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藤原信頼、実権を握る (保元の乱、平治の乱)8

2008年12月28日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。


「保元の乱」の勝利によって、反対派の一掃に成功した「後白河天皇」
その側近「藤原信西」は「平清盛(※写真)」に接近して実権を掌握しました。
一方、「二条天皇」即位後に院政をすすめたい「後白河院」は「藤原信頼」を信西の対抗馬として推し、乱後にくすぶっていた「源義朝」を味方としました。
そこに親政をすすめたい「二条天皇」派が絡むというように、朝廷内はそれぞれ派閥の利害打算から急速に不和となっていくのです。
こうした不穏な情勢のなか「平清盛」が一族と共に熊野詣へ出掛けると、その隙を狙った「藤原信頼」・「源義朝」らがついに挙兵したのでした…。


このようにして、「保元の乱」からわずか三年後に起こったのが「平治の乱」なのです。
深夜に三条殿などを急襲した義朝らは、瞬く間に「後白河院」、そして「二条天皇」を確保。
「宮城(きゅうじょう)」の一本御書所へ彼らを移し、監禁してしまいました。

続いて、今回のメインターゲットである「藤原信西」の宿所を襲い、そちらを焼き払っております。
事前の脱出に成功し大和まで逃れていた信西ですが、追捕をふり切れずに、自害。
こうして、一夜にして実権は「藤原信西」から「藤原信頼」へと移ったのでした。

のこる「二条天皇」派と結んだ「藤原信頼」は朝廷を掌握。
その軍事力として活躍した「源義朝」は”播磨守”、さらに「源頼朝」は”右兵衛佐”へと任ぜられております。

このように、好き勝手に恩賞を実施するなど、まさに信頼は得意の絶頂だったようなのです。

しかし、義朝の武力を背景とした独断専行の政治は、大半の貴族に甚だ評判の悪いものでした。
さらに、”信西を追う”という目的では利害の一致していた「二条天皇」派にも都合の悪いものでした。

なお、この頃に父義朝を救援するため、「悪源太」こと「源義平」が上京しております。
その到着を喜んだ信頼は「左衛門少尉(さえもんのしょうじょう)」だった義平に官位を授けようとしましたが、
鎌倉にて、士卒はみな我が名を悪源太と呼び候。今は官位よりも軍勢を賜りたい。世が鎮まったのちに官位を賜りたし
…と、辞退したといいます。
さらに、到着した義平が真っ先に進言していた”平清盛追討”は退けられ、結局その帰京を認めてしまったのでした。

なんらかの血が騒いだのでしょうかねぇ。
ともかく、結果的にはその勘が正しかったことを知らされることとなるのです。

さてはて、「藤原信頼」・「源義朝」ら挙兵の報に接した「平清盛」
帰京した清盛はすぐさま信頼へ名簿(みょうぶ)を捧げております。
この”名簿”というのは、漢字そのまま、姓名や年月日、官位などが記されているもののこと。
”主従関係が成立する際に、服従のあかしとして主人へ渡される”のがこの名簿なのでした。
要するに、清盛は信頼に臣従する態度をとったのでした。

信西とも親しかった清盛ですが、それは信頼とも同様のこと。
彼としては、両者の争いに関してはもともと中立の立場を取っていたのです。
それが幸いしたんですね。
信頼は源氏「源義朝」に続いて平氏「平清盛」というように、両武力を味方につけたことを喜んでおります。

こうした情勢に危機感を持った「藤原公教(※「鳥羽院」の側近)」らは「二条天皇」派と共に、六波羅邸へ戻った清盛へ連絡をとっておりました。
こうして、密かに「二条天皇」の奪回を模索することとなるのです。

⇒ つづく。
  次回は「源氏勢、清盛の策に堕ちる」(9/10)

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※醤油だそうです。
 ひでるさんはギョーザとか、シューマイとか、あまり醤油をつかいません。

乱の終結・新たな確執 (保元の乱、平治の乱)7

2008年12月25日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。

天皇家、関白藤原家の確執に、源平武士らが多く参戦した「保元の乱」
こちらの戦では、伊勢平氏の棟梁「平清盛」、そして関東の軍勢を率いる「源義朝」らの所属した「後白河天皇(※写真)」方が勝利したのでした。
この乱以降、日本は武者の世になった
とは「慈円」の批評です。


