お寺さんぽ Ver.03

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オススメ!地下遍照金剛殿 (東京都世田谷区・玉川大師)

2010年04月25日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は東京都世田谷区の「玉川大師 玉眞院」です。

二子玉川駅を下車し、繁華街を抜けて瀬田方面へ。
徒歩で遠すぎず、かと言って近過ぎずという道のりにて到着したのは、「玉川大師 玉眞院」です。

ぱっと見た感じでは、そこそこ規模な普通のお寺。
一見何の変哲もない感じのお寺なんですが、ちらほらと人の姿がありました。
付近の看板には、「地下佛殿」の文字。
そう、こちらは魅惑の地下迷宮が最大の魅力という、まさにテーマパークちっくなお寺なのでした。

はっきり言って、ここは凄い!

都内、関東付近にお住まいの方は無論のこと、全国の皆さまにもぜひ一度は訪れてほしいスポットです。
はっきり言って、下手な大寺院よりも絶対にコチラ。
超オススメなお寺です。



さて、このブログではお寺の歴史・あらましについて書くんですが、特にパンフにもなかっ
たのでそこは省略。
こじんまりとしたお寺内には「大日如来」、「不動明王」などの仏像ほか、なぜか象頭六臂のガネーシャ象(大自在天)がちらほら三体くらいありました。
そして、その入口左手には何やら怪しげな階段が。

そう、こちらこそが境内の地下にかなりの規模で存在する、奥の院・地下霊場「地下遍照金剛殿」なのでした。
昭和九年に完成したという、鉄筋コンクリート造り。
その参道は約百メートル、石仏の総数は三百体もあるのです。
こちらは巨大な「秘仏・大日如来」さまの胎内を表しているとのことでした。

百円を収め、記帳してからスリッパを履いてさっそく階段へ。
いきなり真っ暗です。
”一切の明りを禁ず”
ということで、何も見えません。

そんな訳で、基本的な迷宮脱出の方法。
「右の壁に手を添えて進む」を実践することとなりました。
道は一人で進むのが精一杯というほどの狭さ。
コンクリ造りなので壁・床どちらもつるつるとしており、すり足でじわじわと進みます。
なにせ、やや上下しているんですねー。

そうした、不確かな状態であるため、ふと明かりが見えた際の自由さ、心地よさたるや最高
なるほど、これが目的なんでしょうね。
当初はのそれは短めで、最初の明かりから次にある真っ暗ゾーンはそこそこ長めでした。

本尊「弘法大師」像ほか、都内最大というサイズの涅槃石仏(釈迦です。そのほかに大師の涅槃像もありました)
その左右には柱に巻きついた「龍神」があり、浄瑠璃寺モデルな「吉祥天」ほか、壁画・石仏などがずらりと並んでいます。
四国(八十八箇所)、西国(三十三箇所)の大師、観音という石仏が並び、四国遍路と西国巡礼さながらお詣りできるようになっているのです。

パンフレットによると、
至心に順拝修業すれば、身心ともに清浄となり、そのまま無辺の大慈悲に浴し、生きる力と幸福が授かる
…とかなんとか。
まぁ、これで参拝したひでるさんにも色々と良いことがあるのでしょうね。たぶん。


玉川大師 玉眞院 東京都世田谷区瀬田4-13-3
※駐車場もありましたが小さめ。
 二子玉川駅からは徒歩15分程度で到着です。

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※タモリ倶楽部などでもやってましたが、地下はいいですね!
 お寺のダンジョンもいいですよー。

寝釈迦・行道山浄因寺 (石仏っていいね・応用編5)

2010年04月18日 | 仏像
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日はだーいぶ久しぶりな石仏シリーズ、栃木県足利市は「行道山浄因寺(ぎょうどうさん・じょういんじ)」です。

断崖絶壁にあり、「関東の高野山」を異名とするこちら「浄因寺」
奥の院には「寝釈迦」ほか石仏群があると言うことで、さっそく行ってきましたよー。
(※上写真は「寝釈迦」のある奥の院からの風景です)

