を命じられてしまう無念さは当人しか分からないことでしょう。
…わかんないけど(笑)


天正二年(1574)
京へ上洛して天下人の道を順調に歩む「織田信長」が将軍「足利義昭」によって形成された反織田連合に苦戦している頃のこと。(※ちなみに、「武田晴信」が死亡する次の年です)
徳川家は信長の子分…でなくて同盟者でありました。
今回の主人公「結城秀康」はそんな「徳川家康(※写真)」の次男として誕生します。
幼名「於義丸(おぎまる)」
しかし、母である「お万の方(長勝院)」の身分が低かったため、出産されたものの認知・面会はなく、半ばほったらかしであったと伝えられています。あるいは実子という感情すらなかったのかもしれません。
と、そんな感じであったため、子の秀康に父親の情は感じられなかったでしょう。

母親の「お万の方」は今川時代からの正室「築山殿」の侍女だったようなんですね。
真相は定かでありませんが、「築山殿」は元来気性の激しい質であり、歴史小説などでは激しくあたる場面がよく書かれたりしています。
義父「今川義元」が信長に討たれた後には家康を旗頭として弔い合戦をさせようとしていた、という話も伝わっていますから、実際大人しいお姫様タイプではなかったかもしれませんね。
家康の女性趣味(笑)的にも、そんな正室とはさして折が良くなかったようです。
桶狭間合戦の混乱で独立した家康は、当時まだ駿河にいた妻子をそのまま見捨てるように放置していたと伝えられています。

さて、そんな正室「築山殿」との間に生まれていた嫡男「徳川信康」
面通しすらされていない不遇な弟の存在を知ると、不憫に感じて一計を案じ、両者の面会を成功させるのでした。
これはどこまで真実か微妙ですが、あまり知られぬ信康の性格が見えるようで興味深いですね。
ただし、この時には後の二代将軍「徳川秀忠」が生まれており、面会した家康にさしたる感慨はなかったようです。
…基本的に冷酷非情で暗い、やな奴なんですよ、家康なんて。
(※偏見注入済み)

こうして、面会はかなったものの父親とは依然疎遠であり、主家の若君ながら不幸を感じたまま成長するのでした。
その背中で、時代は激烈な変化をしていくのです。

⇒ つづく。
  次回は「激突・豊臣VS徳川」

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※記憶曖昧ですが…確かひでるさん読んだ小説はコレ。
 題材いいので面白いですよ。


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