「保元の乱」の勝利によって、反対派の一掃に成功した「後白河天皇」
この後実権を掌握したのは、その側近「藤原信西(道憲)」でした。

彼の目指した政治は荘園の整理など、天皇権力の強化を図るものでした。
そんな頃、「鳥羽院」の妃「美福門院」は自らの養育していた「守仁親王(二条天皇)」の即位を強く働きかけ、ついにそれを実現させるのです。
(※もともと「後白河天皇」はまだ幼かった「二条天皇」の中継ぎ的な存在だった)
こうして、乱の終結から二年後には「二条天皇」が誕生したのでした。

また、信西は「平清盛」の娘を子「藤原成範」に迎えるなど、畿内に勢力基盤を持つ平氏と接近し、彼らを自らの武力としておりました。
「源義朝」も信西の三男是憲を婿にすることを望んだものの果たせず、連携に失敗してしまうのです。
合戦はともかく、政治面では清盛に及ばない義朝なのでした。


◆平治元年(1159) [平治の乱]

さて、皇位を「二条天皇」へ譲って上皇となった「後白河院」は院政を開始。
この頃、「後白河院」より信任・抜擢されたのは、「藤原信頼」でした。
あさましき程に御寵ありけり
…と言われるほどの寵愛ぶりだったそうなのです。

そんな背景から、わずか数カ月で急速に官位を昇進していく信頼に警戒した信西。
右大将の任官は信西によって一蹴されてしまうのです。

こうした背景から、「藤原信頼」は実権を握っていた「藤原信西」と対立を深めるようになっていくのでした。
(※なお、「二条天皇」方の側近である「藤原経宗」「藤原惟方」らも、この信西とは反目しています)

また、自身は武蔵守、一族が陸奥守であった「藤原信頼」
関東に勢力を有し、また平氏優遇策をとる朝廷に不満を抱いていた「源義朝」は自然と彼に接近。
こうして、朝廷内は院政をすすめる「後白河院」・「藤原信頼」・「源義朝」らと、実権を握る「藤原信西」・「平清盛」
そして親政をすすめたい「二条天皇」という派閥が形成され、それぞれ急速に不和となっていくのです。

こうした情勢のなか、信西方の武力である「平清盛」が一族と共に熊野詣のため、京を留守にしました。
その隙を狙い、「藤原信頼」・「源義朝」らはついに挙兵したのです

⇒ つづく。
  次回は「藤原信頼、実権を握る」(8/10)

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※源氏と違い、どうにも弱々しく貴族っぽいイメージの平氏(←ちがう?)
 倶梨伽羅峠・富士川が強いんですねー。
 

源平激突!白河殿西門 (保元の乱、平治の乱)6

2008年12月21日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。


平安時代末期。
鎌倉の亀谷に館を構えた「源義朝」、引き継いだ嫡男「源義平」は関東にて地盤を拡大。
一方、天皇家は若くして亡くなった「近衛天皇」の後継者をめぐり、継いだ「後白河天皇」、息子に譲れなかった「崇徳院」という兄弟が反目しあっていました。
さらに、関白藤原家の確執も重なり、権力を握っていた「鳥羽院」の死後、朝廷は二派に分裂してしまうのです。

兄「崇徳院」方には、「藤原頼長」、河内源氏の棟梁「源為義」、そして豪弓で知られる”鎮西八郎”こと「源為朝」が。
弟「後白河天皇」方には「藤原(道憲)信西」、伊勢平氏の棟梁「平清盛」、関東の軍勢を率いる「源義朝」が参加していたのでした。


義朝の進言により、機先を制する夜襲へと決定された「後白河天皇」方。
翌早朝、清盛は三百騎、義朝はニ百騎を率いて、ついに白河殿へと奇襲をかけたのです!