和銅七年(714)
奈良時代に活躍した「行基上人(ぎょうき・しょうにん)」の開山と伝えられています。
奈良大仏でお馴染み「東大寺」に関わった「行基上人」の活動は主に関西方面だったので…ちと怪しい雰囲気ね。
名前を貸した(借りた)というのが現実かと思います。
再興され、禅寺となった室町時代には”学問道場”として栄えたのです。

そんな「浄因寺」は、断崖の上に建つ「清心亭」が一般的には有名。
(※県指定の名勝1号です)
なんですが…ひでるさんのオススメは、やっぱり奥の院にある石仏群ですね。


※こちらが「寝釈迦」です。

メインの「寝釈迦」って…要するに釈迦の入滅を表現している「涅槃仏(ねはんぶつ)」のこと。
これがどすーんとした可愛らしいスタイルで、イイ石具合なのです。
また、その周囲には他にも数多くの石仏があり、よくよく見てみると如来・菩薩から各明王までがいるのです。
石仏好きにはウハウハですね。

お寺の仏像ってのは秘仏だったり、扉が閉まってたり、はたまたえらく距離があったり…と、なかなか仏像目的の方が満足できる状況でないのが常のこと。
その点、こうした石仏は間近まで接近できる上、写真も撮り放題(笑)
ひでるさんも楽しくて仕方ありません♪
それも、「地蔵菩薩」とかポピュラーなものでないところが素敵なのです。
特に「不動明王」以外の五大明王メンバーが揃っているのには、感動モノでした。


※石仏・明王さま


【余談】

この「浄因寺」から「大岩毘沙門」、両崖山の「足利城址」、そして「織姫神社」へ抜けるルートは、”歴史のまちを望むみち”というハイキングコースになっています。
「おお、そりゃーちょうどいいじゃない!」
…とかなんとか、気軽に「山道コース」を進んだひでるさん。

が、しかし。


※このうち、中央から下へ抜けるようなコースです。(上はもっとキツイ)

これが相当にキツイのですよ。
いちおう山道で人が歩けるコースとなっているんですが…
1:尖がっている石が多い。
2:階段となっていても段差が激しい。
3:傾斜はやたら急な箇所がある。
4:当然、断崖絶壁。
5:途中、スズメバチがいる。
…と、そんな感じなのでした。

ふらりと気軽な感覚でチョイスしたひでるさん。
それが山中に至る頃は、見事に後悔しておりました。
(※それなりの覚悟と装備はしてましたが。いちおう念のため)

ちょっと注意ですね。
ぶっちゃけ、途中は泣きそうでした。


※ずっとではないですが、こんな岩山みたいなのを乗り越える場所もあります。

普段の運動不足もあって、ふらふらとした足取りで山道を歩いていたひでるさん。
ひょんな偶然から途中見知らぬお爺さんと知り合い、先導をいただきました。
遅れながらも(笑)

お話によると週一、二回くらいの間隔でこのコースを行き来されているらしく、その案内は的確。
登り易いコースからショートカットのアドバイス。
さらには、難敵「スズメバチ」まで退けて頂きました。
途中で笹を持ったので、どうするのかなーと思ったら、バシバシ叩いて戦ってるのよ(本当)
ここはスゴイ迫力でした。
はっきり言って、無事帰還することができたのは、まさしくお爺さんのおかげですね。

こうして戻ってきた今となっては…実は人の姿を借りた「みかえり阿弥陀如来(京都永観堂)」さまではなかったのか、と。
いや、変な意味でなく、それくらいに助かりました。
ありがとうございました。


[住所]
 行道山浄因寺 栃木県足利市月谷町1579


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⇒ 双体道祖神 (京都:道祖神社)
⇒ 岩面大佛 (岩手・達谷窟毘沙門堂)


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※こうした本があると、より石仏を楽しめるでしょう。
 いいよね、石仏って。

大岩毘沙門天 最勝寺 (栃木県・足利市)

