のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も「戦国サスペンス劇場」です!
ジャンジャンジャーン、ジャンジャンジャーン♪
(※当然ながら火サステーマをバックに想像して下さい)
華々しい合戦が各地で行われていたこの戦国時代。
その裏で、なぜか船上にて死した、二人の戦国武将がおりました。
一方は「上杉景勝」の父、越後の有力国人「長尾政景(ながお・まさかげ)」、もう一方は「上杉謙信」の軍師と言われた越後流軍学の祖「宇佐美定満(うさみ・さだみつ)」その人です。
情勢確認、そして越後国内を見てみましょう。
下克上によって主家上杉氏を打倒し、一時期は越後一国を領するまでに至った「長尾為景」ですが、晩年は旧勢力の盛り返しによって国内は乱れ、嫡男「長尾晴景」に後を譲っておりました。
しかし、息子「晴景」は病弱で器量にも欠けていたらしく、混乱は治まりませんでした。
よく言われることですが、ライバル「武田晴信」と比較する場合、国内統一に成功していた甲斐国とはスタート時点で大きく違い、だいぶ不利な状況だったんですね。
越後に散らばる各地諸勢力、上田・長尾氏を筆頭に、上条氏、宇佐美氏、本庄氏、新発田氏…などの国人衆は「越後府中・長尾家」に抵抗の色を見せておりました。
後に臣下となる、上田・長尾氏、坂戸城は「長尾政景」、琵琶島城は「宇佐美定満」らの家はどちらも、もともとは敵対勢力だったのです。
こうして、独力での越後統一を困難と見た「晴景」は父の言いつけによって仏門に入っていた弟の「上杉謙信(※ややこしいからこれで統一)」を呼び戻すのでした。
この弟が才気煥発で、たちまち大功を立ててしまうのですよ。
英雄の出現ですね。
そんな訳で、国内領主の声望は病身の兄「晴景」より、新進気鋭な弟「謙信」に集まり、天文十六年には兄弟が対立するという最悪の図式となってしまうです。
結果として、織田・伊達であったような争いはどうにか回避され、謙信が兄より家督を譲られたのは天文十七年(1548)のことでした。
さて、今回の主役の一人「長尾政景」ですが、兄弟で争った際には晴景側に立ち(天文十六年)、続く天文十九年(1550)には家督相続した謙信に対し、叛旗を翻しているのです。
ちなみに、この謀反を扇動したのが、なんと「宇佐美定満」であったという説もあるようです。
怪しげな感じですね。
抵抗する「長尾政景」はよく防戦しますが、素早く行動した謙信勢の猛攻を支えきれずに降伏。
「上杉謙信」の姉「仙桃院」を妻として、臣従を誓うこととなるのです。
この八十まで生きた「仙桃院」さんが妻となったのが、この降伏の後なのか、あるいは晴景が健在であった頃なのか、いまいちはっきりしていないようです。
すでに嫁ぎ先が決まっていた、というのもあるみたいでした。
とりあえず確かなことは、この謀反以後から「長尾政景」は謙信の忠実な家臣として、一族として、家中にて重きを成すこととなるのでした。
一方、「宇佐美定満」もこの上田長尾攻略戦から後の同盟締結までに、功を立てていたようです。
ただ、先の謀反扇動エピソードもそうなんですが、どうにも謙信が好みそうなやり方に見えないんですよね。
あの人は合戦に大そう自信を持っていた人ですから、”抵抗するなら返り討ち”にするくらいの気概だったでしょう。
そんな人が怪しい奴とはいえ、わざわざ背中をつつくような、ややこしい作戦をするとは思いにくいのですよ。
⇒ つづく
次回は「結局どういうことなんでしょう?」
[関連記事] 【戦国武将大会】
⇒ 追放された巨星の父 「武田信虎」 [前 中 後]
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※表紙がかっちょえーので選びました。
実際に川中島では戦っていたようですね。
本日も「戦国サスペンス劇場」です!
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華々しい合戦が各地で行われていたこの戦国時代。
その裏で、なぜか船上にて死した、二人の戦国武将がおりました。
一方は「上杉景勝」の父、越後の有力国人「長尾政景(ながお・まさかげ)」、もう一方は「上杉謙信」の軍師と言われた越後流軍学の祖「宇佐美定満(うさみ・さだみつ)」その人です。
情勢確認、そして越後国内を見てみましょう。
下克上によって主家上杉氏を打倒し、一時期は越後一国を領するまでに至った「長尾為景」ですが、晩年は旧勢力の盛り返しによって国内は乱れ、嫡男「長尾晴景」に後を譲っておりました。
しかし、息子「晴景」は病弱で器量にも欠けていたらしく、混乱は治まりませんでした。
よく言われることですが、ライバル「武田晴信」と比較する場合、国内統一に成功していた甲斐国とはスタート時点で大きく違い、だいぶ不利な状況だったんですね。
越後に散らばる各地諸勢力、上田・長尾氏を筆頭に、上条氏、宇佐美氏、本庄氏、新発田氏…などの国人衆は「越後府中・長尾家」に抵抗の色を見せておりました。
後に臣下となる、上田・長尾氏、坂戸城は「長尾政景」、琵琶島城は「宇佐美定満」らの家はどちらも、もともとは敵対勢力だったのです。
こうして、独力での越後統一を困難と見た「晴景」は父の言いつけによって仏門に入っていた弟の「上杉謙信(※ややこしいからこれで統一)」を呼び戻すのでした。
この弟が才気煥発で、たちまち大功を立ててしまうのですよ。
英雄の出現ですね。
そんな訳で、国内領主の声望は病身の兄「晴景」より、新進気鋭な弟「謙信」に集まり、天文十六年には兄弟が対立するという最悪の図式となってしまうです。
結果として、織田・伊達であったような争いはどうにか回避され、謙信が兄より家督を譲られたのは天文十七年(1548)のことでした。
さて、今回の主役の一人「長尾政景」ですが、兄弟で争った際には晴景側に立ち(天文十六年)、続く天文十九年(1550)には家督相続した謙信に対し、叛旗を翻しているのです。
ちなみに、この謀反を扇動したのが、なんと「宇佐美定満」であったという説もあるようです。
怪しげな感じですね。
抵抗する「長尾政景」はよく防戦しますが、素早く行動した謙信勢の猛攻を支えきれずに降伏。
「上杉謙信」の姉「仙桃院」を妻として、臣従を誓うこととなるのです。
この八十まで生きた「仙桃院」さんが妻となったのが、この降伏の後なのか、あるいは晴景が健在であった頃なのか、いまいちはっきりしていないようです。
すでに嫁ぎ先が決まっていた、というのもあるみたいでした。
とりあえず確かなことは、この謀反以後から「長尾政景」は謙信の忠実な家臣として、一族として、家中にて重きを成すこととなるのでした。
一方、「宇佐美定満」もこの上田長尾攻略戦から後の同盟締結までに、功を立てていたようです。
ただ、先の謀反扇動エピソードもそうなんですが、どうにも謙信が好みそうなやり方に見えないんですよね。
あの人は合戦に大そう自信を持っていた人ですから、”抵抗するなら返り討ち”にするくらいの気概だったでしょう。
そんな人が怪しい奴とはいえ、わざわざ背中をつつくような、ややこしい作戦をするとは思いにくいのですよ。
⇒ つづく
次回は「結局どういうことなんでしょう?」
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実際に川中島では戦っていたようですね。