主力である清盛勢は西門から攻撃。
しかし、そちらを守備していた鎮西八郎・為朝によって、ことごとく退けられてしまうのです。
攻めあぐねる清盛勢に続いた義朝勢もやはり為朝を突破できず、同様に撃退されてしまうのでした。

さすがに強いですねー。

この際、為朝の放った矢によって義朝が射倒されかける場面がありましたが、郎党が立ちふさがったことで命拾いをしたそうです。
こうした鎮西八郎・為朝の英雄的な活躍によって、不利な戦況ながら戦線を維持していた「崇徳院」勢。

ここで敵わぬとみた「後白河天皇」勢は火の使用を決意。
義朝によって御所へ火をかけられると、奮戦空しくわずか数時間にて勝負は決まったのでした。(※写真部分)

…こうして勝利した「後白河天皇」方。
逃亡した「藤原頼長」はその途中に流れ矢に当たって討死。
仁和寺へ逃れた「崇徳院」もそこで捕らえられ、讃岐へ流罪。

また、参加した武士たちの戦後処置は厳しく、その多くは死罪となっております。
活躍した義朝は父為義ほか兄弟らの助命嘆願をしたものの聞きいられず、そのほとんどを処刑することとなるのでした。
なお、源氏だけでなく平家方でも「平忠正」らを処刑しております。
ちなみに、西門にて無類の強さを発揮した為朝はその武勇を惜しまれ、八丈島へ流罪でした。

助命嘆願には失敗したものの、戦功によって「源義朝」は知行国一ヶ国を与えられ、右馬権頭(うまのごんのかみ)へ任ぜらて昇殿まで許されました。
なお、ライバルの「平清盛」は播磨守に任ぜられ、知行国を四ヶ国得ております。

源氏、平氏ら多くの武士が関わったこの合戦を評した「慈円」は、
この乱以降、日本は武者の世になった
…と、述べたのだとか。
⇒ つづく。
  次回は「乱の終結・新たな確執」(7/10)


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※いちおう、義経が出たりするんですが…
 あー、こうではないんですよねぇ。

豪弓で知られる”鎮西八郎”こと「源為朝」 (保元の乱、平治の乱)5

2008年12月18日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、時代のターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのでした。


平安時代末期。
鎌倉の亀谷に館を構えた「源義朝」、引き継いだ嫡男「源義平」は関東にて地盤を拡大。
一方、天皇家は若くして亡くなった「近衛天皇」の後継者をめぐり、継いだ「後白河天皇」、息子に譲れなかった「崇徳院」という兄弟は反目しあっていました。
さらに、関白藤原家の確執も重なり、権力を握っていた「鳥羽院」の死後、朝廷は二派に分裂してしまうのです。


◆兄「崇徳院」方
 藤原頼長
 平忠正
 源為義(河内源氏)
 源親治(大和源氏)
 
◆弟「後白河天皇」方
 藤原忠通
 藤原(道憲)信西
 平清盛(伊勢平氏)
 源義朝
 源頼政(摂津源氏)


まずは兄「崇徳院」方。
”鎮西八郎”との異名を持つ、豪弓で知られる「源為朝(※写真)」が夜襲を提案しております。

さて、こちらの「源為朝」は「源為義」の八男で、今回は敵対している「源義朝」の弟です。
身長七尺(2.3m)といいますから当時では相当な大男で、強弓を引けば”一矢で馬上の二人以上を鎧そのまま射通した”という、トンデモな方でした。

幼少期より剛勇として知られる為朝ですが、その反面”暴虐無人な問題児”で、十三歳の時に父から豊後へ追放されてしまうのです。

…しかし、そんなことではヘコたれない為朝くん。

九州に下った彼は各地の武士を従えるべく転戦、西の地にて大暴れしたのでした。
それがため、”検非違使(けびいし:治安維持の役職)”であった父為義は、戦を仕掛ける為朝に悩まされた九州の武士らが朝廷へ訴えた結果、久寿元年(1154)にはその役目を解任されてしまったのです。

それを知った為朝は手勢を率いて上洛したのでした。
…さすがにやり過ぎた、と思ったのかなぁ(笑)
こうして上洛したところ、ちょうと゜「保元の乱」の混乱に間に合ったという訳なのです。