2010年04月11日 | お寺
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は栃木県足利市の「大岩毘沙門天」こと「最勝寺」です。

「織姫公園」からのハイキングコース途中にある「大岩毘沙門天」こと「最勝寺」ですね。
真言宗の古刹で、正式名称は「多聞院最勝寺」となります。

天平十七年(745)ということで、奈良時代。
付近の「行道山浄因寺」と同じく、東大寺(奈良)の大仏制作にも活躍した「行基(ぎょうき)」の開山と言われています。

ただ…「行基さま」の主な活動は近畿地方。
うーん、ちょっと違うのではないかなぁ。
「聖武天皇」の勅命によって「行基菩薩」が開いた~という事なので、単に名前貸しみたいな感じかな。
あるいは指揮・監督なのかも。



なお、こちらのお寺には、興味深いエピソードがありました。
本尊はあのいるか、いないかという「聖徳太子」作と言われている、純金の毘沙門像。
どこに祀ったら良いのか、当時の「行基さま」は色々と考えを巡らせていたようです。

それがためか、眠った「行基さま」の夢には神人が現われて…

大岩山が良いでしょう~♪

と言ったか、どうか。
ともかく、そうした夢から大岩山をチョイスしたんだって。

当時はなかなかの勢力を誇り、本堂、経堂、釈迦堂ほか十二坊で賑わいを見せていたようです。
実際に発掘調査では、平安から鎌倉時代のものとされる瓦が出土していました。

「大和・信貴山」「山城・鞍馬山」と並ぶ日本三大毘沙門の一つ。
(※上の写真はお寺置いてあったペーパーからのものです)
中期頃には、「足利尊氏」やその三男。
初代鎌倉公方である「足利基氏」など足利一門が厚い信仰を寄せていました。
境内には樹齢六百年という、巨大な杉もありましたよー。



本堂は宝暦十二年(1762)の再建。
こちらが重文。
確か開いている日が決まっていたと思ったんですが…ごめんなさい、忘れてしまいました。
毎月一日が御縁日~とありましたんで、たぶん各月一日は開いている筈です。

山門は元禄六年(1693)の改築。
こちらにある仁王像はなにげに「運慶」の作品でした。いちおう。

ちなみに、毎年の大晦日には”互いに悪口を言い合う”という奇祭「悪態祭り」があるそうです
行きかう人に「バカやろう」とか大声をあびせるのだとか。
物騒なお祭りですねぇ。


[住所]
大岩毘沙門天 最勝寺 栃木県足利市大岩町207

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※バカ~ということで、こちら。
 納得する部分もちらほら…。

玉砕とその後の息子たち (岩屋城合戦・高橋紹運)10

2010年04月08日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日も泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。
ついに今回でラストになります。

九州統一に向け、怒涛の勢いで侵攻を開始する島津勢。
迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂※写真」が籠城。
矛先は紹運へ向き、岩屋城は島津勢にぐるりと包囲されてしまったのです。

攻撃は七月十四日の午後から始まりました。
鉄砲の轟音が鳴り響き士卒のわめき声が大地に響くという激戦は、初戦の二日間だけで島津方に千という死傷者を出させているのです。
三日目には「高橋越前」の守る秋月口の砦を攻略されましたが、紹運の指揮する城はなおも強固に耐え続けていたのでした…。


二十二日。
島津勢に「上井覚兼」率いる宮崎衆が援軍として到着。
一時中断していた攻撃は、ここから本格的に再開したようです。
多くの犠牲がありつつも堀を埋め、塀を崩すなどして、ようやく二十六日には外郭(そとぐるわ)を破ったのでした。

それに続く二十七日。
島津勢の総攻撃は、午前六時から始まり、正午まで続いていました。
四方から攻めのぼった島津勢はおびただしい死傷者を出しながら、ついに紹運を本丸へと追い詰めます。

この際、岩屋城へ残っていたのは、紹運ほかわずか十七名ほど。
火を放つことを進言した家臣に対し、

首を取らせてこそ義をもって討ち死にしたことが分かる。
 死体が見えなければ、逃げたと思われるだろう。
 武士は屍を晒さぬというが、それは死に場所による。
 あえて首を取らせよ


そう言ったとされています。
ぎりぎりまでスゴイ人です。

城の扉に、
屍をば岩屋の苔に埋めてぞ 雲井の空に名をとどむべき
そう辞世を書きつけると、櫓へ昇った紹運は敵味方の見守る中で切腹して果てたのでした。
享年三十八。

島津勢の見守るなか、生き残っていた高橋勢も皆念仏を唱えながら切腹し、その後を追っています。
守護隊は一人残らず玉砕。
紹運の首は、島津の本陣へと運ばれました。

薩軍の死骸は将士二十七人、兵卒の死傷者実に五千三百人に及び、城兵七百六十三人は枕を並べて討死せしこと…

島津勢は岩屋城で半月という時間を費やし、また三千七百という戦死者を出したのでした


ここからは余談。 

次男「立花直次(高橋統増)」が守備する宝満城を計略によってまんまと開城せしめた島津勢は、続いて立花城に迫って開城を求めています。

これに対し、
”立花城は秀吉から預かった城なので、伺いを立てなければいけない”
そんな事を言って時間をかせぐ「立花宗茂」は、そのうちに以前の宿敵・毛利軍が豊前に上陸したことを知るのです。

八月二十三日の夜半。(岩屋城の落城から約一ヶ月後)
時間を費やした上、遊撃・奇襲を用いた宗茂勢に翻弄され続け、立花城の攻囲を諦めて撤退することとなった島津勢。
宗茂はこれを追撃。
大いに討ち取ったほか、なんと高鳥居城・岩屋城を奪還しているのでした。

なお、島津方に捕えられていた弟「高橋直次(高橋統増)」も後に救出。
慶長十九年(1614)に立花姓となった彼の家も残り、兄宗茂の子孫と共に筑後柳河藩、三池藩として存続するのでした。
いまだ紹運の命日には、墓前で追悼会が行われているそうです。



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籠城戦と「高橋紹運」 (岩屋城合戦・高橋紹運)9

2010年04月04日 | 歴史
のんびり気軽にさんぽがてら。
本日は泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)※写真」についてです。

九州統一に向け、怒涛の勢いで侵攻を開始する島津勢。
迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂」が籠城。
矛先は紹運へと向き、岩屋城は島津勢にぐるりと包囲されてしまったのです。
「わが墓はこの城と思い、討ち死にする覚悟です。それがしは地下で太閤殿下の御厚意に報いましょう」
使者を送った「黒田官兵衛」にも、そう返答しているのでした。


天正十四年(1586)
こうして「高橋紹運」の籠る筑前・岩屋城は「島津忠長(しまづ・ただなが)」率いる五万という軍勢に包囲されました。
守備隊は紹運以下七百程度。
圧倒的な戦力差です。
ここで数倍という敵を引き寄せた紹運は、壮絶な籠城戦を展開するのです。

城兵の士気の高揚を知った島津勢は、まず僧「快心」を降伏の使者として送っています。
それを紹運が承知する訳もなく、七月十四日の午後から攻撃は始まりました。

周囲を焼き払って足場をつくり、じわじわと包囲を狭める島津勢。
紹運は十ヶ所に兵を配置し、それを鉄砲で狙撃。
城壁へ取りついた兵には、岩石や木などを投げる、火矢を放つなど、日没まで必死に防戦したのです。

鉄砲の轟音が鳴り響き、士卒のわめき声が大地に響く…。
断続的に繰り返される攻撃は、城方の激しい抵抗によって撃退され続けていました。
初戦の二日間だけで、島津方はすでに千という死傷者を出しているのです。
三日目には「高橋越前」の守る秋月口の砦を攻略されていますが、紹運の絶妙な指揮によって守備隊はなおも強固に耐え続けたのです。