そんな荒武者「源為朝」の作戦は”内裏高松殿に夜襲をかけ、三方から火を放った末に残ったもう一方より攻撃を仕掛ける”、というものでした。
この献策は父為義の推挙によってのことらしく、一度追放したとはいえ実力は認めていた様子なのです。
問題児ほど可愛い、ってやつでしょうか。
詳しくはよく分かんないけど。

しかし、そうした進言はことごとく「藤原頼長」によって退けられ、彼は憤然としたまま白河殿西門の防備にあたることとなってしまうのでした。


一方の「後白河天皇」方でも、「源義朝」が「藤原信西」へ夜襲を進言しておりました
「崇徳院」方とは違い、この作戦は「後白河天皇」や「藤原信西」に認められ、機先を制する夜襲が決定されたのです。

様々な事情や思惑があるとはいえ、やはり戦は「勝つこと」が重要。
実戦のプロである彼らを信用したか、どれだけ巧く扱えたか、は後の勝敗を大きく左右することになったと思います。

⇒ つづく。
  次回は「源平激突!白河殿西門」(6/10)



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⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 「承久の乱」[       ]
⇒ 義仲寺 (滋賀)
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編


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※本当に買ってきました(笑)
 当時の各武将(186名)が豊富な資料・写真付きで紹介されており、実に資料価値の高い一冊でした。
 「平将門」から「北条泰時」くらいの源平武将が勢ぞろいです。
 …光栄さんから「源平無双」とか発売されないかなぁ。





二派に分裂した朝廷・源平 (保元の乱、平治の乱)4

2008年12月14日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りします。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。

平安時代末期。
京から東へ下った「源義朝(みなもとの・よしとも)」は鎌倉の亀谷に館を構えて勢力を拡大させておりました。
そちらを引き継いだ嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」は上野国の叔父「源義賢」らを討ち取り、”悪源太(あくげんた)”という異名を得たのでした。

一方、天皇家は若くして亡くなった「近衛天皇」の後継者をめぐり、継いだ「後白河天皇(※写真)」、息子に譲れなかった「崇徳院」という2人が兄弟ながら反目しあうこととなってしまうのでした…。


さて、こういった同勢力内での反目は重なるもので、関白・藤原家でも「藤原忠実」の嫡男「藤原忠通」とその弟「藤原頼長」という兄弟にて争っておりました。
「鳥羽院」に愛されて辣腕を振るっていた頼長ですが、「近衛天皇」を呪詛したという疑いをかけられて失脚させられてしまいます。
なお、これは「藤原忠通」と「美福門院」の陰謀であったようです。

…以上のように、天皇家・藤原家のどちらもが内部で争うという、ややこしい情勢の中、保元元年(1156)に「鳥羽院」が崩御(死亡)したのでした。
直後に勃発した「保元の乱」というのは、天皇家・藤原家の政治主導権争いだったのです。


保元元年(1156) [保元の乱]
院政をしいて実権を掌握していた「鳥羽院」が没しました。
すると、朝廷内部にてくすぶっていた「崇徳院」と「後白河天皇」という両派閥に分裂してしまうのです。

まだ「鳥羽院」が存命であった頃。
伏した「鳥羽院」の見舞いに訪れた「崇徳院」ですが、面会を拒否されてしまう事件が起こっています。

自らの死後を予想したのか、「鳥羽院」は武士たちを召集して警護を厳重なものにしていました。
(※なお「源義朝」もこの警備に参加しております)
警戒強まる中での訪問とタイミングが悪かったのかもしれませんが、間の悪いことに、この際に反乱の噂を立てられてしまうのです。

こうして、身の危険を悟った「崇徳院」は地位を失っていた「藤原頼長」と接近
鎮西八郎「源為頼」ほか六人の息子を率いて駆け付けた清和源氏の棟梁「源為義」ほか、「鳥羽院」より勘当されていた「平清盛」の叔父「平忠正(たいらの・ただまさ)」、大和源氏、興福寺の僧…などを味方として計算。
ここで、遂に挙兵するのです。

このあたり、ほぼ挑発にのってしまったとする説と、好機とばかりに自ら挑んだという両方の説がありました
…どちらかというと、”そうした状況へ追い込まれてしまった”みたいですけどね。


さて、反旗を翻した「崇徳院」なんですが…実際に白河殿へ集結できたのは、「藤原頼長」ほか「源為義」、「平忠正」などの小勢だけでした

まず、近畿の主だった武士たちは先の崩御の際の召集によって、ほとんどがそのまま「後白河天皇」方となっていたのです。
また、大和から京へ向かっていた大和源氏「源親治」も事前に阻まれ、捕らえられ、当初より「崇徳院」側の状況は非常に不利なものだったようなのです。

一方、「後白河天皇」の高松殿に終結していたのは、まさに大軍勢でした
ここで「源義朝」は相模「大庭景義(おおにわ・かげよし)」、両総「上総広常(かずさ・ひろつね)」「千葉常胤(ちば・つねたね)」、武蔵七党(※文献によって構成がさまざま)などの東国武士を結集。
畿内の武士を召集した伊勢平氏の棟梁「平清盛」と並び、「後白河天皇」勢の主力部隊となっております。
なお、多くの源氏一族は崇徳方となっていましたが、摂津源氏「源頼政」も「後白河天皇」方に属しておりました。

こうして、源氏・平氏ともに一族をそれぞれ二派に分裂させ、戦うこととなってしまったのです

⇒ つづく。
  次回は「豪弓で知られる”鎮西八郎”こと「源為朝」」(5/10)


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※源平合戦、学習中のひでるです。
 コレ、買おうと思います。


欲望渦巻く天皇家 (保元の乱、平治の乱)3

2008年12月11日 | 歴史
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本日も、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りしております。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。


平安時代末期。
京から東へ下った「源義朝(みなもとの・よしとも)」は鎌倉の亀谷に館を構えて勢力を拡大させておりました。
そちらを引き継いだ嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」は父に負けない武勇を発揮し、上野国の叔父「源義賢」らを見事に討ち取り、”悪源太(あくげんた)”という異名を得たのでした。

久寿二年(1155)
「保元の乱」の前年のことです。
(※ここはややこしいので、↓下記・略系図を眺めながら読むのがいいと思います)

「鳥羽院(※写真)」は美女「待賢門院(たいけんもんいん:藤原璋子)」との間に「崇徳天皇(すとく・てんのう)」を儲けていました。
(※ちなみに、「崇徳天皇」は”実は「白河院」との子である”という、あやしげな噂があり、「鳥羽院」はことさら彼を嫌っていたという説があります)

彼は影響力を発揮した「白河院」によって、「崇徳天皇」へ譲位させられました。
しかし、ほどなくして没した「白河院」に代わって実権を握ると、今度は「崇徳天皇」の周囲は厳しくなり、ついに「鳥羽院」によって退位させられてしまうのでした。

こうして「鳥羽院」は”類まれな美貌の持ち主”と伝わる「美福門院(びふくもんいん:藤原得子)」との子「近衛天皇」を即位させるのです。
その「近衛天皇」ですが、わずか十七歳にして亡くなってしまいました。
この予想外な早世を切っ掛けとして、権力に魅入られた者たちがわさわさと騒ぎ出すのです


【 おまけ 天皇 略系図 (※↓:子、-:兄弟) 】

 白河(72)
  ↓
 堀河(73)
  ↓
鳥羽(74)
  ↓
崇徳(75)--後白河(77)-近衛(76)
  ↓         ↓
 重仁親王   二条(78)-以仁王-高倉(80)
             ↓            ↓
           六条(79)        安徳(81)-後鳥羽(82)
        


さて、亡くなった「近衛天皇」はまだ子供がおりません。
先代「崇徳院」としては、当然ながら我が子「重仁親王」への即位を望んでおりました。
また、「鳥羽院」の妃「美福門院」は自らが養育していた「守仁親王(二条天皇)」を天皇に…、と強く推していました。

しかし、「後白河天皇」の乳父「藤原道憲」は摂関家「藤原忠通」と共に彼を強く推し、結果「待賢門院」との間に生まれていた「後白河」が即位たのです。

無理やりに退位させられた上、息子を即位させられなかった「崇徳院」としては面白い訳がありません。
このため、崇徳・後白河という2人は兄弟ながら反目しあうこととなってしまうのでした。