そこで島津は、降伏勧告というより講和に近い形で彼に交渉を持ちかけました。
九州全土を制圧せんという勢いであった島津勢に、そこまで譲歩させたようなのです。
さすがですね。

使者に立った島津方「新納蔵人」に、「麻生外記」という家臣が応対しました。

主人の盛んな時に励み、功名を残すものは多いが、主人が衰えた時に一命を捨てるのは稀である。
 士たる者の仁義を守らざるは、鳥獣に異ならず


実は、そう言った「麻生外記」こそが、変装した紹運その人だったのです。

主家である大友家は傾き、九州の各将は島津に恭順するという情勢。
 人生は例えてみれば、朝露が陽光待つようにはかないもの。
 ただ末長く世に残るのは武名のみと思うので、降参する訳には参りませね…


こうして厳しい籠城戦は続くこととなったのです。

⇒ つづく。
 次回は「玉砕とその後の息子たち」(10/10)


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※九州です。
 旅行行きたいなぁ…歩くペースで回るくらいの余裕あれば最高ですね。

嫡男「立花宗茂」と戦術 (岩屋城合戦・高橋紹運)8

2010年04月01日 | 歴史
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本日は泣ける籠城戦「岩屋城合戦」と「高橋紹運(たかはし・じょううん)」についてです。

元亀元年(1570)の「今山合戦」では龍造寺勢に、天正六年(1578)の「耳川合戦」では島津勢にそれぞれ敗れ、大友家は衰退。
「織田信長」の死後に台頭した「豊臣(羽柴)秀吉」へ臣従することとなってしまうのです。
一方、沖田畷にて龍造寺の軍勢を完全に破った島津勢は、九州統一に向け怒涛の勢いで侵攻を開始しました。
島津を迎え撃つ岩屋城には「高橋紹運」、宝満城には「立花直次(高橋統増)」、そして立花城には「立花宗茂※写真」が籠城。
その矛先は紹運へ向き、岩屋城は島津勢にぐるりと包囲されてしまったのです。


上方勢が豊前に到着するまでは、何としても島津の進出を阻止するのだ。
 敵わぬ時は城を枕に討死する覚悟である。
 家族に憂いのある者は遠慮なく城を去るがよい


籠城を決意した紹運はそう皆に告げ、決戦の覚悟を示したそうです。
なお、”共に立花城で迎え撃つ”という実子「立花宗茂」からの誘いを、紹運はきっぱり断わっています。

父子が同じ場所を守るのは決してよい謀(はかりごと)とは申せぬ

さらに、宗茂は岩屋城よりも要害堅固である”宝満城への籠城”を勧めていたようですが、これも退けられていたようです。
筑紫氏、旧高橋氏の家臣らが多い宝満城での迎撃を不安に考えた、という説がありました。
確かにそれもあるでょう。
しかし、婦女子らを避難させ、次男「立花直次(高橋統増)」を宝満城の守将としているところから…2人の息子らを守るため、わざわざ最前線で攻め(られ)易い岩屋城へ入って、敵勢を食い止めようとしたのかもしれません。
真意のほどは不明ですが…ちょっとうるるときますね。
かっちょえーですね。

なお、宗茂は立花城にて志願兵を募り、四十名ほどを岩屋城へ送っています。
「今後はわれを夢にも親と思うでない」
そう言って送り出した息子のため、前線に赴く父親。
そんな父のため、少しでも助けようと策を巡らせる子。
これは…ダメ。
ひでるさんはまったく・微塵も関係ないですが、我がことのように泣けます。

ついでに、豊臣勢の先鋒にあった「黒田官兵衛」も城から出て逃げるよう使者を送っていましたが…

わが墓はこの城と思い、討ち死にする覚悟です。
 それがしは地下で太閤殿下の御厚意に報いましょう


そう言って、そちらも拒否しているのでした。
これは紹運の意地ですね。

⇒ つづく。
 次回は「籠城戦と「高橋紹運」」(9/10)


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