⇒ つづく。
  次回は「二派に分裂した朝廷・源平」(4/10)


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※結局、天皇家も武士も、勢力というのは内部分裂から崩壊していくんですねー。
 譲り合いの精神が大切です。


人呼んで”悪源太”こと「源義平」 (保元の乱、平治の乱)2

2008年12月07日 | 歴史
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本日も、”武士の時代到来”という、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りしております。
これらの合戦によって源氏は没落し、平氏政権が確立することとなるのです。

平安時代末期。
河内源氏の棟梁「源為義(みなもとの・ためよし)」の嫡男「源義朝(みなもとの・よしとも)」
京から東へと下った義朝は鎌倉の亀谷に館を構え、勢力を拡大させておりました。
こうして河内源氏の本拠地は鎌倉になっていったのです。


仁平三年(1153)
義朝は東国を嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」に任せて上洛。
さっそく”従五位下・下野守”へ任ぜられ、これによって父為義の官位を超えております。
関東に残った義平は、なんと当時まだ十三歳の若武者でした。
”体格雄偉で不敵な面構え”だったと伝わっています。


久寿二年(1155) [大蔵館合戦]
父義朝の上洛から二年後。
早くもその真価を問われる事態が発生しております。

さて、「源為義」の次男「源義賢(みなもとの・よしかた)」も関東へ下り、上野国多胡郡を地盤としておりました。
(※義賢は後に上洛する「木曾義仲」の父です)
これは、義朝と不仲であった為義の指示であると伝わっています。
…邪魔させるため、わざわざ関東へ送ったのです。
どんだけこの親子は仲悪いんだ、と(笑)

ともかく、こうした経緯で上野国に入った義賢は武蔵北部に勢力を持っていた豪族「秩父重隆(ちちぶ・しげたか)」の養子となり、その武士団をとりこんで武蔵国の南部へと侵攻しておりました。
一方の義平も相模から武蔵へと進出していたため、当然お互いの勢力は衝突することとなってしまうのです。

こうして発生したのが、義平の武名を轟かせることとなる「大蔵館合戦」なのです。

合戦の詳細についてほぼ不明。
当時からの歴史書「平家物語」、「吾妻鏡」には、
”故左馬頭義朝が一男悪源太義平が為に大蔵の館にて義賢重隆共に被討ちにけり…”
などと、簡潔に記されておりました。

おそらくは合戦となるよりも迅速に大蔵館を急襲した義平が、あっという間に二人を討ち取ってしまったのでしょう

ともかく、ここで「源義賢」、「秩父重隆」の両名は討死。
その当時ニ、三歳だった「駒王丸(木曾義仲)」は信濃国へ逃れ、「中原兼遠(なかはらの・かねとお)」の元で成長することとなるのです。

まだ無名であった十五歳の義平。
一日にして叔父らを敗死させたことによって、義平は”悪源太(あくげんた)”と呼ばれて部名を轟かせるのでした
なお、「悪」は悪いというよりも”強い”というイメージで用いられています。

この戦の後、敗死した義賢と”父子之約”を結んでいた、弟「源頼賢(みなもとの・よりかた)」は仇討ちをするべく信濃国へ入り、鳥羽院領を占領しましたが、義朝へ討伐の院宣が発せられたため退いております。

このように、源氏同士でも争うようになっていた当時の情勢。
「大蔵館合戦」の翌年に起こったのが、「保元の乱(ほうげんのらん)」なのでした。

⇒ つづく。
  次回は「欲望渦巻く天皇家」(3/10)


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源平合戦の幕開け (保元の乱、平治の乱)1

2008年12月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は、”武士の時代到来”したという、ターニングポイントと言うべき中央での変事「保元の乱」、そちらに続く「平治の乱」についてお送りいたします。

ひでる、平安時代学習中…。
と、言うことで、最近は源平合戦付近を眺めること多いんですが、その中で「平清盛」と刺し違えるべく、三井寺付近に潜伏していたという「源義平」という人物にひかれました。
今回の記事はそうした流れによるものです。
このあたりの時代はずっと避けてきましたが、調べてみると戦国時代とはまた違った味わいがあると思います。


摂関家の藤原氏に近づき、各地の合戦に活躍して”武家の棟梁”という地位を確立した源氏。
一方の平氏は藤原氏に代わって実権の奪回を企んでいた「白河法皇」に接近し、その台頭と共に勢力を拡大させていくのでした。
こうして武士の二大棟梁「清和源氏」「桓武平氏」が出来上がっていくのです。

時は平安時代末期。
「八幡太郎」こと「源義家(みなもとの・よしいえ)」を祖父とする、河内源氏の棟梁「源為義(みなもとの・ためよし)」の嫡男「源義朝(みなもとの・よしとも)」
父と不和になったなどの要因により、京から東へ下った義朝は鎌倉の亀谷に館を構えました。
相模国高座郡の荘園「大庭御厨(おおばみくりや)」、下総国の荘園「相馬御厨(そうまみくりや)」などを略奪・横領して自らの勢力を拡大させると共に、有力武士の家人化(※家臣にするのね)をすすめるのでした。

なお、それまでは河内国を本拠としていた河内源氏ですが、この軍事行動によって源氏の本拠地は鎌倉になっていくのです。
(※後の「源頼朝」が鎌倉にて幕府をひらいたのも、ここで地盤を築いていたため)

永治元年(1141)
その「源義朝」に待望の嫡男「源義平(みなもとの・よしひら)」が誕生しております。
彼は後に鎌倉幕府をひらく「源頼朝」の兄なのです。

最も信頼される源氏の系図「尊卑分脈(そんぴぶんみゃく )」によると、母は橋本遊女などと伝えられていますが、実際のところは詳細不明。
この時代、”子を成すことすなわち勢力の拡大”となるため、義朝(※彼自身にも十七人もの弟がいます)もあちこちにて子を産ませているのでした。
なお、「修理太夫範兼」の娘という説もあるようです。

後々にも名前が多く出るため、ここで河内源氏の家系図についてご確認下さい。


【 おまけ 河内源氏 略系図 (※↓:子、-:兄弟) 】

清和天皇
  ↓
 (略)  
  ↓
 満仲(多田)
  ↓
 頼光(摂津源氏)-頼親(大和源氏)-頼信(河内源氏)
                           ↓
                          頼義
                           ↓
           義家(八幡太郎)---義綱----義光(新羅三郎)
                ↓                       ↓
   義宗-義親-義国-義忠-義時-義隆    義業(佐竹氏)-義清(武田氏)-盛義                  
        ↓   ↓
        ↓  義重(新田氏)-義康(足利氏)
       為義
        ↓
義朝--義賢-義広(志田氏)-頼賢-為朝(鎮西八郎)-行家(新宮十郎)
  ↓     ↓
  ↓  仲家-義仲(木曾)
  ↓
義平(悪源太)-朝長-頼朝(征夷大将軍)-義門-希義-範頼-全成-義円-義経(九郎判官)  
         

…後の世で協力・激突することとなる、「源頼朝」や「木曾義仲」の関係。
さらに室町幕府を開く将軍足利家、戦国時代に活躍する甲斐武田家などがどう派生したのか、このあたりを多少でも把握しておくとまた歴史が違って見えてくると思います。

⇒ つづく。
  次回は「人呼んで”悪源太”こと「源義平」」(2/10)



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⇒ 源頼光と四天王 <前編> 実際の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <中編> 虚像の頼光さま
⇒ 源頼光と四天王 <後編> 四天王は存在した?
⇒ 鎮守府将軍 「源頼信・源頼義」
⇒ 八幡太郎の真実 「源義家はすごかった」
⇒ 八幡太郎の活躍 「前九年の役」
⇒ 名を上げた源家と奥州藤原氏の祖 「後三年の役」 前編 後編
⇒ 棟梁をねらえ! 新羅三郎「源義光」
⇒ 直接対決!鎌倉幕府vs朝廷 「承久の乱」[       ]
⇒ 義仲寺 (滋賀)
⇒ 伊勢平氏 (平正盛) 前編 後編



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